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カテゴリー「立川」の記事

2013年12月27日 (金)

きゃりーの出身校だから来たんじゃないよ・立川女子高横の断層@立川断層の端から端まで歩く

確かに奥が上がって坂になってます。

立川駅北口あたりになると断層が通ってるとは分かりません。

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もともと隆起が少なく、さらに市街地化されたためでしょう。

わずかに断層が認められるのが立川女子高校の周辺。

1978年、高校生として初めてヒマラヤ(ゴーギョピーク?)に登頂。

その後、ヒマラヤの未踏峰も制覇。

山岳部は知られた存在です。

近ごろじゃ、きゃりーぱみゅぱみゅの出身校としても注目されてるらしいね。

立川断層は青梅市に発して立川を南東に走り、国立の矢川あたりまで続いてます。

多摩川の侵蝕で姿を消し、向こう岸の多摩丘陵にぶつかってます。


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この写真は多摩モノレールの高松駅南。

このあたりにも断層が通ってたんですが、見事に均されて平らになってます。

急速に商業地化が進んでおり、来春オープンのIKEAのでっかいビルができてました。

立飛駅にはららぽーとも進出します。

断層なんてブルドーザーにかかったら痕跡をとどめません。

かつては米軍基地の町だった立川は一大変貌を遂げてます。

このあと中央線の立体交差をくぐり立川病院あたりで夕闇が迫ってきた。

午後は霰が降って、生け垣の下などは白く残ってる寒さ。

芯まで冷えたので次回の集合場所南武線西国立駅でおつかれさん。

帰宅のことを考えて立川駅まで戻って、お楽しみの乾杯。


2013年12月26日 (木)

南極に行ってきた・・・?@立川断層を端から端まで歩く

寄り道、道草ばかりです。立川断層も検証しつつ、気になるものがあるとふらっと入って見学。

これが楽しいんだよね。

南極に行く前にも土蔵ギャラリーがあったので「面白そうじゃん」。

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何をやってるんでしょう。

手は触れてませんが音が鳴ってます。

ロシアで約100年前に発明された世界初の電子楽器テルミンを演奏してるんです。

左手で音量、右手がメロディー。

カラオケが始まると指揮者に変身するメザキ君ですので形は決まってます。

ここは土蔵ギャラリー「美楽館」。


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「ご自由にお入りください」

なので遠慮なくお邪魔します。

油絵や版画を眺めていると、いつの間にかご主人が。

自作の絵などを展示するために4年前にオープン。

今では地域の交流の場にもなっている。

お話を伺っているとご主人が演奏を始めた。

触れてないのにメロディーが。

みんな興味津々でかわりばんこにトライしてみました。

砂川新田開拓に携わった400年続く農家。

向かいの納屋で庭先販売も。

目の前の畑でとれたキウイは6個入りで300円。安い!

すぐ南は昭和記念公園のこもれび広場と陸上自衛隊駐屯地。

外周に沿って南下。立川市役所の食堂で昼食。


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立川拘置所やら裁判所やらの新しい施設ばかりの地域を歩いてたら、

「南極があるよ」とタケムラ君。

中庭ではカラフト犬がお出迎え。

現在、南極に犬を連れて行くのは禁止されてます。

菌やウイルスから守るためです。

ここは国立極地研究所の「南極・北極科学館」(入場無料)。

こんな施設があることは全く知りません。

全天ドームスクリーンでオーロラも見られるんです。

上映してたのは珍しい真っ赤なオーロラ。

2003年、史上最大級の磁気嵐の際にノルウェーのトロムソで撮影されたもの。

おなじみカーテン状の黄色いのも後半部分で上映されます。

南極の氷にもさわれます。


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野草観察の身には植物が気になります。

野草はたくましい。やっぱり厳しい自然でも生き抜くのがいるんです。

これはナンキョクコメススキ。

イネ科です。

コケ類などをのぞいた植物は、これとナンキョクミドリナデシコだけ。

つまりこれは世界最果ての花というわけです。

見入っちゃいました。


2012年6月25日 (月)

久しぶりにボールを蹴った・高校サッカー部のOB会

たぶん初めてかな。

ほぼ全世代が集まってのOB会。(さすがに旧制中学時代はいません)。

午後2時過ぎ、グラウンドにつくと怖かった先輩たちが先にきてました。

しごかれたんだよね。

キャプテンだったカノウが超OB組で試合に出ると張り切っていたので早めに来たんだけど見当たりません。

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「肉離れで治療中」と先輩のワタナベさんとウチダさん。

しばらくしたら戻ってきました。

右太ももを氷で冷やしてる。

歩けるので軽症のようだ。

無理できない年齢です。

でも本人は「12分は出た」とえばってました。

私はグラウンドの隅っこで、ちょっとだけパスの練習。

体は覚えてるもんです。

何とか真っすぐに蹴れましたからね。

夕方からはホテルで懇親会。

着席で年齢順のテーブル指定。

鬼の先輩たちがAで、私らと1期上がB。

ここらは単なるOBじゃなくて超OBなんだって。

「長友を見てると、お前を思い出す」とタカノ先輩から過分のお言葉。

へただったから、その分走りましたけどね。

ラストは肩を組んで伝統歌の合唱。

「玲瓏の水」「第二高校校歌」「蒙古放浪歌」・・・。

「劫火静かに」で締めくくり。

ちょっとジンと来ましたね。

2011年11月25日 (金)

国宝があるんだ立川氏館跡の普済寺@立川駅南口徒歩15分

戦国時代の立川氏は北条氏に従っていた。

その前のことは知らない。鎌倉時代は幕府に仕えていたのは確かだが、滅んだ後にすんなりと北条の軍門に下ったのか。

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立川氏の館跡に作られた普済寺本堂の南側に国宝がある。

工事中なので本堂をぐるっと回らなければならないが、案内が出ているので、その通りに進めばいい。

六面石幢(ろくめんせきとう)。

6枚の緑泥片岩で六画に組み立てられた仏具(なんだろう。幢は旗みたいなもののようだが、石でつくっているので旗じゃない。大雑把にいって仏具なんだろう)。

各面には仁王像と四天王像がが浮き彫りにされている。

国宝を守るために現在は覆屋が建てられている。

ガラスのすき間からのぞき込むことは出来る。

高さは166㌢、幅約42㌢。

つくられたのは延文6年(1361)。

こちらトウシローなので価値については見当がつかない。

とにかく有り難がってとっくりと見てきました。

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これは焼失を免れた山門。

本堂は平成7年(1995)の火災で灰になってしまったんです。

大きく報じられたんだろうけど、覚えてません。

普済寺のことを知らなかったんで記憶にとどめてないんですね。

江戸時代初期のものです。

もうすでに立川氏は滅んでました。

北条氏と運命をともにしたんです。

八王子城にこもったのか。

難攻不落と思われた八王子城も、前田利家、上杉景勝らの猛攻を受けて、わずか一日で落城してしまった。

八王子が落ちたので北条氏直は降伏、小田原城が開城、北条氏は滅亡した。

立川氏は浪人となり、徳川時代になって水戸藩に仕えた。

流れ流れて水戸にたどり着いたのか。

北条の遺臣という人たちが多摩に土着して帰農しているが、故地を捨てた理由はなんなんだろう。

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普済寺をあとにして多摩川に向かう。

立日橋がかかってる。

立川と日野を結ぶから立日橋。「たっぴばし」と読むようだ。

奥多摩や丹沢の山々を望みながら橋を渡る。

ここまで来ると山が近いね。富士山も大きい。

渡れば多摩モノレールの万願寺駅。

「北斗の人」土方歳三が生まれた石田村は近い。

忌野清志郎が通った都立日野高校は、歳三が眠る石田寺の隣だ。

先を急ごう。


2011年11月24日 (木)

眺めは抜群普済寺・ここは武蔵七党立川氏の館跡@立川駅南口徒歩15分くらい

さすが、一等地に館を構えている。

眼下には残堀川、堤を隔てて多摩がとうとうと流れている。

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昔は残堀川(昭和記念公園の中にある水無し川です。ここに来ると流れてる)は別のところを流れていて、中世には根川だったかもしれない。

西方には奥多摩の山々、はるかには富士がくっきり。

日野方面にでかいマンションがあって邪魔なので、やや離れた場所からとらえた富士。

眺望、日照は抜群、水の便もいい。

段丘の上なので防御にも適している。

さすが、このあたりを支配した権力者。

最高の立地に館を構えていると感心する。

ここは臨済宗建長寺派の普済寺。

多摩一帯に末寺17か寺を抱える名刹だ。

もとは武蔵七党の1つ西党の立川氏の館があったところだ。


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その面影をとどめるのが土塁。

鎌倉時代のものだが、本堂南側にかろうじて残されている。

山門脇にもあって、こちらにはイチョウの古木が2本そびえて時をしのばせる。

こんな遺構が残っているのはうれしいね。

普済寺の建立は文和2年(1353)。

寺の北側から発見された板碑などから、この地が立川宮内少輔の居館とされている。

この鎌倉時代の居館に、南北朝時代に屋敷内に寺(普済寺の前身)を建立し、立川氏が滅亡した後に現在の寺になったという。

もっとも居館と寺院の変遷過程は再検討が必要らしいので、今後の調査を待った方が良いかもしれない。

3年間も立川に通ったのに、普済寺のことは全く知らなかった。

うかつですね。

諏訪神社から600㍍くらい南に下ったところにある。ちょっと西へ行けば中央線の線路です。


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建坪260坪と大きいが、さすが臨済宗、焼失して再建したものだが、シンプルで清々しい本堂です。

西党は日奉(ひまつり)氏が宗流で多摩川や支流の浅川、秋川流域を根拠としていた。

源平合戦の一の谷の戦いで名を馳せた平山季重で知られる平山氏を初め、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏らがいる。

みんな多摩の地名を名字にしてます。

立川の地名は残っているけど、一族はどこへ行っちゃったんだろう。

このへんじゃ、あまり聞かないな。


2011年11月15日 (火)

10時間飲み続けてへとへとです@5年に一度の同窓会

卒業46周年なんだって。気の遠くなりそうな年月です。

入学してからは3年を足すから半世紀ですよ。

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100人を超す高齢者が集まりました。400人中の100人ですから、高出席率でしょう。

みんな元気ですねえ。ほとんどがリタイアしてますが、まだ頑張って働いている人もけっこういる。

テイスケなんか入院中なのに一時退院してかけつけて来た。しかも、飲めないのに二次会まできっちりつきあった。

義理堅いね。

あの顔、この顔、懐かしさでいっぱい。

保険のCMで向井理と共演したタニザワがいる。「向井理ってきれいねえ」。

そういえば肌がつやつやしてる感じだ。

近況報告などをあちこちでしていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。

同じビルの居酒屋に場所を移して二次会スタート。

60人以上が参加。


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まだまだ話足りないんです。

思い出はいっぱいありますからね。

学校の先生をしているアライが嘆く。

三島由紀夫も絶賛したかの名作「総長賭博」を授業で見せたんだそうだ。

そしたら「兄弟分」が分からない。本当の兄弟だと思ってる。

それじゃ映画が全く分からない。

やくざは擬制的な家ではあるんですけどね。

入試で、好きな映画と聞いたら「バック・トゥ・ザ・フューチャー」。

いつ見た?「中学生のとき」。

中学から今までに影響を受けた映画がないのかーーとほとほとあきれていた。

2時間飲み放題だから元を取ろうとみんなよく飲む。

まだ8時前。日曜で休みなのに、誰かがママさんに無理を言って店を開けてもらったという。

2丁目のバーだ。

10人ほどが流れる。

パンパスグラスがどーんと大きな花瓶にいけてある。神代植物公園の芝生広場に生えてるヤツです。

名前が分かるのは散歩の成果です。

終電近くで皆さんお開き。残ったのはアライと2人。

ママに促されるまでいたので1時半くらいまではグダグダしてたのか。

3時半から始まって都合10時間、飲みっぱなし。さすがに疲れました。

          beer    beer     beer

次回の同窓会は5年後。「元気で!」と70歳での再会を約束してアデュー。

2010年11月 5日 (金)

多摩が神奈川県から東京府に移管になったわけ

政府が多摩の移管法案を国会に提出したのは明治26年(1893)2月。政府の説明は、東京の飲み水である玉川上水、水源を管理するため。一応筋は通っている。

 (多摩の移管については、「三鷹も府中も立川も…多摩はみんな神奈川県だった」「三鷹は品川県、府中・立川・八王子は韮山県」でいきさつを書きました。よかったら参照してください)。

その理由の1つに7年前のコレラ事件がある。玉川上水にコレラ患者の汚物を流したという噂が流れたのだ。

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(写真は武蔵境浄水場近くの玉川上水)

もちろん水道の管理は大切だ。でも7年前の話を持ち出すのはわけがありそうだ。やるならもっと迅速にしなければならない。

玉川上水とその水源は、北多摩、西多摩にある。南多摩(町田など)は関係がない。水道問題だけならば、南多摩は神奈川に残してもいいはずだが、一括して東京移管というのもおかしい。

それにはこんな事情が隠されていた。移管前年に明治25年に第2回総選挙が行われた。政府がが自由党をつぶそうとした「選挙干渉」で有名だ。

自由党の拠点高知では、自由党の弁士を暴徒が白刃で刺し殺したり、国民党と自由党が睨み合っていると警官が暴徒を指揮、銃声とともに自由党側に突っ込んだ。

他地区でも、警官が投票箱まで付き添ったため仕方なく与党候補の名前を書いたり、橋の上でとおせんぼをするなど妨害が激しかった。とおせんぼされた人は泳いで川を渡った。

歴史に残る弾圧にも負けず民党が多数を占めてしまった。

多摩でも干渉が行われたが、自由党が2議席を独占。干渉の責任者である神奈川県知事の追放をもとめて立ち上がった。

内海忠勝神奈川県知事は考えた。だったら、逆に三多摩自由党を神奈川県から追放してしまおう。そして西多摩と北多摩の移管をもとめていた東京府に、南多摩も含めた移管を提案したのだ。

やりますねえ。ある種の領土問題。神奈川県の土地を東京府にあげちゃうんですから、よほど自由党が憎かったんでしょう。いまなら知事はクビだよ。土地と県民がいなくなれば税収も減る。それでも自由党よりはよかった。

町田には自由党の指導者石坂昌孝がいた。移管直前に行われた選挙でも神奈川県議会は自由党の圧倒的勝利に終わっていた。

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        (上水脇の遊歩道と右手は境浄水場)

自由党つぶしも東京移管の目的だったんです。自由党ごと東京にくれてやったんです。東京は改進党が強くて、多摩の自由党が入ってきても多数派にはなれなかった。

南多摩の石坂昌孝らは移管に反対したが、北多摩、三鷹の吉野泰三は賛成にまわった。多摩自由党の分裂だ。

こうして実質審議10日で移管法案が通った。

吉野が賛成したのは甲武鉄道の開通(明治22年)も影響している。

新宿ー八王子に鉄道が通れば北多摩にとって横浜より東京の方が便利だ。

その後、三多摩差別などの問題はあるにせよ、東京になってよかったんじゃないかな。

明治34年には府立二中(都立立川高校)を立川に開校した。一中は日比谷。二中を多摩に持って来たのも懐柔策かな。

2010年10月26日 (火)

立川基地は3分割・公園と戦争⑻・昭和記念公園

米軍立川基地ゲート近くの映画館は、立川セントラルと立川中央という館名だった。ただ区別しただけ。セントラルが洋画で、中央が邦画だったか。もう1スクリーンあったかもしれない。

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今はシネマシティ。シネコンとしては早い方だ。余談だが、タツミ興行にはお世話になった。

ATG映画「不連続殺人事件」(77)を製作したのがタツミキカク。内田裕也さんとはじめてあったのがこの作品の新潟ロケ。

荒井晴彦(「赫い髪の女」=79、「遠雷」=81、「Wの悲劇」=84=などの脚本)、斎藤博(「セーラー服百合族」=83、「ボクの女に手を出すな」=86、「ザ・中学教師」=92=などの脚本)や荻原達(「西部警察パートⅢ」などを監督)が助監督で、新潟まで遊びに行った。

高校時代は授業をさぼってここで映画を見た。

映画館の先のモノレールのガードをくぐると景色ががらりと変わる。ぶらりと巡ってみる。モノレールの西側は開発されていず、広い道路の両側に警視庁多摩総合庁舎や災害医療センターなどが点在している。

米軍立川基地は77年に返還され、3分割されることになった。国と地方自治体と自衛隊。米軍基地は3分割で返還されるパターンが多いようだ、府中もそうだし、ジョンソン基地もそうだ。調布は自衛隊ではなく、民間の飛行場になって少し異なるが、まあ同じパターンだろう。

立川は国立昭和記念公園と自衛隊、業務地区に線が引かれた。モノレールから西が業務地区というわけだ。

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おっ、第4機動隊もここにある。精鋭を集め「鬼の4機」と恐れられた部隊だ。ヘリコプターがホバリングをしてる。自衛隊のものか警視庁のものか。

自衛隊立川駐屯地のゲートがあった。「写真をとっていいですか?」と一応断ると門番の隊員が「ちょっと待て」と奥の事務所に電話する。

事務所から上級らしい隊員がやってきて「基地の奥を見通せないように撮るならいい」とのことだった。

公道からとるんだから許可はいらないはずだが、連れ込まれたりすると面倒なので、門柱を中心にパチり。

地図で見ると、自衛隊は相当に広い。目分量で南北に2000㍍はある。米軍滑走路の跡らしき直線が貫いている。

このゲートは、南の端だ。米軍と同じように立川駅に近いところに入り口をこしらえている。その方が便利だもんね。

海上保安庁や裁判所、国文学研究資料館、国立国語研究所、立川拘置所などもこの一帯にある。緑は多いが、道路は直線で、歩いていても面白くも何ともない。

昭和記念公園の手前が公園になっていて、総合案内所にはベンチがあるからそこでひと休みしよう。

                    ×     ×

「現在地」の三角印の左が高島屋。縦の二本線はモノレール。右下の緑の部分はまだ昭和公園ではなく、無料の公園。その左側は空き地。国有地なのか。

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2010年10月25日 (月)

公園と戦争⑺・米軍基地に向かって跳び蹴り・昭和記念公園

「昭和公園って、もとは基地だったの?」とびっくりしてる女の子がいた。

冗談じゃない!おじさんは怒ると同時に、あきれてものもいえない。ここで砂川闘争が戦われたことも知らずに公園に遊びに行くんだ。ふざけるな!農民の体を張った戦いがあったからこそ、お前たちはのんびりと休日を楽しめる。

もう半世紀以上前だ。米軍立川基地の砂川町(当時)への拡張計画が持ち上がり、農民たちは反対運動を繰り広げた。

「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」ーー農民たちの合い言葉だ。デモで歌われたのは「赤とんぼ」。自分たちのふるさとを守りたい、お百姓さんの願いが込められていた。

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写真は農民のリーダーの一人宮岡政雄さんの著書「砂川闘争の記録」(お茶の水書房)の表紙。厚着をしているから冬だ。家族で麦踏みをしているのだろう。真上を飛ぶのは輸送機か。

この光景は沖縄ではない。東京だ。

お百姓さんは上を見上げたりしない。きっとすごい音がしているが耳も塞がない。いつもの光景だからだ。
ここは首都東京です。立川もあれば横田もある。米軍の占領が続いているようなものだ。

騒音や危険と紙一重でも農民は黙って畑を耕していた。(すぐ近くの米軍ジョンソン基地の飛行機はよく落ちた)。

そこへ持ち上がった拡張計画。農民を中心に労働者、学生(全学連)も加わったデモが行われた。そして1956年10月13日、機動隊に守られた測量隊が杭を持ってやってきた。強制測量だ。数千人のデモ隊と機動隊が激しくぶつかった。

けが人続出の激しい抵抗にあって測量隊は引き上げて行った。強制測量の阻止、勝ったのだ。土地にも心にも杭を打たせなかった。

この農民の戦いは成田へと引き継がれて行く。

約10年後、再び拡張計画が発表された。1965年、米軍の北爆が開始されベトナム戦争が激化してゆく。明らかに戦争目的だった。再び反対運動が起こった。

大学生もデモに参加した。記録によると「1967年、三派全学連砂川に登場」とあるので、この年だろう。

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映画館の先に米軍ゲートがあった。そこに機動隊が阻止線を張っていた。投石よけのネットを張っている。デモ隊は座り込み対峙していた。機動隊の後ろでは米兵が武器を持って控えている。

一人の学生が立ち上がり、小走りに機動隊に向かった。助走をつけて、やにわにネット越しの機動隊に跳び蹴りを見舞った。

皆あっけにとられた。キクチ君だった。今でもスローモーションで映像を記憶している。

翌68年、米軍は計画中止を発表。77年に日本に返還された。

東京でできたことが沖縄ではどうしてできないのか。

(右手が映画館。歩道橋の先に多摩モノレールがかすかに見える。その奥がゲートだったように覚えている)。

2010年10月 5日 (火)

公園と戦争⑸・立川基地のゲートを探して・昭和記念公園

立川駅がすっかり変わってしまった。駅ビルはできるしモノレールが走っている。北口も南口も昔の面影は全くない。

毎日通ったのは、なにしろ45年も前の昭和30年代後半のこと。変わらない方がおかしい。さらに20年以上前の立川駅近くのことを書き記した本がある。


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「立川の中学に入った私は、忽ち武蔵野の雑木林の美しさにひきつけられた。
中学は線路の南にあったが、東のほうに南武線という、当時私鉄だった線路が走っていたが、その東はもう雑木林であった。クヌギを主体として、ナラやマツ、たまにスギなどがまじっていた。国立と立川の間、今のJRの電車は若葉の季節には緑のトンネルを走る。

それで中学一年の春、中間試験の最終日の最後の試験が昼近く終ると、私は電車に乗らずに、国立まで雑木林の中を歩いた。本当に安らかな世界だった」

三浦朱門氏の「武蔵野ものがたり」(集英社新書)からの引用です。

三浦氏が中学に入ったのは昭和13年(1938)、私も線路の南の高校に通っていたが、もう住宅地になっていた。雑木林の美しさに惹かれることはなかった。そう、三浦氏は大先輩になる。蹴球部に三月ほど籍を置いたことがあるというから、そちらも同じだ。

さらに40年、感慨に耽るよすがさえ失われている。


三浦氏が通った府立二中は今の都立立川高校。その昔、村長養成学校といわれていたそうです。多摩の村長がほとんど卒業生だった。今でも、市長に出身者がたくさんいて、同窓会をつくって多摩市政について横の連絡を取っているらしい。

北口には中武デパートがあった。唯一のデパートだった、影も形もない。かわりに、伊勢丹と高島屋がある。地元資本から中央の資本になった。ビルが建ち並んでいる。往来の混雑は新宿並みだ。

駅を出て5分くらいで米軍立川基地のゲートがあったはずだが、町並みがまるで違っている。確か、映画館のそばにあったはずだが……。

手間取りましたが、これからゲートを探しにいきます。

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