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カテゴリー「近世史」の記事

2016年7月 9日 (土)

「人民のための政治」リンカーンと日本国憲法

「憲法と米国の理想と言えば、『人民の人民による人民のための政治』というリンカーン米大統領の「ゲティスバーグ演説が思い浮かびます。

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あの演説、どこでなされたかご存知ですか」

ーーどこでしょう。

「南北戦争の戦没者が眠る墓地の前です。

米国の戦争で、60万人という最大の死者を出したのが南北戦争です。

その戦場だったゲティスバーグを国有墓地にする献納式で、リンカーンは戦没者に新しい民主主義を誓ったのです。

実は、この演説の要素は日本の憲法にも入ってます。

前文の『その権威は国民に由来し』は『人民の』、

『その権力は国民の代表者がこれを行使し』は『人民による』、

『その福祉は国民がこれを享受する』は『人民のための』です。

戦争の惨禍を経験し、戦没者に対して新しい民主主義を誓うという点は日本国憲法とゲティスバーグ演説に共通しています」

朝日新聞5月5日、国際基督教大学 学務副部長 森本あんりさんへのインタビューより一部抜粋。


(写真はバラ「ピース」)


2011年12月26日 (月)

芝東照宮で八切止夫の「徳川家康は二人いた」を思い出す@芝公園

若い頃、八切止夫の本をむさぼり読んだなあ。芝東照宮でそんなことを思い出した。

今じゃ忘れられてるけど、結構ベストセラー作家だったんです。年に10冊も20冊も新刊本を出していた。

よくいえば大胆でユニークな発想、そこに惹かれたんですね。

上杉謙信は女だったという「戦国川中島」や、ジェロニモは日本人だったとする「サムライ無宿」なんてのもあった。

奇想天外もつづくと食傷してあきちゃいましたが・・。

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「徳川家康は二人いた」というのもありました。

実は家康は途中ですり替わってるというんです。

こんな発想はどこから来るのかと感心していたら、八切の全くの新説ではなくて元本があったことを最近知りました。

明治時代の地方官村岡素一郎が著した「史疑」。

「史疑」にも元本があって林羅山の「駿府政事録」に、そんな記述があるらしいが、幻なので確認のしようがないようです。


なるほど・・・。

隆慶一郎「影武者徳川家康」(新潮文庫)も、そうでしたね。

家康は武田忍びに暗殺され、影武者世良田二郎三郎が家康に仕立てられた・・・。

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群馬県太田市の世良田には、世良田東照宮がありますね。

家光が日光から奥社殿を移築したんです。

世良田は徳川家発祥の地といってます。

同宮によると「徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘のうち、当地『世良田』 他5カ郷を譲り受けた子の義季である」となってます。

その後、南朝方として活躍したが、北朝方によりこの地を追われた親氏が三河の松平郷に身を寄せたとしています。

ホントかねえ・・と疑ってみると小説の題材になる。

史実では、徳川のルーツは、三河国の松平氏に婿養子に入った時宗の遊行僧・徳阿弥。

家光の代になって徳川政権も安定して、遊行僧が先祖ではカッコがつかないので、世良田の武家に仕立てた・・なんて発想も成り立つでしょう。

司馬遼太郎「街道をゆく43濃尾参州記」にこんなくだりがある。

「それ(大久保彦左衛門の「三河物語」)によると、徳川家の祖は、『徳』とよばれている流浪の法体の人だったという。時宗の僧だった。

当時、こういう漂白の人を時衆ともいった。・・・一カ寺をもつ正規の僧からは、はなはだ賤視されていた。・・・。

父とともに流浪していたというから、漂白が家業だったらしい」。

偉くなればなるほど、ルーツを飾りたくなるのは人のならい。

小高い場所にある芝東照宮から下ると東京タワーが青空に映えていた。

2011年6月 5日 (日)

明治初期の俠客人気番付と慶応水滸伝@府中郷土の森博物館特別展

特別展「アウトローたちの江戸時代」、虚無僧に続いてじっくりと見入ったのが「近世俠客有名鏡」。

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ざっと眺めると、タイトル下は別格のようだ。

真ん中の新門辰五郎、幡随院長兵衛、金看板甚久郎、花川戸助六、会津小鉄の5人は、浅草、下谷、京橋などとなっているので江戸市中の親分の格付けでしょうか。

それにしては、会津の小鉄が入ってる理由は分からない。

会津小鉄会って、京都の方にあったよな。よほど由緒ある組なんだ。

大関は大前田英五郎、大庭久八。関脇は銚子五郎蔵、国定忠治。そうそうたる顔ぶれだ。

多摩の小金井小次郎はーー。おっ前頭だ。

黒駒勝蔵や清水次郎長、勢力富五郎よりもランクが上なのか。(次郎長は清水湊長治郎のように番付では次は治と表記してある)。

なにを基準にしているのかは分からないが、小金井小次郎は明治期にはちょいと知られた親分さんなんだ。

おっさんは眺めているだけでも面白いけど、今の人たちは反応しないんだろうな。ラジオで聴いた講談や浪曲は端っこの方にいってしまった。

こんな本があるんだ。「慶応水滸伝」。知らなかったなあ。「天保水滸伝」は浪曲や数々の映画で取り上げられているが、こいつは初耳だ。

えっ、「天保水滸伝」も知らないって?  そうだろうな。

利根川を挟んだ笹川繁蔵と飯岡助五郎の勢力争いで、玉川勝太郎の「利根の川風 たもとに入れてーー」で一世を風靡したもんなんだけど、もうはやりませんね。

平手造酒(ひらて・みき)が特異なヒーローになったのも、この話から。「天保水滸伝遺品館」が千葉県東庄町笹川にあるようです。

話は戻って「慶応水滸伝」は歌舞伎でも上演されてるんだ。

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柳亭種彦の書いた「落花清風慶応水滸伝」(上下巻)が正式タイトル。小次郎没の翌年というから明治15年(1881)に書かれた。

上巻では府中宿の親分藤屋万吉に同行した伊勢参りで国定忠治と対したエピソード、下巻は新門辰五郎とのきずなを中心に描かれているという。

国定忠治は「嘉永水滸伝」があるんだ。

それにしてもアウトローが好まれたのも映画「仁義なき戦い」あたりまでか。

アウトローの存在を許さない世の中になったもんな。そんな市民社会がいいのか悪いのか。

面白みがないとだけはいえますな。


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小金井小次郎は流刑先の三宅島で井戸を掘るなど島民のために尽くしたため今でも小金井市と三宅島は友好都市となっていることや、初代の小金井市長さんは小次郎の子孫など、小次郎についてはいろいろ書いてます。

画面右のカテゴリーの「小金井」をクリックすると一番下の方に

野川沿いを歩いて俠客の墓へ④ 2010.04.09
野川沿いを歩いて俠客の墓へ③ 2010.04.08
野川沿いを歩いて俠客の墓へ② 2010.04.02
野川沿いを歩いて俠客の墓へ① 2010.04.01

小金井小次郎・補足、その2 2010.04.25

などのタイトルが出てきます。

「俠客の墓へ」の①をアクティブにしときます。ここからたどれるのかな。

2011年6月 4日 (土)

どう考えても怪しい虚無僧「アウトローたちの江戸時代」@府中市郷土の森博物館

タイトルに惹かれて出かけた。潜在的にあこがれがあるんです。いい年こいて、まだそんな青いこといってます。

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江戸のアウトローでまず浮かぶのは幡随院長兵衛を筆頭とする町奴、これに連なる俠客、盗賊、そして遊芸など遍歴する道々の輩。

特別展「アウトローたちの江戸時代」でオヤッと足が止まったのが虚無僧。

なるほど怪しいよね。

時代劇に出てきても、誰かの変装だったり、お忍び、密偵で、尺八は吹いているが実体は不明。

天蓋(深編み笠)で顔を隠してはいるが、あれじゃ目立つだろうに…。不思議なことだらけ。

虚無僧というから僧侶なんだろうけど、お経を読んでるところは時代劇では見たことない。

「虚無僧は、禅宗の一派である普化宗の門徒です」。そんな宗派があったんだ。虚無僧には武士しかなれず、托鉢で国内を自由往来することを公許されていた。

禅宗なんだけど座禅は組まないらしい。なんなんだ! さらに虚無僧寺は檀家をもたず、葬儀も行わない。

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乱暴に言ってしまえば、托鉢に名を借りたゆすり。

当然、府中にも虚無僧があらわれています。

虚無僧の寺は一定の托鉢場所を持っており、府中は上布田村(調布市)安楽寺の托鉢場だった。

これじゃ、やくざの縄張りだね。托鉢はみかじめ料。

村々は当然、自衛策を講じる。

布施を一括して支払う代わりに虚無僧が托鉢に訪れないという契約を結んだ。

安全は守られるがお布施という名の上納金は納めている。

個々のトラブルを避けただけだ。

慶長19年(1614)に家康が認めたという掟書があり、幕府も取り締まれなかったらしい。

江戸初期には大量に発生した浪人救済の意味があったのかな。

虚無僧寺の総本山が青梅にあったんだって。鈴法寺といい、普化宗の総本山。このお寺が府中など村々と契約を結び、そのかわりに虚無僧やニセ虚無僧を取り締まった。

松戸市小金の一月寺(いちげつじ)、京都の明暗寺も本山。

写真は、天蓋、袈裟、尺八の虚無僧3点セットと偈(げ)箱。偈とは尺八の譜のことで、布施なども入れた。

明治4年(1871)に普化宗は廃宗になった。宗教とは認められなかったようだ。徳川幕府との関係も疑われた。

鈴法寺には120余の末寺があったが廃寺、そのあとは鈴法寺公園になり、その一角に歴代住職の墓がある。近くの臨済宗東禅寺には鈴法寺境内にあった薬師堂と本堂に掲げられていた扁額が残っているそうだ。

突っつけばいろいろ面白そうだな。

※普化宗 中国,唐代の普化禅師を開祖とする臨済宗の一派。日本へは1249年(建長6)渡宋した東福寺の心地覚心(かくしん)が,1254年に伝えた。

2011年5月31日 (火)

愉快、愉快「五箇条のご誓文」庶民の解釈は性の解放

有名なあれ、「万機公論ニ決スヘシ」です。堅い話はパスーと即断しないでください。じゃなくてとってもやわらかい逸話なんです。一瞬だけご辛抱を。それを過ぎれば、ニヤッとすること請け合いです。

慶応4年3月 (元年ですが、まだ明治にはなってません、1868) に明治天皇が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針ですね。

第3条がこれ。「…おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す」。それぞれの意志がとげられるようにし、人々がやる気を失うようなことがないようにすべきである。

みんなが夢を叶えようと一生懸命に努力すればいい世の中になります。

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「土佐源氏」をきちんと読もうと、ひさしぶりに宮本常一さんの「忘れられた日本人」(岩波文庫)を引っ張りだしてきました。奥付を見ると「1990年 第16刷」なので、読むのは20年ぶりなのかな。

ここからがきょうの本題。

大阪・南河内の山の中の人々は、「おのおのその志を遂げ」を自分なりに解釈して、それっと行動した。

「方々のカカヌスミにいったのも、それから間もない頃であった」。カカヌスミですよ。すごい飛躍。

この地方には4月22日の「太子の会式」には、男女ともに誰と寝てもよかった。その「一夜ぼぼ」にはたくさんの人が出かけた。

かつては各地にこんな風習があった。

府中のくらやみ祭もそうですね。司馬遼太郎「燃えよ剣」の主人公土方歳三も、この祭りで宮司の娘と知り合う。宮司の猿渡家は今も大国魂神社の東側にあります。

古くは筑波山の「かがい」。性の解放というより近親婚を避ける意味合いが強かったんでしょう。

これまでは一夜だけだったが、村人たちのたがが外れた。天子さまのお許しを得たというのでカカヌスミは大流行り。

「いつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。

それまで、結婚していない男女なら、よばいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。

そういう制限もなくなった。

みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことはしてはならんと、警察がやかましく言うようになった」。

同書の「世間師⑵」より。

庶民なりに明治維新に高揚したんでしょう。何となく分かるな。

2010年12月 7日 (火)

キツネやタヌキは蒸気に乗らない・中野の次の駅は境だった

昔の人はうまいことを言ったもんだ。甲武鉄道(今の中央線)の路線が決まったとき、地元の人たちは「キツネやタヌキは蒸気に乗らない」と冷ややかだった。ちょっと前は、赤字路線を「空気を運んでいる」なんて形容してたけど、キツネ、タヌキを引き合いに出す方が思わずニヤッとする。(蒸気とは、陸蒸気=汽車のこと。念の為)。

前回取り上げた、はるばる檜原村から武蔵野に移住した高橋家を訪ねようと武蔵境駅にいる。亜細亜大学方面が高橋さんが開拓した地域だ。

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中央線三鷹—立川の高架化工事は終わったけど駅舎はまだ工事中だ。それで巨大クレーンが立っている。ホームに行くのに遠回りをして不便だけど、いつできるのか。

駅の北口から西を目指す。5分も歩くと畑がある。学生たちがおしゃべりをしながら登下校しているのに行き会う。亜細亜大学、あるいは獣医生命科学大の学生も混じっているのか。本校は駅の東側だが、こっちにも校舎がある。

畑に隣接している大きな家の表札を見ると「高橋」だ。あちこちに高橋さんがある。なおも歩くと邸宅があった。300坪くらいはあるのか。となりも高橋さんで、こちらは庭にマンションを建てている最中だ。

それにしても江戸時代の開拓の苦労はどれほど大変だったのか。近くには仙川が流れていて、玉川上水からも近い。それでも、水はいつでも不足していただろう。

関東ローム層は火山灰だけに水はけがよすぎる。日照りの夏は野菜がしおれてしまったろう。高度経済成長期以降は土地が金になったが、それ以前のこのへんの農家は食うや食わずだった。昭和30年代、昼飯の弁当を持って来れない農家の子供がいた。給食なんてしゃれたものは私は経験していない。田んぼが作れないから陸稲を作り、冬には小麦だったが、自家用にはまわらなかったのか。

つぶれ百姓もいっぱいいた。耐えに耐えて生き延びた。

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モダンな豪邸でしょ。左側は蔵です。

ある意味では駅ができたおかげの面もある。駅前に所有していた人は買収に応じたが、ここらは少し離れていたので、戦後しばらく農地のままだった。農業を守っていた人たちが土地ブームの恩恵を受けた。

甲州街道沿いの調布や府中はもともと栄えていたから鉄道に反対した。それで新宿過ぎから立川までまっすぐの線路を敷いた。甲武鉄道の開業は1889年(明治22)。武蔵野村の誕生も同じ年の4月1日。10日後の11日に鉄道が通った。

吉祥寺には駅がない。荻窪もない。中野の次は境だった。新宿—中野—国分寺—立川にしか停まらなかった。必要もなかったし、蒸気機関の火が飛んで茅葺き屋根が火事を起こすと首を縦に振らなかった。

鉄道敷設を推進したのが境の秋元周平、立川の板谷元右衛門、砂川の砂川源五右衛門、安田善次郎ら。秋元の顔も立てて栄えているとはいいがたかった境に駅が作られた。秋元家は駅前にビルをいくつも持っているらしい。

荻窪停車場ができたのは2年後の1891年。吉祥寺はずっとあとの1899(明治32)、三鷹はさらに遅れて1930年(昭和5)になってからだった。

2010年12月 6日 (月)

はるばる秘境檜原村から武蔵野に移住してきた人々

水道橋や虎ノ門から移ってきた人たちが吉祥寺村や西久保村を形成した。隣の練馬や保谷から開拓に応じた人は関前や境村としてまとまった。

おや、この人たちはちょっと違う。こんな移住の動機もあるんだ。

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武蔵境駅前の観音院に立派な墓石が建っている。「高橋家之霊塔」と彫られている。右側に並んでいるのが普通の大きさの墓石、高さ3㍍はある。普通の墓石は、分家した高橋家のもの。

いくつあるのかなあ、両サイドと向こう正面にも建っている。1つにまとめたんだ。というよりもまだ、高橋家を誇りにしてまとまっているんだ。

横には高橋家の由来が刻んである。「我祖先檜原村より八坂神社…」うんぬんかんかんと書いてあるが、何しろ目線の上の方にあるので判読できない。

こういうことが書いてあるらしい。檜原村の人里に住んでいた高橋家の先祖が、玉川上水の拡張工事に人夫として参加したのを契機としてこの地に移り住んだ。その際に八坂神社のご神体を運んで氏神とした。

その時期は正徳年間(1711〜16)だろうという。吉祥寺や西窪が開かれたあとだ。場所は武藏境駅の西側、開拓されずにまだ残されていたのだ。

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江戸時代の初期の武蔵野は土地が有り余っていたのだ。人夫として参加した高橋家の先祖の檜原村での生活はどうだったのだろう。出稼ぎに来るくらいだから豊かではなかったと想像できる。

人里は字名で「へんぼり」と読みます。古朝鮮語説が当たっているのではないか。高麗郡から山奥に移った人がいたのか。

「人」は朝鮮語で「フン」、「里」は百済で「ピユリ」、高句麗で「ホル」、つなげると「フンホル」。なんとなく「ヘンボリ」に近い。

檜原には笛吹と書いて「うずしき」もあるし、青梅線の奥多摩駅の手前には「古里」で「こり」がある。中学のころは奥多摩にハイキングに通い、いっぱしに5万分の1の国土地理院の地図を持って出かけていたので、人里のことは不思議に思っていた。その異境の感じが好きだった。

檜原村は東京都の秘境です。五日市線の終点からさらにバスで行かなければならない。檜原から南に尾根を下っていけば山梨県です。

三鷹の吉野家も檜原村から移住して来たと伝えられている。自由民権家の吉野泰三の家です。享保(1716〜1735)といわれているから、高橋家より少しあとだ。

吉野家も野崎新田を開いている。どうもこのころ檜原から武蔵野へ移るネットワークが作られたのではないか。

2010年12月 5日 (日)

江戸時代の武蔵野新田開拓に応じた人々・境村

住みたい町ナンバーワンの吉祥寺を抱えた武蔵野市の好感度は高いが、江戸時代の初めはほとんど人が住んでいなかった。おそらく井の頭の周辺に小さな集落があった程度だろう。

武藏野市のホームページでも「吉祥寺の八幡宮や井の頭池の付近から、鎌倉時代末期以降に作られた板碑(供養の石碑)が出土されており、この時代にも人々が住んでいたことが推測されます」と遠慮がちに記述している。

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だから原野を開き、村を作った人々は皆、よそからの移住者だ。吉祥寺は吉祥寺門前から、西窪は西久保城山町から移り住んで五日市街道沿いを開拓する。西久保城山は今のホテルオークラの裏手です。

次いで練馬の農民が中心になって関前を、保谷の人々が境を開いた。この4か村が一緒になってできたのが武蔵野村。玉川上水が開通して耕作が可能になったのだ。

境村については前回、なぜ杵築大社がここに鎮座しているのかを中心に少し触れた。

出雲松江城主・松平直政の下屋敷が置かれ鷹狩りの際に使われた。その案内役を務めたのが保谷村の百姓三右衛門。下屋敷跡を与えられて開拓したのが三右衛門らで出雲新田と呼ばれていた。

三右衛門追善のために作られた阿弥陀如来像が今も観音院に残っている。

観音院は中央線武蔵境駅の真ん前にある。改札を出て1分だ。西武多摩川線のホームからは寺院と墓地が目の前に見える。

この寺は杵築大社の別当寺。神社と同時期に作られている。正式には来迎阿弥陀如来像で天和2年(1682)に造立された。武蔵野市所在の石仏としては最も古い。

木にさえぎられているが正面は武蔵境駅です。左手が観音院、右側は市の施設を建築中です。

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石仏は下田家の墓所にある。三右衛門の名字は保谷、のちに下田を名乗ったようだ。

江戸時代に百姓は名字を持っていなかった、明治になってあわててつけたという説があるが嘘っぱちです。多くの百姓は名字を持っていた。公的に使用が許されなかっただけです。

ついでにいえば刀も槍も持っていた。しまってあっただけなんです。秀吉の刀狩りで根こそぎ奪われたというのも俗説です。藤木久志「刀狩り」(岩波新書)は、その実態を調べて面白い。日本国民が本当に武器の所持を禁じられたのはマッカーサーによってなのだ。たかだか60数年前。

観音院の墓地にはもう1つ興味深い墓がある。それは次回に。

2010年11月 6日 (土)

JUKIミシンは「銃器ミシン」?・軍都多摩の軍需産業⑴

多摩の公園の戦争前の姿は、多くが軍事関連施設だった。

平和になった公園をブラブラ歩いて「公園と戦争」  club(カテゴリーの「旅行・地域」をクリックしてください。新しいものは、シリーズのブログが表示されます。古いのはタイトルが出てきますのでクリックしてください。公園所在地の地名クリックでも表示されます) clubシリーズで取り上げてきた。

武藏野中央公園と中島飛行機など軍需産業だったところも多い。

あれこれ調べていたら、調布にあったジューキミシンも軍需産業だった。機関銃を作っていた。戦後は技術を生かしてミシンの製造に転換した。

それで、てっきり戦前の会社名は漢字表記で「銃器」かと思ったら違いました。東京重機工業株式会社だった。でも、この重機は、大辞泉の①「重工業に用いる機械」ではなくて②「重機関銃の略」の方だよね。広い意味では「銃器」だ。当たらずといえども遠くない。

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今は引っ越して、跡地は狛江の慈恵会病院になっている。このあたりに本部があり工場は調布と狛江にまたがっていたという。調布から狛江行きの小田急バスに乗ると慈恵会の前を通る。大きな病院だ。

そもそも東京重機は九九式小銃などの武器製造のために設立された。民間企業として軍の小銃を製造したのは名古屋のマツダと東京重機だけだ。

戦後はミシンの製造に乗り出すが、名前は変えなかった。でも「重機」じゃミシンと釣り合わないからカタカナのジューキにしたんだ。今はJUKI。

ミシンは英語のマシーン。マシンガンを作っていた会社がミシンを作るようになるのは、ある種の必然か?

小金井の中央線線路際には蛇の目ミシンがあった。これも軍需産業だったのか?。今、あわててHPで見たら戦前から蛇の目ミシンでした。

軍需工場の多摩進出第一号は三鷹駅北口の横河電機。渋谷にあったが武蔵野町(市になってない)に5000坪の土地をもとめて移ってきたのが昭和5年(1930)。

航空計器、航空機用磁石発電機などを作っていた。

昭和6年(1931)満州事変、昭和7年上海事変勃発。日中戦争はますます拡大していく。

軍備拡張も急がなければならない。昭和8年には正田飛行機、三鷹航空が三鷹の下連雀で操業開始。

正田飛行機は戦後、プリンス自動車になる。プリンスの社名は皇太子のご成婚にちなむ。その前はたま自動車。

プリンス自動車は、立川飛行機の技術者が中心になって設立。正田飛行機がどのようにかかわっているのかは不明。プリンス(たま自動車)は正田飛行機の三鷹の跡地に、府中から越してきたのか。

今でも三鷹の狐久保交差点の近くに日産のショールームがある。ここにプリンス自動車があったのを覚えている。

on 続きます。

2010年11月 1日 (月)

三鷹は品川県、府中・立川・八王子は韮山県

多摩地区が神奈川県所属になったのは明治5年(1872)のことだ。明治の初め、多摩地区は神奈川県に属し、東京府への移管に関しては自由民権運動が関係していると前回、扱った

その前はどうだったのか。紆余曲折をたどっている。明治維新から移管までを駆け足で見ていく。

各地区まちまちで、多摩全体をくくることはできないので、三鷹地区を例にとる。明治維新でまず三鷹地区は品川県に入った。これが明治2年(1869)。まだ三鷹村は構成されていない。

多摩西部は韮山県だったか?これは多分、江戸時代の多摩方面の代官、江川太郎左衛門の管轄した地域が、そのまま韮山県になったのだ。江川は伊豆韮山が本拠。(あやふやなので興味のある方は確認してください)。

なんで品川県なのか不明だが、世田谷、調布、府中は品川街道が通っているし、多摩川という交通路があったせいか。

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(表札は「東京府北多摩郡武蔵野町境(緑ヶ岡)」となっている。三鷹の隣の武蔵野市のものだ。中央線の南側です)

混乱期なので政策はコロコロ変わる。明治4年(1871)11月には廃藩置県が行われ品川県は廃止された。

東京府に入ったのが牟礼、下連雀、上連雀。

他の野崎、野川、上仙川、中仙川、下仙川、深大寺、北野、大沢の各村は神奈川県になった。(井口がない。大沢がここでまとまりに入ってくる。それまでは他村は7番組だったのに対して大沢村は9番組に入っていた)。

2カ月後にはもう変更だ。明治5年の1月、多摩地方の村は神奈川県ということになった。したがって三鷹の牟礼や上・下連雀は東京から神奈川に所属替え。

この状態がしばらく続く。三鷹の西部地区の野崎や大沢は、別の組合に属していた。

三鷹村ができるのは、ようやく明治21年(1888)のこと。市制町村制が公布され、今の形になった。深大寺新田は調布の深大寺母村から分かれて三鷹に入った。それで三鷹と調布の両方に深大寺の地名が残っているわけです。

まだ所属は神奈川県です。

多摩は経済的に神奈川と密接に結びついていた。八王子の絹は「絹の道」を通って横浜に運ばれ、他の地区も養蚕を行っていたから鶴川街道などで横浜に運んでいた。多摩川の水運も横浜への輸送に役立った。

そんな状態のところへ多摩の東京府移管が発表された。

表向きは玉川上水の管理。府民が使っている水道なので東京の管理下がふさわしいというわけだ。だが、裏の目的もあった。

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