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カテゴリー「中世史」の記事

2011年6月 3日 (金)

思いは戦国…柴田勝家の孫勝重と武田信玄の娘松姫@勝淵神社・三鷹市新川

このタイトルだと「と」が問題です。勝重と松姫の間に関係があると思ってしまう。はっきり言ってなんの関係もありません。それならどうして「と」で結んでいるのかって?それはボチボチと…。

思い立って三鷹市新川の丸池公園へ。杏林病院の東側です。

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ここは市民がつくった公園です。このあたりは仙川の水源で、かつては田んぼや池、雑木林からなる武蔵野の原風景が広がっていた。

しかし、昭和40年代に例によって池は埋められ仙川もコンクリートで固められてしまった。開発という名の自然破壊です。

こうした中、丸池復活をのぞむ声が高まり、平成12年には「丸池復活づくりワークショップ」が立ち上げられて延べ1000人が参加して丸池が復活した。

その後も市民参加による公園づくりが進められて、現在の姿になった。

雑木林も芝生の山もあります。

ずーっと前、江戸の初期から鎮座しているのが勝淵神社。

変わった名前です。ここにしかないんでしょう。

「勝」は柴田勝家から。

こういう経緯だ。

天正11年(1583)、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄城で自刃する。

その折り、3歳の孫権六郎には愛用の兜を与え上野の国の外祖父のもとに逃がす。

柴田家は命脈を保ったんです。

時は流れ世もうつった。権六郎は元服して勝重と名乗り、家康に上野の碓井・群馬両郡のうち2000石を与えられたのが慶長4年(1599)。

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翌年には関ヶ原の戦いで初陣。

大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)では、祖父の弔い合戦とばかりに戦功を重ね、武蔵の国上仙川村、中仙川村(今の三鷹市新川、中原)などを与えられた。

こうして上仙川村に屋敷を構えた勝重は、水神の森に社殿を建立、かたわらに祖父より与えられた兜を鎮めて祖父勝家を祀り、勝淵大明神とした。

なんだ、松姫は出てこないじゃないか。

まあ、あせらずにお待ちください。

近くの春清寺に勝重はじめ柴田家三代の墓があるというので、大体の地図で見て歩きはじめたんだけど、道に迷ってしまってたどり着けなかった。

三代しかないということは、その後どこかに移ってしまったんだ。

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これは再興された兜塚。

もう、どこに鎮めたのか分からなくなっていたんです。

伝説ではなく確かに兜が祀られていた証拠が残っている。

柴田勝家十世の洪孫勝房が天明5年(1785)に春清寺に柴田家の由緒書きを奉納した。

(それにしても「十世の洪孫」ってなんでしょう)。※注(下段にあります)

その中に「遠祖君之兜□勝淵の神是也」と書かれているので明らかだ。

柴田家はどこかで続いてるんですね。

道に迷って疲れて帰ったら、ご近所からの頂き物の「松姫もなか」があった。


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5種類あるので小倉あんのやつをパクリ。

いい餡だ。

十勝産の小豆を使っているようだ。道理でうまい。

松姫は、4女、5女説があるが、信玄の娘。

織田信長の長男信忠と婚約していたが破談になり、やがて武田が滅亡、甲斐から八王子に逃れてきた。

松姫のことは八王子を訪ねたおりにゆっくりとします。

その名前をつけたのが八王子名物「松姫もなか」

ついこの間、聞いたばかりだけど、高校の同級生が、ここを継いでるらしい。ふーん、そうなんだ。

話したことあるのかな。記憶はぼんやり。

でも、おーい、イノウエ、もなかうまかったぞ!

お世辞じゃなくて本当です。

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松姫をかたどってます。

よく見ないでパクッといっちゃったので写真はホームページから無断借用。

注  親切な人が漢和辞典を引いてくれました。

「洪」                  
イ)おほみづ。大水、
ロ)おほいなり、おほいに。(大)。
 洪才:大きいはたらき、すぐれた智識。
 洪志:大いなるこゝろざし。
 洪伐:大きないさを。おほてがら。大志、大望。 伐=功
 洪恩:たいそうなめぐみ。大恩、=洪恵。
 洪規:大きなはかりごと、大事の計謀。大計。
 洪統:大きな血すぢ、立派な系統。

2011年2月19日 (土)

「古代国司館と家康御殿」・郷土の森博物館の特別展

武蔵野線府中本町駅前の発掘で古代国司の館と、同じ場所から家康御殿の遺構が姿をあらわしたのはちょっとしたニュースになった。

その発掘の成果を郷土の森博物館で展示しているので見に行った。ちょうど梅園の梅も見頃には早いが咲いている。対岸の多摩丘陵を眺めながらの散策、梅の香を胸いっぱいに吸ってきた。

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まずは「特別展 発掘!府中の遺跡」。古代からの遺跡があちこちにある府中市では各所で発掘が行われているが、最近の成果は府中本町駅前の調査だ。

ここから国司の館が出てきたんです。年代は7世紀の末から8世紀の初め。大和朝廷の地方行政制度が整えられつつあるころのことだ。大化の改新から半世紀、武蔵にまで勢力が及んでたんだ。

このころはまだ国府中枢施設は設けられていなかった。国衙というような規模になるのは8世紀になってから。大国魂神社付近に営まれた国衙の成立よりも少し早い時期になるようだ。

「□館」と墨書された土器が出てきたことも国司館であることを裏付けているという。

国司は都から赴任してきた役人の居宅。国衙が整う前は自宅で業務を行っていたと見られる。

家康御殿がつくられたのは天正19年(1590)のこと。まだ秀吉の天下です。小田原氏を滅ぼした秀吉は、家康の関東移封を命じ、奥州へと向かった。その帰途の接待のために家康が設けたのが府中の家康御殿。

家康御殿は50カ所くらいにつくられたが、府中は数ある御殿の中でも初期のもので、ここで家康と秀吉が対面していたというのは興味深い。

古代の役人、まあ知事みたいなものが選んだ住居と家康が秀吉接待にふさわしいと定めた場所が同じというのも面白い。

家康は茶を立て、多摩川の鮎を愛でたという。国司も鮎に舌鼓を打ったことだろう。

多摩でもいつのころからかは分からないが、鵜飼いをしてたんです。

何しろ絶景の地。向かいには多摩丘陵をのぞみ、眼下には多摩川、富士山も西側にくっきりと姿を見せている。

こうした美意識は古代から変わらないんですね。

2010年8月 2日 (月)

湧水群となりの薬師堂にも寄ってみよう・国分寺

真姿の池湧水群を出たら西側の現国分寺にも寄ってみよう。医王山最勝院国分寺といい、新義真言宗のお寺だ。境内には万葉植物園が設けられ、崖下にあるので、ここからも清水が湧いている。水量は少ない。

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横にある薬師堂が深閑としていて趣がある。急な階段をのぼると立派な仁王門が構えている。国分寺崖線の雑木林の中につくられているので、深山に迷い込んだような錯覚に襲われる。

この奥に薬師堂がある。立てられたのは建武2年(1335)というから古い。建武の新政下、鎌倉攻めで覚えめでたい新田義貞が寄進したと伝えられている。

もともとは国分寺の金堂跡付近に建立されたというが、その後、亨保元年(1716)に修復、宝暦年間(1751〜1763)に現在地に再建された。

とはいえ、義貞の信仰心を褒めてばかりもいられない。国分寺を焼き払ったのは新田勢だからだ。

義貞は元弘3年(1333)5月、上野の国新田庄で挙兵した義貞は一路南下、小手指が原、久米川で優勢に戦いを進め、分倍河原まで進出した。ここを落とせば鎌倉は目前だ。

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ところが幕府方の援軍に打ち破られて狭山の掘兼まで一度は撤退した。この時に国分寺を焼き払ったのだ。だから薬師堂を再建したのは罪滅ぼしにしか過ぎない。

このあと義貞は再び分倍河原で合戦、寝込みを襲われた幕府側はちりぢりになって敗走した。こうして稲村ケ崎を突破して鎌倉に入り幕府は滅亡した。「稲村ケ崎名将の…」と歌われているのはこの時のことだ。

戦火で国分寺が焼けた時に、奇跡的に持ち出されたのが薬師堂に収められている薬師如来。平安時代の末期、あるいは鎌倉時代初期の作と考えられる国指定の重要文化財だ。正式には「木造薬師如来坐像」で、大正3年に重文に指定されている。

毎年10月10日に開帳される。

この薬師堂の裏手がひっそりとしていいんです。

四国八十八所巡りの石仏群が風雪に摩耗しながらも静かに並んでいる。横に八幡様があるので、ベンチに座ってひと休み。今回は国分寺跡方面ではなしに、西国分寺駅を目指す。


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