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カテゴリー「古代史」の記事

2013年6月13日 (木)

1万年前の縄文人と心を通わせたいな・大鹿窪遺跡&山宮浅間神社@Eテレ「富士山と日本人」を見て

やっぱりね。

縄文の初期も初期、草創期から富士山の雄姿に手をあわせていたようです。

祭祀の跡が出土したそうです。

当然みたいですが、1万年前から人の気持ちが変わってないことに感動します。

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Eテレ「富士山と日本人」(9日放送)に触発されて、気持ちがざわついてます。

胸騒ぎのときめきです。

動物を追いかけ魚を捕って移動生活を繰り返していた人々が最初に定住の地に選んだのが富士山麓だったんです。

それも洞窟ではなく竪穴住居をつくって定住していた。

ようやく氷河期が終わった1万1000年前。

縄文時代は1万2000年前からといわれているので、まだ土器作りを覚えたばかり。

静岡県芝川町の大鹿窪遺跡です。

溶岩流のすぐそばです。

石を集めた配石遺構や集積遺構も出てきました。

石の遺構は南北に並んでおり、その先には富士山。

富士山をあがめていたようなんです。

誰だって、あの姿を見れば頭を下げたくなります。

縄文人も同じ気持ちで、すでに信仰心があったんですね。

そんな素朴なこころに悠久の時を感じています。

   tv   tv   tv

番組は1万年をスケッチしていきます。

素朴な信仰が続いたあと原始神道の形をとります。

その神社がまだあるんです。

人類学者の中沢新一さんが訪ねます。

数ある浅間神社の中でももっとも古いと考えられているのが山宮浅間神社。

総本宮の富士山本宮浅間大社の北約6㌔の富士宮市山宮に鎮座してます。

ここには拝殿はありません。

玉垣で区切られた四角いところが遥拝所。

「神籬(ひもろぎ)だね」と中沢がつぶやく。

ここに神が降りる。

正面には真白き富士の嶺。

自然を神とした神道の古い形が残されてる。

いつごろのことなんでしょうか。

本宮に遷ったのが大同元年(806)ごろ。

この前25年の間に3度、噴火があったという。

それで少し遠ざかったのか。

だから山宮は8世紀、いやもっと前から富士信仰の地だった。

いつかは分からないが行って遥拝しなければ。


    fuji   fuji   fuji

富士を祀る社はなぜ浅間神社なんだろう。

あさまとせんげんと2通りあるが、音読みは後からでしょう。

阿蘇、浅間、朝日などの火山の語根「AS」は火山、噴火、赤色出現を意味するらしい。

噴火を鎮めるために火山神(浅間神)を祀ったようです。

それまでは聖なる水源として「フジ」「フチ」など水神が信仰されてた。

それで山名はフジ、神の名はアサマになった。

なるほどね。

   pencil  pencil  pencil

雨降りでひまなもんだから「あさま」のつづき。

「AS」がどうして火山なのか。

つらつら古語辞典をめくった。

「あざやか」と「あさ」が近いかな。

「あざやか」はアザ(痣)、アザケリ、アザムキ、アザワラヒのアザと同根。

「人の気持ちにかまわず、どぎつく現われる」(岩波古語辞典)。

突然の噴火は、まさに「アザ」だ。

私の解釈、どうでしょうか?

「あす」と「あざ」の変化は、国語学者に訊かないと分かりません。


2012年3月14日 (水)

梅がもたらされたのは弥生の前期なんだって・誰が運んだの?

神代植物公園の梅園も週末が見ごろになりそうです。

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ひと月遅れ。お待たせしました、ですね。

梅の原産地が中国というのは知ってました。

でも日本にもたらされたのは飛鳥か奈良時代と思ってました。

遣隋使、遣唐使が持ち帰ったんだろうと漠然と認識してた。

違うんです。

弥生の前期には入ってるんです。

なんでそんなことが分かるのか。

西日本各地の遺跡から種子や材が出土してるんです。

種子、というか実は薬用、食用。

中国でも薬用、食用に用いられていて殷代(BC14世紀〜12世紀)には鼎の中から種が見つかっている。

前漢(BC206〜8)には、観賞用の栽培が始まっている。

ところで、弥生時代の前期は大体紀元前300〜200年ごろ。

中国では戦国から秦、漢だな。

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誰が種を持って日本までやってきたんだろう。

どこから?

交易してたという記録はないですね。

卑弥呼はもっとあとです。

梅の種を持った人々が海を渡ってきたんです。

そう考えるしかない。

揚子江あたりから東シナ海を横切って、あるいは半島から対馬を経由して・・・。

彼らは梅ばかりでなく、イネも大事に持って海を渡ってきた。

弥生文化は海の向うからもたらされた。

文化を伝えた人たちも大勢やってきた。

大陸系の弥生人たちは、クニとしてまとまり倭国につながっていく。

倭国の支配層はやっぱり海の向うの人たちなんでしょうね。


2012年1月 8日 (日)

「三枝」はなんで「さえぐさ」なんだろう?

小学校のときに三枝さんが転校してきた。「さえぐさ」というんだと担任の浅川先生が黒板に書いていた。

どうして「さえぐさ」なのか不思議だったが、深くは考えずに過ごしてきた。

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神代植物公園でミツマタが、もうつぼみをつけているのに気づいた。

和紙の原料として有名ですね。

黄色い花を咲かせるようだ。

春を待ちかねて、ほかの花に先駆けて咲くのでサキクサともいうらしい。

枝が三つに分かれているので三枝と書いてサキクサと読んだ。

それがSAKIKUSAからKが脱落してSAIKUSA、発音しにくいのでSAEGUSAになったという。

万葉の頃から使われている古い言葉です。

「春されば まづ三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後にも会はむ な恋ひそ我妹(わぎも)」と柿本人麻呂が詠んでます。

春が来ればサキクサが咲くように会えるので、思い悩まないでくださいーー。

「サキクサの」は幸にかかる枕詞。

これが、早春に咲くのでミツマタだという。

ジンチョウゲ、ミツバセリ、はてはきのこ説もあるが、賀茂真淵のヤマユリ説に惹かれます。

賀茂真淵は多分、大神神社の摂社率川神社の三枝祭を重視したんだろう。

率川は、いざがわ、祭りはさいくさと読みます。

三輪山の麓でとれた笹ゆりの花を酒樽に飾ってお祭りする。

こんないわれがあります。

大物主の娘のヒメタタライスケヨリヒメが娘たちと野に遊んでいたところを神武天皇が見初めて妃にしたという。

イスケヨリヒメの家は狭井(さい、さゐ)河のほとりにあった。

古くはヤマユリをさゐといった。

三枝祭は6月なので「春されば・・」の歌とは時期がずれますけどね。

と、あれこれ考えてきたが、三枝、さえぐさの源はたずねてもたずねても、迷い込むばかり。

古い日本語に由来することだけが分かりました。

お粗末。


2011年12月24日 (土)

岬の先端に作られた芝丸山古墳は、古代からの聖地@芝公園

古墳の上から周囲を見渡す。


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標高16㍍の台地の突端に作ってあるので、眺望はすばらしい。

すぐ下は波が打ち寄せていた。はるかな東京湾越しに房総半島や三浦半島が望める。

日比谷入江をはさんで目の前は江戸前島。

気分だけ昔に戻ってみる。

ここが岬の突端だったことがよく理解できる。

海沿いに旅をしてきた古代人は、いきなり大きな塚があるのでびっくりしたことだろう。

芝増上寺の隣、芝公園にある芝丸山古墳の上に立っている。

全長約106㍍の大きな前方後円墳だ。

前方後円墳を作るということは、すでにヤマトの影響下にあったということ。

都内最大級の古墳です。

5世紀代の築造と考えられているが、最近の研究ではもっと古いともいわれている。

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田園調布の多摩川を臨む丘の上に作られた亀甲山(かめのこやま)古墳の築造が4世紀後半。

芝丸山古墳は、それよりも古い形式なので4世紀の前半にまでさかのぼるかもしれない。

卑弥呼が亡くなったのが3世紀半ば。

それから5、60年でヤマトの支配が東国にまで及んだのか。

恐るべき早さだ。

作らせたのは南武蔵の首長。

大規模な戦闘が行われた形跡はないから、先進文化を持ってきたヤマトに素直に従ったのか。

このあたりの経緯はまだ良く分かってません。

古墳の下には貝塚がある。

まだ正式に学術調査が行われていないので、詳細は不明だが、縄文後期のもののようだ。

いずれにせよ、古くから人が生活していたのは確か。

そしてここは、いにしえから聖なる地だったに違いない。

古墳の隣は芝東照宮、その北に増上寺。

聖なる地だからこそ徳川家の廟地としてここが選ばれたのだろう。

古墳に立って周囲を眺めると、なにやら厳かな気分になるのは気のせいか。

2011年10月27日 (木)

すごいな調布には式内社が3座もある@深大寺青渭神社で考える

JAXA一般公開の後は三鷹通りを下って深大寺村の鎮守さま青渭(あおい)神社へ。この日(16日)は秋祭り。おじさんは忙しいんです。

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由緒ある社なんです。

なんてったって式内社ですから。式内社というのは、延喜式神名帳に記載されてる神社ということです。

延喜式がつくられた10世紀初頭には存在していたということになります。

深大寺の創建が天平5年(733)なので、その前から祀られていたのかもしれない。

武蔵国の式内社は44座。大和の286座、山城の122座とは比べようもないが関東では一番多い。

中で多磨郡には8座もあって、武蔵の郡の中ではもっとも多い。

どうしてでしょう。早くから開けていたということですね。

そのうち3座が今の調布市内にある。

布多天神社、虎狛(柏)神社と青渭神社だ。

青渭神社から南に野川を渡ったところに虎狛神社、その南に布多天神社。

このへんは古代の高麗の里です。虎狛神社は、「こはく」ではなくて、かつては「こま」と呼んだといいます。


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ついでにいえば多摩川を渡った稲城市には、式内社の大麻止豆乃天(おおまとのつのてん)神社、穴澤天神社が鎮座している。(青渭神社もある)。

残る3座は、五日市の阿伎留(あきる(神社、立川砂川の阿豆佐味天(あずさみてん)神社、小野神社(多摩川を挟んだ府中、多摩にある)。

ちなみに小野神社は大国魂神社では武蔵一の宮の扱いになってます。

境内は留守番の人ばかり。神輿はどこだ。

深大寺のあたりにいるようだ。

明治の神仏分離令までは、深大寺と青渭神社は密接な関係にあったに違いない。それで、神輿はお寺周辺を練り歩きます。

さて、青渭神社も虎狛神社も、青梅市にもあります。

延喜式に記載されてたのはどっちだ?

青梅の青渭神社は、沢井駅から歩いて1㌔強のところにあります。でもこれは里宮。本殿は2㌔登った惣岳山にあったが、今では里宮を本殿にしている。

お参りに不便だからね。

青梅駅の北にあるのは虎柏神社。平安時代からあったようで、諏訪の宮とも称していたらしい。

こちらも古い。

神社も権威を求めるから、どこが式内社か特定しようとしたときに、あちこちの社が手を上げました。


ですが、なにぶん古いことなんでよくわからないんですね。

私は、式内社の青渭神社は青梅の方ではないかとにらんでますが、どうでしょう。


2011年10月18日 (火)

海と三内丸山遺跡&高麗人の移動ルート・宇宙人文学が解いた

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左の写真を見てください。

赤い線で囲ったところが青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡。

ご存知の通り、日本最大級の縄文集落跡です。

今では青森駅からクルマで約20分の内陸にあるが、5000年前には海辺に面していた。

それは出土品から分かります。

縄文海進で約5㍍海面が高かったんですが、それではまだ海辺にならない。

ここで登場したのが「宇宙人文学」。

宇宙技術と人文科学を融合させた新しい分野だ。

具体的には、「だいち」(陸域観測技術衛星ALOS)からもたらされたデータと遺跡などの位置情報などを照合して解析する。

難しいです。簡単に言えば、衛星データと歴史情報を合体させるんです。

三内丸山遺跡でなにが判明したのか。

約5000年間の地殻変動が明らかになったのだ。

これで遺跡が海の近くになった。

出土品と地形がぴったり一致したんです。

JAXA(調布航空宇宙センター)の一般公開に来てます。

前回ははやぶさ2のCGに感動した内容でした。

この宇宙人文学も感心しました。

科学ジャーナリストで宇宙航空研究開発機構研究員の中野不二男さんが解説してくれました。

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右の写真はなんでしょうか。→

高麗王若光の高麗郡への移動ルートです。

716年、駿河、甲斐、相模など7カ国の高句麗人1799人を武蔵の国に移住させ、高麗郡を設置した。

高句麗の滅亡は668年。一世が日本列島に移住して若光らは二世ですかね。

ついでにいえば新座郡も、もとは新羅郡。

その時の移動ルートです。

若光らは相模に落ち着いていた。

平塚と大磯にまたがる高麗山のあたりだろう。

江戸時代までは高麗寺、高麗神社が山中にあり、高麗寺は若光を祀っているといわれている。

朝廷の命を受けて、高麗人たちは、平塚から北上、府中の南側で多摩川にぶつかる。


ここからは多摩川に沿ってあきる野、青梅と多摩川をさかのぼる。

青梅で丘陵を超えて日高へ到着したんだ。

東村山から所沢に抜けるその後の東山道武蔵路よりも山沿いです。水が補給できるルートでしょう。

衛星データで植生や土壌の差異が解析されて道路の痕跡が分かってくるのだ。

開発が進みすぎて、航空写真では解析できないんだそうだ。

もっともっといろんなことが分かってきそうだ。

楽しみだ。


2011年8月22日 (月)

初めはキキョウ、次にムクゲが朝顔だった

山上憶良が「萩の花 尾花葛花 瞿麦(なでしこ)の花 をみなへし また藤袴 朝貌が花」と、数え上げた秋の七草。

この中の朝顔はキキョウということになってるようです。ムクゲ説もあります。一般的には万葉集のころの「朝顔」はキキョウで、その後、指す花が変わったんだそうです。

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(写真は昨年9月に写した神代植物公園のムクゲ。いろんな種類が植わってます。ワンブロックがムクゲ園になっているので楽しめます)

小学館の「古語例解辞典」は「上代から平安初・中期までは、今のキキョウ、またはムクゲをいうなど、諸説ある」となっている。

朝顔がいまのアサガオの呼び名になったのは平安後期からということが分かります。

それで万葉集のころはキキョウだったんだ。

じゃどうして変わったの?

よくあることさ、で半分納得してましたが、きれいに分かりました。

やっぱり大野晋先生です。私は、バッシングの嵐が吹き荒れた大野先生の日本語タミル語(ドラビダ語)起源説にいまだに魅力を覚えてます。

「岩波古語辞典」を引いてみました。詳しいですよ。


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「③草木の名。古くは何の花であったか諸説がある」とした上で説明していく。

㋑今のキキョウ。略。

㋺今のムクゲ。輸入植物で美しかったので、それ以前にキキョウにつけられていた「あさがほ」の名を奪ったという。花は朝開いて夕方しぼむ。略。

㋩今のアサガオ。平安時代に中国から渡来した。もとの名は牽牛子(けにごし)。その実を薬用にした。ムクゲより一層美しかったので、「あさがほ」の名を奪った。種類の色や大きな花の鑑賞が盛んになったのは江戸時代以後。略。

すっきりしました。源氏や枕草子の頃にはもう今のアサガオです。

つけ加えると、アサガオの種は牛のように高価だったので牽牛子となったというのは後世の附会でしょう。

牽牛、彦星が天の川に輝く頃に咲くからと素直にとった方がいいでしょう。

カオは、顔ではなくて容。美しいの意。「朝」がどこまでの時間をさすかは難しい。

今のアサガオが、今の朝にぴったりなので定着したんだろう。


2011年7月16日 (土)

随神門の前を横切っているいにしえの甲州街道@大国魂神社

鎮座1900年の記念事業で改装なった大国魂神社の随神門を見物に行きました。境内の緑に白木が映えてます。キラキラしだね。

正面じゃなくて、なんで横から撮ってるんだ。正面からが筋だろうに・・・。

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そうおっしゃるのはもっともですが、狙いがあるんです。

左奥に鳥居が見えるでしょ。

その先は京所(きょうず)道。その北に国衙跡があります。

右側にも道は続いてます。

門の前を道路が横切ってます。境内の腹切りです。

しかもこの道路はいにしえの甲州街道だというんです。変でしょ。

現在の旧甲州街道は大鳥居の北側、伊勢丹との間を通ってます。

どう解釈したらいいのか。

「この重要な大きな国道を挟んで一つの神社の境内が分かれるという道理はないですから、どう考えても六所は横大門以南で、以北は別な社の境内と見なければならない」と主張するのは異端の歴史家菊池山哉氏。

六所は大国魂神社のこと。別な神社は宮乃咩だという。

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《随神門左側に安置されている櫛磐間戸命》

そしてこの宮乃咩神社こそ、昔の武蔵総社だったという。総社が衰退するとともに六所が総社を併合したと見ている。

先日も取り上げた宮乃咩神社の例大祭に国中の神職が集うのが、総社であった証拠だという。

「俗に米宿様といっている神社です。その米宿様の社殿は昔は大きいのです。・・・昔は大きな拝殿の裏に二間半、二間という本殿がある」。

これは「府中市史史料集11」からの引用です。

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《右側にある豊磐間戸命》

これだと随神門の真ん前を道路が横切っている理由が納得できるんだけど、どうなんだろう。

「史料集11」は全編、菊池氏の執筆で「大国魂神社の謎」に迫ってます。多摩地区の図書館には置いてあるでしょう。興味のある方はどうぞ。

2011年7月13日 (水)

武蔵総社は大国魂神社ではなく摂社の宮乃咩神社だった?@府中

ことしは大国魂神社の鎮座1900年。何しろ創建は西暦にして111年と気の遠くなるほどに古い。

改築なった随神門を見物しようとケヤキ並木から境内に入る。

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あらっ摂社の宮乃咩(みやのめ)神社も改築されている。

白木がすがすがしい。屋根を葺いているアカ(銅)も映えている。

きょう(12日)は例祭の行われる日。

かつては国中の神職が参会した大きな行事だった。

六所宮(大国魂神社)ではなくてまず摂社で営まれるんです。なぜでしょう?

源頼朝が文治2年(1186)に武蔵国中の神職に、天下太平の祈願を行うように命令したのが始まりで、12日の夜から13日の朝まで終夜舞楽を奏した。

いい国(1192)より古いね。

まず宮乃咩神社で舞人が青袖の舞衣を着用して神楽舞を舞い、その後拝殿で笛太鼓に合わせて舞う。

翌日は拝殿で杉の小枝を手草として舞う。

このため青袖・杉舞祭という。

お腹が目立つ女性が、母親らしき人と時おり訪れてお参りしていく。

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ここは安産の神様でもあるんです。

例祭の行われるきょうは特別祈祷が受けられるのだ。丁寧にお参りしている。

北条政子が安産を祈願したと言い伝えられているからです。

柄杓の底に穴があけられています。抜け柄杓。

安産のお守りだな。

水がつかえずに流れるようにお産が軽くなるんだそうです。

諏訪大社にもあるようだ。水天宮にもあるのかな。

大国魂神社には摂社、末社がいくつもあるが、どうやらここだけが改築されたようだ。

それだけ重要な地位を与えられているのか。

かつては、六所宮(大国魂神社)ではなくここが武蔵総社だったとの説を唱える人がいる。

位置的にも東側にある国衙跡と並行に建っている。

何しろいにしえのこと、どうともいえないんだけど、今の大国魂神社の縁起はそんなに古くはさかのぼれないような気がしている。

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延喜式の式内社でもないからね。927年にできた神名帳に記載されてない。

まだ創建されてなかったのか、注目される存在ではなかったのか。

まだ、随神門に至ってない。

続きはまた今度、近いうちに。

2011年5月27日 (金)

野毛大塚古墳に上って古代の首長気分@世田谷区野毛

野毛大塚古墳はちゃんと、てっぺんまで上れます。上から下を見下ろしてこそ、当時の首長の気分が味わえる。古墳はこうでなくちゃ。

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おじさん2人の高級住宅地古墳ツアーも最終目的地。等々力渓谷を出て環八を用賀方向に10分ほど歩くと左手に玉川野毛町公園がある。

この奥にあるのが野毛大塚古墳。

築造当初の姿に復元されているので前方後円墳の全景がしっかりと分かる。正確には前方部が極端に短く帆立貝に似ているために帆立貝式古墳と呼ばれているらしい。

このため前方後円墳よりはワンランク下の首長がつくったと見られている。

勝手に、多分ヤマト朝廷の許可なしに前方後円墳をつくってはいけなかったようなんです。もうすでに身分制、階層性が確立されていたんですね。

築造は4世紀末から5世紀初め。「倭の五王」以前に畿内にできた政権が東国をも支配していたことになる。

円筒埴輪も置かれ、墳丘の斜面には葺き石が敷き詰められている。見上げると結構でかい。勢力を誇示するデモンストレーションとしては効果がありそうだ。

後円部の高さは10㍍、墳長は82㍍。

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前方部の周囲にはちゃんと堀も掘られていました。

この周壕が古墳の内と外、此岸と彼岸を隔てているのです。

横に道がついていててっぺんまで上れる。10㍍というと4階建てくらいか、おじさんにはきつい坂だ。

えっちらおっちら上ると見晴らしはすばらしい。

すぐ下に多摩川が流れ、はるかに丹沢の山々、そして富士山がのぞめる絶好の立地だということがよくわかる。

首長はここに葬られた。4基の埋葬施設があり、多量の武器、武具が副葬されていたのが特徴だ。武力で支配していたんだろう。

これで本日のツアーは終了。

帰りは野毛の住宅街をぶらついて大井町線の上野毛へ。

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「何だこの花は?」

とりあえずカメラに収めて調べてみるとブラシの木。花が瓶洗いのブラシみたいというので名づけられた。

さすが高級住宅街、ハイカラなものを植えてる。

よく歩いた。2万歩を超えていた。


 beer   bottle


この高級住宅地古墳ツアーは、

田園調布に古墳がそびえる@大田区田園調布

関東最古の宝来山古墳が造られたのは3世紀後半らしい@大田区田園調布

まだまだ歩くぞ!高級住宅街の古墳めぐり@田園調布から等々力へ

ここは国分寺崖線(ハケ)の最南端@等々力渓谷

のシリーズで、亀甲山古墳、宝来公園、御岳山古墳、横穴墓をめぐりました。お時間があったら参照してみてください。

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