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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2013年3月 4日 (月)

「オオカミの護符」小倉美惠子さんの映画と講演の会@小平

土蔵に貼られていた「護符」をきっかけに、オオカミとお百姓たちの営みについて旅を重ねた小倉さん。

映画と講演会があるというので、いそいそと出かけた。

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ドキュメント映画「オオカミの護符」をポイントで上映しながら、お札から見えてくる農村共同体の姿に強い関心を抱き始めている様子を語っていく。

「それは土地とともに生きてきた先祖の暮らしを知ることでもありました」

小倉さんは川崎市宮前区の出身だが、多摩の村々でも講を組んで御嶽山にお参りしてお札をいただいてきた。

「オオカミの護符」は火除けや盗難除けのご利益にまで広がっているが、本来は害獣除け。

害獣は農作物を食べるシカやイノシシ。

オオカミは、それを防いでくれる大事なけもの。

害獣とされたのは明治維新後です。

牧畜が導入されると狼は羊などを襲う怖い存在になった。

欧州流の考え方です。

狂犬病の流行も大きい。

江戸時代には1732年、長崎で流行があったが、明治後に各地で報告されている。

そもそも日本にはなかったんでしょう。

それが開国で広まってしまった。

政府は毒饅頭を大量にばらまいたりして撲滅につとめた。

野犬ばかりでなく狼も食べてしまった。

近代化がニホンオオカミを絶滅に追い込んだといえるでしょう。

だからおイヌ様の信仰は農村地区に残るだけになっている。

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かつて村々は、各種の講をつくって生活を支えてきた。

道普請から屋根葺き、冠婚葬祭・・。

お上に頼らないで共同体が解決してきた。

だから、ここから外される村八分は重大な意味を持っていた。

近代化で得たもの、そして失ったもの。

「おイヌ様に導かれていくうちに、私たちの未来につながるものがあると知りました」

先祖の暮らしをもう一度見直してみよう。

便利さがもたらしたひずみが各所で噴き出している。

これが小倉さんの現在の思いのようでした。

著書の紹介と感想についてはこちらにあります。

よろしく。

後日、「こんなの見つけた」とメール。

各地のお札の写真が届きました。

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これは檜原村・大嶽神社。

渋谷・宮益坂の御嶽神社のもある。

ほかに埼玉・長瀞町の宝登山神社、大田区・北嶺町の御嶽(おんたけ)神社などもある。

そういえばわが家の鎮守さまは御嶽神社だった。

深大寺近くの兄弟が江戸時代に移住して開拓した新田です。

御嶽講が今でもあるのかもしれない。

お札が貼られてないか確認しにいってみよう。


2012年4月10日 (火)

こんな本を読んだ「嘘の色、本当の色 脚本家荒井晴彦の仕事」

「大鹿村騒動記」ではキネマ旬報賞の脚本賞を受賞、新たな一面が評価につながったようだ。

荒井の個性、こだわりにアレルギーを示して反発する若者も多かったけど、ナマなこだわりをオブラートに包むすべに長けてきたのかな。

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著書では、こんなことを言っている。

「ソ連や中国が社会主義だとは思っていなかったけれど、理念は正しいと思っていたんだよ。

理念を現実化しようとするとこうなるのか、やり方が間違っていると。

でも、それがその理念が必然的にはらんでいるものではと思い始めたのはここ10年」

「おかしいことはおかしい。間違ってることは間違ってると、左とか右とか偏りなく考えられるようになっただけ」

ソ連や中国ではない、ありうべき道があると信じたかったもんね。

学生運動の呪縛からようやく解き放たれたのか。

遅れてきた「転向宣言」か。

でも、まだ残滓というかこだわりがナマに出ている。

荒井は言う。

「だから『大鹿村』で目立たない程度にはやっている。三國(連太郎)さんがシベリア帰りという設定にしてね、『シベリアからやっと戻ってきたけど、簡単に人間に戻れなかったんだ』って台詞を書いた」

オレには目立ってた。

異質のボールが投げ込まれたようでバランスを失った。

三國さんに直接語らせるのではなく、第三者の言葉の端で分からせるなど、もっと包み込んでしまってもいいように感じた。

見終わってから気づく程度でいいんじゃないか。

伝わらなければそれで良し。

と、まじめなことを連ねて、この本は、川崎市民ミュージアムで行われた特集上映「脚本家荒井晴彦」の記録集。

各回のゲストとのトークイベントを中心に荒井へのインタビューを加えた内容。

トークのゲストは根岸吉太郎、柄本明、足立正生、澤井信一郎、白鳥あかねの各氏ら。

その日の上映作品について語り合い、荒井の脚本作りのこだわりに迫っていく。

オレがもっとも共感したのは「リボルバー」(監督藤田敏八)の日の鈴木則文監督の発言。

拳銃のタイトルなのに実は一発も撃ってない。

「映画は撃ってこそピストルだよ。…誰が、なぜ何に向かって引き金をひくのか。それを映画は見せてくれなくては。

撃ってこそ映画だ」

則文さんが東映流というなら、オレは東映流を見たいな。

特集上映が行われたのは2008年。

荒井のホンというと条件反射で拒否反応を引き起こした向きもあったが、こうして特集や脚本術に迫ろうという根強いファンがいる。

もう2、3本、いい仕事をするとゆとりも生まれて来るんじゃないかな。

練熟の過程を追う必要がありそうだ。

発行は川崎市市民ミュージアム。044・754・4510(学芸室)

税込み1500円。


市民ミュージアムがネットで売ってるようだが、アマゾンで検索しても出てこないので本屋さんでは売ってないかも。

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5日にあるパーティーで黒澤満プロデューサー(高校3期)にあったら「荒井は来ないのか」といって、気にかけていた。

ありがたいね先輩は。


2012年1月22日 (日)

樋口一葉が通った伊勢屋質店@本郷菊坂界隈

格調高く本郷菊坂あたりを歩いている。

樋口一葉「にごりえ」にも出てくる「こんにゃく閻魔」にお参りしてから一葉終えんの地へ。

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白山通りの西片交差点そばに「樋口夏子碑」が建ってます。

刻まれているのは明治27年4月28日と5月1日の一葉の日記。

一葉の筆跡を写したもので、そのほかの文字は平塚らいてう。

旧町名は本郷・円山福山町。

近代文学史上に残る傑作がここで書かれた。

「大つごもり」「にごりえ」「たけくらべ」・・・。

「にごりえ」の舞台になる新開地もすぐ近くにあった。

えらそうに書いてますが、受け売りです。

これじゃいけないというので図書館に走って借りてきました。

「あゝ今日は盆の十六日だ、お閻魔様へのお参りに連れ立って通る子供達の奇麗な着物きて・・・」

ついで東京メトロ南北線が地下を通っている菊坂界隈を本郷に向けて上がっていく。


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リーダーが下調べをしてくれているので、古い町並みの残る坂を上がって一葉の旧居へ。

下町が残っていて懐かしい街並みです。

たとえば洋服屋の名前は「ズボン屋」。つけたときはハイカラなネーミングだったんでしょう。

下谷竜泉寺町に移る前の生活困窮期に住んだところだ。

生涯困窮してるけどね。

路地をはいると井戸があった。

一葉も使った井戸だ。

おばさんグループも入ってくる。

リーダーによると以前は、案内板があったが外されているという。

きっと住人に迷惑なんで外したんだね。

白壁の土蔵は一葉がかよった質屋さん。

外壁を塗り直したが、内部は当時のままだという。

「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて・・・」と明治26年5月2日の日記に出てくる。

「衣替えで入れたのかしら?旧暦、新暦?」

ここでセイコさんが、小袖および明治の着物事情について教えてくれる。

父親が事業に失敗する前に持っていた着物を入れたり出したりしながら生活していたんだろう。

下谷竜泉寺町の頃に訪ねた怪しげな相場師、久佐賀義孝からは、妾になれといわれたりしてるからね。

一葉が24歳で亡くなったとき、伊勢屋の主人は香典を持って弔ったという。

地下鉄の地上を歩く会で、今回は南北線の上を歩いてます。

メンバーは高校の同級生です。


2011年8月 3日 (水)

道鏡に 崩御崩御と 詔(みことのり)@江戸のバレ川柳

道鏡は見当がつく。崩御も詔も分かる。なのにピンとこない。

まだ、鈴木理生さんの「大江戸の正体」を読んでます。前回の「相模は好色、信濃は大食い・あわせて『上下の大食らい』」はこちらです。

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武蔵境駅の南口にできた図書館「武蔵野プレイス」で借りてきました。1階にはカフェもあって、お茶を飲みながら、借りる本の品定めができて便利です。

江戸庶民のおおらかさなどの記述で、タイトルにしたこんな川柳が出てきました。

詔を下しているのは称徳天皇です。女帝が道鏡を寵したことは有名です。

言葉の一つ一つは難しくないんだけど、すとんと落ちない。

「弁慶と小町は馬鹿だなぁ 嬶(かかあ)」なんてのも、同じです。

武勇にすぐれた男と名だたる美女、何がバカなんでしょう。

小町は、あのことを言ってるようだ。「とは知らずあかずの門へ九十九夜」。

深草少将は小野小町に、百晩通ったら・・・と言われたので、せっせと通い九十九夜目に寒さに凍死してしまった。

「待ち針」は小町から来てるっていうけどホントかな。素直に、縫うのを準備する=待つ——でしょう。あとから誰かが思いついたんですね。

じゃあ弁慶は?

女性に接したのが生涯にただ一度なんだそうです。なるほど。

江戸の庶民はインテリですね。歴史上の人物に詳しく、さらに俗説も広く流布していた。この常識の上に江戸の文学が成立していた。侮れません。

ハイ、タイトルの川柳ーー。

崩御を平たい言葉で言うと、死ぬです。

2011年8月 1日 (月)

相模は好色、信濃は大食い・あわせて「上下の大食らい」

相模といえば、江戸時代の男どもはにやにやしたんでしょう。今じゃ湘南でしょうか、やに下がる雰囲気はありませんが、相模イコール好色の下女を意味してたんだそうです。

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こんな本を読んでました。「大江戸の正体」(鈴木理生、三省堂)。

江戸についちゃ、なんてったって鈴木さんです。「江戸の川、東京の川」は名著として有名ですね。

庶民の生活のくだりで、川柳に話が及んでいた。

「祭り」といえば山王祭と神田祭、「山」といえば相模の大山・雨降山・阿夫利神社詣でのことだったという。

ついでにやや脱線して、「相模といえば好色の下女を意味する。そして信濃といえば冬季の季節労働者として、信濃国から江戸に出稼ぎにくる大食いを意味した」。

相模はなんといっても「山」のあるところ。大山詣では庶民の楽しみだった。

お参りをすませると、お茶屋が待ってます。当然、精進落としです。

これは女房も公認、とがめ立てはされません。いい思いをしたんでしょう。

さて信濃は「食う物でないのは花とほととぎす」というお国柄。貧しかったんでしょうか。何でも食べたんですね。

蜂の子なんか有名ですね。

というわけで、この2国をあわせると「信濃と相模 上下の大食らい」となる。同工異曲に「昼信濃 夜は相模が 大食らい」がある。

「相模屋の婿 来ては死に 来ては死に」、「是からは あばれ食いだと 相模後家」なんてのもあります。

信濃は「喰うが大きいと 信濃を百ねぎり」になってしまいます。

食べる分だけ給金を減らしたんですね。

名将の誉れ高い真田幸村も、こんな言われかたです。「食う事も 武勇も真田 人をこえ」。

神奈川と長野の方、昔の話です。もうすっかり、こんな共通理解は消えてしまいました。

明日は弁慶、小野小町、道鏡の川柳にしようかな。

2011年5月31日 (火)

愉快、愉快「五箇条のご誓文」庶民の解釈は性の解放

有名なあれ、「万機公論ニ決スヘシ」です。堅い話はパスーと即断しないでください。じゃなくてとってもやわらかい逸話なんです。一瞬だけご辛抱を。それを過ぎれば、ニヤッとすること請け合いです。

慶応4年3月 (元年ですが、まだ明治にはなってません、1868) に明治天皇が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針ですね。

第3条がこれ。「…おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す」。それぞれの意志がとげられるようにし、人々がやる気を失うようなことがないようにすべきである。

みんなが夢を叶えようと一生懸命に努力すればいい世の中になります。

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「土佐源氏」をきちんと読もうと、ひさしぶりに宮本常一さんの「忘れられた日本人」(岩波文庫)を引っ張りだしてきました。奥付を見ると「1990年 第16刷」なので、読むのは20年ぶりなのかな。

ここからがきょうの本題。

大阪・南河内の山の中の人々は、「おのおのその志を遂げ」を自分なりに解釈して、それっと行動した。

「方々のカカヌスミにいったのも、それから間もない頃であった」。カカヌスミですよ。すごい飛躍。

この地方には4月22日の「太子の会式」には、男女ともに誰と寝てもよかった。その「一夜ぼぼ」にはたくさんの人が出かけた。

かつては各地にこんな風習があった。

府中のくらやみ祭もそうですね。司馬遼太郎「燃えよ剣」の主人公土方歳三も、この祭りで宮司の娘と知り合う。宮司の猿渡家は今も大国魂神社の東側にあります。

古くは筑波山の「かがい」。性の解放というより近親婚を避ける意味合いが強かったんでしょう。

これまでは一夜だけだったが、村人たちのたがが外れた。天子さまのお許しを得たというのでカカヌスミは大流行り。

「いつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。

それまで、結婚していない男女なら、よばいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。

そういう制限もなくなった。

みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことはしてはならんと、警察がやかましく言うようになった」。

同書の「世間師⑵」より。

庶民なりに明治維新に高揚したんでしょう。何となく分かるな。

2011年5月15日 (日)

こんな飲み屋を訪ねたいね「東京シネマ酒場」

著者の高橋渡さんは、今はなき伝説のミニシアター「恵比寿ガーデンシネマ」の元支配人。1994年の開館からずっと支配人を務め、他の単館系とは一線を画した作品を上映して根強いファンを集めていた。その仕掛人だ。


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親会社の身売りなどもあってラストの何年間かは大変だったんだろう。「十数年疾走し、力尽き、2011年に満身創痍で倒れました」とあとがきに記している。K-POPの劇場になるようだ。時代だね。

こんなに都内各地の飲み屋を訪ねてたんだ。さすが通だね、いいとこを知ってる。

飲み屋と映画のマッチングがそそられる。「東京シネマ酒場」(祥伝社)、サブタイトルは「あの名作と出逢える店を酔い歩く」。

ますます気に入った。

最初に取り上げるのは新橋の「ダイヤ菊」。長野県の酒蔵「ダイヤ菊酒造」(現諏訪大津屋本家酒造)東京唯一の特約店だ。小津安二郎監督が愛飲した酒です。

小津さんのお燗(かん)の温度は決まって55度。「お店にそんなこと要求しちゃいけない。ええっ、してくれるの! じゃ、私もそうしてもらおうかなっと(注・してくれませんのでそのように)」。斜に構えようとするが根っからの小津ファンです。

だから新宿ゴールデン街の「ジュテ」では“小津安二郎ごっこ”に興じる。誰かが笠智衆の物まねで劇中の台詞をつぶやく。

それにあわせて、中村伸郎や佐分利信、浪花千栄子が登場して「晩春」「お茶漬けの味」「秋刀魚の秋」などが再現されるという寸法だ。

浅草の「さくま」では任侠映画に思いをはせ、東映の名コピーライター関根忠郎さんと日本ヘラルドの広木貢さんが、お互いの仕事を交換したエピソードを披露する。

つまり洋画の広木さんが任侠映画、関根さんが洋画のコピーをつくったのだ。もちろん会社には黙って。東映も日本ヘラルドも気づかなかったそうだ。

帝国ホテル「オールドインペリアルバー」の勘定はショーン・コネリーのツケにした。コネリーが12年ぶりにジェームズ・ボンドを演じた「ネバーセイ・ネバーアゲイン」(83年)来日キャンペーンの時だ。

コネリーがボンドを演じてはいるが「007」はつかないママッコの作品だ。コネリーの部屋は1泊50万円。宣伝担当だった著者は「オールドインペリアルバー」で一杯やって、チャージはコネリーのルームナンバーにつけ、執事の間に潜り込んだという。

銀座、八重洲、中野の3軒になってしまった「ブリック」のトリハイ(トリスのハイボール)からは、トリスウイスキーの宣伝コピーを書いた作家の開高健氏との仕事につながる。

ニューヨークの劇場でコッポラ監督の「地獄の黙示録」を見てもらう約束だったが、見終わった作家は言葉少なに街に消えてしまった。宣伝マンとしては完敗だ。

青春だね。

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思い返せばこちとらは、著者みたいな上品な飲み方じゃなかったな。

反省してももう遅いか。

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こんな写真が出てきました。帽子に半ズボンはコッポラ監督。話してるのは通訳の原田真人さん。映画監督になる前です。

青春だったね。

2010年12月27日 (月)

妻の病状を観察した上林暁「聖ヨハネ病院にて」の舞台

浴恩館公園から西へ行くと7、8分で桜町病院がある。正式名称は聖ヨハネ会桜町病院。上林暁の私小説「聖ヨハネ病院にて」の舞台になった病院だ。

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上林暁夫人は、近くの小金井養生院に7年間入退院を繰り返したあと昭和14年(1939)に桜町病院に転院した。精神を病んだ妻のかたわらで上林は克明に病状を記し、小説を書き進めた。「病妻もの」とくくられている。

ここには修道院がありホスピスもある。病院名は町名からつけられ、町名は小金井の桜にちなんだ。

もし末期がんになったら、こんなホスピスで最期を迎えたいな。緑がいっぱいで坂の上なので見晴らしもいい。

チューブだらけで寝たきり、生かされているだけなのは屈辱だ。20年ほど前に話題になった山崎章郎医師の「病院で死ぬということ」(文春文庫)で終末期医療について考えさせられた。市川準監督で映画化もされた。


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天気のいい日にお日様をいっぱいに浴びて、散歩しながらコロッといっちゃうのが理想かな。

病院の前の道は坂になっている。「大尽の坂」と案内板が立ててあった。明治時代、鴨下荘左衛門という人が醤油醸造業や質屋を営み財を成した。醤油を買い求める人が絶えなかったことから名付けられた。銘柄にちなんで「玉荘の坂」ともいわれた。

水は玉川上水を利用したんだろうか。

突然だが、俠客小金井小次郎の本名は関小次郎だが、鴨下一族だ。小次郎は鴨下村の庄屋の次男。墓は鴨下一族の墓地にある。縁続きなのだろう。

(小金井小次郎については、カテゴリー「小金井」をクリックしてください。何回か書いてます。「武蔵野」では月窓寺にある子分の墓についてふれています)。

スタジオリブリ、星野哲郎邸、浴恩館公園、桜町病院とたどって来た散歩もひと区切り。ちょっとハードだった。小金井公園のベンチで休もう。

2010年12月25日 (土)

下村湖人が「次郎物語」の構想を練った旧浴恩館(文化財センター)@小金井

まだ「次郎物語」は学校の推薦図書になっているのか。その昔、親からも読みなさいとかいわれて買い与えられた。

小さい時に里子に出され、やがて実家に戻るがなじめずに反抗的な態度を取る次郎だが、結核に冒された母の愛などを知って成長していくーと書いたが、実はよく覚えていない。でも、読んだのは確かだ。プール熱で学校を休んだ時に読んだのは、はっきり覚えている。

作者の下村湖人が所長をしていたのが、この浴恩館です。今は小金井市の文化財センター。

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小金井公園の南側にあるが、大きな通りに面してないので分かりづらい。住所は小金井市緑町3−2−37です。敷地は公園になっていて緑にあふれている。樹木に囲まれて古い建物がある。戦前の趣がそのまま保存されていて、何ともいえない懐かしさを覚える。この景観に包まれているとほっとする。

それもそのはず、浴恩館の建物は、昭和3年(1928)京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭で使われたものだ。その際、神職の更衣所として建てられた。

たった1回しか使わないのに、簡易建築ではなく本格的につくったんですね。それが今でも保存され使用されている。すごいもんだ。

それを(財)日本青年館が譲り受けて移築、昭和6年から青年団指導者の講習所となった。

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下村湖人を呼んだのは「青年の父」と謳われた田澤義鋪(たざわよしはる)。開所間もない昭和8年に、故郷佐賀の後輩下村を招き、実践教育にあたらせた。

この小さな建物は空林荘。下村が講習生と寝食を共にした宿舎だ。そのころ「次郎物語」の執筆をはじめた湖人は、ここで構想を練った。

戦後になって発表された第5部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものだという。

戦前の青年団活動についてはほとんど知らないが、農村の未来を開く組織として青年団が機能していたようだ。戦前もそうだが、戦後も明るい農村を目指す担い手だった時期もあった。

コンサートなどで使われる東京・青山の日本青年館は、その本部なのか。調べてみると、日本青年館は全国の青年団員による募金活動などが展開され、初代日本青年館が1925年(大正14年)に完成というから間違いない。

約500名収容可能の宿泊施設のほか、2000名収容の講堂、図書室、新聞雑誌縦覧室、資料陳列室、談話室等を備えたものだった。また、別館として小金井市に「浴恩館」を建設し、そこに青年団指導者養成所を開設した。

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だが、時局が変化する。有為な青年が集まる浴恩館は軍事教練の格好の場と軍部に目を付けられる。「次郎物語」も連載中止に追い込まれ、湖人も昭和12年(1937)に所長を辞任、浴恩館も戦時体制に組み込まれていく。

浴恩館の庭です。昔は近くの仙川から水を引いていたんだろう。池がしつらえてあるが、特に装ってはいない質素な趣がいい。

今は文化財センターになっていて、小金井の歴史や遺跡からの発掘品などが展示されている。入場無料。

2010年10月30日 (土)

残ったのは借金だけ・映画に出資した直木賞作家の悲惨な日々

「新・雪国」という小説を出版した直木賞作家の笹倉明氏、小説は案の定売れず、よせばいいのに映画化に乗り出し記者会見まで開いてしまった。ここまでは前回のブログで紹介した。

脚本も自分で手がけ、予算の関係で舞台は越後湯沢から月岡温泉に変わってしまったが、オールロケの宿泊と食事代はホテルが持ってくれることになった。スタッフは35人程度。およそ3000万円に匹敵する。ホテルは400万円を出資してくれることにもなった。破格の待遇だ。

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だが製作費1億円には届かない。当てにした町からの助成金は町議会の議題にもならなかった。後藤幸一監督が1000万を銀行から借り、ビデオ会社、衛星放送から1650万円、プロデューサーなどが1300万円を用立て、直木賞作家は、元金保証の友人からの借金も合わせ2500万をつぎ込んだ。

ここまでの小計は約6500万。

当座は払わなくていい監督、脚本、原作料が約1000万、ホテルの好意分3000万を合わせるとようやく約1億円。綱渡りの撮影を続けなんとか完成にこぎつけた。でもここからが地獄への急坂。

2001年秋の公開を目指して試写などが始まった。これだってただでは会場は借りられない。直木賞作家が実家から500万を借りて手当てする始末。

劇場が決まらない。当てにした小屋は夏を過ぎて断ってきた。年末に大阪で公開したが、千日前は初日の客が3人。1日4回上映だからゼロの時もあった。天王寺も同様。1週間で打ち切られた。福岡では3日で打ち切り。

詳しくは分からないが、ろくに宣伝もしない無名の映画に客が来るわけはない。その金もなかった。期待した文化庁の助成金も審査に通らなかった。パスすれば2700万円が助成され宣伝費にまわせる目論みだった。甘かった。

奥田瑛二はだだをこねて宣伝に協力しないというおまけもついた。

そうこうしながらも東京の劇場が決まった。しかし、上映するには週110万が必要だという。2週で220万。これを超えないと1銭も入ってこない。必死で前売り券を売りまくった。

東京で上映すれば地方の劇場から声がかかると踏んでいたが、反応はゼロだった。万事休す。

悲惨な生活が始まった。水道、電気が止まった。仕方なく友人が所有するビルの一室に避難した。

その後も上映会などを続けたが、収益はすべてを合わせて300万に満たなかった。

当然借金は払えない。原作、脚本料も入らない。直木賞作家はさらに親から数百万を借りて(全額は返していない)生活費をやりくりした。

「映画『新・雪国』始末記」(論創社)を書いた03年の時点で負債は返せていない。救いは主演に抜擢した笛木優子が韓国で活躍していること。
                     ×   ×

「ビデオの海賊版が韓国で出回って困ってるんですよ。笛木のヌードが見られるというので話題になってるらしいんです」と、その後、何かのパーティーで会った後藤監督がこぼしていた。

後藤監督も個人保証の1000万円を少しずつ払っているのだろう。

素人が映画作りで夢を見てはいけないという教訓でした。

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