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カテゴリー「旅行・地域」の記事

2017年3月 4日 (土)

知りませなんだ・深川で育ったから伊東深水@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4回目その4

この歩く会では先に荒川と旧中川の水位を調節する荒川ロックゲートをじっくり見物しました。こちら

小名木川には扇橋閘門があります。

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えっ、同じ川なのに水位の差があるの?

江戸時代はもちろん、戦後も高度経済成長期までは水位差なんてなかった。

普通に船が荷物を運んで航行してました。

しかし工場が地下水を大量にくみ上げたために江東区の東部が地盤沈下。

いわゆる江東0メートル地帯。

そのため扇橋閘門を設置して東部の水位を下げているんです。

船が通る時は閘門を上げ下げして水位を調節しているんです。

工事中のため近くには入れずに遠景のみ。

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書き忘れてたのでここで記録しておこう。

今回ははるばるアメリカからのメンバーが加わりました。

高校時代はサッカー部の守護神。

日本企業のアメリカ法人勤務になって渡米。

ちょうど所用で帰国してたので一緒に歩いたんです。

市民権も得て大統領選ではトランプに投票したそうです。

「クリントンは金にきれいじゃなというイメージでまわりも8割がトランプ支持」

やっぱりメディアの報道と市民感覚には相当の開きがあったようですな。

さて森下文化センター着。

森下といえばカレーパン発祥の地として有名です。

日曜休日なので買えませんでした。

漫画「のらくろ」の田河水泡は深川育ち。

なので「田河水泡・のらくろ館」が設けられています。

のらくろ世代ではないので知識として知ってるだけです。

人脈図のパネルがあって、ちょっとびっくり。

夫人の高見沢潤子(本名富士子)さんは、あの文芸評論家・小林秀雄の妹なんですね。

作家、エッセイストでもあってアガサ・クリスティ「ミス・マープルと13の謎」の翻訳者。


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深川神明宮です。

このあたりを開拓した深川八郎右衛門が神明を勧請した。

徳川家康が訪れた際に地名がついてないと答えると、姓を取って 深川にせよと命じたという。

いわば深川発祥の地。

門前で生まれたのが伊東深水(本名一)。

森下文化センターには深水と関根正二の紹介コーナーもありました。

テレビに朝丘雪路が登場するたびに親父が「父親は伊東深水といって美人画家で有名な人だ」

繰り返していたので名前は覚えてます。

日本画家の鏑木清方に入門した際につけられた雅号が深水。

深川の水だそうです。

知らなかったなあ。

田河水泡夫人といい歩いてると勉強になります。

これにて今回はお開き。

生ビールで蒸発した水分を補い、焼酎を1升瓶で注文、さらに四合瓶追加。

♪今宵またしのびよる 恍惚のブルースよ


2017年3月 3日 (金)

帰国の時期が幸いしたジョン万次郎@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4回目その3

西大島駅近くを流れる小名木川を渡ったり戻ったりしてます。

さて次の旧跡は中浜万次郎宅跡(北砂1)。

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といっても現在は北砂小学校、説明板があるだけです。

ここには土佐藩の下屋敷があったんです。

小名木川の水運を利用して国元などからの物資を下屋敷に運んでたんでしょう。

明治元年(1868)に百石取りの侍として土佐藩にかかえられた万次郎は、下屋敷の中に住んだ。

そして開成学校(東京大学の前身)の教授などを勤めながら11年間を過ごした。

彼が教えた英語の発音は次のようだったという。

猫=キャー、魚=ビィシ、髪=ハヤ、腰=ヘップ、手=ハァンタ。

耳で覚えた言葉ですからね。

キャット、フィッシュ、ヘアなんて発音するより通じるんでしょう。

万次郎が帰国したのは1853年の黒船来航の前年。

これが幸いした。

それまで異国に漂着してから帰国した者は邪魔者扱いされて過ごした。

ロシアから帰った、あの光太夫も番町の薬草植え付け場に住居を与えられたが、軟禁に近かったのではないか。

期限を定めずに牢獄で取り調べを受け、妻子に会うことも叶わず絶望して自殺した者もいた。

黒船来航にあわてた幕府は通訳として万次郎を抱えた。

当時、オランダ語は話せても英語を解する日本人はいなかったからだ。

身分は20俵2人扶持の御普請役。

20年前に水夫だった少年が旗本に出世したのだ。


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小名木川と横十間川の水位を利用して水力発電を行ってます。

23区内で初めての水力発電だそうです。

水の落差は1・5メートルなので大した電力は得られません。

最大で1・1KW。まあパンが焼けるくらい。

近くの街灯などに利用してる。

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歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれた「小奈木川五本まつ」があったところ。

丹波綾部藩九鬼家の松で、描かれた頃にもすでに四本は枯れていたという。

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芭蕉もこの地で「川上とこの川下や月の友」と詠んでます。

芭蕉の頃は五本松だったようです。

小名木川の五本松で川面に揺れる名月をながめているが、川上にいる私の心の友もこれと同じ月を眺めているだろう。

こんな意味だそうです。


2017年3月 2日 (木)

41円のコロッケを食べながら砂町銀座をぶらぶら@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4その2

石田波郷記念館のある砂町文化センターを出ればすぐに砂町銀座商店街。

いろんなテレビで紹介されて有名です。

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この店なんか客が入りきれない。

日曜の午前中ですよ。

いちご(銘柄は忘れた)が298円。

11時過ぎとやや早いけどランチタイム。

海幸とかいう寿司屋が大人気だけど、行列必至。

一応、そばまで行ってみたがやっぱり30人くらいが並んでる。

あきらめて昭和レトロな感じの銀座ホール。

野菜たっぷりタンメンが810円。

なかなかおいしかったが、まだおなかに入るな。

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食事前に少し分けてもらったコロッケがおいしかったので戻って購入。

税込み41円。

ぱくつきながら店先をのぞく。

活気があって個性のある商店街は、歩いてるだけで気分が高揚します。

均一化した風景はどうもそそりませんな。

将来に希望が持てないから人口が減少してる。

どこが間違ってるんでしょうか。


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向こうに写ってるのは貨物線。

総武本線越中島支線といって、今でも現役です。

鉄道のレールを運んでるようです。

2000年まで、このあたりには小名木川駅があった。

貨物駅ですから、そんな駅名は聞いたことなかった。

小名木川の水運との物流のために1924年(昭和4)に開業。

砂糖工場やらなんやら、工場が立ち並んだ工場地帯でしたからね。

小名木川を利用して様々な物資が運ばれてたんですね。

跡地はショッピングモールになってます。

行かなかったけどヨーカ堂のマークが見えてました。


2017年3月 1日 (水)

純白の砂糖は江東区で初めて製造@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4回目その1

番外編の赤穂浪士引き揚げコースで両国から泉岳寺を挟んで地下鉄歩き再開。

4回目だというのに歩みは遅い。

今回は西大島駅からカレーパン発祥のパン屋のある森下駅までの予定。

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駅から南下するとすぐに小名木川にぶつかります。

春の日差しを浴びてカヌーがスイスイと向かってきます。

気持ち良さそう。どこまでいくんだろう。

江戸の大動脈も時代は変わって手頃なレジャー提供の場になってます。

のどかな日曜日(26日)


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団地の一角に建っていた石碑は「精製糖工業発祥の地」(北砂5丁目)

日本で初めて白い砂糖がここで作られました。

明治23年(1890)のことです。

砂糖の国産化は徳川吉宗が奨励、砂村でも甘蔗(サトウキビ)の苗が植えられた。

当然、サトウキビは寒いところでは難しく、うまくいかなかったでしょう。

でもゆかりの地でもあった。

何と言っても、この地に工場が建てられたのは小名木川の水運。

原料や製品の運搬に最適の場所だった。

白砂糖に成功したのは鈴木藤三郎。

その鈴木製糖所がもとになって大日本精製糖株式会社が設立。

同社の工場として昭和15年(1940)まで使われた。

記念碑を建てたのは昭和16年当時の社長藤山愛一郎。

藤山コンツェルンの2代目で戦後は外務大臣などを務めました。

高層団地が立ち並ぶこの一角が工場地帯だったなんて信じられません。

紡績工場や人造肥料工場が次々に建てられ、昭和16年に大日本精糖の工場を東京芝浦電気が買収。

次第に軍需工場化していった。

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はこべらや焦土の色の雀ども

百方の焼けて年逝く小名木川

砂町は冬木だになし死に得んや

一樹無き小学校に吾子を入れぬ

小名木川駅春の上潮曇るなり

寒雀汝も砂町に煤けしや

俳人石田波郷は、昭和21年(1946)から約12年間江東区北砂に住み、当時の江東区の様子を『焦土諷詠』として多くの俳句に詠みました。

前年3月10日の東京大空襲で一面は焼け野原。

冬木さえ失われ、ただ小名木川だけが東西を貫いている。

煤けていた雀も春が来ればハコベをついばんでます。

石田波郷記念館が砂町文化センターの2階にあります。

石田波郷は「昭和の俳聖」とも称され、戦後の俳壇を先導していたんだそうです。

よく知りませんでしたが、お墓が深大寺にあるので名前だけは覚えてました。


2017年1月21日 (土)

映画「最後の忠臣蔵」・赤穂浪士の引き揚げ道をたどる@地下鉄の地上を歩く会の番外編その5

地下鉄に乗って2駅ばかりキセルしたので大石内蔵助ら17人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷跡に寄る余裕ができました。

旧高松宮邸のすぐ近くです。

というのも高松宮邸も江戸時代は細川家の下屋敷。

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中には入れませんが門の隙間からのぞいてみます。

東京都指定旧跡になっていて「大石良雄外十六人忠烈の跡」の説明板が建てられてます。

老中からお預けの名を受けた藩主五代綱利は総勢875の藩士を送って引き渡しを受けた。

大半の武威を示すためと上杉家の襲撃を警戒したと言われている。

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4時半頃泉岳寺にようやく到着。

午前10時に両国駅をスタートして6時間半。

あちこち寄り道したりランチ休憩もあったけど、やっぱり現代人の脚は遅いよね。

3時間だった赤穂浪士の倍です。


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引き揚げ途中に(あるいは討ち入り前)にいなくなった寺坂吉右衛門の供養墓もあります。

幕末の慶応年間に加えられた。

行年83歳。

大目付の采配により追っ手がかからなかったんです。

父親の許しを得られない苦衷から自害した萱野三平の供養墓も。

曽根崎新地の遊女初と心中した橋本平左衛門の話が結びついて「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平の話が出来上がる。

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寺坂と、討ち入り直前に逐電した瀬尾孫左衛門を主人公にした映画がありました。

2人が共に大石から密命を帯びてたという話ですよ。

2010年公開。監督は杉田成道。

寺坂(佐藤浩市)は大石から「遺族を援助せよ」と命じられていた。

瀬尾(役所広司)はやがて生まれてくる大石の隠し子の養育。

人知れぬ里で隠し子は美しい娘に成長。

寺坂が瀬尾を探し当てた時、娘は婚礼が決まっていた。

瀬尾が婚礼を抜け出したのに気づいた寺坂は隠れ家へと向かう。

切腹した瀬尾を見た寺坂は「これぞ武士」とつぶやく。

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許されぬ恋ということがあったにせよ、腹を切らなくたっていいと私なんか思ってしまう。

庵でも結んで同志を供養したらいいんじゃないですか。

命の方がよっぽど尊いです。

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46人には19人の男の子がいた。

15歳以上の4人は大島に流された。

その他は15歳になると僧侶になった。

島にいたものも3年後には許されて戻ってきた(1人は島で死亡)。

2017年1月20日 (金)

29年目、最長期間の仇討ちと大石良雄・赤穂浪士の引き揚げ路をたどる@地下鉄の地上を歩く会の番外編その4

浅野内匠頭が切腹してから2カ月後の元禄14年(1701)5月9日。

父が討たれてから29年目、伊勢で日本最長記録の仇討ちが行われた。

この話は「元禄曽我兄弟」としてもてはやされた。

赤穂城明け渡しを終えた大石内蔵助にも何がしかの感慨を与えたに違いない。

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さてわれわれは芭蕉記念館を出て隅田川沿いを進みます。

ほどなく赤穂浪士休息の地として有名なちくま(乳熊)味噌。

主人が大高源吾と俳句仲間なので店に招じ入れ、甘酒粥を振る舞って労をねぎらったという。

永代橋を渡って中央区明石町。

現在の聖路加病院と河岸地を含む一帯に赤穂浅野家の上屋敷がありました。

上の写真は内匠頭邸跡の碑です。

浪士一行もこの近くを通りました。

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29年目の仇討ちとはこんな話です。

伊勢亀山で石井源蔵と半蔵の兄弟が、父の仇の赤堀水之助を討ち果たした。

父が討たれた時、兄は5歳、弟は2歳だった。

18歳の長兄が仇討ちの旅に出るが、後ろからだまし討ちにあって、あえない最期。

成人した源蔵と半蔵も仇討ちの旅に出るが赤堀の行方は杳としてしれない。

ようやく居所がわかったが警戒が厳しくて近づけない。

ある時は乞食に、または商人のふりをして徘徊。

そして宿直明けで城から出てきたところを討ち果たしたのだ。

父を打たれてから29年、兄からは20年目だった。

源蔵は34歳、半蔵は31になっていた。

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作家の長谷川伸によると元和(1615〜1624)から元禄(1688〜1704)まで108件の敵討ちがあるという。

石井兄弟の仇討ちはその典型例で親の顔もおぼろげで、ましてや敵のことなど知らない幼子が敵を討たなければならない。

討たなければ人交わりができないのだ。

石井兄弟はじめ幾つかの敵討ちを詳しく調べた長谷川伸の「日本敵討ち異相」(国書刊行会、中公文庫もあるみたい)が面白いよ。

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汐留の日本テレビ前。

仙台藩の上屋敷があり、浪士たちは粥のもてなしを受けた。

仙台名産の仙台糒=ほしいい(うるち米を蒸して乾燥させた保存食)だった。

あっちこっちに寄ったので、もうすでに3時すぎ(だったと思う)。

このままだと泉岳寺に着くのは5時を過ぎてしまう。

門が閉まっちゃうんです。

やむなく地下鉄に乗って三田まで。

赤穂浪士は吉良邸から泉岳寺までおよそ12キロを3時間で歩いたんですけどね。

逸話の残る御田八幡神社へ。

この神社近くで討ち入りから脱盟した高田郡兵衛が現れたが、だれも物も言わずに通り過ぎた。

また堀部弥兵衛が本懐を遂げたというと高田は「わたくしも御田神社に社参して、おのおの方が本意を遂げられるようお願いしてきたところだ」と言って別れたという。

さらに郡兵衛は酒など持参して泉岳寺に現れたがが門番に追い返されたという。


2017年1月19日 (木)

宝井其角と大高源吾・赤穂浪士の引き揚げ路をたどる@地下鉄の地上を歩く会の番外編その3

芭蕉記念館に寄ります。

ちょうど企画展「其角と江戸俳壇」の開催中。

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其角と忠臣蔵といえば「両国橋の別れ」が有名です。

歌舞伎や講談で演じられてきた話です。

討ち入りの前日、其角は笹売りに身をやつした大高源吾に両国橋で出会う。

12月13日はすす払いの日。事始めでもあって、この日から正月の準備を始める。

祇園の舞妓さんはこの日が新年のスタート。

なので笹売りは時節も表してるわけです。

大高は俳人で其角の弟子。

身をやつした姿の源吾に其角は「年の瀬や 水の流れも 人の身も」と発句で問う。

「明日待たるる その宝船」と源吾が付句。

意味を測りかねたまま其角は松浦候の句会に向かう。


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そういやあ浪士たちが集合した両国橋近くの公園に源吾の句碑があった。

「日の恩や たちまちくだく 厚氷」

忠臣蔵とは関係ない句のようで、特に説明板もありません。

松浦邸には源吾の妹が奉公に上がっていた。

妹が茶をたてていると松浦候が不機嫌に。

候は浪士がいつまでも討ち入らないことに苛立っているのだ。

帰り際に其角は源吾の付句を口にする。

意味がわかった松浦候に怒りの表情はなかった。

そのとき、にわかに陣太鼓が鳴り響く。

わかりやすくてよくできた話です。

こういうの、わりと好きです。

源吾が企画の門弟であったこと、吉良邸の北隣にある土屋主税邸を翌日に新井白石が訪ね、事件のあらましを聞いたことなどが混じり合って構成されたんでしょう。

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芭蕉記念館の庭には梅が咲いていました。

「春もやや 気色ととのう 月と梅」

梅も咲いて春になってきた。おまけに月までも出てきた。

春らしい気色がそろったことよ。


2017年1月17日 (火)

吉良邸はなぜ本所に移されたのか@地下鉄の地上を歩く会の番外編その2

吉良邸を出た赤穂浪士が最初に渡ったのが、竪川にかかる一之橋。

幕府は低湿地だった本所の開発にあたり排水路を碁盤目状に開削した。

縦の代表格が竪川。縦横は隅田川に平行が横、交わるのが縦。

隅田川から入って一ツ目ということで一之橋。

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看板があって「一之橋は赤穂浪士が泉岳寺に引き上げる際に最初に渡った橋としても知られています」

写真に撮っても何の変哲もない橋です。

最初に渡った橋に何か意味があるのかなあ。

引き揚げ日の15日は登城日で両国橋を渡って江戸市中に入ると不測の事態を招く恐れがある。

それで両国橋の手前で左折、南下コースをたどり一之橋を渡ったということにしか過ぎない。

吉良邸の地名も本所一ツ目です。

事件の後、吉良邸が廃されてから松坂町と呼ばれるようになった。

吉良上野介義央が本所に移されたのは刃傷事件から5カ月もたってからのことだった。

義央には隠居届けを出させた。

義央に対してはおとがめなしだったので世間の同情は浅野家に傾いていた。

同時に義央に対する幕閣の感情が冷えていったのかもしれない。

呉服橋御門の中に邸があったら浪士の襲撃は不可能だったろう。

「街道をゆく36 本所深川散歩」(司馬遼太郎、朝日文庫)を参照しました。

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せっかくだから寄り道します。

江島杉山神社です。

鍼灸師や按摩などをなどを統括していた杉山和一の総六屋敷の跡です。

和一は江ノ島の岩窟で断食祈願を行い、霊夢を通して新しい鍼灸術を考案。

名声が高まり寛文10年(1670)には検校に任じられた。

さらに5代将軍綱吉の治療の功でほうびを尋ねられた。

「一つでいいから目が欲しい」

それでこの地、本所一ツ目に1町四方(約1万2000平方メートル)を与えられた。

吉良邸が2550坪(8400平方メートル)だから、こちらの方が断然広い。

元禄6年(1693)のことなので赤穂浪士もこの屋敷の前を通った。

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江ノ島の岩窟を模した岩屋もあります。

高いところには昇りますし、穴があれば入ります。

検校といえば勝海舟のひいおじいさんは検校だった。

海舟は本所亀沢町の生まれだからすぐ近くですね。

曽祖父は失明して座頭になったが、男谷検校などと呼ばれ大名貸しもして一代にして巨富を築いた。

末子の平蔵(小吉の父、海舟の祖父)に莫大な金を残し、旗本の株を買ってやった。

本来、旗本は金で買えないが、内密で売買の対象になっていた。

金に困った旗本が金をもらって養子を取ったのです。

平蔵は男谷の姓を名乗った。

小吉は男谷家から勝家にいき、海舟が生まれたんです。

この時も相当な金が動いたことでしょう。

男谷家は小吉の兄が継ぎ、その子が男谷精一郎(1798〜1864)。

幕臣の鑑と言われ文武両道に優れた人です。

2017年1月16日 (月)

いざ吉良邸へ・赤穂浪士の引き揚げ路をたどる@地下鉄の地上を歩く会の番外編その1

番外編で赤穂浪士の引き揚げた道をたどります。

誰かが歩いてみたいと言い出して、それなら旧暦の12月14日に近い1月中旬ということになったらしい。

まずは初場所中日を迎えた国技館となりのJR両国駅に集合。

泉岳寺までおおよそ12キロを歩く予定です。

そんなに歩けるかなあ。

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まずは吉良邸跡へ。

一画が本所松坂町公園になっていて周囲は高家の格式を表すなまこ壁長屋門を模したつくり。

中にはみしるし洗いの井戸や稲荷社があり当時をしのばせています。

昭和9年(1934)に地元町会の有志が、この一画を購入して史跡公園として東京市に寄付したもの。

その前に吉良邸の正門跡にも寄りましたがビルが建っていて面影すら感じられない。

ありがたいことです。


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赤穂浪士たちはまず回向院に集合する計画でしたが、かかわりを恐れた僧に入山を断られてしまいます。

回向院の山号って知ってました?

諸宗山回向院無縁寺なんです。

変わった名前ですよね。

あらゆる宗派の人を供養するので諸宗山なんだって。

明暦の大火(明暦3年=1657)から数日後の1月24日。

二代将軍秀忠の忌日に保科正之が増上寺に代参、帰路に焼死者がそのままになっているのを見て大きな穴を掘って埋めることにした。

そして増上寺に300両を与えて供養させた。

この万人塚に塔を建てたのが回向院の始まり。

ところで火事つながりで言えば浅野内匠頭長矩の祖父で淺野家の初代赤穂藩主の長直は「火防の上手」として有名だった。

「内匠頭(長直)が出動すれば、すぐに火も鎮まるだろう」と誰もが言い合ったという。

寛文8年(1668)の大火では、赤坂の浅野家本家の長屋に燃え移った。

そこで長屋を引き崩しすとすぐに鎮火、あざやかな手際だったという。

さらに町方にも出かけ、物置のような下家に火が移った。

母屋の上に上がっていた者たちがたじろいで引き下がりそうになった。

それを見た内匠頭は火のついた下家に飛び降りた。

家来たちもどっと飛び降りたので下家はつぶれて火は止まった。

のちに赤穂義士が出たのも、こういう英傑が主君にいたからだろうと評判になったという。

孫の長矩が刃傷事件の後、江戸の町人たちから同情を集めたのは赤穂藩の大名火消しとしての評判、功績があったからとも言われる。


2016年12月28日 (水)

砂嘴(さし)の池はなぜか淡水・行ってみたいな大瀬崎@沼津市

伊豆七不思議の一つです。

突き出した砂嘴の真ん中に池があります。

大瀬神社境内にある神池。

最も近いところでは海から15mほどしか離れてません。

なのに淡水でコイやフナなどの淡水魚が生息してます。

海水が染み込んでるのならわかるけど、どうして淡水なんでしょう。

富士山の伏流水説なんてのもあるようです。

ここは伊豆半島の大瀬崎。

684年の大地の時に海底噴火などで隆起してできた島。

その後、砂れきが堆積して半島になった。

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ここを知ったのはNHK BSプレミアムの「発見!体感!にっぽん水紀行 富士山からの贈りもの」。

湧玉池や白糸の滝などを訪ねて最後に出てきたのが大瀬崎。

番組でも、富士山の伏流水説を紹介していた。

えっ、まさか。

沼津市内からバスで1時間20分もかかるところだよ。

伏流水はすべて駿河湾に注いでしまっているでしょう。

調べてみると噴出した溶岩と凝灰質角礫岩の間に染み込んだ水が湧水となっているようです。

神社があるでしょ。

ここはやや高くて池の方に下がっている。

くだいていうと、神社あたりに降った雨水などが池に注いでるといったことでしょうか。

残念ながら伏流水ではありません。

でも駿河湾越しの富士山もいいものだし、不思議な地形は見てみたいな。

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もう一つ。

ちまたじゃ、えらい話題になってるそうですな。

ユーシンブルー。

知人のブログを見るまでは全く知りませんでした。

神奈川県山北町の玄倉川にある渓谷で丹沢の秘境と呼ばれているそうな。

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空の青よりももっと深いブルー。引き込まれそう。

写真は山北町観光協会から拝借。

三鷹からだと始発に乗らないと行けそうもないなあ。


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