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カテゴリー「旅行・地域」の記事

2017年5月26日 (金)

閻魔さまと仲良くしておこうかな・新宿の太宗寺@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の6回目その3

ゴールの新宿駅はあと少しなので新宿御苑に寄り道。

大木戸門から入って水分と糖分補給のおやつタイム。


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たっぷり休憩して温室。

いきなり目についたのが、このランです。

エピデンドルム・プリスマトカルプムという着生ラン。

コスタリカ、パナマ原産で高地で見られるようです。


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小笠原固有種のオオバシマムラサキ。

ムラサキシキブの仲間ですが、ずいぶんと大型です。

ムラサキシキブとのいちばんの違いは雌雄異株であること。

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バラ園で大勲位の名を冠した白バラがありました。

王女や皇女、そして大女優の名をつけたのはよく見かけますが政治家は少ない。

ジョン・F・ケネディ、シャルル・ドゴールが有名ですが2人とも世界史に名を残す人物。

プライム・ミニスター・ナカソネに献上した際に、それまでの名を改めたんだそうです。

日本で政治家の名をつけたのはこれが初めてのようです。

数年前にはプライム・ミニスター・アベ、ファースト・レディ・アキエもできたそう。

きっと誰かが忖度したんでしょう。

ぐるっと回ってラクウショウの気根に案内したら感動していただけました。

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ついで内藤家の墓所のある太宗寺。

3番目の江戸六地蔵が参詣者を見下ろしてます。

お堂の中には高さ5・5メートルの大きな閻魔さま。

内藤新宿のお閻魔さんとして江戸時代から信仰を集めていたそうです。

そろそろ閻魔さまとも仲良くしておかないといけないな。

基本的に痛いのや熱いのは嫌いです。

隣は奪衣婆像。

閻魔に仕えて三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を図る。

こちらにもよしみを通じとかないといけないかな。

衣服をはぐところから内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されたそうです。

     run   run    run

このあと内藤新宿の投げ込み寺「成覚寺」、南口にできたバスタなどによってお開き。

私は太宗寺で途中下車しましたが、皆さんはたっぷり汗をかいた後のビールがおいしかったことでしょう。

次の路線は都営三田線です。


2017年5月25日 (木)

小泉八雲が逃げ出した都市化の波・自証院(市ヶ谷)@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の6回目その2

書き残したことがあるので、新宿歴史博物館の続き。

昭和初期の地図を見てたら新宿松屋という百貨店がありました。

新宿南口の甲州街道を下った新宿3丁目交差点の駅寄りです。

ここが東京におけるターミナルデパートの草分け。

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今の松屋とは関係ないようですが、そんなデパートがあったなんて全く知りません。

今でもそうですがデパートが建ち並ぶのが一流繁華街のイメージ。

なので新宿は伊勢丹、三越、ほてい屋、新宿松屋の4つがある大都会。

新宿松屋のビルは京王線の始発駅「新宿追分駅」(すぐに四谷新宿に改名)だったんです。

以前は京王電鉄の本社ビルで、今でも京王追分ビルの名前は残ってます。

どうして西口に引っ越したんでしょう。

なんと戦争で変電所が焼失、南口陸橋の坂を電車が越えられなくなってしまったんです。

嘘みたいなホントの話。

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靖国通りに戻って曙橋の商店街で昼食。

ビールでのどを潤して照り返しのきつい30度超えの歩道をてくてく。

少し横道に入って自証院。知らんですなあ。

実は事前に知識が授けられていました。

小金井の江戸東京たてもの園でボランティアガイドをしているY君が

「お振の方の霊屋がたてもの園に移築されてます」と一斉メールしてくれたんです。

そういやあ、何年か前にたてもの園で見たな。


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徳川家光の最初の側室お振の方を供養するために建てられたお寺です。

(牛込榎町にあったお寺を移転、名も改めた)

「家光は男色を好んだためにお振の方は髪を短くし男装して近づいたといいます」

Y君がいろいろ説明してくれました。

明治になると寺は荒廃、霊屋も荒れ果てて解体。

転売が繰り返され忘れられた存在だったが、価値が見直されて赤坂プリンスホテル内に移築。

赤プリ建て直しなどもあって東京都に寄贈、現在地に落ち着いたという経緯です。


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あれっ、こんなとこに小泉八雲旧居跡の碑があるぞ。

成女学園の校門前に建ってます。

「隣接する自証院の風致をこよなく愛し、緑深い境内をよく散歩していたが、しだいに開発により自然が失われていくのに心を痛め明治三十五年三月、大久保村字西大久保に転居」(一部省略)

大久保の旧居跡も、この「地下鉄歩き」で訪ねた。こちら

色々つながってくるもんです。

        bud    bud   bud

明治4年、政府の社寺上地令によって寺領の大半が国有地として没収。

明治末には残された寺域も樹木を伐採して宅地化されていった。

杉の木を切り倒す音を聞いた八雲は、杉の木がかわいそうで、いたたまれなくなって転居したといいます。


2017年5月24日 (水)

2億5000年前の植物化石がある亀ヶ岡八幡@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の6回目その1

元八幡から始まった都営新宿線。

今回は市ヶ谷駅に集まってゴールの新宿まで。

たったの4駅ですのでいつも以上に寄り道しながら歩きます。

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まずは亀ヶ岡八幡。

すでに南北線や有楽町線の上を歩いた時にお参りしてます。

太田道灌が鶴岡八幡から分霊を勧請して城内に祀ったのが始まり。

徳川初期に現在地に遷座。

「花のモニュメント」にようやく気づきました。

過去2回は犬の成人式などがあって、そちらに目を奪われてました。

2億5000年前の裸子植物の化石が5弁の花にあしらってあるんです。

ゴンドワナ大陸を覆っていたグロッソプテリスという植物。

湿地に生えていて舌のような大きな葉が特徴。

化石は南アメリカ、アフリカ、インド、南極、オーストラリアから発見されている。

これが、かつては大陸が1つにつながっていたとする大陸移動説の証拠になっている。

裸子植物の種子は海水には弱いので海を越えて運ばれたとは考えられない。

1つだったものが移動したとすればつじつまが合うというわけです。

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懐かしい新宿についつい長居をしてしまいました。

新宿歴史博物館に入ります。

土蔵のようなのは四谷にあったお菓子屋さん。

江戸から続いていて明治、大正には大いに繁盛したという。

明治23年(1890)の売り上げは2万2000円余。

同時期の四谷区全体の菓子の売り上げの約7割を占めていたという。

すごい。

茶席やお花の席の需要が大きかったんでしょうと学芸員さんが説明してくれました。


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懐かしいねえ文化住宅。

昭和10年ごろの設定です。

茶の間に居間、そして洋間の応接がついてます。

我が家の台所もこんな風に狭かった。

主婦に快適なキッチンなんて考え方が出てくるのはずっと後のことです。

みんなが「懐かしい」を連発したのは昭和初期の新宿風景。

もちろん知ってるのは戦後ですが、伊勢丹、三越、中村屋に高野。

建物は新しくなってるが、子供の頃に連れられていった繁華街。

記憶は鮮烈です。


2017年4月 6日 (木)

おしゃれに変身・旧万世橋駅@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の5回目・その2

浜町公園を出て明治座の前を通って神田方面へと向かいます。

日曜日なので横山町の問屋街も閉まっているので通りの入り口を見ただけ。

馬喰横山、岩本町の2つの駅を越えて万世橋。

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かつて一大ターミナルとしてにぎわった万世橋駅があった。

でも私にとっちゃ万世といえば「肉の万世」

今でも橋の東側に健在です。

パーコー麺を初めて食べたのはサラリーマンになってからだったか。

揚げた豚肉が物珍しかった。

万世橋駅は1912年(明治45)に屈指の繁華街だった須田町交差点前に作られた。

起点を新宿から飯田橋まで延伸した甲武鉄道(中央本線)にとって都心への進出は悲願だったのでしょう。

しかし2年後の1914年に東京駅が開業。

中央本線も1919年に東京駅まで開通。

交差点も移って万世橋駅はターミナルとしての役割を終えてしまった。

関東大震災では駅舎が焼失、戦時中の1943年(昭和18)には不要不急駅として営業を休止してしまった。


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交通博物館があったので社会科見学で来たこともあるが覚えてないなあ。

旧駅舎はおしゃれな商業施設になってます。

おっさんは買い物に興味がないので通り過ぎるだけ。

上の階は間近を走る中央線が見られる展望デッキになってます。

ここでおやつ。

みんな手作りの和菓子と焼き菓子を楽しみにしてます。

カナイさん、カネコさん、いつもごちそうさま。

駅前には広瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長の巨大な銅像があった。

GHQの命令で撤去。何しろ軍神ですからね。

「杉野兵曹長って誰だっけ?」

と声を出したら、すぐに「杉野は何処」でしょ。

そんな唱歌があったことは知っている。メロディーも浮かばないけど。


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神保町の古本屋街でちょっとだけ自由時間。

ちゃんと古書を仕入れてる人がいましたねえ。

さらに靖国通りを九段下目指して千鳥ヶ淵。

予定では満開の桜が出迎えてくれるはずだったんですが、あいにくの2分咲き程度(2日)。

みんなはこの後、靖国神社。

満開宣言が出た標本木に見とれたことでしょう。

さらに市ヶ谷まで歩いて解散。

私は夕食の支度やらなんやらで九段下でお別れ。

♬ これでおしまい かしまし娘 またの会う日を楽しみに それではみなさま!ごーきげーんーよ〜

2017年4月 5日 (水)

芭蕉も喜んだ新大橋の開通@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の5回目・その1

初雪や かけかかりたる  橋の上

待ちに待った橋がもうすぐ完成する。その上に初雪が祝うように舞っている。

芭蕉も小難しいことを言わずに完成を待ちこがれてるんでしょう。

地下鉄の地上を歩く会。2日は江東区の森下駅に集合。

西に歩けばすぐに新大橋です。

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陽気もいいので川風にうたれて新大橋や隅田川をながめてます。

桜吹雪が舞ってれば最高ですが、桜並木はもっと上流です。

新大橋は深川と日本橋を結んだ隅田川3番目の橋。

まず日光街道の千住大橋、ついで両国橋。

軍事上の問題があるので、やたら橋は架けません。

元禄になって落ち着いてきたので新大橋、永代橋が作られます。

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当時深川に住んでいたのが芭蕉。

大川を越えるには両国まで歩くか、舟で渡ったんでしょう。

「ありがたや いただいて踏む はしの霜」

橋を渡りながら、そっと霜を踏むのさえうれしい気持ちが込められてます。

広重晩年の名作「大はし あたけの 夕立」でも有名です。

対岸に霞んでいるのが「あたけ(安宅)」の地。

幕府の御船蔵があり、かつて御座船安宅丸が係留されていた。

       libra     libra    libra

関東大震災の際には多くの橋が焼け落ちたが、新大橋は無事で多くの人が助かった。

このため「人助け橋」とも呼ばれたそうな。

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橋を渡れば浜町公園。

広いよ。花見のグループや家族連れでにぎわってました。

中央区で一番広い公園だそうです。

かつては熊本藩主細川家の下屋敷。

関東大震災の復興事業の一環として公園として整備された。

大風呂敷の後藤新平の鶴の一声です。

規模は縮小されてしまったけど、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を計画した後藤はえらかった。

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一角に清正公寺があります。

武将の名を冠したお寺というのも珍しい。

文久元年(1861)に藩主が熊本の日蓮宗本妙寺に安置されていた清正の分霊を勧請して創建。

明治維新後には加藤神社と称したこともあったが、本妙寺の別院として清正公堂になった。

熊本には現在も加藤神社が数多くあるそうです。

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大きく負け越してしまいましたが、金星を挙げた蒼国来などが所属する荒汐部屋は公園隣です。

大きな窓から稽古の模様が見物できます。

午後だったのですだれが降りてました。

♬ 浮いた浮いたと 浜町河岸に 浮かれ柳の 恥かしや (明治一代女)

「恋の花井の お梅の眉を 細い柳に 偲ばせる 浜町河岸の 宵の三日月」

なんて端唄もあるんですねえ。

最盛期には250人以上の芸者がいたという芳町はどのあたりだったんでしょうか。

浜町と人形町の間に浜町川があり、隅田川遊覧の起点としてにぎわっていた。

粋な黒塀が軒を連ねていたのは人形町駅の東側。

明治座の向かいあたりまでが花街だったみたいです。

2017年3月 4日 (土)

知りませなんだ・深川で育ったから伊東深水@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4回目その4

この歩く会では先に荒川と旧中川の水位を調節する荒川ロックゲートをじっくり見物しました。こちら

小名木川には扇橋閘門があります。

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えっ、同じ川なのに水位の差があるの?

江戸時代はもちろん、戦後も高度経済成長期までは水位差なんてなかった。

普通に船が荷物を運んで航行してました。

しかし工場が地下水を大量にくみ上げたために江東区の東部が地盤沈下。

いわゆる江東0メートル地帯。

そのため扇橋閘門を設置して東部の水位を下げているんです。

船が通る時は閘門を上げ下げして水位を調節しているんです。

工事中のため近くには入れずに遠景のみ。

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書き忘れてたのでここで記録しておこう。

今回ははるばるアメリカからのメンバーが加わりました。

高校時代はサッカー部の守護神。

日本企業のアメリカ法人勤務になって渡米。

ちょうど所用で帰国してたので一緒に歩いたんです。

市民権も得て大統領選ではトランプに投票したそうです。

「クリントンは金にきれいじゃなというイメージでまわりも8割がトランプ支持」

やっぱりメディアの報道と市民感覚には相当の開きがあったようですな。

さて森下文化センター着。

森下といえばカレーパン発祥の地として有名です。

日曜休日なので買えませんでした。

漫画「のらくろ」の田河水泡は深川育ち。

なので「田河水泡・のらくろ館」が設けられています。

のらくろ世代ではないので知識として知ってるだけです。

人脈図のパネルがあって、ちょっとびっくり。

夫人の高見沢潤子(本名富士子)さんは、あの文芸評論家・小林秀雄の妹なんですね。

作家、エッセイストでもあってアガサ・クリスティ「ミス・マープルと13の謎」の翻訳者。


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深川神明宮です。

このあたりを開拓した深川八郎右衛門が神明を勧請した。

徳川家康が訪れた際に地名がついてないと答えると、姓を取って 深川にせよと命じたという。

いわば深川発祥の地。

門前で生まれたのが伊東深水(本名一)。

森下文化センターには深水と関根正二の紹介コーナーもありました。

テレビに朝丘雪路が登場するたびに親父が「父親は伊東深水といって美人画家で有名な人だ」

繰り返していたので名前は覚えてます。

日本画家の鏑木清方に入門した際につけられた雅号が深水。

深川の水だそうです。

知らなかったなあ。

田河水泡夫人といい歩いてると勉強になります。

これにて今回はお開き。

生ビールで蒸発した水分を補い、焼酎を1升瓶で注文、さらに四合瓶追加。

♪今宵またしのびよる 恍惚のブルースよ


2017年3月 3日 (金)

帰国の時期が幸いしたジョン万次郎@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4回目その3

西大島駅近くを流れる小名木川を渡ったり戻ったりしてます。

さて次の旧跡は中浜万次郎宅跡(北砂1)。

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といっても現在は北砂小学校、説明板があるだけです。

ここには土佐藩の下屋敷があったんです。

小名木川の水運を利用して国元などからの物資を下屋敷に運んでたんでしょう。

明治元年(1868)に百石取りの侍として土佐藩にかかえられた万次郎は、下屋敷の中に住んだ。

そして開成学校(東京大学の前身)の教授などを勤めながら11年間を過ごした。

彼が教えた英語の発音は次のようだったという。

猫=キャー、魚=ビィシ、髪=ハヤ、腰=ヘップ、手=ハァンタ。

耳で覚えた言葉ですからね。

キャット、フィッシュ、ヘアなんて発音するより通じるんでしょう。

万次郎が帰国したのは1853年の黒船来航の前年。

これが幸いした。

それまで異国に漂着してから帰国した者は邪魔者扱いされて過ごした。

ロシアから帰った、あの光太夫も番町の薬草植え付け場に住居を与えられたが、軟禁に近かったのではないか。

期限を定めずに牢獄で取り調べを受け、妻子に会うことも叶わず絶望して自殺した者もいた。

黒船来航にあわてた幕府は通訳として万次郎を抱えた。

当時、オランダ語は話せても英語を解する日本人はいなかったからだ。

身分は20俵2人扶持の御普請役。

20年前に水夫だった少年が旗本に出世したのだ。


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小名木川と横十間川の水位を利用して水力発電を行ってます。

23区内で初めての水力発電だそうです。

水の落差は1・5メートルなので大した電力は得られません。

最大で1・1KW。まあパンが焼けるくらい。

近くの街灯などに利用してる。

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歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれた「小奈木川五本まつ」があったところ。

丹波綾部藩九鬼家の松で、描かれた頃にもすでに四本は枯れていたという。

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芭蕉もこの地で「川上とこの川下や月の友」と詠んでます。

芭蕉の頃は五本松だったようです。

小名木川の五本松で川面に揺れる名月をながめているが、川上にいる私の心の友もこれと同じ月を眺めているだろう。

こんな意味だそうです。


2017年3月 2日 (木)

41円のコロッケを食べながら砂町銀座をぶらぶら@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4その2

石田波郷記念館のある砂町文化センターを出ればすぐに砂町銀座商店街。

いろんなテレビで紹介されて有名です。

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この店なんか客が入りきれない。

日曜の午前中ですよ。

いちご(銘柄は忘れた)が298円。

11時過ぎとやや早いけどランチタイム。

海幸とかいう寿司屋が大人気だけど、行列必至。

一応、そばまで行ってみたがやっぱり30人くらいが並んでる。

あきらめて昭和レトロな感じの銀座ホール。

野菜たっぷりタンメンが810円。

なかなかおいしかったが、まだおなかに入るな。

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食事前に少し分けてもらったコロッケがおいしかったので戻って購入。

税込み41円。

ぱくつきながら店先をのぞく。

活気があって個性のある商店街は、歩いてるだけで気分が高揚します。

均一化した風景はどうもそそりませんな。

将来に希望が持てないから人口が減少してる。

どこが間違ってるんでしょうか。


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向こうに写ってるのは貨物線。

総武本線越中島支線といって、今でも現役です。

鉄道のレールを運んでるようです。

2000年まで、このあたりには小名木川駅があった。

貨物駅ですから、そんな駅名は聞いたことなかった。

小名木川の水運との物流のために1924年(昭和4)に開業。

砂糖工場やらなんやら、工場が立ち並んだ工場地帯でしたからね。

小名木川を利用して様々な物資が運ばれてたんですね。

跡地はショッピングモールになってます。

行かなかったけどヨーカ堂のマークが見えてました。


2017年3月 1日 (水)

純白の砂糖は江東区で初めて製造@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の4回目その1

番外編の赤穂浪士引き揚げコースで両国から泉岳寺を挟んで地下鉄歩き再開。

4回目だというのに歩みは遅い。

今回は西大島駅からカレーパン発祥のパン屋のある森下駅までの予定。

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駅から南下するとすぐに小名木川にぶつかります。

春の日差しを浴びてカヌーがスイスイと向かってきます。

気持ち良さそう。どこまでいくんだろう。

江戸の大動脈も時代は変わって手頃なレジャー提供の場になってます。

のどかな日曜日(26日)


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団地の一角に建っていた石碑は「精製糖工業発祥の地」(北砂5丁目)

日本で初めて白い砂糖がここで作られました。

明治23年(1890)のことです。

砂糖の国産化は徳川吉宗が奨励、砂村でも甘蔗(サトウキビ)の苗が植えられた。

当然、サトウキビは寒いところでは難しく、うまくいかなかったでしょう。

でもゆかりの地でもあった。

何と言っても、この地に工場が建てられたのは小名木川の水運。

原料や製品の運搬に最適の場所だった。

白砂糖に成功したのは鈴木藤三郎。

その鈴木製糖所がもとになって大日本精製糖株式会社が設立。

同社の工場として昭和15年(1940)まで使われた。

記念碑を建てたのは昭和16年当時の社長藤山愛一郎。

藤山コンツェルンの2代目で戦後は外務大臣などを務めました。

高層団地が立ち並ぶこの一角が工場地帯だったなんて信じられません。

紡績工場や人造肥料工場が次々に建てられ、昭和16年に大日本精糖の工場を東京芝浦電気が買収。

次第に軍需工場化していった。

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はこべらや焦土の色の雀ども

百方の焼けて年逝く小名木川

砂町は冬木だになし死に得んや

一樹無き小学校に吾子を入れぬ

小名木川駅春の上潮曇るなり

寒雀汝も砂町に煤けしや

俳人石田波郷は、昭和21年(1946)から約12年間江東区北砂に住み、当時の江東区の様子を『焦土諷詠』として多くの俳句に詠みました。

前年3月10日の東京大空襲で一面は焼け野原。

冬木さえ失われ、ただ小名木川だけが東西を貫いている。

煤けていた雀も春が来ればハコベをついばんでます。

石田波郷記念館が砂町文化センターの2階にあります。

石田波郷は「昭和の俳聖」とも称され、戦後の俳壇を先導していたんだそうです。

よく知りませんでしたが、お墓が深大寺にあるので名前だけは覚えてました。


2017年1月21日 (土)

映画「最後の忠臣蔵」・赤穂浪士の引き揚げ道をたどる@地下鉄の地上を歩く会の番外編その5

地下鉄に乗って2駅ばかりキセルしたので大石内蔵助ら17人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷跡に寄る余裕ができました。

旧高松宮邸のすぐ近くです。

というのも高松宮邸も江戸時代は細川家の下屋敷。

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中には入れませんが門の隙間からのぞいてみます。

東京都指定旧跡になっていて「大石良雄外十六人忠烈の跡」の説明板が建てられてます。

老中からお預けの名を受けた藩主五代綱利は総勢875の藩士を送って引き渡しを受けた。

大半の武威を示すためと上杉家の襲撃を警戒したと言われている。

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4時半頃泉岳寺にようやく到着。

午前10時に両国駅をスタートして6時間半。

あちこち寄り道したりランチ休憩もあったけど、やっぱり現代人の脚は遅いよね。

3時間だった赤穂浪士の倍です。


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引き揚げ途中に(あるいは討ち入り前)にいなくなった寺坂吉右衛門の供養墓もあります。

幕末の慶応年間に加えられた。

行年83歳。

大目付の采配により追っ手がかからなかったんです。

父親の許しを得られない苦衷から自害した萱野三平の供養墓も。

曽根崎新地の遊女初と心中した橋本平左衛門の話が結びついて「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平の話が出来上がる。

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寺坂と、討ち入り直前に逐電した瀬尾孫左衛門を主人公にした映画がありました。

2人が共に大石から密命を帯びてたという話ですよ。

2010年公開。監督は杉田成道。

寺坂(佐藤浩市)は大石から「遺族を援助せよ」と命じられていた。

瀬尾(役所広司)はやがて生まれてくる大石の隠し子の養育。

人知れぬ里で隠し子は美しい娘に成長。

寺坂が瀬尾を探し当てた時、娘は婚礼が決まっていた。

瀬尾が婚礼を抜け出したのに気づいた寺坂は隠れ家へと向かう。

切腹した瀬尾を見た寺坂は「これぞ武士」とつぶやく。

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許されぬ恋ということがあったにせよ、腹を切らなくたっていいと私なんか思ってしまう。

庵でも結んで同志を供養したらいいんじゃないですか。

命の方がよっぽど尊いです。

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46人には19人の男の子がいた。

15歳以上の4人は大島に流された。

その他は15歳になると僧侶になった。

島にいたものも3年後には許されて戻ってきた(1人は島で死亡)。

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