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カテゴリー「旅行・地域」の記事

2018年5月17日 (木)

あこがれの「スミレの女王」サクラスミレに出会った@乙女高原・その3

花はまだですが渓流沿いはスミレだらけです。

なんといっても29種類が見られるという乙女高原、宝庫です。

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標高2000㍍近いのでまだ春の入り口。

これから順繰りに目を楽しませてくれるんでしょう。

先を行く仲間が「見たことのないスミレが咲いてる」

どれどれ・・。

何スミレでしょう?

乙女高原の早春の代表選手サクラスミレじゃないよね。

だってサクラ色じゃなくて濃い赤紫だもん。

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よくよく調べると花弁の先が桜のようにへこんでる。

もしかして、あこがれのサクラスミレかも。

「『サクラ』という名から桜色の花を連想しがちだが、花の色は桜とはかなり印象が違う」

(いがりまさし「日本のスミレ」山と渓谷社)

なるほど、濃い紫でいいのね。初心者が犯しがちな思い込みでした。

葉が直立して花より上に突き出して見えるのもサクラスミレの特徴。

交雑種を除いて花の大きさは日本最大。

スミレの女王です。

余は満足じゃ。

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岩だらけの道なき道を進んでようやく稜線に出ました。

広い林道にぶつかる。その向こうには舗装された道路。

どうやら自然観察路から外れて沢沿いを直進してしまったようです。

おかげでサクラスミレも見られたので結果オーライ。

1時半を回ってますので、ここでお昼です。

途中で摘んできたイタドリ、ヨモギ、トチのつぼみの花穂なんぞを天ぷらに。

リーダーが一式を持参、エビもあるでよ。

早春を腹いっぱいに詰め込みました。


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ここは乙女高原手前の母々峠(なんと読むんでしょう)あたりのようです。

展望の良さそうなところまで登ってみましたが木が繁っていて景色は楽しめず。

もう少しですが乙女高原行きは断念。下りです。

お昼にしたところのすぐ下に自然観察路の標識が立ってました。

やっぱりコースから外れたんですね。

塩平4時半発の最終バスに間に合うかな。

下りでひらけた視界の先の新緑が夕日に光ってました。

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大菩薩嶺は最終バスの臨時便を出さないが西沢渓谷は出すんだって。

料金が倍違うから。

積み残しの客をいつも乗せてるタクシー運ちゃんの話です。

タクシーは塩山まで迎車料金も入れて約5000円。

4人ですから割ればリーズナブル。

2018年5月16日 (水)

ワチガイソウにコミヤマカタバミ@乙女高原自然観察路をゆく・山梨市・その2

落ち葉が深い。靴がすっぽり隠れてしまうほど。

思わぬ深みがあると足をくじいてしまいますので慎重に踏みしめます。

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今シーズン、まだ誰も観察路には入ってないのでは。

普通は焼山峠まで車で行って1時間も歩けば乙女高原。

直接車でも行けます。

そういえば西沢渓谷行きの超満員バスで途中下車したら

「こんなところで降りる人がいるの?」

女性客が不思議がっていたそうです。

山はまだ新緑の季節。

ずっと登り。若葉が勇気づけてくれます。


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おっ見慣れないスミレがあるぞ。

フイリフモトスミレでしょう。(ピンボケご容赦)

フモトとはいえ海岸近くの山地から2000㍍付近の高原まで分布。

距は赤紫で葉裏は紫色。

側弁が下向きで、上弁がそり返る。(「日本のスミレ」いがりまさし、山と渓谷社)

見たことのない種類ということがなんとなくわかるようになりました。

少し進歩したかな?

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沢伝いに歩いてますので岩がゴロゴロしてきました。

相変わらず落ち葉が深い。

ボコっと沈んだら大変です。

小さな白い花みっけ。

記憶によればワダソウかワチガイソウ。

どう違うんだっけかな。

花弁の先が凹んでるのがワダソウ。

これは尖っているのでワチガイソウ。お初です。

渓流沿いに生育。

江戸時代に名前がわからず○○草と札をつけていた。

○が重なって輪違紋のように見えたのでワチガイソウ。


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知らないカタバミも。

ミヤマカタバミだと筋はこんなに赤くない。

はっきりした赤紫の筋はコミヤマカタバミ。

いろいろ楽しめるなあ。

乙女高原目ざしてひたすら登ってます。

目の高さに稜線らしき傾斜が見えて、その先には青空。

あそこまで行けばゴールは近そうだ。

もうひと頑張り。

=ということでまだ続きます=


2018年5月15日 (火)

宝庫にスミレを求めて&昼は山菜天ぷらだ@乙女高原は遠かった・山梨市その1

乙女高原にはなんと29種類ものスミレが咲くという。エリア外の黄色いスミレ、キバナノコマノツメも含めれば30種。

おまけに途中で山菜を摘んで昼は山菜天ぷら。

こんな魅力的な企画を逃す手はない。乗った!

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7時26分高尾発の中央本線で8時44分塩山着。

近いもんです。

バスを乗り換えて洞雲寺というところで下車。

この先の塩平まで行く便もあるんですが、この時間はここが終点。

振り返ったら富士山がくっきり。

塩平まで約1時間。

塩平から先に集落はありません。標高1087㍍、山間の小さな集落、世帯数17、人口65人。

約1700㍍の乙女高原を目指します。すでに10時50分です。

700㍍も登るのか、結構きついぞ。

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知らない蝶が止まってました。

ウスバシロチョウのようです。

胴体が毛むくじゃらなので間違いないでしょう。

4〜5月にしか見られない。

シロチョウの名はついてますがアゲハチョウ科。

へーえ、そうなんだ。


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大株のアオマムシグサに出会いました。

丈はゆうに50㌢以上、立派なもんです。

仏炎苞が緑のものをアオマムシグサと呼んでます。

マムシグサは地方によって変異が大きいので変種というわけではなくて品種扱い。

山地の林床で見られる。

この辺はアオマムシグサだらけです。

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おっシコクスミレかな。

花弁が純白なんで期待したんですがマルバスミレのようです。残念。

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塩平から50分ほどで乙女高原自然観察路の分岐。11時40分。

ここから本格的な山道です。

「お腹が空いたなあ」と言ってたら仲間がパウンドケーキを分けてくれました。

わたしゃ天ぷら目当てでおにぎり2個以外は何も持ってきてません。

さあて張り切って登るぞ。

=続きます=


2018年5月 4日 (金)

女人天上から拝んだ真白き富士@富士山・吉田口登山道

2合目(1700㍍)で小休憩の後、15分も歩くと細野尾林道と交差します。

林道といっても大型トラックが通れる幅があります。

ここを左折。

しばらく行くと「富士山遥拝所 女人天上」と書かれた標識がありました。

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明治5年(1872)まで多くの霊山と同じように富士山も女人禁制で2合目までしか許されてなかった。

それでは富士山を拝めないというので遥拝所を作ったんです。

山火事で木々が焼けて見通しの良いところを選んだといいます。

登山口周辺の寺社などが、より多くの参拝客を呼びたいという思惑があったようです。

役人も黙認した。

天保7年(1836)ごろのことです。


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うっそうとした樹林の間を登って行くと急に視界がひらけます。

雪に覆われた山頂が望めます。

真っ白くキラキラ輝いてます。

女人天上に到着です。

禅定が天上に変化したようです。

まずは遥拝。


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切り開いた木々の向こうに山頂が望めるんですが、コンデジでは一緒に写せません。

女人禁制が解かれてからは訪れる人も少なかったでしょう。

木々は生い茂り、どこにあったのかも定かではなくなっていた。

1980年に地元の団体が女人天上の場所を特定。

2014年には樹木を伐採して遥拝所の姿を取り戻した。

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帰り道、林道の正面に富士山が光ってました。

遥拝所よりこちらの方がよく見えます。

江戸時代、富士山に登頂した女性がいました。

天保3年(1832)旧暦9月末、江戸深川の高山たつは男装してまげを結い、山頂に立って「女人開山」と唱えた。

もちろん1人ではなく富士講の人々に混じっての登山。

富士講のリーダーが「この世は女でもっている」と平等思想を実践したんです。

記録に残っているのはこれだけですが、もっと多くの女性が密かに登頂していたかもしれません。

第2代英国公使のパークス夫人も夫とともに登頂しています。

慶応3年(1867)ですから女人禁制時代のこと。

どこからも苦情は出なかった。

幕府も異は唱えなかった。


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この日は一日中、快晴に恵まれました。

富士急富士山駅からの眺め。

もう5時なのでうっすら赤く染まってます。

満員電車に揺られながらJRの大月へ。

缶ビールがうまかった。


2018年5月 3日 (木)

朽ちた神社など横目に女人天上へ・馬返しから細尾野林道@富士山吉田口登山道その2

お昼も済ませて馬返し(1450㍍)から山登り開始です。

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石の鳥居があって、ここからは神域。

鳥居の両脇にあるのは狛犬ならぬ合掌する猿。

庚申(かのえさる)の年に一夜にして富士山が湧き出たとされる伝説から猿が富士山の使いなんです。


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すぐに富士山禊所の石碑が建ってます。

入山前に禊をして身を清めた。

まだ木々は冬から春への移行期ですね。

新緑がまぶしいかと思ってたんですが、もう少し先。


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1合目(1520㍍)にある鈴原天照大神。

登山道最初の社です。

昔は鈴原社といっていたらしい。

富士山の神、浅間明神の本地は大日如来だと知らしめるために安置した。

しかし明治の廃仏毀釈で天照皇大神を祀ることになって名も変えた。

大日如来像は吉田の恩師宅に移されている。


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馬返しから1時間ほどで2合目到着(1700㍍)

富士御室浅間神社が朽ちています。

随分と傾いて崩れ落ちそう。

5年前に訪れた時はまっすぐ建っていたんですよ。こちら

本殿は昭和47年(1972)年に富士河口湖町勝山の里宮に移築されてます。

創建は699年と伝えられる富士山最古の神社ですが時代の流れには抗えなかった。

明治4年まで女性はここまでしか登ることを許されませんでした。

すぐ上に女人改所があり、女性は追い返された。

しかし、2合目付近は木々が生い茂っていて富士山を拝むことができない。

それで1キロほど東南の山頂が望める所に女人来迎場として女人天上が開かれたのです。


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ところどころでスミレを見かけました。

まだまだ一発では種類を同定できません。

どうもアオイスミレみたい。

この時期にアオイスミレなんて考えもしてなかった。

下界では3月初めにいち早く咲きますから。

2018年5月 2日 (水)

女人天上から富士山を拝みたい@吉田口登山道〜細尾野林道その1

朝から快晴です(4月29日)。

今年1月のリベンジです。

1月8日に女人天上からのダイアモンド富士を拝むつもりでしたが、あいにくの曇天雨模様で断念したんです。こちら

JRの直通で富士急富士山駅。

大月からどどっと観光客が乗り込んで来て通勤電車並みの混雑。

半分くらいは外国人。

私らは始発の高尾駅からちゃんと座ってます。

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富士山駅ホームから。

風もなく絶好の富士山日和です。

この調子なら女人天上からも拝めそうです。

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国指定の天然記念物・吉田胎内樹型で執り行われる吉田胎内祭の準備をしていました。

吉田胎内は明治25年(1892)に富士講の先達が開いたもの。

内部が人体のようなので安産に霊験あらたかだとされる。

神事のあと、この日に限って穴の中に入れるのですが、時間の関係でお焚き上げの前に出発しました。

ここから中ノ茶屋(標高1100㍍)までは2万本のフジザクラが歓迎してくれるはずでしたが、今年は葉桜。

フジザクラ祭は4月21日から5月6日だったんですが、地元もがっかりです。

なんでも4月15日には満開になってしまったとか。

馬返しまではタクシー利用。

ここまでは季節運行のバスも通ってます。

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馬返しでヒナスミレにお目にかかれました。

スミレ界のプリンセスです。

葉の先が尖ってるし、葉裏も茶色い。間違いないでしょうか。

早咲きで高尾山だと3月中旬くらいに見られる。

ここらは1430㍍。春はひと月半くらい遅れるんですね。

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12時も回っているので明大山荘の前でお昼。

登山者はここの茶屋で休憩し、身支度を整えて山頂を目指した。

富士スバルラインで5合目まで行けるようになって、吉田口の登山者は激減してしまった。

さっきは葉桜でしたがフジザクラが見ごろ。

約300メートル登っただけなのに気候が違うんです。

さーて登りますか。

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当然ながら続きます。


2018年4月23日 (月)

鉄の処女も展示されてる明治大学博物館@地下鉄の地上を歩く会・都営三田線の6回目その4

趣のある裏道を歩いて明治大学博物館。

高いビルが立ち並んで大学キャンパスとは思えない。

その昔はちらと見ると赤と黒の墨汁でアジテーションを書いた立て看がずらりと並んでいたものだが、そんなものはどこにもない。

ビルの地下にある博物館は入場無料で誰でも入れます。


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痛いのや怖いの、さらに高いのも苦手です。

こわごわ撮ったので手ブレしてます。

鉄の処女。中世ヨーロッパの拷問具。

罰を受けるためにこの中に入れられる。

ローテングルグの中世犯罪博物館の資料をもとに1932年に作らせた複製品。

内部に釘が打たれていて動くと体を刺す。

とか言われてますが釘は後年につけられたようです。

拷問ではなくこの中に入れて、さらし者にしたようです。

刑事部門には他にギロチン、さらし首の台木なども展示されてます。


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考古部門の「杉田貝塚貝層剥離標本」

大量の貝の層ができているのがわかるでしょうか。

杉田貝塚は横浜市南部にある縄文時代中期から晩期にかけての貝塚。

長いこと貝を捨て続けたんです。

中期が5500年前から4500年前。

晩期は3300年前から2800年前。

なんと2000年以上も同じところに貝や魚、イノシシなどの動物を捨て続けたんです。

よっぽど住みやすかったんでしょう。

加曽利B、堀内式など8つの層が見て取れるようです。


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1つ上の地下1階には阿久悠記念館があります。

遺族から寄贈された約1万点の資料が展示されてます。

数々のレコード、CDのジャケット、自筆原稿などなど。

その昔、髪がふさふさして耳が隠れるくらいに長かった頃。

神宮外苑でやった早朝草野球を阿久さんが見にきてた。

レフトフライをバンザイして必死に追いかけたっけ。

それを見ていた阿久さんが「森の妖精」と形容してくれた。

ちょっと得意。

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裏手に回って山の上ホテル。

別館はすでに明治が取得していて、その旨の張り紙がしてありました。

坂を下りるとお茶の水小学校。

夏目漱石が市ヶ谷小から転校した錦華小学校です。

平成5年に錦華、小川、西神田の3小が統合。

校舎は錦華を使ってます。

都会の真ん中ですから子供が少ないんですね。

ここも明治が取得に動いているとか。

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神保町の裏道を通って竹橋方面。

学士会館の前には日本野球発祥の地の碑。

大手町を歩いて東京駅が見える和田倉門あたりで解散。

2万歩近く歩きました。

2018年4月22日 (日)

幸田文ゆかりのハンカチの木と水道の橋@地下鉄の地上を歩く会・都営三田線の6回目その3

「きっと白い花が咲くのだろう」

と、木を贈られた母は初花を楽しみにしていたが、平成二年他界し、ついに花を見ることはなく、私は花を待つことを忘れた」(中略)

母が見たならどんなに喜んだか。多分それは私の目を通して、伝わったであろうと信じている。

平成十六年一月  青木玉

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早めのランチは地下鉄後楽園の駅ビル。

昼前に入ったんですが、混雑にぶつかって数人の注文の品が遅れた。

一足先に外に出て隣接の礫川(れきせん)公園。

礫は小石。小石川を漢語っぽくして礫川。

江戸時代、小石川に住んだ川柳作者に礫川という人がいた。

公園にハンカチの木が咲いてました。

小石川植物園から作家の幸田文に贈られ、娘の青木玉の家で育てられていたものだ。

今でこそ、あちこちで見られるが贈られたのは1980年より前。

多くの人が花を見たことがなかった。

名前から幸田文はどんな花を思い描いていたのだろう。

ちなみに白いひらひらは花弁ではなく苞葉。

紫外線から雄しべ雌しべを守ってます。


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皆、無事にお昼を食べ終わって講道館。

後楽園ゆうえんちのすぐ北側にあるんですね。

遊園地は今では東京ドームシティアトラクションズとかいうみたいです。

ちょうど実業団の試合をやってました。

誰でも見学OKです。


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少し戻って「水道橋のこんぴらさん」

金刀比羅宮の東京分社です。

神田から深川の古石場に移って深川のこんぴらさんと親しまれていたが戦災で焼失。

讃岐高松藩の邸内社と合わせて本郷に遷座。


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水道橋の地名はこの掛樋に由来します。


本郷台地を掘削して神田川を流したために神田上水は川の上を通す必要が生じました。

川の上に管を通して上水を神田方面に流したんです。

淀橋浄水場の開設に伴って1901年、一般への給水を停止。

掛樋もいつしか取り払われたんでしょう。

これから神田駿河台方面に向かいます。


2018年4月21日 (土)

たどん、真砂町の先生、姿三四郎・本郷の急坂を上る@地下鉄の地上を歩く会・都営三田線の6回目その2

樋口一葉旧居跡のある本郷菊坂から急な階段を登ります。

一葉が住んだ借家は谷底の路地。

谷底にはかつて東大本郷から流れ出た川が流れていた。

永井荷風の「日和下駄」には、「本郷なる本妙寺坂下の溝川」と記されている。

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谷底から本郷台地に上がるためには急な坂になります。

えっこらしょと登ったら、かねてから上がってみたかった炭団坂でした。

週一レギュラーになる前のNHK「ブラタモリ」でも出て来ました。

2009年の放送です。

転げ落ちると炭団のように真っ黒になるので炭団坂。

タモリが久保田祐佳アナに説明してもポカーン。

久保田アナ、炭団を知らなかったんです。

そういや、炭団なんて何年も見たことがない。

今でも売ってるんだろうか。

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坂の上から底の家並みを見下ろしてます。

坂を上がった右手が坪内逍遥旧居跡。

今はマンションが立ってるだけです。

逍遥移転後は伊予松山藩の寮になり、正岡子規、河東碧梧桐らが寄宿した。

少し北側に清和公園があって、かつては右京が原と呼ばれていた。

姿三四郎と檜垣源三郎の決闘場。

こんな東京の真ん中だったんだ。

黒澤映画「姿三四郎」では箱根仙石原でロケしてます。

さすがに本郷では撮れない。

三四郎と檜垣兄弟の決闘場「峰の薬師」は先日、訪れたばかりです。こちら

三四郎づいてるのはなんの偶然でしょうか。


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近くに金田一京助、春彦旧居跡。

木造2階建ての後ろのようです。

近くの下宿、赤心館からこちらに越して来たようです。

赤心館時代には盛岡中学の2年下の石川啄木が頼って来た。

4ヶ月ほどで蓋平館に越したが、京助は何かと啄木の面倒を見たそうです。

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今では本郷ですが昔は真砂町。

真砂町といえば「真砂町の先生」

なんのことかって? 「婦系図」ですよ。

「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦(おんな)が怨んでも、泣いても可い。憧がれ死にに死んでも可い。先生の命令だ、切れっちまえ。

 俺を棄てるか、婦を棄てるか」。(中略)
 
「婦を棄てます。先生。」

このあと湯島天神の「月は晴れても心は闇だ」「別れろ切れろは芸者の時に言う言葉」に続きます(小説にはなく戯曲だけ)。

先生は泉鏡花の師尾崎紅葉がモデル。

早瀬主税は鏡花本人です。

「婦系図」は読んだことありません。

新派の舞台中継か何かで見たので覚えているのでしょう。

本郷にはまだまだ明治が生きてます。


2018年4月20日 (金)

樋口一葉、宮沢賢治、坪内逍遥・・文豪が住んでた本郷巡り@地下鉄の地上を歩く会・都営三田線の6回目その1

都営三田線の白山駅に集まってまずは円乗寺。

雨風強しの予報だったんですが午前10時のスタート時には雨も上がりました。(15日)

みんな良い子ですから天気も味方してくれました。

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八百屋お七の墓があります。

天和の大火(1682)で焼け出されたお七一家が菩提寺の円乗寺に避難した。

その時に寺の小姓の吉三郎と恋仲になった(諸説あります)

真ん中の墓石は住職が、右側は岩井半四郎が寛政年間(1789〜1901)にお七を演じて好評だったので建てたもの。

路地をたどって白山通り。

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小型イオンの前に樋口一葉終焉の地の碑が建てられてます。

坂を上がって菊坂下。

菊坂を登れば一葉が通った伊勢屋質店。

この地下鉄の会の南北線の時にも来ています。こちら

日付を見たら2012年。地下鉄の上をもう6年以上も歩いてる。

私は途中からの参加なので最初からの人たちは何年になるのかな。

おかげで地下鉄沿いの名所旧跡に詳しくなりました。

質店の建物は3年前に跡見学園女子大が購入、土日の午後に公開してます。

まだ昼前だったので入れませんでした。

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菊坂からほど近くに一葉の旧居跡があります。

路地の突き当たりの右手。

一葉も使ったという共同井戸も残ってます。

ポンプを押したら水が出て来ました。

3階建てのアパートではなく庭付きの一戸建てだった。

母親は庭でナスを育てて萩の舍の師匠に届けていたという。

アパートは現在も入居してますので4、5人ずつに分かれて静かに見物しました。


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表通りから少し入れば、こんな道です。

一葉旧居から少し行くと宮沢賢治旧居跡。

「本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった」

(文京区教育委員会)

つまりジャガイモばかり食べていたってこと?

「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」などがここで書かれた。

石川啄木が間借りしていた蓋平館別荘も伊勢屋質店の北東です。

坂の上には坪内逍遥の旧坪内逍遥の旧居跡もあります。


明治がいっぱいです。

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