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2018年1月20日 (土)

なぜここに西軍の敗将・宇喜多秀家の墓が?・東光寺@地下鉄の地上を歩く会・都営三田線の4回目その4

旧中山道の商店街から東の方に入っていきます。

するとやたらと加賀藩前田家ゆかりの史跡などが目立つようになってきます。

加賀なんて町名もあるよ。

Img_8190

まずは東光寺。

別のところにあったが加賀前田家下屋敷の移転に伴って旧中山道近くの現在地に移った。

宇喜多秀家のお墓があるというので寄ったんです。

山門入ってすぐの大きな大きな塔に「秀家卿」と彫ってありました。

備前岡山の秀家の墓がどうして板橋にあるんでしょう。

関ヶ原合戦後の長い物語があります。

秀家といえば豊臣五大老のひとり。

秀は元服の際に豊臣秀吉から与えられたもの。

なので関ヶ原では西軍の主力だったが、敗れて薩摩に逃れた。

やがて発覚、死一等を減ぜられて八丈島に流された(主従13人)。

八丈島の流人第一号です。

苗字も浮田と変えた。

流人生活は50年にも及んだが、正室豪の実家の前田家から2年に1回、白米70俵、金子50両などが送られ続けた。

秀家は83歳で没。墓は八丈島に建てられた。

明治になって宇喜多家の罪が許され、子孫の85人が八丈島を離れて金沢藩に身を寄せた。

そして旧加賀藩下屋敷農地2万坪の提供を受けて帰農。

ここ板橋にも秀家の墓を建てたのです。

浮田一族の多くは東京の生活になじめず八丈島に戻ったということです。


Img_8194

みんなが熱心に説明に聞き入ってます。

ここは加賀西公園。

圧磨機圧輪記念碑についてです。

左側にある巨大な輪っかが実物です。

黒色火薬の製造に使うものです。

石神井川に設けられた水車の動力で圧磨機を動かしてました。

よく分からんけど、これで火薬の原料をすりつぶしていたのかなあ。

ということで、もともとは石神井川が流れている前田家下屋敷跡にあったものです。

黒色火薬はたびたび爆発事故を起こしたために製造中止。

記念碑は戦後、通産省計量研究所敷地内にあったが、研究所の移転に伴って現在地に移された。

計量研究所に勤めていた仲間が参加していました。

「ここだよここ。ここに通ってたんだ」

物差しや計りの標準を作って、あらゆる計量器を検定するところです。

タクシーメーター、騒音計、大気汚染の濃度系などまで。

もっと難しくはメートルやキログラムを定義してます。

彼が事前にメールしてくれた資料によると「メートルの定義は、 1960年にクリプトン原子の出す光の波長が基準と

なり、さらに1983年には、光速度の値を固定し、原子時計による時間・周波数標準からメートルが導かれることにな

りました」

昔はパリを通る子午線の1000万分の1の長さ、とか習ったけどね。

アメリカやイギリスはずっとヤード、ポンドを使ってます。

こんな失敗が生じたそうです。

「米国自身も、SI(国際単位系)を採用しないことで大きなトラブルを起こしています。

マイルと海里(nautical mile)を混同して人工衛星のランデブーに失敗したり(ネットで見つからないので、正確な時期はわかりません)、

1999年にはSIとヤード・ポンド法の混同により、火星探査機の火星周回軌道投入に失敗したりしています」

なんて興味深い。

全く知りませんでした。

黒色火薬から意外な方向に話が発展しました。

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