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2017年7月 6日 (木)

江戸末期の砲術家高島秋帆の名をとって地名が高島平に@地下鉄の地上を歩く会・都営三田線の1回目その3

溜池の横に板橋区立郷土資料館があります。

入り口近くに大砲が据えられてます。

12ポンド施条加農砲(カノン砲)。全長約2メートル。

大砲といってもおもちゃみたいなものです。

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エントランスにもあるぞ。モルチール砲。

江戸末期に小石川鋳造所で製造された青銅製の大砲。

口径20センチ、あまり大きな弾丸じゃない。

射程距離も大したことなさそう。

板橋はなんでこんなに大砲にこだわってるの。

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長崎港にイギリスの軍艦フェートン号が侵入する事件が起きた(文化5年=1808)。

長崎町年寄の子、高島秋帆は、これをきっかけにオランダ流西洋砲術を修得。

ついに高島流の新砲術を編み出した。

時は流れ、アヘン戦争で清国が敗れたことを知った秋帆は、幕府に火砲の近代化を訴えます。

そして天保12年(1841)5月、徳丸原で日本最初の洋式調練が行われます。

展示してあったモルチール砲は、この調練で使われたのと同型、同寸だそうです。

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徳丸原が今の高島平なんです。

江戸時代は鷹狩場で、湿地帯だったが明治以降に耕作地化が進み「赤塚田んぼ」「徳丸田んぼ」と呼ばれるるようになった。

昭和の初期までは東京都で生産される米の7割を占めた米どころだった。

へえーですね。

ところが工場進出などで耕地に適さなくなり1972年に巨大な高島平団地の入居が始まった。

3年前の1969年の住居表示で高島平1丁目から9丁目が誕生した。

高島秋帆にちなんだのはいうまでまない。

Img_4654

お寺の境内にも大砲をかたどった記念碑が建ってました。

「高島秋帆先生紀功碑」

午後に訪ねた松月院です。

日本最初の洋式調練の時に、ここに本陣を置いた縁です。

門弟100人と起居を共にして調練を公開。

「世に名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた」

調練の翌年のことです。


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讒言の主は誰あろう、鳥居甲斐守耀蔵、人呼んで妖怪=耀甲斐。

徹底した洋学嫌いで、蛮社の獄で洋学者を徹底的に弾圧した。

小池一夫原作の「御用牙」は、かみそり半蔵と呼ばれた同心が主人公。

鳥居耀蔵に仲間を皆殺しにされた設定で、耀蔵との対決が描かれていた。

この劇画で鳥居耀蔵の名を知りました。

強烈な印象だった。

耀蔵は数々の悪事がバレて丸亀藩にお預けになったが維新後に解かれた。

明治6年まで生きて、駒込の吉祥寺に眠る。


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「御預け中、(略)鳥居甲斐守は摂生につとめたため心気少しも衰えず、維新後までゆうゆうと生きのびた。

幕府の御預け人はどの家でも迷惑がり、

一日も早く死ぬように、食事その他粗略に扱ったものだといわれるから、

それに耐えぬいたことは、その気力・体力のさかんなことを証明するものであろう。

しかも幕府の倒壊については、おのれの不明を恥じるどころか、

あれほど警告したのに取り上げなかったせいだと、むしろ先見を誇る傲然たる態度だったというから、


保守の筋金もここまでくるとみごとというほかはない。

羽倉外記が『狂人』と評しただけのことはあった」

(「日本の歴史 18 幕藩制の苦悶」北島正元、中公文庫)

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コメント

江川太郎左衛門(担庵)も鳥居耀蔵を嫌っていたみたいです。お台場を案内させられた時はいやいや対応したということです。

江戸湾の防備に関して江川が渡辺崋山の案を取り入れたのが鳥居耀蔵の気に食わなかったようです。

まあ鳥居は洋学を取り入れた改革にはことごとく反対してました。

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