29年目、最長期間の仇討ちと大石良雄・赤穂浪士の引き揚げ路をたどる@地下鉄の地上を歩く会の番外編その4
浅野内匠頭が切腹してから2カ月後の元禄14年(1701)5月9日。
父が討たれてから29年目、伊勢で日本最長記録の仇討ちが行われた。
この話は「元禄曽我兄弟」としてもてはやされた。
赤穂城明け渡しを終えた大石内蔵助にも何がしかの感慨を与えたに違いない。
さてわれわれは芭蕉記念館を出て隅田川沿いを進みます。
ほどなく赤穂浪士休息の地として有名なちくま(乳熊)味噌。
主人が大高源吾と俳句仲間なので店に招じ入れ、甘酒粥を振る舞って労をねぎらったという。
永代橋を渡って中央区明石町。
現在の聖路加病院と河岸地を含む一帯に赤穂浅野家の上屋敷がありました。
上の写真は内匠頭邸跡の碑です。
浪士一行もこの近くを通りました。
29年目の仇討ちとはこんな話です。
伊勢亀山で石井源蔵と半蔵の兄弟が、父の仇の赤堀水之助を討ち果たした。
父が討たれた時、兄は5歳、弟は2歳だった。
18歳の長兄が仇討ちの旅に出るが、後ろからだまし討ちにあって、あえない最期。
成人した源蔵と半蔵も仇討ちの旅に出るが赤堀の行方は杳としてしれない。
ようやく居所がわかったが警戒が厳しくて近づけない。
ある時は乞食に、または商人のふりをして徘徊。
そして宿直明けで城から出てきたところを討ち果たしたのだ。
父を打たれてから29年、兄からは20年目だった。
源蔵は34歳、半蔵は31になっていた。
作家の長谷川伸によると元和(1615〜1624)から元禄(1688〜1704)まで108件の敵討ちがあるという。
石井兄弟の仇討ちはその典型例で親の顔もおぼろげで、ましてや敵のことなど知らない幼子が敵を討たなければならない。
討たなければ人交わりができないのだ。
石井兄弟はじめ幾つかの敵討ちを詳しく調べた長谷川伸の「日本敵討ち異相」(国書刊行会、中公文庫もあるみたい)が面白いよ。
汐留の日本テレビ前。
仙台藩の上屋敷があり、浪士たちは粥のもてなしを受けた。
仙台名産の仙台糒=ほしいい(うるち米を蒸して乾燥させた保存食)だった。
あっちこっちに寄ったので、もうすでに3時すぎ(だったと思う)。
このままだと泉岳寺に着くのは5時を過ぎてしまう。
門が閉まっちゃうんです。
やむなく地下鉄に乗って三田まで。
赤穂浪士は吉良邸から泉岳寺までおよそ12キロを3時間で歩いたんですけどね。
逸話の残る御田八幡神社へ。
この神社近くで討ち入りから脱盟した高田郡兵衛が現れたが、だれも物も言わずに通り過ぎた。
また堀部弥兵衛が本懐を遂げたというと高田は「わたくしも御田神社に社参して、おのおの方が本意を遂げられるようお願いしてきたところだ」と言って別れたという。
さらに郡兵衛は酒など持参して泉岳寺に現れたがが門番に追い返されたという。
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