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2017年1月17日 (火)

吉良邸はなぜ本所に移されたのか@地下鉄の地上を歩く会の番外編その2

吉良邸を出た赤穂浪士が最初に渡ったのが、竪川にかかる一之橋。

幕府は低湿地だった本所の開発にあたり排水路を碁盤目状に開削した。

縦の代表格が竪川。縦横は隅田川に平行が横、交わるのが縦。

隅田川から入って一ツ目ということで一之橋。

Img_0831

看板があって「一之橋は赤穂浪士が泉岳寺に引き上げる際に最初に渡った橋としても知られています」

写真に撮っても何の変哲もない橋です。

最初に渡った橋に何か意味があるのかなあ。

引き揚げ日の15日は登城日で両国橋を渡って江戸市中に入ると不測の事態を招く恐れがある。

それで両国橋の手前で左折、南下コースをたどり一之橋を渡ったということにしか過ぎない。

吉良邸の地名も本所一ツ目です。

事件の後、吉良邸が廃されてから松坂町と呼ばれるようになった。

吉良上野介義央が本所に移されたのは刃傷事件から5カ月もたってからのことだった。

義央には隠居届けを出させた。

義央に対してはおとがめなしだったので世間の同情は浅野家に傾いていた。

同時に義央に対する幕閣の感情が冷えていったのかもしれない。

呉服橋御門の中に邸があったら浪士の襲撃は不可能だったろう。

「街道をゆく36 本所深川散歩」(司馬遼太郎、朝日文庫)を参照しました。

Img_0833

せっかくだから寄り道します。

江島杉山神社です。

鍼灸師や按摩などをなどを統括していた杉山和一の総六屋敷の跡です。

和一は江ノ島の岩窟で断食祈願を行い、霊夢を通して新しい鍼灸術を考案。

名声が高まり寛文10年(1670)には検校に任じられた。

さらに5代将軍綱吉の治療の功でほうびを尋ねられた。

「一つでいいから目が欲しい」

それでこの地、本所一ツ目に1町四方(約1万2000平方メートル)を与えられた。

吉良邸が2550坪(8400平方メートル)だから、こちらの方が断然広い。

元禄6年(1693)のことなので赤穂浪士もこの屋敷の前を通った。

Img_0837

江ノ島の岩窟を模した岩屋もあります。

高いところには昇りますし、穴があれば入ります。

検校といえば勝海舟のひいおじいさんは検校だった。

海舟は本所亀沢町の生まれだからすぐ近くですね。

曽祖父は失明して座頭になったが、男谷検校などと呼ばれ大名貸しもして一代にして巨富を築いた。

末子の平蔵(小吉の父、海舟の祖父)に莫大な金を残し、旗本の株を買ってやった。

本来、旗本は金で買えないが、内密で売買の対象になっていた。

金に困った旗本が金をもらって養子を取ったのです。

平蔵は男谷の姓を名乗った。

小吉は男谷家から勝家にいき、海舟が生まれたんです。

この時も相当な金が動いたことでしょう。

男谷家は小吉の兄が継ぎ、その子が男谷精一郎(1798〜1864)。

幕臣の鑑と言われ文武両道に優れた人です。

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