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2016年9月29日 (木)

噴火の威力まざまざ・浅間山の天明の噴火で遺体が江戸川まで@地下鉄の地上を歩く会・都営新宿線の1回目その3

善養寺境内に浅間山噴火の供養碑があった。

泥流に押し流された村人たちの遺体が江戸川の中洲に流れ着いた。

にわかには信じられませんでした。

長野県の浅間山と江戸川区の小岩、いったい何キロ離れているのか。

ちっぽけな頭の想像を超えてます。

Dscn5154

天明三年浅間山噴火横死者供養碑。

隣には和讃を刻んだ碑があります。一部を抜粋。

「哀しきむくろ谷を埋め 漂い出て幾十里

流れて武州小岩村  毘沙門州へと打ち上る  

村人こぞりなきがらを 涙ながらに掬い上げ

手厚くここに葬りて  建つる手向けの石の塚」

wave 天明3年(1783)7月、浅間山が3日間にわたって大噴火。

土砂雪崩が吾妻川に押し寄せてダムとなったが、すぐに決壊。

泥流が村々を飲み込み利根川へと流れ込んだ。

明治時代までは江戸川は利根川とも呼ばれていた。

利根川河口が本格的に銚子になるのは明治中期のことです。

(利根川東遷と天明噴火の影響については末尾に)

地元の下小岩村の人々は遺体を収容し、ここの無縁墓地に埋葬、13回忌のおりに供養碑を建てたんです。

子供のころ浅間山噴火の火山灰が降ったことは覚えてます。

でも泥流が江戸まで流れ込んでいたなんて思いもよりませんでした。

       sprinkle    sprinkle     sprinkle

傘の碑もありました。

いろいろあるお寺ですねえ。

Dscn5147


小岩はかつて和傘作りが盛んだったそう。

里見(里見八犬伝の里見です)の落武者がこの地で傘張りで生計を立てていたのが始まりとか。

実際には江戸時代に青山あたりの御家人に技術を教わり農閑期の副業にしていた。

最盛期は明治末から大正にかけてで、小岩の傘は「東京の地張り傘」と呼ばれ蛇の目が高級品だったとか。

碑の写真は撮り忘れましたので影向の松の別カットです。

松についてはこちらをどうぞ。

wavewave

利根川東遷  明治政府は鉱毒水(引用者注:足尾鉱山の鉱毒)が江戸川を下り、東京府下に氾濫することを恐れ、・・・(中略)・・・中下利根川を主流として銚子に落す東遷物語を完結する。

「利根川と淀川」小出博、中公新書) 鈴木理性「江戸の川東京の川」からの孫引き。

浅間山噴火の影響 天明の噴火では鬼押出しの地形を作り、嬬恋村全滅を招いた。さらに膨大な量の火山灰の堆積は、利根川はじめ北関東の河相を一変させた。

幕府は諸大名に大掛かりな天下普請を命じ、火山灰の浚渫や治水工事をやらせているが、自然の巨大さの前に ほとんど効果はなかった。

明治政府も、改めて大規模な浚渫工事を中心にした利根川改修工事に着手。

現在見るような天井川の周囲を長大な堤防で囲まれた利根川の原形がつくられていった。 

天明の大爆発から明治33年までの117年間、火山灰の後始末に悩まされ続け、今でも影響が残っているといってもよい状況がある。 

(「江戸の川東京の川」より要約)


          


 

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