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2016年4月25日 (月)

学習院の目白キャンパスをうろうろ@地下鉄の地上を歩く会・副都心線の3回目その4

学習院の目白キャンパスに到着する頃には風雨が激しくなってきました。

正門前で途中参加の2人を待って足を踏み入れます。

Dscn2395

この日は「オール学習院の集い」で、外部のものでも自由に入れたんです。

まず向かったのは血洗いの池。

湧水でできた池で昔は灌漑に用いられていたという。

高田馬場の決闘のあと堀部安兵衛が、この池で刀を洗ったとか。

事実ではありません。大正時代に高等科の文学青年が創作した話です。

それが名前として定着してしまったんです。

それにしてもキャンパスにこんな大きな池があって、周囲を緑が覆っている。

うらやましい。

池を離れて雑木林の中を歩くと「富士見茶屋跡」。

高台で見晴らしが良かったんでしょう、この地は富士見台と呼ばれてました。D2_1303332_sip_2初代歌川広重の「雑司ヶ谷不二見茶屋」はここからの景色を描いたものだそうです。

広がる田んぼの先に冠雪した富士山。

富士を眺める美人は着物の裾をたくし上げている。

鬼子母神参詣の帰り道だろうと解釈されてます。
 
芭蕉の句碑もあります。「目にかかる 時や殊更 五月富士」。

こんな景色が再現されたらだんごを食べながら富士山を楽しみたいな。

山手線の内側にあるので、所狭しと校舎が立ち並ぶキャンパスだと勝手に思ってました。

いい意味で想像を裏切られました。


Dscn2399乃木館(旧総寮部)。

明治41年(1908)、6棟の寄宿舎などとともに総寮部として建てられた。

全寮制を導入した10代院長の乃木希典も4年間をここで過ごした。

乃木院長が居住していた部分だけを移築しています。

私の中では、学習院といいえば乃木さんです。

「明治帝は、希典がすきであった。かれを学習院長にしたのも帝であった。・・帝が自ら発案し、希典の剛直をもって貴族の子弟を感化させようとし、

ーー乃木を学習院の院長にせよ。と直命した」。(「殉死」司馬遼太郎、文春文庫)

明治天皇は、裕仁親王が初等科に入学される前年に乃木を院長にした。

親王の教育を任せたのでしょう。

「希典がこの幼い皇孫に口やかましく教えたのは一にも御質素、二にも御質素ということであった」(同上)。


Dscn2405明治天皇が目白の新校舎に行幸されたのを記念するため、乃木院長が翌明治43年(1910)に築いた榊壇。

壇の中央には天覧榊が植えられてます。

前方後円風なんです。

円壇を囲む石の一部は当時の日本の国境から乃木院長が集めたもの。

国境とは小樽、八丈島、小笠原、朝鮮半島、遼東半島、台湾などです。

      night    night    night

大正元年(1912)9月12日。大葬の葬列が宮城を出発するのは夜の8時。

乃木は午後6時には参内しなければならなかった。だが自宅に籠った。

夫妻の殉死の報は1時間後には大葬拝観で集まっていた群衆の間に広がったという。

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コメント

その3,4といい話が続きますねえ。さすが…!

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