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2015年9月23日 (水)

滑り込みセーフで入れてもらった辻村寿三郎人形館@地下鉄の地上を歩く会・日比谷線の5回目その2

人形町あたりをぶらついてます。

「いやさお富、久しぶりだなあ」の台詞で知られる玄冶店跡の石碑がありました。

幕府医師の岡本玄冶(1587〜1645)の拝領屋敷があったことから玄冶店。

「与話情浮名横櫛」(初演1853)の「源氏店(玄冶店)」の一幕お富と切られ与三郎の場面で広く知られるようになった。

私なんぞは♬粋な黒塀 見越しの松に・・の「お富さん」を意味も分からずにがなってただけ。

Img_6316

「閉まってるかもしれないよ」と幹事さん。

やっぱり閉館の張り紙がしてありました。

1日違いで9月12日がラストでした。

辻村寿三郎人形館です。人形町ですからね。

入り口で残念がっているとドアが開いて「どうぞ」

妖しの人形たちがまとめて置かれていて、異次元の世界に迷い込んだよう。

命がありそうなので、長くは見つめていられません。

耽美的な衣装から放たれるオーラに身がすくむ思いでした。

人形館は故郷の広島県三次市に移って開館してます。


   riceball    riceball

京都から江戸に下ってきた猿若勘三郎が猿若座(のちの中村座)を開いたのが江戸歌舞伎の始まり。

京橋あたりから堺町に移転(1651)、葺屋町には村山座(市村座)が開場。

今の人形町3丁目と堀留町近辺です。

周辺には人形浄瑠璃、説教芝居、見世物小屋などが立ち並んで歓楽街を形成していた。

しかし遊郭とともに浅草辺に移されていきます。

お城に近かったせいです。

江戸時代には人形町の町名はなく、人形町通りにその名があった。

この通りに面していた大坂町、堺町などをまとめてに人形町になったのは1933年(昭和8)のこと。

人形浄瑠璃の人形遣いや頭作りの職人が住み着いていたから自然と名付けられたのだろう。

Img_6321

椙森(すぎのもり)神社に残る富塚の碑。

江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)のひとつ。すでに新橋駅前の烏森は訪ねました。

この日は柳森もお参りする予定になってます。

富くじは財政困難を理由に八代将軍吉宗が幕府の援助を打ち切ったことに端を発する。

新たな資金獲得の手段として考え出され、江戸の三富(谷中感応寺、湯島天神、目黒不動)を初めとして寺社がこぞって売り出した。

椙森は江戸きっての繁華街だけに売り上げも大きかったでしょう。

碑は1919年(大正8)に富興行をしのんで建てられたもの。(1953年再建)

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長くなったので続きは次回。


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