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2011年1月13日 (木)

大国魂神社の摂社「坪宮」にはいわくがありそうだ

大国魂神社の摂社に坪宮がある。離れた場所にあるが、大事にされている。訳がありそうだがベールに包まれている。

昨年のブログでこんなことを書いた

Cimg1855

《夜、暗くなって神輿が神社を出発。それを坪宮に報告する。坪宮は境内にはない。境外の摂社だ。神社を出て甲州街道を左に折れ、高安寺の手前の坂を下ったところに密やかに鎮座している。

ここで行われるのは国造代奉弊式。国造、くにのみやっこ、に供え物を奉る。祀られているのは兄多毛比命。エタモヒノミコト。武蔵の国造といわれている人です。

神社のパンフレットは「当時(創建のころ)は武蔵国造が代々神社に奉仕しましたが、大化の改新によって、武蔵国府をこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになり…」。》


小さな祠だ。しかしお祭りでは敬意を払っている。

兄多毛比命は大宮の氷川神社の祭神にもなっており、武蔵に国司が置かれる前に勢威を誇っていた人物らしい。10代前に出雲からやって来たという伝承があるが、おそらく土着の勢力だろう。

武蔵の国造については「日本書紀」の安閑紀にこんな記述がある。

Cimg1852

安閑は継体の長子で534〜536年の在位。このころ武蔵国造の地位をめぐり笠原直使主と同族の小杵(おき)が争い、大和朝廷に助けを求めた笠原直が勝った。

笠原直は北関東の首長、小杵は南関東とされている。

大化の改新の百年も前に南関東の勢力は次第に力を失い、国司が府中に置かれるに及んで小さな祠に記憶をとどめるだけになってしまったのかもしれない。

武蔵は初め南関東を中心に開かれた。田園調布の古墳群が築かれたのは4世紀。次第に多摩川の中流域に移り、やがて北の方が勢力を増していった。

北の首長たちは埼玉古墳群を出現させた。有名な稲荷山古墳などだ。これが5世紀後半。

そして大化改新後に今の府中に国司が置かれた。完全に大和朝廷に組み込まれたわけだ。

兄多毛比命と坪宮、そして大国魂神社との関係、もっと掘り起こしたいが、よくわかりませんね。

高安寺の手前から坪宮へと下る坂を鹿島坂という。「国造代奉弊式」を担当していた鹿島田家にちなんで「鹿島田坂」と呼ばれ、それがやがて鹿島坂になったのだという。

Cimg1849_2

これは鹿島坂に下りる手前にある建物です。割烹料亭「番場屋」です。こんな古いのが残っているのが府中のいい所。歴史を感じさせる。

このあたりは番場宿だったので番場屋。「品川講」なんとかの札が下がっていた。くらやみ祭で品川で塩を汲んだ時に、品川の人たちもやって来て、ここに宿泊するんだろうか。

まだまだ分からないことだらけ。1月29日から郷土の森博物館で「特別展 発掘!府中の遺跡〜古代国司館と家康御殿」が始まる。

府中本町駅の隣から発掘された国司の居宅群と家康の府中御殿の調査結果を展示してくれる。

勉強してこよう。

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