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2010年12月28日 (火)

新宿御苑の一角に新井白石終焉の地

予定より早く用事が済んだので信濃町から新宿まで歩いた。慶応病院の脇の線路沿いの道から曲がりくねった住宅街の道をくねくね進み、大通りはつまらないので千駄ヶ谷駅に出て新宿御苑の塀をたどった。

しばらく行くと千駄ヶ谷門。ここにも入り口があるんだ。料金は200円。安いんだ。ここは都営でも国営でもなく、環境省国民公園。そんなのがあるんだ。知らなかった。ほかには皇居外苑、京都御所がそうだ。

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突然、変な一角があった。御苑の敷地に食い込んで家が建っている。テレビのアンテナが立ててあるので、人が使ってるんだ。しかし住んでる気配がしない。

ほかは道に沿って高い塀がつくってあるのに、ここだけ御苑を四角に削っている。

新宿御苑はご存知のように信州高遠藩主内藤家の屋敷があったところ。その内藤家の敷地に食い込んでいるわけだ。

案内板があるぞ。なになに。新井白石終えんの地。思っても見なかった名前が出て来たな。なんでこんなへんぴなところで死んでいるんだ。

白石は、生類憐れみの令で有名な5代将軍徳川綱吉のあとを継いだ家宣、その子の幼君家継に仕え、政治改革を行った学者。それは後世「正徳の治」と呼ばれる。

だが、あまりにも性急すぎたためか幕閣から「鬼」と呼ばれて嫌われ、吉宗が8代将軍になると、その地位を奪われ、改革は否定された。

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通りの正面のとんがりビルは都庁。木々は御苑。江戸時代は四谷大木戸の外だから寂しいところだったろう。

「城中の御用部屋はもとより、小川町の賜邸も取り上げられてしまいました」。

そして与えられたのがここ。


「亨保2年(1717)幕府からこの土地を与えられ、同6年移り住んだ頃は、周囲はすべて青々とした麦畑でした。ここで白石は失意の日々を送ったのですが、一方では多くの著作を行いました。絶筆となった『采覧異言』の修訂が終わった5、6日後の亨保10年(1725)5月19日、69歳で波乱に富んだ一生を終わりました」。

土地をもらってから移るまでに4年もかかったのは、建物がなかったから。冷たい仕打ちです。

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綱吉時代の元禄は、文化も栄え、紀伊国屋文左衛門などの商人も財を成した、いわばバブルの時代。

白石は朝鮮通信使にかかる費用などをけずり、貿易の不均衡をただし、紀伊国屋や奈良屋茂左衛門らの政商を没落させ、財政の立て直しに「鬼」になった。貨幣の改鋳も改めた。だが、受け入れられなかった。儒教的な理想主義が現実の壁を突破できなかったのだ。

理想を捨ててしまう政党よりいいけどね。

国民から搾ることばかりを考え、無駄の削減など急所に食い込めない今の状況に似ているな。

10年前の本だけど、谷恒生「国家再建の鬼 新井白石」(学陽書房)が、白石の改革とバブル時代を対比させて警鐘を鳴らし、現在の財政健全化論議にも通じている。

それにしても内藤家の片隅に、それも内藤新宿の繁華街からは離れた場所で白石は晩年を暮らしていた。無念が凝縮されているような感じがした。

だからここだけ御苑にしないで残してるのか?怨霊がさまよっているのかもしれない。

白石らの後ろ盾月光院の力を決定的にそいだ世紀のデッチアゲ「絵島生島」事件で、絵島が預けられたのが信州高遠の内藤駿河守。内藤家つながりは、単なる偶然か。


のちほど、御苑の人に「あの千駄ヶ谷門近くの家は何だ」と聞いたら「宿舎です」。財団法人国民公園協会の関係者が泊まるのか。天下りかな?

「鬼」白石が怒りそうだ。

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