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2010年12月の記事

2010年12月31日 (金)

年越しを待つ深大寺

深大寺門前のそば屋でまんじゅう(100円)を買ったら店員はアルバイトの女子高校生だった。並んでいるまんじゅうのどこから客に渡すのか迷って古参店員に尋ねてる。

ベテランは「客に近い方から」と教えていた。

年末年始だけのアルバイト。初々しくてかわいかった。

まんじゅうを食べながら境内へ。

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金の刺繍がされた白い幕がかけられている。刺繍は何の花なのか。ハスかな?確認してこなかった。正月休みに入ったからか、結構参拝客がいる。

門松が立ててある。正月なんだねえ。ちょっと気が引き締まります。

本堂の前には賽銭を投げ入れる囲いがつくってあります。5色の幕が垂れ下がっている。白、赤、黄、緑、青。

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ひさしの真ん中には注連飾り。これは神道じゃないのか。となると仏教では違う言い方をするのかもしれない。

日本の仏教は神仏習合の時代が長かったから、まだ神道色を残しているのか。

まあ理屈じゃなしに正月には門松、注連飾りがなじむよね。このおおらかさが日本のいいところ。


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こちらは深沙大王堂。深大寺縁起に出てくる水神さまを祀っていて、秘仏の深沙大王像が安置されている。
よそ者の若者と地元の娘との恋を取り結んだことから縁結びの神様になっている。

年内はこれがラスト。みなさま、よいお年を。

2010年12月30日 (木)

甦った都心のせせらぎ@新宿御苑の玉川上水分水

御苑の北側、遊歩道に玉川上水の流れがつくられた。名付けて「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」。せせらぎ好きとしては行かねばならない。

新宿御苑の新宿門から大木戸門まで540㍍に流れをこしらえる計画だ。完成しているのは真ん中へんの「大銀杏区間」の240㍍。

四谷方向に歩くとすぐにあった。

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ここが流れ口。何だつまらない。石でしっかりと護岸してある。こんな人工的な流れではせせらぎとは呼べない。これじゃ溝だよ。

かつてあった生活用水を流す溝、あるいはどぶと変わりない。興ざめだ。水は国道20号のトンネルから湧いている水を利用しているので濁ってはいない。

でも、あまりきれいには感じない。石で囲っているせいだ。新宿区のHPでは「水路は水面幅1㍍、水深5〜10㍍で、底は粘土で仕上げ、自然の流れに見えるように配慮」となっているが、全く自然ではない。

役人の発想はこんなものさとぶつくさいいながらも進む。

景観が変わったぞ。縁取っていた石がなくなっている。

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土手には名前は知らないけど花が咲いてる。岸辺は粘土質の土を持って来てるんだろうが、人工が少なくなっている。

これならせせらぎと呼んでいい。

水辺には60種類2万5000株の草木を植えるんだという。月日が経って、これらがなじんで来たら都会の潤いになりそうだ。

玉川上水は羽村から四谷大木戸まで43㌔流れ、江戸市中には石や木で作られた管を通じて水が供給されていた。

新宿では淀橋から御苑の縁を通っていた。淀橋に浄水場ができ、昭和の初めには暗渠化され流れが失われた。淀橋は今の新宿副都心。

昔の上水に比べれば、かわいい流れになったけど、水はいいね。流れを見ていると気持ちが落ち着く。

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これは下流の区間。まだ草を植えてない。春になったら植えるんだろう。

工事は今年度中に大木戸方面、来年度に旧新宿門区間を整備して完成するそうだ。

新宿で人いきれに疲れたらどうぞ。


2010年12月29日 (水)

絶滅危惧種センカクツツジ@新宿御苑

新宿御苑の外周をぐるっと回っている。新井白石終えんの地を発見し、なおも塀沿いに行くと都立新宿高校のグラウンドがあるので御苑からは離れるしかない。でも、ついでだから新宿駅南口の高島屋前からまた御苑方向へ。

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あれれ、こんな近くに入り口がある。新宿高校の正門を過ぎたら入り口だった。以前は地下鉄の新宿御苑駅が最寄りだったのに再開発で移ったんだ。

新宿もご無沙汰で年に1、2度来ても丸井のあたりまでだし、こちら側は20年くらい足を伸ばしてない。変わるのも当然だ。

入り口の新宿門前の庭では水仙が見頃になっていた。そうか12月の中旬には盛りになるんだ。認識を改めなくてはいけない。野川公園の水仙も決して早くはなかったんだ。

何か施設がある。インフォメーションセンター。入ってみよう。カフェがある。何か展示をやっている。

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絶滅危惧種の植物だ。日本植物園協会では、絶滅の恐れのある植物を育てて増やす取り組みを続けて、いまでは日本産絶滅危惧植物の60%を保有してるんだそうだ。

10数種くらいが展示されている中で、オッと反応したのはセンカクツツジ。尖閣には敏感になるよね。センカクモグラなどもいて貴重な動植物の宝庫らしい。

中国のごり押しにどう対応したものやら。

ネットで調べるときれいな赤紫の花をつけるようだ。尖閣諸島では崖にへばりついて風雨にたえながらしっかりと根を張っているようだ。

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展示は26日までで、もう終わってますね。訪れたのは22日でした。すみません。

今年春、玉川上水の分水がつくられた。もうちょっと行ってみよう。

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右下の千駄ヶ谷から矢印の新宿門まで来たんだ。「千駄ケ谷(六)」の表示の下の長方形が、前回の新井白石終えんの地です。

2010年12月28日 (火)

新宿御苑の一角に新井白石終焉の地

予定より早く用事が済んだので信濃町から新宿まで歩いた。慶応病院の脇の線路沿いの道から曲がりくねった住宅街の道をくねくね進み、大通りはつまらないので千駄ヶ谷駅に出て新宿御苑の塀をたどった。

しばらく行くと千駄ヶ谷門。ここにも入り口があるんだ。料金は200円。安いんだ。ここは都営でも国営でもなく、環境省国民公園。そんなのがあるんだ。知らなかった。ほかには皇居外苑、京都御所がそうだ。

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突然、変な一角があった。御苑の敷地に食い込んで家が建っている。テレビのアンテナが立ててあるので、人が使ってるんだ。しかし住んでる気配がしない。

ほかは道に沿って高い塀がつくってあるのに、ここだけ御苑を四角に削っている。

新宿御苑はご存知のように信州高遠藩主内藤家の屋敷があったところ。その内藤家の敷地に食い込んでいるわけだ。

案内板があるぞ。なになに。新井白石終えんの地。思っても見なかった名前が出て来たな。なんでこんなへんぴなところで死んでいるんだ。

白石は、生類憐れみの令で有名な5代将軍徳川綱吉のあとを継いだ家宣、その子の幼君家継に仕え、政治改革を行った学者。それは後世「正徳の治」と呼ばれる。

だが、あまりにも性急すぎたためか幕閣から「鬼」と呼ばれて嫌われ、吉宗が8代将軍になると、その地位を奪われ、改革は否定された。

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通りの正面のとんがりビルは都庁。木々は御苑。江戸時代は四谷大木戸の外だから寂しいところだったろう。

「城中の御用部屋はもとより、小川町の賜邸も取り上げられてしまいました」。

そして与えられたのがここ。


「亨保2年(1717)幕府からこの土地を与えられ、同6年移り住んだ頃は、周囲はすべて青々とした麦畑でした。ここで白石は失意の日々を送ったのですが、一方では多くの著作を行いました。絶筆となった『采覧異言』の修訂が終わった5、6日後の亨保10年(1725)5月19日、69歳で波乱に富んだ一生を終わりました」。

土地をもらってから移るまでに4年もかかったのは、建物がなかったから。冷たい仕打ちです。

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綱吉時代の元禄は、文化も栄え、紀伊国屋文左衛門などの商人も財を成した、いわばバブルの時代。

白石は朝鮮通信使にかかる費用などをけずり、貿易の不均衡をただし、紀伊国屋や奈良屋茂左衛門らの政商を没落させ、財政の立て直しに「鬼」になった。貨幣の改鋳も改めた。だが、受け入れられなかった。儒教的な理想主義が現実の壁を突破できなかったのだ。

理想を捨ててしまう政党よりいいけどね。

国民から搾ることばかりを考え、無駄の削減など急所に食い込めない今の状況に似ているな。

10年前の本だけど、谷恒生「国家再建の鬼 新井白石」(学陽書房)が、白石の改革とバブル時代を対比させて警鐘を鳴らし、現在の財政健全化論議にも通じている。

それにしても内藤家の片隅に、それも内藤新宿の繁華街からは離れた場所で白石は晩年を暮らしていた。無念が凝縮されているような感じがした。

だからここだけ御苑にしないで残してるのか?怨霊がさまよっているのかもしれない。

白石らの後ろ盾月光院の力を決定的にそいだ世紀のデッチアゲ「絵島生島」事件で、絵島が預けられたのが信州高遠の内藤駿河守。内藤家つながりは、単なる偶然か。


のちほど、御苑の人に「あの千駄ヶ谷門近くの家は何だ」と聞いたら「宿舎です」。財団法人国民公園協会の関係者が泊まるのか。天下りかな?

「鬼」白石が怒りそうだ。

2010年12月27日 (月)

妻の病状を観察した上林暁「聖ヨハネ病院にて」の舞台

浴恩館公園から西へ行くと7、8分で桜町病院がある。正式名称は聖ヨハネ会桜町病院。上林暁の私小説「聖ヨハネ病院にて」の舞台になった病院だ。

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上林暁夫人は、近くの小金井養生院に7年間入退院を繰り返したあと昭和14年(1939)に桜町病院に転院した。精神を病んだ妻のかたわらで上林は克明に病状を記し、小説を書き進めた。「病妻もの」とくくられている。

ここには修道院がありホスピスもある。病院名は町名からつけられ、町名は小金井の桜にちなんだ。

もし末期がんになったら、こんなホスピスで最期を迎えたいな。緑がいっぱいで坂の上なので見晴らしもいい。

チューブだらけで寝たきり、生かされているだけなのは屈辱だ。20年ほど前に話題になった山崎章郎医師の「病院で死ぬということ」(文春文庫)で終末期医療について考えさせられた。市川準監督で映画化もされた。


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天気のいい日にお日様をいっぱいに浴びて、散歩しながらコロッといっちゃうのが理想かな。

病院の前の道は坂になっている。「大尽の坂」と案内板が立ててあった。明治時代、鴨下荘左衛門という人が醤油醸造業や質屋を営み財を成した。醤油を買い求める人が絶えなかったことから名付けられた。銘柄にちなんで「玉荘の坂」ともいわれた。

水は玉川上水を利用したんだろうか。

突然だが、俠客小金井小次郎の本名は関小次郎だが、鴨下一族だ。小次郎は鴨下村の庄屋の次男。墓は鴨下一族の墓地にある。縁続きなのだろう。

(小金井小次郎については、カテゴリー「小金井」をクリックしてください。何回か書いてます。「武蔵野」では月窓寺にある子分の墓についてふれています)。

スタジオリブリ、星野哲郎邸、浴恩館公園、桜町病院とたどって来た散歩もひと区切り。ちょっとハードだった。小金井公園のベンチで休もう。

2010年12月26日 (日)

今じゃコリアンタウンもつつじの名所だった新宿大久保

新宿の大久保といえば、かつてはラブホテル街、今ではコリアンやエスニックな無国籍タウンとして有名だ。でも江戸時代はつつじの名所だったんです。

NHK「ブラタモリ」でタモリと久保田祐佳アナが訪れてはじめて知った。今年の2月6日の放送です。その時の番組解説によると「実は江戸時代に作られたモノが驚くほどハッキリと受け継がれているんです。一体それは何なのか!?かつて、『鉄砲組百人隊』が住んだこの街の痕跡を、意外なところに発見していきます」。

で、それはつつじだったんです。

そのつつじの子孫を小金井の浴恩館公園で発見した。


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画面右側の木がそうです。つつじにしては随分と背丈が高い。園内の落ち葉を集めていた係の女性が教えてくれた。逆にこっちも「大久保のつつじは、ブラタモリで紹介してたよ」と教えてやった。

立て札がある。小金井市の天然記念物になっているんだ。昭和5年(1930)浴恩館の開館に際して豊多摩郡大久保町にあったつつじ園から移植されたとはっきり記してある。高さ3㍍になるものもあり「近郊まれに見るツツジ群をなしてます」と胸を張っている。

「来年のゴールデンウイーク前にまた来てください」、「はい、またきます」。「あの木(と指差す)は1本だけ、早く紅葉してすばらしいんです。その頃にもぜひ」、「はい、そうします」。

なんでまた大久保がつつじの名所になったのか。もともと自生していたものらしいが宝暦年間(1751〜1761)に栽培が始まった。

大久保に住んでいたのは服部半蔵率いる鉄砲組百人隊。江戸城を守り将軍を警護する役目なので、西郊の大久保に屋敷を与えられ、北条残党に備えた。

しかし戦もなく手柄も立てられない。給料も上がらないので仕方なく内職でつつじをはじめたというわけだ。中には屋敷内に数千本のつつじを植えて商売していた例もあるという。

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これは「江戸名所図絵」の大久保です。一面のつつじ。かなり広い屋敷をもらってたんだ。

こうして江戸の中期になると、大久保百人町はつつじの名所として知られるようになり「江戸第一の壮観」とまで評判を呼び、大名や町人がこぞって見物に訪れたという。

今では宅地化も進み、すっかり姿を消してしまったが、地元ではかつての名所をしのび毎年4月に鉄砲組ゆかりの皆中稲荷神社でつつじ祭りを行っている。

4月にまた来てみよう。

2010年12月25日 (土)

下村湖人が「次郎物語」の構想を練った旧浴恩館(文化財センター)@小金井

まだ「次郎物語」は学校の推薦図書になっているのか。その昔、親からも読みなさいとかいわれて買い与えられた。

小さい時に里子に出され、やがて実家に戻るがなじめずに反抗的な態度を取る次郎だが、結核に冒された母の愛などを知って成長していくーと書いたが、実はよく覚えていない。でも、読んだのは確かだ。プール熱で学校を休んだ時に読んだのは、はっきり覚えている。

作者の下村湖人が所長をしていたのが、この浴恩館です。今は小金井市の文化財センター。

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小金井公園の南側にあるが、大きな通りに面してないので分かりづらい。住所は小金井市緑町3−2−37です。敷地は公園になっていて緑にあふれている。樹木に囲まれて古い建物がある。戦前の趣がそのまま保存されていて、何ともいえない懐かしさを覚える。この景観に包まれているとほっとする。

それもそのはず、浴恩館の建物は、昭和3年(1928)京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭で使われたものだ。その際、神職の更衣所として建てられた。

たった1回しか使わないのに、簡易建築ではなく本格的につくったんですね。それが今でも保存され使用されている。すごいもんだ。

それを(財)日本青年館が譲り受けて移築、昭和6年から青年団指導者の講習所となった。

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下村湖人を呼んだのは「青年の父」と謳われた田澤義鋪(たざわよしはる)。開所間もない昭和8年に、故郷佐賀の後輩下村を招き、実践教育にあたらせた。

この小さな建物は空林荘。下村が講習生と寝食を共にした宿舎だ。そのころ「次郎物語」の執筆をはじめた湖人は、ここで構想を練った。

戦後になって発表された第5部に登場する友愛塾と空林庵は、浴恩館と空林荘をモデルにしたものだという。

戦前の青年団活動についてはほとんど知らないが、農村の未来を開く組織として青年団が機能していたようだ。戦前もそうだが、戦後も明るい農村を目指す担い手だった時期もあった。

コンサートなどで使われる東京・青山の日本青年館は、その本部なのか。調べてみると、日本青年館は全国の青年団員による募金活動などが展開され、初代日本青年館が1925年(大正14年)に完成というから間違いない。

約500名収容可能の宿泊施設のほか、2000名収容の講堂、図書室、新聞雑誌縦覧室、資料陳列室、談話室等を備えたものだった。また、別館として小金井市に「浴恩館」を建設し、そこに青年団指導者養成所を開設した。

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だが、時局が変化する。有為な青年が集まる浴恩館は軍事教練の格好の場と軍部に目を付けられる。「次郎物語」も連載中止に追い込まれ、湖人も昭和12年(1937)に所長を辞任、浴恩館も戦時体制に組み込まれていく。

浴恩館の庭です。昔は近くの仙川から水を引いていたんだろう。池がしつらえてあるが、特に装ってはいない質素な趣がいい。

今は文化財センターになっていて、小金井の歴史や遺跡からの発掘品などが展示されている。入場無料。

2010年12月24日 (金)

小金井名誉市民をつなぐ散歩・ジブリから星野邸へ

宮崎駿監督に偶然、お目にかかってしまった興奮さめやらぬまま、作詞家の星野哲郎さんの住所が同じ町内だったことに気づいた。

お2人とも小金井市の名誉市民第1号です。地図で確認すると600㍍くらいしか離れていない。

その前に、これは宮崎監督の個人事務所「二馬力」の前に置かれていたゴミ箱です。

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環境に配慮してます。ゴミ置き場らしくない。こういう心遣いが大切ですね。

星野邸へは北へ小金井公園を目指していけばいい。法政大学の小金井キャンパスの南側だ。緑がたくさん残っている住宅街の一角に星野邸はあった。

ここで数々の名曲が生まれたんだ。亡くなった時に新聞に主な作品が出ていたが、「黄色いサクランボ」はちょっと意外だった。

周防大島の生まれで、海の男のイメージが強かったが、幅の広い人だったんですね。

民俗学者の宮本常一さんも同じ島です。宮本さんは、とにかく日本中を歩き、訪ねた。「忘れられた日本人」(岩波文庫)は、若い人にいつも薦めているんだけど、なかなか読んでくれない。

機会があったら行ってみたいな。巨人を育てた島の風土を肌で感じてみたい。


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星野さんはこの家から毎朝、散歩に出かけた。小金井公園へは10分ほどだ。空き缶を拾ったのは有名は話。15万本以上になったという。

随分と回り道をしたが、ここから小金井公園へは行かずに旧浴恩館へ。作家の下村湖人が所長をしていたことがあり、「次郎物語」第5部の構想を練ったところです。

歩いて5分くらい。上林暁「聖ヨハネ病院にて」の舞台もすぐ近くだ。

2010年12月23日 (木)

あっ!宮崎駿監督だ

スタジオジブリで働く人のための保育園「3匹の熊の家」前をうろついていた。隣は二馬力。宮崎駿監督の個人事務所です。著作権などを管理している。

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もしかしたら宮崎監督とすれ違うかもしれないーなんて考えながら写真を撮っていたら、ジブリの方から歩いてくるのは、なんとご本人。

おっさんが無断で建物の写真を撮っているんだから、変なやつがいるなと思われたに違いありません。でも、そんなそぶりは少しも見せずに、いつもの柔和な表情でこちらに近づいてきます。

年甲斐もなく心臓がどきどき。シャッター、シャッターと思いながらも正面からでは失礼だし、事務所の暗証番号を押しているときにようやく1枚だけ押すことができました。

今は何の仕事をしてるんだろう。吾朗監督の2作目「コクリコ坂から」の脚本を書いているのだろうか。絵コンテの作業に入っているようだから、もうそれは終わっているのか。

あー、びっくりした。まさかご本人と遭遇するとは。個人事務所の「二馬力」は一軒家です。家の前には愛車のシトロエン。会社名もシトロエンの愛称2CVからとっている。

運転席にはヤギが2匹。ひさしの上にもヤギがいます。

これがわざとらしくなくて実に自然なんです。周囲に樹木が多いせいか、ヤギがいてもおかしくない。

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このあたりは普通の郊外の住宅街。ちょっと行けば畑もある静かなところだ。その雰囲気を壊さずに。変な主張をしないでとけ込んでいる。それでいて立ち止まると住居表示などにもジブリらしく手作り感にあふれている。

事務所の前にはベンチが置かれ「どなたでもどうぞ」と札がある。吸い殻入れもある。一服していいんだ。散歩中はタバコを持ってないので吸わなかったが、ベンチでひと休みさせてもらった。

二馬力の全景です。


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ここは小金井市梶野町1丁目。梶野町にはもう1人、有名な人がいた。作詞家の星野哲郎さん。北に行った小金井公園の近くだ。星野さんの家は3丁目。600㍍くらいだ。行ってみよう。

2010年12月22日 (水)

ジブリ近くの「3匹の熊の庭」

スタジオジブリの近くにある「3匹の熊の家」は、ジブリで働く人のための保育園。ちょっといくと今度は「3匹の熊の庭」があります。

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園庭です。建物があって、子供用の自転車が置いてある。雨天用の遊び場か。植え込みの垣根があるので全体はうかがえないが、かなり広そうだ。

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何人の子供がいるのかは分からないが、これならのびのびと育ちそうだ。こちらは北側で、日が当たってないが南側は日がさんさんと降り注いでいることだろう。

大きなケヤキがある。隣は農家で、その庭を借りたのか買ったのだ。裏にまわってみる。武蔵野特有の短冊形の区画だ。通りに面して家を造り、風よけのために屋敷林で覆う。

その裏が細長い畑になる。それぞれの農家が短冊形の土地を所有しているので、南北は道が通じているが、東西を横切る道は少ない。ぐるっと回らなければならない。

宮本常一さんはこう描写している。「短冊形に並んだ畑の二枚に一本ずつの道がついていて、その道をならんでいる二軒の農家が利用して、道の両側の畑をそれぞれ耕作するようになっていた」(「私の日本地図⑩
 武蔵野・青梅」未来社)。

畑の幅は大体20㍍。長さは、小川宿では800㍍、榎戸新田は400㍍。長いところでは800㍍行かないと右折、あるいは左折できないのだ。

今は住宅がならんでいるので不便だ。西隣の家にいくのにも大回りしないとならない。少しずつ土地を売っているので、東西の道路を造ったりしないのだ。

で、ぐるっと回って西側へ。


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こっちにも門がある。さっきのケヤキは天をついている。

広いねえ。

2010年12月21日 (火)

冬野菜がうまい・農家の庭先販売

友人が越前ガニを送ってくれたので夕食はみんなで囲めるカニスキ。いつもの三鷹図書館近くの農家の庭先販売所に買い出し。

うまいんだよね、ここの野菜。この前買ったニンジンが抜群だった。味が違うんだ。息子も「このニンジンはうまい」と感心してた。

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「肥料が違うからね。ニンジン嫌いの子供がうちのは食べるって、ママさんが言ってた。本物はうまいんだ。ごぼうもやわらかいよ」と農家のおじさん。堆肥をたっぷりやってるんだ。

きょうは白菜が目当て。大振りなのが400円。ごぼう200円、カリフラワー250円、ネギ150円。自動販売機にあるニンジン120円(大きいやつ)、サラダ菜150円など。

ハクサイ150円というのは自家製の漬け物、梅干しも自家製。でかいカブは250円。パックに入ったキウイは350円と300円。三鷹の名産です。

スーパーと比べて極端に安いわけではない。「うちは安くしないよ。白菜だってぬかや魚粉をたっぷりやってるからね」。

年間70種類もつくっている。ご夫婦では無理なのでボランティアが手伝いにきてるという。「お客さんが、うまいと言ってくれるのが何より」。

白菜とニンジンを買ったら自転車の前かごがいっぱいで、鍋に入れる豆腐などが入らなくなってしまった。家に戻って白菜を置いて出直し。

で夕飯。「この白菜おいしいね」とおふくろ。鍋だから外側の硬いところをザク切りにしたんだけど、硬さも気にならない。「甘みがあるのね」。

残りは白菜漬け。今、天日に干してます。初体験、うまく漬かるといいな。

2010年12月20日 (月)

修学旅行はお米を持ってったんです

土曜の夜はいつものようにNHKラジオの「今夜も大入り!渋谷極楽亭」。先週はお休みした森口博子、舞台の「裸の大将」に出ていたんだそうだ。それも母親との共演。70歳を過ぎたお母さんの舞台熱が高まって、出演にあいなってしまい、森口よりも盛大な拍手をもらったことなどを緊張気味に報告。山下清役は芦屋雁之助の弟の小雁がやってるらしい。

ゲストは声優で歌手の堀江美都子。堀江の歌にあこがれて育った森口はテンションはピークから下がらない。デュエットまでして感激しっぱなしだった。

9時に終わってテレビでも見ようかとNHKのBSにしたら「月光仮面」の映像が流れていた。

月光仮面が長ゼリフで犯人にお説教をしてる。「金や権力を持つものがのさばる世の中になっている。そんなことでいいのか。君は日本人だろ。だったら弱いものに味方するべきだ」とかさとす。おそらく犯人は、これで改心してめでたしめでたしになるんだろう。

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悪者をやっつけるんではないんです。毎週のように見てたけど、懲らしめるのではなく、諭しているとは記憶してなかった。原作脚本の川内康範さん、単純図式じゃないドラマをつくっていたんだ。

レポートはみうらじゅん。神奈川県内の寺を訪ねて月光菩薩を拝みながら川内さんの真意を探る。月光菩薩は薬師如来の右に位置して、薬師如来の教えを守る役目を果たしている。

月光仮面も、仏の教えを伝えている。みうらが感心していた。

何の番組だ。「日めくりタイムトラベル」で、この日は昭和33年(1958)。主な出来事を紹介して時々、ロングバージョンで特集するようだ。

ロカビリーブームも特集。日劇ウエスタンカーニバルの熱狂の映像が流され、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎もスタジオに登場。この年に日本の文化シーンが転換したことが実感できた。

さてタイトルの話。修学旅行にはお米を持参してたんです。思い出したのは秋田県の八郎潟を埋め立てた巨大プロジェクト。この年から埋め立てが始まり、入植が開始された頃には、もう米余りが起こっていたという、漫画みたいな話。

琵琶湖に次ぐ日本第2の湖を埋めちゃったんです。近代化というのは愚劣です。

当時、お米を買うには米穀通帳が必要だった。スーパーなんてなかったし、あっても売ってはいけなかった。通帳を持って行って米屋で買うしかなかった。配給制だったからです。それ以外で買うのはやみ米。

お米が足りなくて流通を国が管理してたんです。

だから旅館も米が大量には手に入らない。それでお米を入れた袋をバッグに入れて現地で渡してご飯を食べたんです。

何合持って行ったのか。3合くらいだったと思う。旅館では、その米を混ぜて炊いたんだろうか。その辺は分からない。

信じられないでしょ。

お米は大切だった。それが染み付いているからご飯は残したことがない。

2010年12月19日 (日)

冬来たりなば・・・@野川公園(三鷹市)

本格的な寒波が襲来して日本海側は大雪、太平洋側はピーカン。日が沈むのは、まさにつるべ落とし。これからまだまだ寒くなる。冬の自然は厳寒に備えて冬ごもりの準備をしているんだろうと思いながら野川公園の自然観察園をのぞいた。

もう春が来てる。ちょっとこんもりした日当りのいい場所に水仙が群れている。

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ちらほらと花をつけてるんです。花をつけるのは年明けとばかり思い込んでいたのでびっくり。他の株もつぼみが膨らんでいるので、見頃も近いだろう。

気の早い植物にとってはもう春なんだ。

ソシンロウバイも咲いてるらしい。入り口にだいたいの場所が示してある。ここら辺かと思ったが、通り過ぎてしまった。もう一度確認してもどった。

あっ、これだ。

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遠目では色づいた葉に黄色い花がまぎれてしまっている。でも、立ち止まると梅の香がただよう。いい匂い。満開だ。

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素心蝋梅は梅とは違ってロウバイ属ロウバイ科。子供の頃、友達の家に大きな木があったので知っている。梅に先立って咲いていた。

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もう少しで葉が落ちるから花はまだまだ楽しめそう。

これから真冬に向かうのに植物が春を運んでいると思うとポッと灯りがともる。22日は冬至。カボチャを食べてゆず湯に入る。

冬至は日が一番短いが、考えてみれば翌日からは少しずつ長くなる。春が近づいてるんです。だから人類は昔から冬至を祝ってきた。クリスマスも冬至とキリスト教が融合したお祭りです。

水仙とロウバイに春の気配を見つけた午後の散歩だった。

2010年12月18日 (土)

「3匹の熊の家」ってなーんだ?

スタジオジブリの近所の地図を見ていたら「3匹の熊の家」というのがあった。なんだろう?ちょうどジブリの1ブロック裏手だ。

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本社と第2スタジオの間の路地を抜けると、あったあった。しゃれた街灯に「3匹の熊の家」の看板がついている。

ベランダには子供服が洗濯して干してある。池もこしらえてある。

ここはジブリに働く人たちのための保育園なんです。だからすぐ近くにあるんです。歩いて3分。2008年に開園し、宮崎駿監督が初代の園長を務めている。設計も監督がした。

著書「折り返し点 1997〜2008」(岩波書店)のあとがきにこう記しています。

「この10年あまりを振り返ってみると,映画を作る以外にも,三鷹の森ジブリ美術館を作り,今年の4月には社内保育園『3匹の熊の家』をスタートしました。

『保育園をつくりたい』と思ったのは、きれいごとではなくて、子供たちによってこちらが助けられるからです。子供たちを見ていて感じることは、やっぱり希望なんです。『年寄りは,ちいさな子供を見ていると、幸せな気持ちになるんだ』ということがよくわかりました。(中略)


毎日、単調な生活を送っているようでも、体験というのは、本当は人生に一回かぎりです。それを自分の生活のなかでみいだすのは、ものすごくむずかしい。

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ところが,子供たちを見ていると、子供たちにとっては毎日が初めてのことばかりです。その子にとっては大変なできごとの連続ですから、その劇的なシーンに立ち会えるというのは、すごくうれしいことです。

子供が成長してどうなるかといえば、ただのつまらない大人になるだけです。大人になってもたいていは、栄光もなければ、ハッピーエンドもない、悲劇すらあいまいな人生があるだけです。

だけど、子供はいつも希望です。挫折していく、希望の塊なんです。答えは、それしかないですね」

「悲劇すらあいまいな人生」という言葉は重い。ズシリと来た。

屋根を見上げると、3匹の熊が歩いている。「3匹の熊」はイギリスの民話です。宮崎駿監督も「パンダコパンダ」でこのエピソードを使っている。

こんな話だ。「3匹の熊が朝ご飯を作って、散歩に出かけた。そこへ女の子がやってきて、だれもいない熊の家に入った。熊の朝ご飯を食べ、いすをこわし、ベッドで寝てしまった。家に帰ってきた熊は、ご飯を食べられ、いすをこわされていてびっくり。そして、寝ていた女の子を見つけた。女の子は目をさまし、おどろいて逃げていった」。

日本ではトルストイが紹介した話がよく知られているようだ。

これは入り口。中はひっそりしている。お昼寝でもしてるんだろうか。

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ぬくもりがある建物です。日当りもいいし子供たちは気持ちよく遊んでいるんだろう。

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隣は「二馬力」、ちょっと先には、園児たちが遊ぶ「3匹の熊の庭」がある。そっちはこの次に。

2010年12月17日 (金)

ジブリのスタジオに寄り道してから旧浴恩館へ@小金井

山本有三記念館を扱ったので作家シリーズだ。というわけで小金井市の旧浴恩館までウオーキング。ここは昔、下村湖人が所長をしていた建物が残されている。でも、ちょっと寄り道してスタジオジブリの本社に寄っていこう。


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スタートはJR武蔵境駅。ジブリの最寄りは東小金井だけど武蔵境からでもわけはない。北口から西を目指していけばJRの変電所にぶつかる。そのちょっと先だ。

ゆっくり歩いても20分くらい。散歩に出た宮崎駿監督とひょっこり出合わないかななんて淡い期待をいだきつつよそ見をしながら進む。

まっすぐ歩くのも興がないので桜堤団地に入り込む。50年も前につくられた団地で、立て替えが行われて今ではサンヴァリエ桜堤と呼称を変えているらしい。50年もたてば植木も立派に育っている。

「松露庵」と言う案内が出ている。何だろう?

前から気になっていたので入ってみる。庭は公園になっているので、そちらにまわる。茶室だ。古い民家を保存して貸しだしているようだ。

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縁側でひなたぼっこでもしてみたい。

少し戻ってさらに西へ。変電所に沿って曲がっていけばジブリだ。いつもは人の出入りがあまりないが、この日は、何やら忙しげだ。新作に入っているのか。

やっぱり次作に取りかかっていたんです。宮崎監督の長男吾朗氏が手がける「コクリコ坂から」。「なかよし」に連載された高橋千鶴さんの同名漫画が原作。

東京五輪目前の横浜が舞台。帰らぬ父を待つ高校生・海の学生生活や初恋が描かれる。

ちょうど年代が一緒だ。ということは、ビートルズ!。髪を伸ばしてマッシュルームカットにすれば教師がはさみを持って追いかけて来たし、聴いてるやつは不良呼ばわりされた。

FEN(米軍極東放送)から「シー・ラブズ・ユー」が流れて来た時の衝撃。身の毛がよだったね。日本のシングル第1弾は「抱きしめたい」だが、アメリカは「シー・ラブズ・ユー」だった。45回転の赤いドーナツ盤のレコード。まだ持ってる。

ビートルズ抜きにあの時代は語れないでしょ。東京五輪のための景観の破壊と若者の熱狂。言ってみれば疾風怒濤。

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(これは本社の向かいにある第2スタジオ)

そんな時代がどんなふうに登場してくるのか。海を見つめている少女と時代の転換。興味があるね。

2010年12月16日 (木)

庭が落ち着くよ山本有三記念館

前回は山本有三記念館の門前に置かれた「路傍の石」が、やけに大きいと紹介した。12月8日だったから1週間以上がたってしまった。間延びした感は否めないがその続きで庭をに入ってみる。

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記念館は有料(300円)ですが庭は記念公園として開放されてるんです。遠慮しないで入ってください。記念館は、大正15年(1926)に建てられた欧風建築で、ドローイングルーム(応接間)や、個性的にデザインされた3つのマントルピース(暖炉)があり、壁やドアにも細かな装飾がされている。

表から見るだけではもったいない。庭からも眺めてください。

山本有三がここに住んだのは、昭和11年(1936)から敗戦後の昭和21年(1946)まで。どうして21年までかというと進駐軍に接収されたんです。

進駐軍の命令は絶対です。井の頭公園に近くて上水沿い。「このうちはいい。日本人が住むのはもったいない」とかいって立ち退かせたんだろう。ゲストハウスとして使ったんだろうか。

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そういえば、今は何もないけど近藤勇の生家も進駐軍に接収された。敗戦国はみじめなもんです。

しばらくアメちゃんが使っていて、「有三青少年文庫」として開設されたのが昭和33年(1958)だから、その前年くらいに返還されたのか。そして平成8年(1996)から記念館としてオープンした。

庭は広くないが、しっとりとしたたたずまいだ。竹が植えられ池もこしらえてある。

乳母車を押した母親が幼児を遊ばせていた。そんな景色がぴったりくる。ベンチも置いてあるのでじっくりと洋風建築を眺めているもよし、文庫本などを広げてもいい。

今の子供たちは「路傍の石」なんて読むのだろうか?私らのころは教科書にも載ってたし、三鷹にゆかりの作家ということで、本好きの子供は一応、読んだみたいだ。

だけど、しっかりと記憶しているわけではない。修身みたいで敬遠したような面もあったかな。

太宰治のファンもちょっと寄ってみてください。太宰が住んでいた家の近くですから。

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2010年12月15日 (水)

「サイボク」のソーセージをつまみに一杯

埼玉県日高市の「サイボク」内をひと回り。埼玉畜産牧場の略で、豚肉や野菜などを売っていて温泉もわいている。

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温泉は2002年に湧きだしたもので「まきばの湯」と名付けられた。ナトリウム—塩化物泉で源泉は40・6度。毎分922ℓの湧出量があるので源泉掛け流しだ。大人1500円と高めだが平日割引もある。狭山市に住む従兄弟一家は、午後6時からのナイトサービス1000円を利用しているらしい。

これからおじさんの見舞いに行かなければいけないので温泉はパス。地元産の野菜や米も売っている。

ミートショップに戻って酒のサカナを物色。豚タンとソーセージ、豚足を買い物かごに。自家用にはベーコンワンブロックを買ってお見舞いに。80歳と高齢なので心配したが元気そうで安心した。

狭山市駅近くの連れて行ってくれたおじの家で夕食。駅前や駅舎が開発されて記憶の中の風景は失われている。昔は入間川駅だったのにいつの間にか変わっている。駅近くの八幡さまでよく遊んだものだ。

ここには新田義貞の「駒つなぎの松」がある。鎌倉幕府討伐の狼煙を上げた義貞が戦勝を祈願、小手指が原(所沢)、分倍河原(府中)と軍を進めて稲村ケ崎から鎌倉に攻め入った。

入間川御所が置かれたのもここではないか。足利尊氏の次男基氏がここに御所を置いて関東ににらみをきかせた。北関東と鎌倉を結ぶ拠点だった。

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さて夕飯。1品目はソーセージ。大手のは保存剤や防腐剤の匂いが広がるが、全くしない。鮮度も良さそうだ。次いで豚足。これは新しい。かぶりついてすぐに感じた。焼いた豚のタンもうまかった。

酒が進んでついつい長居してしまった。

翌日に昼にベーコンエッグをつくった。1ブロック450㌘で1360円。スーパーで売ってるのの倍はするが、薫製の香りが食欲をそそり、これも新しい。90歳になるオヤジが「うまい」と言っていた。

たまにはこんなプチぜいたくもいいでしょう。都内じゃ売ってないんだよね。一番近いのは所沢の西武デパートに直営店があるらしい。

入間に散歩に行ったついでにお土産にするか。

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米も売ってるよ。餅も売ってた。結構な値段だったがうまいんだろう。

2010年12月14日 (火)

温泉も湧いてるハム屋「サイボク」@埼玉県日高市

「ここのハムはうまいんだ」と元の会社の先輩から聞かされていた。埼玉県の西部エリアじゃ有名らしい。温泉も湧きだして入浴設備もあるという。でも埼玉県日高市じゃ遠いな。車じゃないと行けないな。でも一度うまいハムを食べてみたいと思っていたら、母方のおじの見舞いで狭山市に行くことになった。「石松代参」ならぬ「代見舞い」。

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別のおじが「サイボク」で買い物をしてから病院に行くという。願ったり叶ったり。先祖の墓参りをしてから出発。西武新宿線の狭山市駅近くからどのくらいかかるのか。入間川を渡って狭山市域を過ぎたらもう日高市。その境のところが「サイボク」だった。案外に近いので拍子抜け。駅から15分くらい。

霞ヶ関カンツリーと日高カントリーの間です。東京ゴルフというのもある。

「サイボク」は、埼玉畜産牧場の略です。戦後すぐの1946年に牧場をはじめて、地元では有名らしい。狭山市生まれの母親に聞いたらちゃんと知っていた。「近頃は温泉もあるらしいね」という。温泉が出たのは2002年。まだ10年足らずだ。

行ったのは10日の金曜日。平日だというのににぎわっている。お歳暮のシーズンなので特別なのか。おじたちが品定めをしている間に施設内を見学。モツ煮やホットドッグの店に新聞の紹介記事が張ってあった。

「ブタがここ掘れブーブー」というので掘ってみたら温泉が湧きだしたと、まじめに書いている。東京新聞もつくり過ぎだろう。ここを訪れるのはなんと年間500万人だって。ほんとかいな。

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パンフレットを見ると駐車台数は1000台。そんなに誇張しているわけではなさそうだ。週末はいっぱいになるのかもしれない。

ミートショップをのぞく。ブタ肉、ハム・ソーセージはもちろんコロッケ、肉まん、手作りパンなども売っている。モツが新鮮そうだ。

隣にはレストランも併設してる。人気のベストスリーは、トンカツ、焼き肉、豚しゃぶ。鮮度がいいからうまいんだろう。街中よりやや高めだけど、うまいんなら納得できる値段だ。

まだまだ施設の2割くらいしか見ていない。続きはまた今度。肉を買っておじさんの家で一杯。肴にした感想などを。

2010年12月13日 (月)

深大寺そば屋で「大食い」ロケ

きのうの日曜(12日)は天気もよく深大寺散歩。いつものように裏口からお寺へ。神代植物公園の深大寺門に来たら何やら人だかりがしている。

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ロケでもしてるのか。NHK「ゲゲゲの女房」のロケをしたそば屋に人が集まっている。スタッフは背中に「元祖大食い王」と書かれた揃いのジャンパー。テレビ東京の大食いらしい。

この発想の安直さはテレ東らしくていい。

ちょっとのぞいたが、まだ準備中のようだ。一回りしてこよう。門前に出て鬼太郎茶屋のあたりに来たら、「番組推薦」とかのゼッケンをつけた女性陣とすれ違った。今回は女性の大食いなのか。

相変わらずのにぎわいだ。歩行者天国なみの人。道が狭いので大げさに言えばかき分ける感じ。店も大にぎわい。200円のアツアツ草もちをぱくつきながら水生植物園までぶらぶら。

小一時間して戻ってみたら撮りが始まってた。

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中村有志がいる。顔を見たことのない女性が5人座っていて天ぷらそばが置かれている。

カメラを向けたらスタッフが「×」の合図をして頭を下げた。よく見ると「撮影はご遠慮ください」のボードが置いてある。なんでいけないんだ。

公道から丸見えのところでロケをしてるんだから撮られるのはしょうがない。いやなら幕でも張って見えなくすればいい。

昔はロケがあるとみんなでわいわい集まって、大人は写真を撮っていた。一番覚えているのは「紅の翼」。石原裕次郎。調布飛行場のそばでセスナ(ハリボテ?)を置いてロケしてた。後ろにはでかい板が置いてあって海と空の絵が描いてあった。セスナに裕ちゃんが乗り込んでカメラが前から狙えば、飛んでる姿に見える。

写真はダメなんて誰も制止しなかった。

著作権?準公道だから関係ない。個人情報?テレビに出るんだから認められないだろう。

なんか釈然としない。


2010年12月12日 (日)

オノ・ヨーコ「Wish Tree」に願いを@木場公園

9日に門前仲町で寄り合いがあったので、時間まで木場公園をぶらついた。ここからでもスカイツリーが見えるはずだ。

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公園のどこからでも見える。肉眼ではかなり大きいがデジカメだと豆粒だ。あそこが良さそうだ。公園の北側と南側をつないで大きな橋が架かっている。

仙台堀川をまたいだ木場公園大橋。てっぺんまで上がって橋桁の間からのぞいてみた。仙台堀川は清澄庭園の先で隅田川にそそいでいる。といっても運河だ。江戸時代は舟運の動脈だった。

江戸幕府は海岸からちょっと内陸に運河をつくって各地からの物産を運んだ。沿岸を航行するよりも安全で確実だった。このあたりの南側は海だったんです。少しずつ埋め立てて陸地を増やして行った。江戸初期には富岡八幡の南はもう海だった。

公園の中にある東京都現代美術館へ。メーンの展示は「東京アートミーティング トランスフォーメーション」。中沢新一と長谷川祐子の共同企画。

「生きていることは変わること…日々私たちは変わっていきます」とキャッチにある。人類学とアートの出会い。面白そうだけど、時間がないのでパス。

ロビーをうろついていたら呼び止められた。

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「Wish Treeに願い事を書いて吊るしませんか?」。オノ・ヨーコさんが贈ったものだという。

きょうは日本時間でジョン・レノンの命日。毎年9日に行っているそうだ。そうだ、人ばかりじゃない。世の中も変わらなくちゃとトランスフォーメーションと書いて吊るした。

04年の「YES オノ・ヨーコ」展に出品された「東京のウイッシュ・ツリー〈願かけの木〉」を美術館の庭に植樹したものだ。

これはロビーに置かれているソファ。ふかふかで座り心地がいい。

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時間が来たのでぶらぶら歩いて門前仲町へ。やや早いが先に行って飲んでいよう。


2010年12月11日 (土)

まだ咲いてるよ季節外れのバラ・神代植物公園

いつものように深大寺の自由広場でラジオ体操と軽いジョギング。調子がいいので100㍍を2本。もうちょっと行けそうだ。いくらか筋肉が動いてきたかな。

落ち葉を踏みしめて走るのは気持ちいい。カサカサするのも快適だ。春までには1周(400㍍くらい)できそうだ。

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抜けるような青空に手を突き上げて背中を伸ばすのも気持ちが大きくなる。青空を吸い込んで周辺散歩。

グリーンギャラリーのイチョウは葉っぱが全部落ちた。

だけどまだバラが花をつけている。とっくにシーズンは過ぎているのに頑張っている。そういえば11月の下旬ころに、植物園に「バラ園はまだ見頃です」と掲示してあった。猛暑で開花が遅れたのでずれ込んだんだそうだ。

こっちは無料の園なのでバラ愛好家が手入れしているが、プロに負けじと手入れしているのだろう。顔を近づけるといい香り。

いつまで保てるのか、また来てみよう。

グリーンギャラリーに足を踏み入れるのは深山含笑花をチェックするためでもある。素敵な名前です。ことしの春にこのブログで取り上げたんですが、写真がぼけぼけだった。再チャレンジするために見回ってるんです。

開花は3月なので気が早すぎるんだけど来年はつぼみからちゃんと撮りたいので、チャンスを逃さないように見回ってるんです。

別のバラも咲いてます。けなげだねえ。

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グリーンギャラリーにある園芸相談の事務所は長い間無人でほったらかしになってたが、最近補修工事をはじめた。春には終わるんだろう。都の予算がついたのかな。大きな建物で展示スペースもありそう。野の草花についてやってくれたらありがたい。

2010年12月10日 (金)

Xマス映画はこれをどうぞ「三十四丁目の奇跡」

NHKラジオ「いくつになってもロケンロール!」のクリスマスソング特集を聴いていたら、やたらテンションが上がってしまった。音楽の次は映画だ。引っ張りだしてきたDVDは「三十四丁目の奇跡」。

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1947年のオリジナルです。後年のリメークではありません。

簡単に言ってしまえば、あなたはサンタを信じますか?という話。人を信じることで世の中ハッピーになるという伝統のハリウッド映画。

ちょっとひねってあってサンタの実在が最高裁で争われるんです。つまんなさそうと思うでしょ。それがホンのうまいところ、硬くならずにハートウオーミングに仕立ててるんです。ラストの仕掛けなんか、涙と拍手です。

ニューヨークの三十四丁目は、ばかでかいデパートのメイシーズがある。ブロードウェイと交差するところ。そう、この映画はメイシーズとのタイアップ、というよりメイシーズのイメージアップ宣伝で貫かれている。

ますます、つまらなさそうでしょ。それなのに、うまく作品の舞台にして巧みなんですっととけ込んでしまう。見終わってメイシーズで買い物しようと言う気にはなるけど、それがうまさ。

きっとクリスマスシーズンに公開されたはず。メイシーズの売り上げもアップしたことだろう。

戦後すぐにタイアップ映画が作られてたんだ、ハリウッドの商業主義は徹底してた。映画は芸術かなんて争わないで、製作費を引っ張りだして感動作に仕立ててしまう。偉い。

主演はモーリン・オハラ。メイシーズのやり手キャリアウーマン。クリスマス・パレードのサンタ役にクリス(エドモンド・グウェン)を雇い、続いておもちゃ売り場で働いてもらう。

クリス(なんて直接的な役名なんだ)は子供に欲しい品物を言わせメイシーズにないと、「あそこの店にある」と親切に教えてあげる。このお客本意のやり方が評判になり、社長のお誉めにあずかる。

ところがクリスの態度がおかしい。本物のサンタと思っているようだ。事件が起きて精神病棟に入れられサンタかどうかが裁判で争われることになる。

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モーリン・オハラはサンタクロースの実在を否定している合理主義者。娘のスーザンにはおとぎ話を読ませない。

娘はナタリー・ウッド。この作品でシャーリー・テンプルをしのぐ天才子役と呼ばれ、スターの階段を駆け上がって行く。

初めて1人で見に行った洋画が「草原の輝き」(61年)。ナタリーとウオーレン・ベイテイの共演。

草原の輝き 花の栄光

再びそれは還らずとも、なげくなかれ

その奥に秘められたる力を見い出すべし

映画館を出てワーズワースの詩を口ずさんだ。

同じ年に「ウエスト・サイド物語」が公開されている。少年はすっかりナタリーのファンになっていた。

クリス役のエドモンド・グウェンはアカデミー助演男優賞に輝いている。プレゼントをもらったんだからサンタさんに賞をあげないわけにはいかないでしょ。

2010年12月 9日 (木)

一気に青春!Xマスソング特集「いくつになってもロケンロール」

きのう(7日)のNHKラジオ「亀淵昭信いくつになってもロケンロール!」はクリスマスソング特集だった。ラジオにかじりついてポップスを聴きあさっていた中・高校時代に一気に戻った。

あのころ年末になると誰がクリスマスソングを出すのか、わくわくしながら待っていた。ビング・クロスビー、フランク・シナトラなどの定番に新たにヒット歌手が吹き込んでいた。

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《ラジオなので写真がないのでICU(国際基督教大学)のチャペルを撮ってきました。扉に花輪が駈けてあり、庭のヒマラヤ杉に電飾がしてあった程度で、派手な飾りはなかった》

きのうの放送は新旧の歌手を交互にかけて対決のスタイル。こんな曲がかかりました。

恋人たちのクリスマス<ニュー・ヴァージョン>
Mariah Carey

ホワイト・クリスマス
Pat Boone

クリスマス・ツリー
Lady GaGa feat. Space Cowboy

赤鼻のトナカイ
Jack Johnson

リトル・セイント・ニック
The Beach Boys

ハッピー・クリスマス<ウォー・イズ・オーヴァー>
Maroon 5

ママがサンタにキスをした
The Jackson 5

ラスト・クリスマス
Hilary Duff

サンタが街にやってくる
Frank Sinatra & Cyndi Lauper

こちとらは旧の方に反応しまくり。パット・ブーンでテンションがピークに達して夜なのにボリュームを上げてしまった。ジャクソン5のマイケルは12歳。声がかわいい。高音がきれいに抜けていた。ブレンダ・リーがかかったと思ったんだけど曲目表にないから錯覚か。

ラストはシナトラとシンディ・ローパーの夢のデュエット。

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《ICUの本館前の芝生。緑あふれるキャンパスだ》

堪能した。でもまだ足りずにユーチューブでナット・キング・コール「ザ・クリスマス・ソング」、シナトラ「レット・イット・スノウ」を聴いて、最後はこれでしょ。ジョン・レノン「ハッピー・クリスマス(ウオー・イズ・オーバー)」で締め。

戦争が終わって祝うクリスマス。パールハーバーの前日に聴くといろんな思いが交錯するね。

「いくつになってもロケンロール」については、5月27日にも書いてます。よろしかったらのぞいてください。

この半年ほど岩槻里子アナがくだけてきていいね。宛先を紹介するだけなんだけど、亀ちゃんが「岩槻アナどうぞ」とふると毎回異なった受け方で紹介に入る。最初は紋切り型だったんだけど、きのうなんか「ハイ!承りました」とやわらかく受けて、亀ちゃんと波長が合ってきた。「N響アワー」を担当してるらしい。

2010年12月 8日 (水)

路傍の石はでかい!山本有三記念館

吉祥寺から井の頭公園を抜けて玉川上水沿いに三鷹を目指している。上水の紅葉を楽しみながらそぞろ歩いている人が多い。車も少ないし、気持ちのいい散歩ができる。

太宰治の入水地点近くに山本有三記念館がある。庭に腰掛けもあるからひと休みして行こう。

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最近では「米百俵」の戯曲を書いた作家として名前が出たのでああそうかと思い出すだろう。

代表作の1つが「路傍の石」。

厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず、ひたむきに生きて行く吾一少年を主人公にした作品。道ばたの石ころでも志を持って生きることが大切だということなんだろう。

小説を読んだ記憶はないが何となく知っている。映画で見たのか。家城巳代治監督のか。1963年製作、もう高校生で生意気だから、こんな正しい映画は見てるはずがない。これは少年向け作品のようだ。

久松静児監督版は60年、母親は原節子、飲んだくれの父親が森繁久彌。吾一少年は太田博之。「小僧寿司」だね。

これじゃない。55年の原研吉監督版か、戦前の田坂具隆作品をきっと学校で見せられたんだ。

門の前に大きめの石が置かれている。これが路傍の石だという。

違うんじゃないか。名もない道ばたの石ってこんなに大きいのか。どうもイメージと重ならない。ありふれてないし、これじゃ岩だろ。石と岩がどこから違うのか分からないけど。

「名作を記念する”路傍の石”」と由来が添えられてる。「路傍の石」を執筆中の有三が中野の道ばたでこの石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだ。それでいつか、路傍の石と呼ばれるようになり、屋敷跡が「有三青少年文庫」(その後記念館になる)として開設された時に門前に置かれたんだそうだ。

山本有三はただ石が気に入っただけなんだ。路傍の石と呼んだ人と私の間にズレがあるんですね。

NHKラジオで「亀淵昭信いくつになってもロケンロール」が始まったので、きょうはここまで。クリスマスソング特集だ。

2010年12月 7日 (火)

キツネやタヌキは蒸気に乗らない・中野の次の駅は境だった

昔の人はうまいことを言ったもんだ。甲武鉄道(今の中央線)の路線が決まったとき、地元の人たちは「キツネやタヌキは蒸気に乗らない」と冷ややかだった。ちょっと前は、赤字路線を「空気を運んでいる」なんて形容してたけど、キツネ、タヌキを引き合いに出す方が思わずニヤッとする。(蒸気とは、陸蒸気=汽車のこと。念の為)。

前回取り上げた、はるばる檜原村から武蔵野に移住した高橋家を訪ねようと武蔵境駅にいる。亜細亜大学方面が高橋さんが開拓した地域だ。

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中央線三鷹—立川の高架化工事は終わったけど駅舎はまだ工事中だ。それで巨大クレーンが立っている。ホームに行くのに遠回りをして不便だけど、いつできるのか。

駅の北口から西を目指す。5分も歩くと畑がある。学生たちがおしゃべりをしながら登下校しているのに行き会う。亜細亜大学、あるいは獣医生命科学大の学生も混じっているのか。本校は駅の東側だが、こっちにも校舎がある。

畑に隣接している大きな家の表札を見ると「高橋」だ。あちこちに高橋さんがある。なおも歩くと邸宅があった。300坪くらいはあるのか。となりも高橋さんで、こちらは庭にマンションを建てている最中だ。

それにしても江戸時代の開拓の苦労はどれほど大変だったのか。近くには仙川が流れていて、玉川上水からも近い。それでも、水はいつでも不足していただろう。

関東ローム層は火山灰だけに水はけがよすぎる。日照りの夏は野菜がしおれてしまったろう。高度経済成長期以降は土地が金になったが、それ以前のこのへんの農家は食うや食わずだった。昭和30年代、昼飯の弁当を持って来れない農家の子供がいた。給食なんてしゃれたものは私は経験していない。田んぼが作れないから陸稲を作り、冬には小麦だったが、自家用にはまわらなかったのか。

つぶれ百姓もいっぱいいた。耐えに耐えて生き延びた。

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モダンな豪邸でしょ。左側は蔵です。

ある意味では駅ができたおかげの面もある。駅前に所有していた人は買収に応じたが、ここらは少し離れていたので、戦後しばらく農地のままだった。農業を守っていた人たちが土地ブームの恩恵を受けた。

甲州街道沿いの調布や府中はもともと栄えていたから鉄道に反対した。それで新宿過ぎから立川までまっすぐの線路を敷いた。甲武鉄道の開業は1889年(明治22)。武蔵野村の誕生も同じ年の4月1日。10日後の11日に鉄道が通った。

吉祥寺には駅がない。荻窪もない。中野の次は境だった。新宿—中野—国分寺—立川にしか停まらなかった。必要もなかったし、蒸気機関の火が飛んで茅葺き屋根が火事を起こすと首を縦に振らなかった。

鉄道敷設を推進したのが境の秋元周平、立川の板谷元右衛門、砂川の砂川源五右衛門、安田善次郎ら。秋元の顔も立てて栄えているとはいいがたかった境に駅が作られた。秋元家は駅前にビルをいくつも持っているらしい。

荻窪停車場ができたのは2年後の1891年。吉祥寺はずっとあとの1899(明治32)、三鷹はさらに遅れて1930年(昭和5)になってからだった。

2010年12月 6日 (月)

はるばる秘境檜原村から武蔵野に移住してきた人々

水道橋や虎ノ門から移ってきた人たちが吉祥寺村や西久保村を形成した。隣の練馬や保谷から開拓に応じた人は関前や境村としてまとまった。

おや、この人たちはちょっと違う。こんな移住の動機もあるんだ。

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武蔵境駅前の観音院に立派な墓石が建っている。「高橋家之霊塔」と彫られている。右側に並んでいるのが普通の大きさの墓石、高さ3㍍はある。普通の墓石は、分家した高橋家のもの。

いくつあるのかなあ、両サイドと向こう正面にも建っている。1つにまとめたんだ。というよりもまだ、高橋家を誇りにしてまとまっているんだ。

横には高橋家の由来が刻んである。「我祖先檜原村より八坂神社…」うんぬんかんかんと書いてあるが、何しろ目線の上の方にあるので判読できない。

こういうことが書いてあるらしい。檜原村の人里に住んでいた高橋家の先祖が、玉川上水の拡張工事に人夫として参加したのを契機としてこの地に移り住んだ。その際に八坂神社のご神体を運んで氏神とした。

その時期は正徳年間(1711〜16)だろうという。吉祥寺や西窪が開かれたあとだ。場所は武藏境駅の西側、開拓されずにまだ残されていたのだ。

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江戸時代の初期の武蔵野は土地が有り余っていたのだ。人夫として参加した高橋家の先祖の檜原村での生活はどうだったのだろう。出稼ぎに来るくらいだから豊かではなかったと想像できる。

人里は字名で「へんぼり」と読みます。古朝鮮語説が当たっているのではないか。高麗郡から山奥に移った人がいたのか。

「人」は朝鮮語で「フン」、「里」は百済で「ピユリ」、高句麗で「ホル」、つなげると「フンホル」。なんとなく「ヘンボリ」に近い。

檜原には笛吹と書いて「うずしき」もあるし、青梅線の奥多摩駅の手前には「古里」で「こり」がある。中学のころは奥多摩にハイキングに通い、いっぱしに5万分の1の国土地理院の地図を持って出かけていたので、人里のことは不思議に思っていた。その異境の感じが好きだった。

檜原村は東京都の秘境です。五日市線の終点からさらにバスで行かなければならない。檜原から南に尾根を下っていけば山梨県です。

三鷹の吉野家も檜原村から移住して来たと伝えられている。自由民権家の吉野泰三の家です。享保(1716〜1735)といわれているから、高橋家より少しあとだ。

吉野家も野崎新田を開いている。どうもこのころ檜原から武蔵野へ移るネットワークが作られたのではないか。

2010年12月 5日 (日)

江戸時代の武蔵野新田開拓に応じた人々・境村

住みたい町ナンバーワンの吉祥寺を抱えた武蔵野市の好感度は高いが、江戸時代の初めはほとんど人が住んでいなかった。おそらく井の頭の周辺に小さな集落があった程度だろう。

武藏野市のホームページでも「吉祥寺の八幡宮や井の頭池の付近から、鎌倉時代末期以降に作られた板碑(供養の石碑)が出土されており、この時代にも人々が住んでいたことが推測されます」と遠慮がちに記述している。

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だから原野を開き、村を作った人々は皆、よそからの移住者だ。吉祥寺は吉祥寺門前から、西窪は西久保城山町から移り住んで五日市街道沿いを開拓する。西久保城山は今のホテルオークラの裏手です。

次いで練馬の農民が中心になって関前を、保谷の人々が境を開いた。この4か村が一緒になってできたのが武蔵野村。玉川上水が開通して耕作が可能になったのだ。

境村については前回、なぜ杵築大社がここに鎮座しているのかを中心に少し触れた。

出雲松江城主・松平直政の下屋敷が置かれ鷹狩りの際に使われた。その案内役を務めたのが保谷村の百姓三右衛門。下屋敷跡を与えられて開拓したのが三右衛門らで出雲新田と呼ばれていた。

三右衛門追善のために作られた阿弥陀如来像が今も観音院に残っている。

観音院は中央線武蔵境駅の真ん前にある。改札を出て1分だ。西武多摩川線のホームからは寺院と墓地が目の前に見える。

この寺は杵築大社の別当寺。神社と同時期に作られている。正式には来迎阿弥陀如来像で天和2年(1682)に造立された。武蔵野市所在の石仏としては最も古い。

木にさえぎられているが正面は武蔵境駅です。左手が観音院、右側は市の施設を建築中です。

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石仏は下田家の墓所にある。三右衛門の名字は保谷、のちに下田を名乗ったようだ。

江戸時代に百姓は名字を持っていなかった、明治になってあわててつけたという説があるが嘘っぱちです。多くの百姓は名字を持っていた。公的に使用が許されなかっただけです。

ついでにいえば刀も槍も持っていた。しまってあっただけなんです。秀吉の刀狩りで根こそぎ奪われたというのも俗説です。藤木久志「刀狩り」(岩波新書)は、その実態を調べて面白い。日本国民が本当に武器の所持を禁じられたのはマッカーサーによってなのだ。たかだか60数年前。

観音院の墓地にはもう1つ興味深い墓がある。それは次回に。

2010年12月 4日 (土)

武蔵野市にも富士山があるんです

武蔵野市にも富士山があります。風呂屋じゃありません。高さは、うーん5㍍くらい。あっという間に頂上に登れます。

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所在地はJR中央線武蔵境駅の北口、杵築大社の中に鎮座してます。富士講ですね。三多摩では清瀬の富士山神社に次いで最大のものだ。

築かれたのは明治14年(1881)。境本村や近隣22町村の丸嘉講が協力し、富士登山や七富士参りの際に先達などが、この山に道中の安全を祈願した。(七富士参りは、近隣の富士塚などに参ること。山開きの日に行っていたらしい)。

武蔵野市教育委員会の案内板によると、丸嘉講は富士信仰の1つで、およそ200年前に赤坂伝馬町の近江屋嘉右衛門が起こしたそうだ。

維新後間もなくの明治14年は、北多摩に本格的な民権結社が誕生した年だ。文明開化が浸透する中で伝統的な富士山信仰も活発になっていたのだ。人々は進歩と保守、いつの時代も両方の心情を持っているものなんですね。

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頂上にあるのは当然、富士浅間神社です。

ところで改めて考えてみると、杵築大社とはすごい名前だ。祭神は大国主と事代主。関東にも大宮の氷川神社など出雲系の神社は多く分布しているが、そのものズバリの杵築大社を堂々と名乗っているのは珍しい。

今は出雲大社となっているが、明治4年(1871)に改称する前の本家の名前は杵築大社。

延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列している。なんで変えたんだろう。明治4年といえば、廃仏毀釈で知られる神仏分離令が出された年。何か隠されている。なんだろう。

大社を名乗る神社が武蔵野の田舎に鎮座しているのは江戸時代の殿様に関係している。徳川家光の従兄弟で出雲の殿様、松平出羽守直政が、このあたりを御用屋敷と定め、鷹狩りをしたという。その折りに杵築大社を創建したのだ。

殿様の命令だから大社の使用も意のままだったろう。

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御用屋敷とした当時、多分慶長年間(1648〜1651)には玉川上水はまだ開通していなかった。人が住んでいたのか。水がないから農民は生きてゆけない。

玉川上水ができると用水を引き、人々が移り住み始めた。下屋敷も幕府直轄地となった。移り住んだのが保谷の下田家。

十数年前に杵築さまに初詣に参ったことがある。作家の志茂田景樹さんが来ていた。「笑っていいとも!」に出てたころだから人気があリ、人だかりがしていたので分かった。下屋敷後を拝領して境村を開拓した下田一族に連なるのだろう。

2010年12月 3日 (金)

福島駅のそばで見つけたそば処「高山」

在来線を福島で降りて、遅めの昼飯。朝は旅館でたらふく食べたから軽めでいいということで、2年前に行ったそば屋をさがす。

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高湯温泉の旅館「ひげの家」の若女将に教わったそば屋だ。こぢんまりとしていい宿だった。飯もうまいし、源泉掛け流しの硫黄泉が温泉に入ったと実感させてくれる。

その時は近所を散策してバスの時間が合わなかったので、タクシーを呼んでもらった。若女将が運転手さんに場所を説明、そば屋に乗り付けた。

確かイトーヨーカドーの裏の方だった。記憶を辿って大通りを突っ切って行くとありました。そば処「高山」、福島市太田町。新幹線口を下りて5分くらいです。

店に入るとおかみさんがなんか言いたそうにしている。注文を終えて「前にきたことがあるんです」というと、すぐに分かった。うれしいね。一度来ただけなのに覚えてくれているなんて。

聞けば西会津のご両親が作ったそば粉を使っているという。「ことしはどうだったんですか。猛暑にやられたんでしょう」「いいえ、西会津は大丈夫だったんです」

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ひげの家のご主人も買い出しのたんびに食べにくるという。「さっきまで増田明美さんご夫妻がいらしてたんですよ。駅伝のたびに来てくださるんです」

夜はお酒も出す。「きょうは競馬界の方の予約が入ってるんです」と福島競馬場の入場券をくれた。おなじみさんらしい。ということは地元の人が通う店。

今度は夜、団体の予約が入っていないときにくると約束して表で写真を撮っていたら、ちょうどおかみさんが顔を出した。夜はいろいろと地のものが食べられそうだ。

てなわけで翌日は福島競馬場へ。さっぱり当たらないので、東日本女子駅伝の応援に。ダメ元で「駅伝見たいんだけどいいですか」と聞いたら「どうぞ」とあっさり。名前を告げたらノートに記入して外出OK。東京でやったことはないけど、多分ダメだろう。ローカルはのどかでいいね。

帰りは顔を覚えていてくれたので、さっとドアを開けてくれた。見るとエスカレーターのそばでおばさんが野菜を売っていた。キャベツには名前を書いた紙が張ってある。売約済みなのだ。帰りに持って行くのだ。とろろ芋がおいしそうなので1つ求めた。

東京のスーパーのより粘り気があってうまかった。

写真の選手は長野の小田切亜紀。かなりのスピードなのでシャッターチャンスは一度だけ。やっと撮れたものです。1位の堀江知佳(千葉)はシャッターは切ったものの車線の真ん中を走っているので小さくて迫力がない。一応掲載してみます。(駅伝は11月14日に行われた)。

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2010年12月 2日 (木)

安達駅で売ってたシモフリシメジ200円

智恵子の生家から歩いて東北本線の安達駅へ。「安達が原ふるさと村」があるようだが、鬼婆がいるわけではないのでパス。

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小さな駅舎で電車を待っていると、おじいさんがバッグからキノコを取り出して「買わないか?」という。
1パック200円。シモフリシメジだという。霜が降りる頃に採れるので名付けられた。おいしそうだ。

家に戻って調べてみると、幻のキノコで、香りは松茸よりも優れていて、いいダシが出るという。でも、本物かなあ。別名は銀茸というように、写真を見ると傘が銀色だ。これは普通の茶色。だまされたかもしれない。


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「きょうはキノコ鍋」と宣言したのはいいが、毒キノコじゃないかと心配になる。見知らぬおじいさんから買うなんて思慮が足りなかったと反省。1本だけソテーして試食してみる。30分経ったけど異変は起きない。大丈夫だろう。

しゃきっとしていて食感はよかった。家族みんな鍋を食べたが、特に好評ではなかった。

安達からは福島を目指す。安達の次は松川。停車時間にきょろきょろ見回したが、松川事件を思わせるものは見つけられなかった。下りてもいいんだけど次の電車まで1時間あるのであきらめた。

2010年12月 1日 (水)

「青踏」と高村智恵子・二本松の記念館

智恵子の杜公園は峠の頂上にある。坂を上がって行くと展望台がある。写真に写っているコンクリの円筒の建物です。公園については前回に書いてます。

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南西には安達太良山を望み、後ろを振り返ると阿武隈川が流れているし、二本松の町が見渡せる。緑に覆われている。山、というより丘と丘の間の窪地を切り開いた道に沿って民家が建ち並んでいる様子が見て取れる。

帰りは山道ではなく車も通れる道路をのんびりと下る。

記念館には、戦災から免れた油絵や紙絵などが展示されている。

よく知られたことなんだろうけど、同行したおっさんたちが知らなかったのは雑誌「青踏」創刊号の表紙。「原始女性は太陽だった」で始まる平塚らいてうの創刊の辞とともに表紙も有名ですね。多分、教科書に載っていた。

でも、誰が表紙を描いたかなんて考えてこともなかった。「青踏」の創刊は1911年(明治44)。智恵子が日本女子大を卒業して4年目のこと。この年の12月に初めて高村光太郎のアトリエを訪ねているので、まだ長沼智恵子。

「青踏」を創刊したのは日本女子大卒のグループ。そんな縁で洋画家を目指していた智恵子に声がかかったんだろう。

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この写真もよく知られてます。酒造業を営んでいた生家です。


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さて、東北線の安達駅まで歩いて行くとするか。安達が原の鬼婆で有名な安達です。記念館からは歩いて20分くらい。列車の時間も切符売り場の女性が調べてくれた。ぶらぶら歩いてちょうどいい。

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