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2010年11月 1日 (月)

三鷹は品川県、府中・立川・八王子は韮山県

多摩地区が神奈川県所属になったのは明治5年(1872)のことだ。明治の初め、多摩地区は神奈川県に属し、東京府への移管に関しては自由民権運動が関係していると前回、扱った

その前はどうだったのか。紆余曲折をたどっている。明治維新から移管までを駆け足で見ていく。

各地区まちまちで、多摩全体をくくることはできないので、三鷹地区を例にとる。明治維新でまず三鷹地区は品川県に入った。これが明治2年(1869)。まだ三鷹村は構成されていない。

多摩西部は韮山県だったか?これは多分、江戸時代の多摩方面の代官、江川太郎左衛門の管轄した地域が、そのまま韮山県になったのだ。江川は伊豆韮山が本拠。(あやふやなので興味のある方は確認してください)。

なんで品川県なのか不明だが、世田谷、調布、府中は品川街道が通っているし、多摩川という交通路があったせいか。

Cimg0022

(表札は「東京府北多摩郡武蔵野町境(緑ヶ岡)」となっている。三鷹の隣の武蔵野市のものだ。中央線の南側です)

混乱期なので政策はコロコロ変わる。明治4年(1871)11月には廃藩置県が行われ品川県は廃止された。

東京府に入ったのが牟礼、下連雀、上連雀。

他の野崎、野川、上仙川、中仙川、下仙川、深大寺、北野、大沢の各村は神奈川県になった。(井口がない。大沢がここでまとまりに入ってくる。それまでは他村は7番組だったのに対して大沢村は9番組に入っていた)。

2カ月後にはもう変更だ。明治5年の1月、多摩地方の村は神奈川県ということになった。したがって三鷹の牟礼や上・下連雀は東京から神奈川に所属替え。

この状態がしばらく続く。三鷹の西部地区の野崎や大沢は、別の組合に属していた。

三鷹村ができるのは、ようやく明治21年(1888)のこと。市制町村制が公布され、今の形になった。深大寺新田は調布の深大寺母村から分かれて三鷹に入った。それで三鷹と調布の両方に深大寺の地名が残っているわけです。

まだ所属は神奈川県です。

多摩は経済的に神奈川と密接に結びついていた。八王子の絹は「絹の道」を通って横浜に運ばれ、他の地区も養蚕を行っていたから鶴川街道などで横浜に運んでいた。多摩川の水運も横浜への輸送に役立った。

そんな状態のところへ多摩の東京府移管が発表された。

表向きは玉川上水の管理。府民が使っている水道なので東京の管理下がふさわしいというわけだ。だが、裏の目的もあった。

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