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2010年11月の記事

2010年11月29日 (月)

岳温泉から智恵子の生家へ@福島二本松

岳温泉に行ったのは今月の12日だから、もう半月上も経ってしまった。紅葉もラストだったから今頃は初冬の景色になっているのか。

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宿の車で二本松駅まで送ってもらい、そこからは路線バスで智恵子の生家へ。2年前に訪ねたことがあるんだけど、裏山にある智恵子の杜公園に上って安達太良山を見たかった。

生家の横の路地をたどって行くと公園入り口がある。そこから上は急な階段が見上げるほどだ。智恵子記念館の切符売り場で荷物を預かってもらってよかった。受付の女性が快く承知してくれたので、急階段もなんとか乗り切った。

そこは稲荷八幡神社。智恵子筆跡の「熊野大神」の碑がある。お稲荷さんと熊野の関係は分かりません。

ここからはなだらかな山道になる。記念館でもらった冊子によると「純愛に生きた二人が手をとりあって登った鞍石山。ここは光太郎と智恵子の純愛を優しく育んだ地。鞍石山は、安達太良山と阿武隈川が同時に眺められる唯一の場所とされるほどの景勝地。そんな眺望、環境の中を語らいながら歩いたのでしょう。そんなことを思いうかべながら優しさの中で燃えた二人の純愛の世界を散策してみてください」。

「愛の小径」というんだそうだ。山道が続く。広場があったり、彫刻が置かれていたり、工夫をこらしているが、「まだか」。

20分くらい歩いたろうか。ようやく展望台下に。

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あいにくもやがかかっている。気圧配置が冬型で、日本海の雲が安達太良までかかっているんだ。

左側のポチッとしたのが安達太良山の山頂です。別名乳首山。分かりやすいですね。白いのは雪です。

山の向こうには磐梯山があり、左の方へ下りてゆくと猪苗代湖に至る。

安達太良山は、安達太郎が変化したんだろう。この辺の地名は安達。安達が原の安達。鬼婆伝説で有名だ。その昔、郡主の安達太郎は隣郡の信夫荘司の娘を妻にしていた。信夫は福島市。信夫山が駅のすぐそばにあります。信夫山という相撲取りもいた。栃若時代のことだ。

時の奥羽国司が悪いやつで太郎を殺して妻を奪ってこいと命令する。太郎は鎌倉に逃げるが、妻は夫が死んだものと思い自害。残された遺児は猪苗代に逃げ延び、成人して安達二郎と名乗る。そして安達岳に太郎の廟を建てた。

二郎の子は二本松三郎、安達一族はその後、畠山と称した。

なんだ、立派な道がある。車で来られるんだ。記念館の女性に「急な階段だった」と報告したら、「歩いて行ったことはありません」だって。

2010年11月28日 (日)

京都の学ちゃんが丹精込めた菊

京都の学ちゃんが丹誠込めた菊の写真を送ってきました。庭いっぱいに作ってるんだ。

菊作りのことは知らないけど、春から愛情込めて手入れをするんだろうな。

               □     □


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ブログに私の菊のことが出ていましたので
写真を撮ってみました。

以前も言いましたが、今年は不満の菊作りでした。
もう花が終わりかけもありますが、お送りします。
話の種になれば・・・・。


「ことしは不満」と書いてあるが立派なもんです。これだけの大輪を咲かせるのは大変だろう。

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学ちゃんにはいつも花の名前を教えてもらってます。散歩で見つけた花の写真を撮ってメールで見てもらってます。前に同じ職場で働いていた時に、道ばたの花の名前を教えてもらったことが何度もある。詳しいんです。

来年も菊の写真を送ってくださいね。


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2010年11月27日 (土)

「ニコニコ共和国」は日本国に統合されてた@福島

二本松城を後にして岳温泉に着いてから、ここがかつて「ニコニコ共和国」だったことに気づいた。観光案内所が国会議事堂で、名残りの文字が残っていたので思い出した。

もう何年前になるんだろう、雨後のタケノコのようにミニ独立国が林立したのは。そんな現象があったことはすっかり忘れていた。

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最初に日本国からの独立を宣言したのは大分県宇佐市の「新邪馬台国」、1977年だった。30年以上前なんですね。

ブームに火をつけたのは井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」(81年刊)。すでに井上さんがラジオドラマ化、雑誌に連載もしていたので、刊行前に話題になっていた。

東北の村が日本国に愛想をつかしある日、独立を宣言する。食糧もエネルギーも自給、国語はズーズー弁。仰天した日本国政府は自衛隊まで繰り出して阻止に全力を挙げる。

ハイ、自衛隊は「暴力装置」なんです。日本国に歯向かうと暴力装置がオンになるようにできてます。おとなしくしていると本性は見せません。

岳温泉が「ニコニコ共和国」として開国したのは82年。観光協会の事務所に一枚の垂れ幕を下げ、観光協会長(大統領)が独立宣言。地元の新聞がでかでかと報じてからが大変。マスコミが押し寄せて大騒ぎ、あわてて国家の体裁を整えた。

            ---------- 独立憲章 ----------
1.国民はいつもニコニコ。
笑顔であいさつします。
1.健やかな心と健やかな体
国民の目標です。
1.こどもは共和国の未来。
お年寄は共和国のたから。
ほんとの青空の下で仲よく過ごそう。
1.岳の自然を大切に。
野山の木は折りません。ゴミはすてません。
1.酒を愛し、歌を愛し、友(ひと)を愛する・・・
これがニコニコ精神。
さあ、じゃんじゃんやろう。

一躍話題になって観光客は前年の1・5倍も押し寄せた。

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豆腐屋さんが国立蛋白研究所、ヌード劇場は国立演芸場。閣僚も任命されるなどパロディー精神にあふれた楽しい共和国だった。

※上の写真は、温泉街の下にある鏡ヶ池公園の紅葉。共和国が健在のころは、ここが国立公園だったのか。右は夕日ヶ丘展望台から安達太良山を望む。

もともとは東北新幹線が、最寄り駅の二本松を素通りすることから危機感を抱き、共和国の発想が生まれた。共和国の歴史については岳温泉のHPに詳しいので、あたってみてください。

ブームはさすがに30年も持たない。最盛期には200以上を数えた各地のミニ独立国も、活動停止状態に陥り、今では50カ国くらいといわれている。

「ニコニコ共和国」も06年に、共和国最後の晩餐を行い日本国に統合した。

不況のせいでパロディーを楽しむ余裕が無くなってしまったんですね。

展望台へは歩いて10分ほど。ほぼ正面が安達太良山。日本海側からの雲がかかってます。展望台から下りたら雨がポツポツ降ってきた。

宿の「扇や」に戻ったら本降りになった。風も出ている。さあ、温泉だ。雨に打たれ、風に吹かれて、紅葉を愛でながら露天風呂にザブン。

いい湯だった。扇やでは内庭が望める特別室に案内してくれた。広くてゆったりとくつろいだ。感謝。

2010年11月26日 (金)

やるじゃない雑草男も金・アジア大会サッカー

A大サッカー部OBのマチダさんから祝福のメールがきました。雑草軍団、よく耐えた。特に準決勝のイラン戦は逆転してからキーパ−まで上がってくるパワープレーを良くしのいだ。

UAE戦でもキーパーにヘディングされたけど、なんとか外れてくれた。日本サッカーも前進してるのかな。

                ◇     ◇

U-21やりましたね。試合内容は2-8か1-9くらいだったけれど、マインドが強かった。

あの世代特有の物怖じしないというかトッポさが、いい結果をもたらしたともいえるのではないでしょうか。

実藤の決勝点は見事の一言。イラン戦の永井も同様で、右のあの地点からあのコースへ決められるようになっているのは、若い連中のシュートレベルが上がっているとも言えますね。

ただ、日本の戦い方は守って守ってワンチャンス、いつまでも岡田ジャパン方式しかないのでしょうか。

疲労などあったのだろうけれど、球際が依然弱いので、チャンスに結び付けられない場面が多く、イラつきました。DFがよく守ったということでしょう。

欧州チャンピオンリーグなどを見ていると、超攻撃サッカーが主流で、面白さが違います。リーグ戦と国旗を背負った戦いを単純に比較はできませんけれど。

いたずらにバックパスをするのではなく、前を向こうとしていたのは評価できます。この世代以下はその点は割合としっかりしているようです。


試合を見終えて、耐えて忍んで最後に…唐獅子牡丹の世界は、やっぱり日本人に合っているのかもしれないと。ということは1点を取る能力さえ備われば、得点力不足も案外いいのかもと思えて、複雑な心境です。

                           素浪人

あれっサクラが咲いてる@神代植物公園のGギャラリー

神代植物公園の北側にあるグリーンギャラリーを散歩してたらサクラが咲いていた。季節外れに咲くサクラがあるのは知っているが、これは晩秋に咲く種類らしい。コブクザクラのネームがついていた。

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色づいた落葉樹に混じっているので目立たないが、しっかり白い花びらをつけている。ジュウガツザクラと何かの雑種らしい。

真っ赤なバラもまだ散らないで残ってます。ちょっと前に載せた写真と同じパターンで済みません。イチョウとの対比写真をまた載せます。


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このあと水生植物園の深大寺城あとの広場へ。風もなく日差しはポッカポカ。ベンチに座っていたら、いつの間にか寝入っていた。5分ほどだったが気持ちよかった。

leftright  それにしても困ったもんだ。左側の「検索フレーズランキング」をご覧ください。1位から10位まで全部、小金井公園の事件がらみになっちゃいました。

アクセス数が桁違いなんだからしようがないが、ランキングがきっかけになってほかのページも見てほしいと思ってるのにこれじゃ、手がかりの1つが失われちゃう。何日くらいで変わるんだろうか。その時にここにどんなフレーズが登場するのかな。

2010年11月25日 (木)

まだ野草は咲いてるよ@野川公園・三鷹

さすがにもう野草は咲いてないだろうと思いながら勤労感謝の日の23日、野川公園の自然観察園をのぞいてきた。三鷹西部図書館で例の「小金井公園変死体事件」の掲載紙を調べたついでです。

7、8人の若者グループがやってきて、女の子が「いいところねえ」と新鮮な空気をいっぱい吸い込んでました。湧き水が流れ、ハケの自然が保存されている武蔵野の原風景だ。

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園内には池もある。雑木に囲まれた水辺は落ち着きます。

これは人工のようだが、公園になる前にも池があり、フナやドジョウを捕ったり、スルメでザリガニを釣った思い出がよみがえる。

つぎはぎをしたズボンにランニングシャツ、物はなかったけど豊かだった少年時代。塾もなかったし、みんな貧しかったからいじめもなかった。

水はいいですねえ。静かな水面を眺めていると安らぎます。

休日なので散策グループはのんびりと自然を楽しみ、カメラを持った人は草花にレンズを向けている。

何が咲いてるのかな。ゆっくり歩いて左右を注意してみる。

リンドウだ。枯れ葉の茶色に薄紫の対比がなんともいえない。

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花の名前はあまり知らないが、これくらいは知ってます。子供の頃にはありふれてたもん。最近は少なくなってしまったようです。でも晩秋に咲くんだっけ?

ところで勤労感謝の日は11月23日で固定されてます。ハッピーマンデーとかで動いたりしない。戦前は神聖な新嘗祭なので、むやむに動かすことはできないのだ。

その年の五穀の稔りに感謝を捧げる宮中で最も大切な行事。瑞穂の国としては農業の収穫が最も大切なのは当然のことだろう。だから新天皇が即位して最初の新嘗祭は大嘗祭という。

戦後、神道行事が国民の祝日になるのはまかりならんと、占領軍の命令で勤労感謝の日に変えられた。英語では「Labor Thanksgiving Day」。

アメリカでは11月の第4木曜日が感謝祭、Thanksgiving Day。収穫を神に感謝する日。ことしはきょう25日です。なんだか似てますね。キリストと神道の万の神。神が違うだけです。

同じではまずいというのでLabor Day(労働者の日、9月の第1月曜日)のLaborをくっつけて、勤労感謝の日と名付けたみたいだ。だから日本語としてなじんでない。直訳風になってるんだ。

入り口近くで見つけたのがカントウヨメナ。だと思ったんだけど、カントウヨメナはヨメナより白いとあるのでヨメナかもしれません。

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ヨメナは万葉の頃から知られ、ういういしい嫁のような花で食べられる菜という事から嫁菜。

というのはきっと嘘でしょう。だって、嫁が初々しいという概念はずっとあと近世になってからできた感じがする。

夜目菜ーーも違う感じ。

ただ、春の若芽は野菊の中で一番おいしく、おひたしや天ぷらにする。カントウヨメナは食べない。

西日本に分布するのがヨメナ、東日本がカントウだ。

ツワブキもまだ健在。

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ムサシアブミの実もまだ赤く熟してます。

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2010年11月24日 (水)

新聞記事を見つけました・小金井公園の変死体

21日に小金井公園で死体が発見された事件。「いつきさん」のコメントを確認するために図書館に行ってきました。出てました。22日の読売新聞朝刊武蔵野版。「いつきさん」ありがとうございます。

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小さな記事をかいつまむと、発端は21日0時40分頃。高齢の女性が倒れて死んでいるのを公園の職員が見つけ110番。

田無署によると、女性に目立った外傷はなく、身元の特定を急ぐとともに、病死の可能性もあるとみて22日に司法解剖を行う。

女性は70歳代くらいで、白いセーターを着用。公園内のツツジが植えてある辺りにあおむけで倒れていたという。

小金井署じゃなくて田無署なんだ。そうなんです。都立小金井公園はほとんどは小金井市なんだけど一部、武蔵野市、西東京市のところがある。

東側の管理センターや野球場は武蔵野市、死体が発見されたつつじ山広場は90%が西東京市だ。植え込みの辺りは完全に西東京市。

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こんな話がまことしやかに伝えられています。A署とB署の境は東京湾にそそぐ川。そこへ死体が流れてきた。川の真ん中だ。最初に発見したA署の署員は竹ざおでつついて向こう岸に追いやってしらんぷり。こうして「事件」の管轄はB署になった。

今回の現場は紛れもなく西東京市。西東京市というのは田無市と保谷市が合併して誕生。警察署はまだ昔のままなんだ。

田無署は緊急配備で総出の日曜出勤になったのか。ご苦労様。

それにしても70歳代の女性はひとり暮らしなんだろうか。23日の朝刊もチェックしたが身元判明の記事はなかった。

天気がいいので散歩に来て、発作を起こし苦しんで植え込みに入って倒れたのか。早く身元が分かるといいですね。南無。

                tulip        maple

最後は小金井公園の正門、たてもの園辺りで咲いている皇帝ダリアの花をみて気分転換してください。霜が降りると枯れてしまいます。そろそろ霜予想なので見たい人はお早くどうぞ。

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2010年11月23日 (火)

病死?日曜午後小金井公園の物々しい捜査

きのうの「何だ何だ?小金井公園で殺人事件?&皇帝ダリアが見頃だよ」は予想外の反響で、なんと2000アクセスを越えてしまいました。びっくりです。

「事件」があった21日は日曜日で小金井公園は多くの家族連れてにぎわっていた。警察が大掛かりな捜査を行っていた「つつじ山広場」の隣ではバーベキューで盛り上がっていたし、「わんぱく広場」は草そりを楽しむ子供たちで行列ができていた。大勢の人が気になっていたんだ。

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これは阻止線が拡大された後です。向こうの林の方まで黄色いテープが貼られてました。警察車両は20台近く。誰だって大きな事件ではと思います。

きのうはネットも細かくチェック、新聞は朝日と毎日の武蔵野版を注意して読んだけど、それらしい記事は見つからなかった。

コメントをいただきましたので掲載させてもらいます。ブログの下の方にあるのですが、忙しい人は見ないでしょうから重複して載せます。

                  ◇      ◇

※ワタシも昨日小金井公園にいました。
ちょうど息子が迷子になっていた時だったのでゾッとしましたよ・・・・


ウチは新聞とってないんで詳しくはわかりませんが、友達が今朝の朝刊でえた情報では、70歳代女性で、めだった外傷はなく、病死と判断されているそうです・・・・

身内による、年金横領の死体遺棄じゃないでしょうかね・・・


何にしろ物騒ですよね・・・・・


あのあたりは毎年コスモスがキレイなので、よく通っていた道です・・・・
来年はちょっと・・・・行きづらいなぁ・・・・

お邪魔しました~

投稿: いつき
                  ◇      ◇

※今日小金井公園に行ってびっくり!!
毎日犬の散歩をしているのでとても気になります。
新しい情報が入ったら教えて。。。


投稿: あんな
                  ◇      ◇

※なにもなかったなら公表すべき。近所の住民は何があったか知りたいです。教えてください。

投稿: 何もなかったのか?

                  ◇      ◇


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いつきさん、あんなさん、何もなかったのか?さん、ありがとうございます。いつきさんのお友達からの情報で間違いないようです。

そいうえば、あれだけ警察がいたのにマスコミらしき人は見なかったし、テレビの中継車も来てなかった。「事件性なし」とマスコミには伝わっていたのかもしれない。

でも、どうしてつつじの植え込みにまで入ったのか。?は少し残る。

昼ご飯を食べたら図書館に行って読売、産経、東京を閲覧してきます。記事を発見したらまた報告します。

2010年11月22日 (月)

何だ何だ?小金井公園で殺人事件?&皇帝ダリアが見頃だよ

11月21日午後。小金井公園の広っぱにパトカーが集まり、警察官20人以上が物々しい警戒態勢を敷いてた。何だ、何だ、野次馬としてはすぐに駆け寄る。

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「何ですか?」

「死体が発見されたらしい。複数のようだ」と見物人が教えてくれた。

何やらツツジの植え込みを鑑識官が行ったり来たりしている。


自殺?他殺?あんな植え込みで誰が発見したのか。犬でも吠えたのか。

阻止線の最前列で見物してると、「どうしたんですか?」と聞いてくるので知ってることを答える。小学生の女の子には、少し迷ったが「殺人かもしれない」というと半分納得した顔をして去って行った。

捜査員はなおも植え込みを探している。あの辺で発見されたのだろう。30分くらい見ていたが、変化がないので公園を一回りすることにした。

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NHKの気象情報で、小金井公園の紅葉が見頃だと伝えていた。バーベキュー広場では、イチョウの葉がハラハラと落ちている。見事な黄色だ。

クヌギなどの落葉樹もそれぞれの赤茶色を演出している。道は落ち葉が積もっている。踏みしめると気持ちいい。今週までが見頃か。

あれ、まだ花が咲いている。見たことのない花だ。淡いピンクというか、紫がかったピンク。地元のボランティアが育てているようだ。

名札がないな。

たてもの園前の広場に行ったら、こっちにもありました。

「皇帝ダリア」。

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「晩秋を彩る巨大宿根草」ーー木じゃないんだ草なんだ。

なおも説明を読むと「中南米原産の巨大なダリア。木立ダリアともいい、成長すると高さ5㍍以上にもなります。日が短くなると花をつける『短日植物』で、公園の花がすっかり無くなった晩秋に優雅に咲き誇ります」。

開花は11月上旬から11月下旬まで。ただし「霜が降りるまで」とあるので次に寒波がくると散ってしまうのかもしれない。

それにしてもでかい草だ。日本じゃせいぜいヒマワリが2㍍、ススキや葦だってそれくらいだ。5㍍にもなる草なんて考えたこともない。(竹は別。木か草か分からないしね)。

幹(茎)も手首くらいはある。宿根草だから花が散ると枯れてしまうのか。

背が高いでしょ。

支えと結び、さらに添え木をしているので風が吹くと倒れてしまうのか。草だから頑丈じゃないんだ。


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1時間近く経った。「現場」に戻ってみると阻止線が拡大されてる。さっきの最前列から10㍍は下げられ、広場の半分くらいがテープで囲われている。きっとテープが足りなくなって小金井署から持ってきたんだ。

応援も駆けつけている。10人は増えている。パトカーは多摩ナンバーだが、鑑識の車は品川ナンバーだ。都内から来ているのか。大きなヤマなのか。

増強されてるでしょ。マスク着用、手袋、腕カバーをして、靴は履き替えてビニールカバーをしている。

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夜9時現在、まだネットには何も出ていない。

朝刊にも何も報じられていない。気になるなあ。

続報はこちら


2010年11月21日 (日)

きょうはアニエス・ヴァルダ気分でイチョウ並木を…

記憶はおぼろなんだけど、色づいた銀杏並木を歩く子連れ夫婦の幸せの姿に衝撃を受けた。ふと見たら間違いない幸せの裏に隠された残酷さが、鮮やかに甦る。いまでもイチョウの葉が落ち始めると、あの映画を思い出す。

アニエス・ヴァルダ監督の「幸福」。

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そんなわけで神代植物公園のグリーンギャラリーを歩いている。本園と道路を挟んだ北側にあり無料で入れる。

メーン通路両側のイチョウ並木が見事に色づき、落ち葉も道を染めている。あれはラストシーンだったのか。1966年(昭和41年)のキネ旬ベストテンで洋画の3位にランクされた作品。

1位はインド映画の「大地のうた」。2位「市民ケーン」というのが今から考えるとおかしいですね。1941年に作られたが、第二次世界大戦で公開されず、ようやく日の目を見たのだ。

以下「奇跡の丘」「男と女」…。ハリウッドの大作は9位に「ドクトル・ジバゴ」が入っている程度。アメリカ映画もニューシネマの時代になっていく。

ヒットしたのは「007/サンダーボール作戦」「メリー・ポピンズ」「バルジ大作戦」など。邦画では「網走番外地・大雪原の対決」が1位で、番外地シリーズ3本が興行ベストテンに名を連ねている。

番外地も見つつ、「幸福」も見に行っていた。やくざ映画からヌーベルバーグまで何でも見てたんだ。それが時代の気分だった。

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※並木の横では、まだバラが咲いてました。バラなめのイチョウはどうですか?グリーンギャラリーはほとんど人が来ないので、ゆっくりするにはいいですよ。


銀杏並木のシーンだけが鮮烈で、ストーリーはよく覚えていない。手元の資料を開くと、タイトルシーンは大輪のヒマワリ畑をゆく夫婦と2人の幼子。幸せいっぱい。

だが夫は自由な女を愛してしまい、ピクニック先で妻に正直に告白する。「リンゴの木に咲く花はどれも美しい」と。一度は受け入れた妻だが、夫がうたた寝から目覚めると妻の姿はなかった。

そして、男と女と幼子が落葉した銀杏並木を歩いている。女は妻ではなかったが、それは絵に描いたような幸せの姿だった。

「幸福」はその後見ていないので、イチョウ並木のシーンは幻かもしれない。それでもいいんだ。わたしにとっての「幸福」は、幸せと幸せの間の断絶、それを象徴する黄色イチョウの葉なんだから。純粋だった。

ヴァルダは4歳下のジャック・ドゥミ監督と結婚して3、4年目にこれを撮った。ドゥミは63年に「シェルブールの雨傘」を発表、カンヌ映画祭のグランプリに輝いている。

幸せの最中にヴァルダ監督は何を見つめていたのだろう。20歳そこそこの若者には、すべてを理解する経験はなかった。今なら分かるのかな。

※別のバラも咲いてました。

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ここにはまた深山含笑花が咲く早春に来よう。ことしはピンぼけの写真だったので来年はしっかり撮ろう。

2010年11月20日 (土)

秋深まる深大寺・あんこ入り草もちはどっちのそば屋がうまいか・調布

深大寺を訪れると門前そば屋の店先で売っている草もち(草もちの中にあんこが入っている)を食べるのがクセになってしまった。

深大寺周辺に着くと、まず目指すのは植物園北側にある自由広場。だらけきった体をラジオ体操でほぐすと、あちこちの関節がゴキゴキいう。

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その後は、ベンチの背もたれに両手をついて腕立て伏せ。ちゃんと地面に手をつくのはしんどいので、ごまかしバージョン。手も汚れなくていい。体がほぐれてきたところでジョギング。

といっても、たったの50㍍。これでも最初はきつかった。こんなに体が重いものだとははじめて知った。ひと月くらい続けているので最近は100㍍ちょっとに伸びた。広場1周は400㍍くらいありそうなので、当面はこれを目標にする。時間は無制限。5分はかかるかな。

適度な運動の後、植物園の脇を通り坂を下りきると門前の通りにぶつかる。左手が「ゲゲゲの女房」で松下奈緒が買って、しばらく野際陽子の遺影の横に飾っていた民芸品「赤駒」を売ってる店だ。

草もちを鉄板で焼いている。あったかくてうまそうなので誘惑に負けてしまった。餡まで温かく持つ手までぬくい。甘さは酒飲みにもちょうど良い。皮は厚い。200円。

山門を通り過ぎて陶器造りの店の隣でもやっている。こちらは170円。さっきの店より皮が薄い。

きょう(19日)、また赤駒の店のを食べた。皮が厚いのが口の中に満足感を与える。あんことのバランスがいいし、かじった実感がある。30円高いけど、こっちに軍配。

てなわけで草もちを食べながら境内へ。


本堂左手のカエデの赤となんじゃもんじゃの木の黄色があでやかだ。後ろにはイチョウが、また違った黄色に染まっている。


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これは元三大師堂下、釈迦堂横のイチョウ。青空に映えてます。


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甘いもので元気になったので水生植物園へ足を伸ばす。小春日和でぽかぽかしてるので深大寺城跡の広場のベンチでひなたぼっこ。

神代植物公園広場のシンボル、パンパスグラスがここにもある。まだ穂をだしている。

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まんじゅうを食べたからきょうは余力がある。深大寺の東側、歩いて10分ほどの調布の野草園へ。もう何度も紹介したけど、野草園前の田んぼの風景がまさに里山。

刈り取った稲からは葉が伸びている。右手はカニ山。雑木林の中にキャンプ場がある。


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この散歩の歩数は9700歩。いい1日だった。

野草園は11月から来年3月まで冬休みです。


2010年11月19日 (金)

1年余の手間ひま掛けた三色千輪咲き・福島二本松

まだ菊人形展の会場にいる。「三色千輪咲き」は栽培に1年2カ月を費やした労作だ。

説明書きによると、外国産のヨモギを台木にして赤、白、黄の菊を接ぎ木するんだそうだ。まず、前年の8月下旬か9月にヨモギのタネを播き、翌年の2〜3月に配色を考えて接ぎ木をする。その後、芽を摘む摘心を繰り返す。

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簡単に言えばこういうことなんだけど、並みのことではないんだろう。「世界初」だそうです。

地元の人たちや菊の愛好家の努力で成り立っているんだけど年々、観光客は減っているんだって。最盛期は30万人もの人が詰めかけたが今では10万を超えるくらい。

地元の人に聞いたら「一度見ればねえ」。福島市内の知り合いも「一度は行ったけど…」の返事。リピートの魅力が失せているんだ。

地方のイベントやテーマパークはどこも苦戦している。にぎわっているのはB級グルメばかり。そういえば2年前にさきたま古墳群を見に埼玉県の行田に行ったとき、忍城の近くの公園でB級グルメ大会をやっていた。

すごい人出だった。次から次へと押し寄せている感じ。その時はあまり関心がなくて、何が出店しているのか確かめもせずに通り過ぎただけだった。惜しかった。ちゃんと見ておけば良かったと悔やんでいる。

《こんなのもありました。五重塔》

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《種類は分かりません。日本人はしだれているのが好きなようです。しだれ桜にしだれ梅》


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《これはしだれの変形?見事なもんです》


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《そういえば京都の学ちゃんが「ことしの菊はうまく咲かなかった」と言ってました。猛暑にやられたんだ。特に赤系がいけなかったそうです。二本松の人も大変だったろう》


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《これは千輪咲きとしだれ咲きですかね。それにしても皆、大輪の菊をよく咲かせたもんだ。不器用で今期のない私にはとても育てられません。頭が下がります》


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さて、菊も見て念願が叶ったし、次に目指すは岳温泉。高原の温泉であったまるぞ。


2010年11月18日 (木)

二本松で「龍馬伝」を見てきた・福島

二本松に行くのは2回目だ。ちょうど菊人形もやっている。日本一の菊人形は一度、見ておきたいと思っていた。東北新幹線を郡山で下り在来線に乗り換える。二本松駅からはシャトルバスが運行している。

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テレビのニュースで見たのか、ここの菊人形は子どものころから知っている。二本松城跡の霞ヶ城公園で毎年開かれるもので、ことしで56回目。随分昔からやってるんだ。

いつのころからか知らないが、毎年NHKの大河ドラマがメーンテーマになっていて、ことしは「龍馬伝」。

城門の入り口にあるのが、二本松少年隊の顕彰碑。会津の白虎隊ほど有名ではないが、下は13歳から17歳の少年たちが戊辰戦争を戦った。二本松の藩士の大半は出陣し、城は空っぽ同然だった。

二本松が落ちれば官軍が目指す会津は孤立してしまう。少年隊は藩内各地に出陣し、多くの命が失われた。

当時、隊の名前はつけられておらず、戊辰戦没者50回忌に刊行された本によってだと言う。

会場では龍馬の生涯が菊人形でしつらえられている。

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母親に抱かれた赤ちゃんから始まって、節目の出来事が順路に沿って飾ってある。菊人形絵巻と称しているようだ。

チラシによると⑴お龍と結婚 ⑵龍馬誕生 ⑶寺子屋の落ちこぼれ龍馬 ⑷千葉道場 ⑸勝との出会い ⑹薩長同盟成立 ⑺寺田屋の変 ⑻大政奉還 ⑼船中八策ーーの9場面がある。

10月1日に始まって11月23日まで展示されているから会期中も時々、花をかえてるんだろう。ご苦労さんです。

でも、感慨は薄いな。「なるほど!」ではなくて「ふふん」てなもんだ。これをどうすれば、今ふうのエンターテインメントになるのか。難しい問題だ。

《千葉の鬼小町の異名を取る佐那にあしらわれる龍馬》

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《小松帯刀と会談する龍馬》


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紅葉と滝をバックにしたこの船中八策が、自然とマッチしていて、こしらえものらしさが消えていてよかった。

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2010年11月17日 (水)

新選組を作った日野宿大火・日野宿めぐり⑹

ペリー来航4年前の嘉永2年(1849)、日野宿で大火が起き、脇本陣の佐藤彦五郎家では、乱心者に祖母が殺された。

彦五郎は自力防衛の必要性を痛感し天然理心流の門を叩き、家の敷地に佐藤道場を開いた。すでに八王子千人同心の井上松五郎が近藤周助の門人だった。彦五郎の家と松五郎の井上家は、甲州街道をはさんで近い。

こうして彦五郎は近藤勇の弟弟子になり、松五郎の弟の源三郎、遅れて土方歳三らが稽古に通ってきた。

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脇本陣の門は、大正15年に火事で焼ける前は長屋門で、ここに道場が作られた。現在の門の左側、駐車場になっているあたりに道場があった。

ところで「祖母殺し」の犯人は「乱心者」で片付けられ日野宿では封印されているらしい。その背景に上佐藤と下佐藤の間に「歴史的紛争」がありそうだと睨んだのが神津陽氏の「新選組 多摩党の虚実 土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎」(彩流社)。

日野の草分け名主は、永禄年間(1558〜70)に美濃の国から日野に移住してきた佐藤隼人家。これを補佐してきた谷帯刀家が絶家となったため、使用人の彦兵衛が新名主・問屋に取り立てられた。正保2年(1645)のことだった。

同姓を区別するために、隼人家を上佐藤、彦兵衛家を下佐藤と呼ぶようになった。

大田蜀山人は文化6年(1809)に2度、下佐藤家に投宿している。勘定方の公務だ。日野のそばを絶賛、著書の「玉川砂利」のなかの「蕎麦の記」に詳しいらしい。その折りに蜀山人が残した文章が下佐藤家に残っている。

勘定方は本陣に泊まるのが筋なのか。脇本陣なのか。本陣でなく脇本陣を選んだとすると当時、下佐藤の方が名が通っていたのかもしれない。

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上と下、いろいろ張り合っていたのだろう。では祖母殺しの犯人は?。神津氏が研究者から興味深い話を聞いているが、私は判断の材料を持たないので、著作を読んでいただこう。

「下佐藤」佐藤彦五郎の妻はのぶ。歳三の姉だ。そんなことから歳三は姉の家にきて遊んでいた。両親を亡くし、兄が継いだ実家の居心地が悪かったのかもしれない。

土方家の石田村と日野宿までは歩いて30分くらい。昔の人は足が速いから20分もかからなかったかもしれない。

歳三は彦五郎にかわいがってもらい、姉の嫁ぎ先でくつろいで過ごした。ごろ寝を楽しんでいたという。写真は入り口から外を見たところ。10年かけて建て直しただけあって立派なもんです。

この家には歳三の最期を伝えにきた市村鉄之助が隠れ住んだ部屋も残っている。賊軍のほとぼりが冷めるのに3年がかかった。

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これは縁側。ひなたぼっこをしてみたい。

日野宿本陣ではボランティアが案内してくれます。昨年、初夏に行ったときはガイドが終わると麦茶をサービスしてくれた。うまかった。また飲みたかったんだけど「夏だけなんです」。

「そのかわり、おひな様の頃にきてください。おひな様を見に来られる方も多いんです」。旧家のおひな様を見るのもいいな。すごいんだろうな。

2010年11月16日 (火)

日野宿本陣は「脇本陣」に格下げされてた・日野宿めぐり⑸

ーー雨中、乞食の風体で武州日野宿はずれ石田村の土方家の門前に立った。当時、函館の賊軍の詮議がやかましいという風評があったため、こういう姿で忍んできたのであろう。

『お仏壇を拝ませていただきたい』

といい、通してやると、

『隊長。——』

と呼びかけたきり、一時間ほど突っぷして泣いていたという。

土方家と佐藤家では、鉄之助を三年ほどかくまってやり、世間のうわさのほとぼりも醒めたころ、…故郷の大垣に送ってやった

------司馬遼太郎「燃えよ剣」の結びです。小説は数行だけ「お雪」のその後に触れて終わる。

五稜郭が落ちる直前、土方歳三は小姓の市村鉄之助を呼んで、英国船に乗るように命じた。

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泣いて残留を乞う鉄之助だったが、「これは任務である」と歳三は怒って、「日野の佐藤彦五郎方へ行き、函館の戦闘の経過を説明せよ」と告げた。(司馬さんは土方家の門を叩いたとしているが、佐藤彦五郎宅だ)。

そして鉄之助に遺髪や写真などを持たせた。函館にきてから撮ったこの写真が、現存する歳三の唯一のものとなった。3カ月後、鉄之助は官軍の包囲網をくぐり抜け彦五郎宅にたどり着いた。その時の描写だ。

すでに歳三はこの世になく戊辰戦争も終わった。年号も明治2年(1869)になっていた。

鉄之助がくぐったのが、この門だ。嘉永2年(1849)の大火で焼け落ちたが、再建して元治元年(1864)から住み始めているので、鉄之助はここから案内を乞うたのか。この門は大正15年(1926)の火災で被害にあったが、親柱、大扉、潜り戸などは類焼を免れたという。

ところで、観光案内などでは「日野宿本陣」となっているが、正確には脇本陣。日野宿には2軒の佐藤家があった。今の日野駅寄りは佐藤隼人家で、こちらが本陣。大名の宿泊などの御用をつとめた。

今の通称本陣は脇本陣で、幕末には本陣を務めたこともあったという。本陣を上佐藤、脇本陣を下佐藤という。

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とはいえ本陣の建坪117坪に対し、下佐藤の脇本陣も112坪。ほぼ同じで同格というか張り合い、日野の渡しの荷物の継ぎ立てを行う問屋場の役目は、1日から15日は下佐藤、15日から晦日は上佐藤が分担していた。

去年もらったリーフレットではキャッチフレーズが「都内に残る唯一の本陣」となっていたが、先日もらってきたものは「都内に残る唯一の本陣建築」と変わっていた。

本文も「日野宿本陣は、都内に現存する唯一の本陣であり、日野市内でも指折りの貴重な文化遺産です」が、「日野宿本陣は、都内に現存する唯一の本陣建築であり、平成22年3月23日に東京都指定遺跡『日野宿脇本陣』として、指定を受けました」と修正された。

ことしから変わったんだ。都の指定で正確を期することになったのだ。

続きます。次回は家の中に入る予定。


「新選組のふるさと歴史館」入り口に飾られている歳三の写真。これを鉄之助が苦労して運んだんだ。

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2010年11月15日 (月)

日野宿本陣の前に八坂神社・日野宿めぐり⑷

「新選組のふるさと歴史館」を出て日野宿本陣へ。その前に八坂神社にも参っておこう。ここには天然理心流一門が奉納した木刀つきの額が奉納されている。

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安政5年(18589)というから井伊直弼による安政の大獄の年だ。近藤周助、勇、惣次郎(沖田総司)、井上松五郎・源三郎兄弟ら試衛館の一門26人が天然理心流の剣術上達を祈年する額を納めたのだ。

土方歳三の名前はまだない。入門するのが翌年だからだ。(額の公開日は確認してください)。

「八坂社」とある下の建物が本殿です。白天井、白壁の建物は覆屋です。全体を覆って保存しているんです。「江戸後期の彫刻装飾の粋を集めた力作」と「東京都の歴史散歩」にある。

写真では分からないですね。

由緒には「昔、土淵の庄の多摩川沿い土淵から拾い上げた牛頭天王像を勧請したのが当社の初めとされている」とあるから相当に古そうだ。

それにしても、観音様は隅田川に、牛頭天王も土手に落ちている。水の流れを伝って仏教が広まって行った記憶が、こうした伝承を作っているのか。

面白いもんだ。

境内では七五三のお宮参りが一段落したのか、片付けをしている。

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建物は本殿ではありません。覆屋です。

さて、日野宿本陣へ行くか。甲州街道を歩いて3分くらいだ。

2010年11月14日 (日)

新選組のふるさとと自由民権・日野宿めぐり⑶

中央線の線路沿いに旧甲州街道の坂を上がりきって左に行くと「新選組のふるさと歴史館」がある。


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2005年にオープン、今年3月から常設展示を行っている。設立趣旨は「まさに日野市は『新選組のふるさと』と言うに相応しい土地であり」と胸を張る。

さらに「新選組を時代小説の対象としてだけではなく、日野と多摩地域の歴史と文化を学術的に明らかにしながら、新選組総体として位置づける必要があります。それは、近世後期から近世初頭の自由民権運動までを見通した、新しい地域史の試みでもあります」と、宣言している。

意気高らかでかっこいいね。そうなんだよね。新選組を物心両面で支えたのは多摩の豪農たち、さらにその豪農たちが明治になって自由党に参加して行く。

「未完の『多摩共和国』新選組と民権の郷」(凱風社)という本がある。著者の佐藤文明氏は「戸籍って何だ――差別をつくりだすもの」(緑風出版、2002年)、「戸籍」(現代書館フォー・ビギナーズ、1981)などの著書がある戸籍研究者。

日野に生まれ日野に育った。名字が示すように日野の名主佐藤家に連なる。タイトルが示すように、新選組と多摩の豪農、そして自由民権運動へとつらなる多摩の風土に「共和国」の遥かな夢を見る。

「(多摩は)日本の歴史の中でもきわめて貴重な自主と自治の郷なのである。幕末、多摩の百姓の固有の歴史が再び目覚めた。(中略)新選組とは、そうした流れの中で産み落とされた確かな傍流に他ならない。本流は維新後もとうとうと流れ続け、自由民権運動へと受け継がれる」。

歳三の甥や土方一族の有力者はこぞって自由党に入党、当時の神奈川県南多摩郡の県会議員はいずれもが地元の旧家出身者だった。

こういう思い込みは好きだね。略歴を見ると1948年生まれ、都立立川高校卒。法政大学在学中に東京都の職員となっている。

荒井晴彦の「シナリオ神聖喜劇」の略歴にも「都立立川高校卒」とある。大学に行った人はふつう高校名は書かないよね。立高卒が誇りなんだ。ほったらかしだったけど、それが自己形成につながる校風で、のびのびしてた田舎の高校だった。多摩の気風が受け継がれていたのだろう。

いまでも三多摩の市長に立高出身者は多い。

「歴史館」では当然、土方歳三の写真が迎えてくれる。管轄している「日野宿本陣」との共通入場券で300円。

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人気があったのが新選組屯所。前川邸の写真が大きく伸ばしてある記念写真スポット。新選組の法被も貸してくれます。

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2010年11月13日 (土)

新選組六番隊隊長が眠る宝泉寺・日野宿めぐり⑵

宝泉寺は日野駅のホームからも見える。裏は高台になっている。多摩川が削ったのだろう。

駅から3分、すぐつきます。立派な本堂の左手が墓地。ライトブルーの旗が目に入る。井上源三郎の記念碑だ。

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「新選組副長助勤 井上源三郎之碑」。裏には「性真摯篤実寡黙実行の人」と刻まれている。

井上家の墓地はもっと奥だ。旗を目がけて行けばいい。墓誌には江戸時代からの名前が刻まれている。八王子千人同心として日野に根を張った井上一族をしのばせる立派な墓だ。墓誌に源三郎の名前はない。

ノートがプラスチックのケースに入れられている。十数冊入っている。右側が源三郎の墓だ。法号は「誠願元忠居士」。

源三郎は近藤勇や土方歳三の兄貴分だった。父や兄とともに天然理心流に入門、佐藤彦五郎の屋敷に構えた道場で剣を学び、近藤らと知り合った。

井上家の分家の次男林太郎が沖田家に婿入りしている。沖田総司の姉ミツと一緒になり、総司(惣次郎)を大火の後の日野に連れて行き、天然理心流入門のきっかけを作った。歴史というのは面白いものだ。

大人気だったテレビ朝日「新選組血風録」(1965)や「燃えよ剣」(1970)で源三郎を演じたのは北村英三(当時は喜多村)。数多くのテレビ、映画で脇をつとめた。渋いというか、どんな役でもなりきっていた。個性を捨ててなりきっていたといってもいい。

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新選組が大衆化したのは、2本のドラマから。原作は司馬遼太郎。栗塚旭の土方歳三、島田順司の沖田総司が若い女性にモテモテだった。思えば「歴女」の走りだったのかな。

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源三郎は鳥羽伏見の戦いで銃弾に倒れた。錦旗に恐れをなした徳川慶喜はさっさと船で江戸に逃げ帰り、以後ひたすら謹慎する。

宝泉寺の前の通りが旧甲州街道。今は線路をくぐり、緩やかにカーブするように変わっている。どうせなら古い道がいい。ここを甲陽鎮撫隊が意気揚々と甲州を目指したんだ。

幕臣となった近藤、土方はさぞかし得意だったろうが、源三郎の姿はない。坂の途中に坂下地蔵堂が建っている。近在の人々が地蔵菩薩を納めた。

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ここからの坂が結構きつい。坂を上りきって左に行けば「新選組のふるさと資料館」があるはずだ。いい散歩だ。

2010年11月12日 (金)

「誠」たなびく日野宿ぶらぶら・日野宿めぐり⑴

中央線日野駅の東側、甲州街道に沿った町並みはレトロな感じで落ち着いてる。高いビルも大型スーパーもない。

日野宿本陣前にある図書館も景観を壊さないでとけ込んでる。

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いいねえ、この町並みは保ってもらいたい。

本陣を目指すんだけど、その前にどこに行こうか。日野市役所の近くに「新選組のふるさと歴史館」がある。まだ訪ねたことがないので行ってみよう。宝泉寺に寄って井上源三郎の墓に参ってからにしよう。

宝泉寺は駅から3分くらい。井上は近藤勇よりも年長で、新選組の副長助勤、六番隊組長。井上家は八王子千人同心で、日野に住んでいた。

もとは今川家の家臣、桶狭間の戦い後に武田家に仕え、武田家の滅亡で日野にやってきた。

だからお墓も日野にある。甲州街道の反対側には「井上源三郎資料館」があるが、第一と第三日曜日が開館日。「土方歳三資料館」「新選組資料館」も同じ日しか開いてないので、きょうはパス。新選組のファンは第一、第三を目がけてやってくるようだ。

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駅前にはこんな地図があります。下が日野駅。駅右手の卍が宝泉寺。駅前通りがぶつかっているのが市役所通り。これを右折して坂を上りきって左折すると「新選組のふるさと歴史館」がある。

市役所通りと甲州街道がぶつかったT字路の左に井上源三郎資料館、甲州街道と川崎街道がぶつかる手前に日野宿本陣、その裏手に新選組資料館…といった具合。

土方歳三資料館は、多摩モノレールに乗って万願寺駅が近い。モノレールの甲州街道駅までは日野駅から1㌔はあるから、ついでに万願寺まで歩いてもわけはない。

でも、ファンだったら歳三の墓がある石田寺にも参りたいよね。そしたら殉節両雄之碑があるゆかりの高幡不動にも足を伸ばしたい。

1日でまわるのは結構強行軍になる。

こちらは地の利を生かしていつでも来れるから、まだ駅前だもんね。

てなわけで続きます。

2010年11月11日 (木)

調布JAXAの前身は中央航空研究所・軍都多摩の軍需産業⑶

調布のJAXA(宇宙航空研究開発機構)の所在地は、三鷹と調布の境界近くなので、三鷹市役所から歩いて3分だ。15〜20分も歩けば深大寺。いつもの散歩コースなので寄り道をすればいい。展示室を公開しているので入ってみた。

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20人くらいの団体がいる。大学生か。外人を案内したグループもきた。結構にぎわっている。はやぶさの打ち上げから回収までをまとめたビデオも大きなスクリーンで上映している。

入ってすぐのところでは、小型超音速実験機が展示してあった。流線型で美しい。それしか感想がないのが情けない。一部がプラスチックになっていて、内部が見えるようになっていた。

うわあ、すごい配線。実験して計測するんだから当たり前だけど、こんなにいっぱい線がつながってるんだ。よくわからないけど感心。

ここでは航空や宇宙開発の技術についてさまざまな研究を行っているとしかいえないのは実に情けない。上野の国立科学博物館で「飛べ!100年の夢 空と宇宙展」を来年2月6日までやっている。「はやぶさ」の実物大モデルも展示、江戸時代から現在までの「航空・宇宙の技術開発100年の歴史と成果」がわかるんだ。勉強しに行こうか。

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※これが小型超音速実験機。未来の飛行機はこんな形になるのか。

「はやぶさ」で注目されているJAXAですが戦前はやはり軍事目的の施設がここにあった。中央航空研究所。軍需産業が集中する武蔵野にあって、さまざまな技術開発をしていたのだろう。

敷地は32万坪もあった。とてつもない広さだ。戦後はJAXA(当時は航空宇宙技術研究所)のほか船舶技術研究所、鉄道技術研究所、消防研究所、消防大学校ができた。

地図を見ると、今では交通安全環境研究所、海上技術安全研究所、消防大学校、東大三鷹寮、杏林大病院などの名前がある。この範囲がそうだったのか。


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※実験機内部の配線

多摩の他の地域にも目を広げるといっぱいある。

日野も軍需産業の集積地だった。東洋時計(現オリエント時計)は、戦時中東洋兵器工業と改名したほど、小西六(コニカ)のカメラ、フィルムは戦争に欠かせない。

富士電機豊田工場は軍の命令で作られ兵器を製造、日野重工業(日野自動車)は軍用装軌車両、神鋼電機は航空電気機器を作っていた。

府中には東芝、日本製鋼所、調布には重機関銃を作っていた東京重機工業(JUKI)、立川には立川飛行機、昭島には昭和飛行機といった具合だ。

多摩でかなりの軍事物資が間に合ったのだろう。

2010年11月10日 (水)

25万人!が働いていた中島飛行機・軍都多摩の軍需産業⑵

多摩には横河電機、正田飛行機など軍需産業が次々に移ってきた。武蔵野・三鷹は京浜工業地帯の衛星都市として位置づけられ、あわせて首都防衛の拠点の役割もになった。「軍都多摩の軍需産業(1)」はこちら。ジューキミシン編です。(3)は見出しの上を見てください。

戦火が拡大する中で、昭和12年(1937)、本命の中島飛行機が武藏製作所(陸軍用)を開設した。横河電機から北へ1㌔くらいのすぐ近くだ。横河で飛行機の計器を作り中島飛行機に運ぶ。輸送に便利だ。

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※中島飛行機跡に作られた武蔵野中央公園。正面のアパートが富士重工(中島の後身)の社宅、右はNTT武蔵野中央研究開発センター

中島飛行機は翌昭和13年、隣の田無に田無鋳造工業(中島航空金属に改称)、16年には隣接する土地に多摩製作所(こちらは海軍の飛行機エンジンを製造)、三鷹では三鷹工場(戦後、半分以上がICU=国際基督教大学=に売却)が操業を開始した。

戦火は拡大し軍備拡張は至上命題だった。

隣接する武藏と多摩の製作所だが、陸軍、海軍が秘密裏に技術開発を行い、情報は交換されなかった。こんなことじゃ戦争に負けるわけだ。

この中島の戦時中の就業人口がなんと25万人。すごい。下請けや勤労動員も含めた人数なのか。中でも最大の武藏製作所は、昼夜2交代で各2万5000人が働いていた。

この跡地は米軍将校用宿舎になりグリーンパークと呼ばれた。プロ野球国鉄スワローズのフランチャイズとしてグリーンパーク球場も作られた。

グリーンパーク、同球場、武蔵野球技場線などについては、すでに触れた。興味のある方はこちらをどうぞ。

「武蔵野市にあった幻の東京グリーンパーク野球場」

「グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く」

「グリーンパーク野球場③六大学野球」

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

通りがかったらNTTの見学開放日だった。毎週木曜日はNTT技術資料館が見学できる。ベルから始まって電話の変遷が展示してある。「きょうは2人目」とかでマンツーマンの説明つきで案内してもらった。

予約すれば、「ディジタル技術とマルチメディアの時代」(2階)、「技術史のラウンジ」(3階)も見学できる。今度は予約して最新技術を眺めに行こう。


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このNTTの地下には地下通路が縦横に走っていた。中島飛行機が作ったものだ。工場内の移動と防災上の目的があったんだろう。

田無の中島航空金属の跡地の一部はひばりが丘団地になってます。

on  次は多摩全体の軍需工場を見て行きます。これから(5日)調布のJAXA(宇宙航空研究開発機構)の展示室を見に行きます。あらら、10月にここで「はやぶさ」を公開してた。知らなかった。

2010年11月 9日 (火)

高野山のほうき・野川公園

高野山では庭を掃くのに竹ぼうきじゃなかったんですね。野川公園の野草観察センターにコウヤボウキが咲いてました。小さいけど、よく見るとゴージャス。かわいらしい。

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キク科。そういえばこれを大型にすると菊の大輪になる。

高野山では茎を束ねて箒に使った。茎を触ってみると弾力があってしなやかだ。箒になりそうだ。どうして竹にしないのか。

高野山では利潤行為を戒めていたんです。だから果物の木は植えなかった。竹はタケノコが生えてくるからいけない。

弘法大師は偉かった。司馬遼太郎「空海の風景」を若い頃に読んで、空海の明晰さに打たれた。

奈良仏教を「論」にしかすぎないと否定し、異なる価値観の密教を確立した。貴族のものだった仏教を民衆に近づけた。

だから僧は民衆の理想型になる必要があった。それで利潤をもとめず修行に励んだ。

関係ないけど「奈良」は「ウリナラ」(我が国)だよね。

コウヤボウキは玉箒ともいわれ、古くからほうきの材料になり正月の飾りにも使われたという。高野山だけじゃないんだ。草ではなく木に分類されるそうだ。

昔の言い方は「たまははき」。いい響きだ。ほうきといっちゃうと身もふたもないが、「ははき」にはやわらかさがある。「羽掃き」あるいは「葉掃き」。丁寧に掃いてるニュアンスがある。ブランコとふらここみたいなもんだ。角がなくて丸いんですね。

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これはツワブキ。黄色い花が目立つ。キク科。

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アワコガネギク。群れていっぱい咲いてます。そういえばみんなキク科です。

キク科の花が終わると、ことしの花もまた来年なのかな。

野川公園も少し色づいてきた。


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そろそろことしを振り返る季節だ。どうだったんだろう。

2010年11月 8日 (月)

吉祥草・武藏鐙…野の花はまだ頑張ってる・野川公園(三鷹)

縁起のいい花を見てきました。キチジョウソウ。庭に植えたこの花が咲くと吉事があると言い伝えられている。わが家の庭じゃないが、野川公園は散歩のテリトリーだから許容範囲だろう。

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葉っぱの下に咲いているので、うっかりすると見過ごしてしまう。何気なく視線を下げたので分かりました。こんな咲き方もあるんですね。

しっかりと赤い実も付けている。写真がへたなので赤く見えないが、実際は真っ赤です。何かいいことがあるのかな。帰って食べた夕飯がうまかったから、それだけでも吉祥。気の持ちようだよね。

「あっちにもあるんだけど咲いてないでしょ。繁った木の下に生えてますが、日当りを好むんです」とボランティアのおじさん。

ちょうど通りかかったので質問したら教えてくれた。庭の木の陰に植えていると花が見られないんだ。だから時々花を咲かせる。納得。

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この写真では感動を伝えきれない。見ていただくのが一番。お近くの方はぜひ。もちろん無料です。

もう野の花もおしまいだろうと思いながらも野川公園の野草観察センターへ。入り口に、咲いてる種類と場所、写真が案内してある。まだ、いろんな種類が楽しめる。

この日(11月7日)は野草の観察会。10人くらいを引き連れたボランティアが案内して説明している。もぐりこんでみよう。

「こんにちは。混ぜてもらっていいですか」
「どうぞどうぞ」

まずは、経験2年というアシスタントのおじさんにデジカメの写真を見てもらって花の種類を教えてもらう。ボケ写真ではっきりしないと、その場所にきた時に「これですね」と親切に教えてくれた。メーンの人は20年もやってるんだって。

これで入り口の案内板の写真と照合しなくてもいい。照らし合わせてもはっきりしないことが多いので助かった。

ありがとうございました。今度は途中からではなく初めから参加します。

でも、12月はさすがにないんだろうな。次回は来年春か。確認してみよう。

変な実を見つけた。なんだろう?

ムサシアブミ。いやでも目立つ。

二股の枝で支えて見やすくしてくれているんだ。

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おっ手前にもあるが、黄色と橙だ。熟すと真っ赤になるんだ。

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まだ2種類しか見てないが、今日は豊作だ。とっても気持ちが豊か。これもキチジョウソウのおかげか。

2010年11月 7日 (日)

野菜の買い出し・三鷹市農業祭&「ヤマト」の西崎さん訃報

《訃報》「宇宙戦艦ヤマト」の西崎義展プロデューサーが、小笠原の父島で停泊中の船から海に転落、亡くなった。海が好きだったから、小笠原の真っ青な海に惹かれたんだ。合掌。

ところで問題になっている尖閣諸島。国会議員としてはじめて諸島の中の魚釣島に上陸したのが西村眞悟氏で、平成9年(97)のこと。そのとき、石垣島まで一緒にクルージングしたのが西崎さん。西崎さん所有のクルーザーで、石原慎太郎現都知事も同乗していたーーと西崎さんが話していたのを思い出した。


                 on      on

きのう(6日)の夕飯は鍋の予定だったので、野菜の買い出しに三鷹市役所の近くでやっている農業祭に出かけた。とりあえずはネギ、白菜など。記念の50回だそうで入り口には野菜でこしらえた宝船などが飾ってある。

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急ぐこともあるまいと品評会のブースがあったので覗いてみる。キャベツ、なす、にんじん、ピーナッツ、ほうれん草、大根など品種別に優秀賞、優良賞などの札がついているが、どこがどう違うのか素人にはさっぱり。あした(7日)には、これらを格安で売るらしい。

花や植木のコーナーもあるのでひとめぐり。売約済みの札が下がっている。安く売っているのだろう。

おもむろに市内産野菜の即売コーナーへ。あれれ、何もない。

「売り切れたの?」
「10時にはなくなったのもあります」
「入荷量が少ないんだ」
「今は時期が良くないんです」
「品評会の野菜は?」
「あちらは、そのために特別に作ってるんです」
「そうだよな。大根もネギも、まだ早いもんな。農業祭の時期を遅らせればいいんだ」

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(ずらりキャベツが並んでる。どれも立派なものだ。優劣は分かりません)

てなわけで、お目当ての野菜はなし。秋と冬野菜の端境期だから量が出回ってないんだ。まだ三鷹の畑ではネギを植えたくらいだもの。出荷は12月か。もっと冬野菜が出回る時期にやればいいのに…とぶつくさ。

まあ庭先販売で売り出すのを待とう。

三鷹市内で庭先販売は何個所でやっているのか、「直販マップ」という冊子が置いてあった。地図つきで、扱っている野菜果物が一覧表になっている。地区ごとになっていたので数えてみると148。大小もあるし、季節オープンのところもあるが、すごいものだ。

この環境は続けて行ってもらいたいし守って行かなくてはいけない。

三鷹市の総面積が1650㌶、うち174㌶が農地。1割強か。結構多いんだ。でも昭和35年には487㌶もあったんだって。そればかりじゃないけど、相続税が大変なんだよね。土地を売らないと払えない。それで農地が減っている面もある。

単純にいえば耕作農地は相続税を極端に減らしてもいい。そのかわり宅地化は認めないとか枠をはめればいい。

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ご覧の通り市内産野菜は全部売り切れ。野菜が高いものね。仕方なくスーパーで買って帰りました。

2010年11月 6日 (土)

JUKIミシンは「銃器ミシン」?・軍都多摩の軍需産業⑴

多摩の公園の戦争前の姿は、多くが軍事関連施設だった。

平和になった公園をブラブラ歩いて「公園と戦争」  club(カテゴリーの「旅行・地域」をクリックしてください。新しいものは、シリーズのブログが表示されます。古いのはタイトルが出てきますのでクリックしてください。公園所在地の地名クリックでも表示されます) clubシリーズで取り上げてきた。

武藏野中央公園と中島飛行機など軍需産業だったところも多い。

あれこれ調べていたら、調布にあったジューキミシンも軍需産業だった。機関銃を作っていた。戦後は技術を生かしてミシンの製造に転換した。

それで、てっきり戦前の会社名は漢字表記で「銃器」かと思ったら違いました。東京重機工業株式会社だった。でも、この重機は、大辞泉の①「重工業に用いる機械」ではなくて②「重機関銃の略」の方だよね。広い意味では「銃器」だ。当たらずといえども遠くない。

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今は引っ越して、跡地は狛江の慈恵会病院になっている。このあたりに本部があり工場は調布と狛江にまたがっていたという。調布から狛江行きの小田急バスに乗ると慈恵会の前を通る。大きな病院だ。

そもそも東京重機は九九式小銃などの武器製造のために設立された。民間企業として軍の小銃を製造したのは名古屋のマツダと東京重機だけだ。

戦後はミシンの製造に乗り出すが、名前は変えなかった。でも「重機」じゃミシンと釣り合わないからカタカナのジューキにしたんだ。今はJUKI。

ミシンは英語のマシーン。マシンガンを作っていた会社がミシンを作るようになるのは、ある種の必然か?

小金井の中央線線路際には蛇の目ミシンがあった。これも軍需産業だったのか?。今、あわててHPで見たら戦前から蛇の目ミシンでした。

軍需工場の多摩進出第一号は三鷹駅北口の横河電機。渋谷にあったが武蔵野町(市になってない)に5000坪の土地をもとめて移ってきたのが昭和5年(1930)。

航空計器、航空機用磁石発電機などを作っていた。

昭和6年(1931)満州事変、昭和7年上海事変勃発。日中戦争はますます拡大していく。

軍備拡張も急がなければならない。昭和8年には正田飛行機、三鷹航空が三鷹の下連雀で操業開始。

正田飛行機は戦後、プリンス自動車になる。プリンスの社名は皇太子のご成婚にちなむ。その前はたま自動車。

プリンス自動車は、立川飛行機の技術者が中心になって設立。正田飛行機がどのようにかかわっているのかは不明。プリンス(たま自動車)は正田飛行機の三鷹の跡地に、府中から越してきたのか。

今でも三鷹の狐久保交差点の近くに日産のショールームがある。ここにプリンス自動車があったのを覚えている。

on 続きます。

2010年11月 5日 (金)

多摩が神奈川県から東京府に移管になったわけ

政府が多摩の移管法案を国会に提出したのは明治26年(1893)2月。政府の説明は、東京の飲み水である玉川上水、水源を管理するため。一応筋は通っている。

 (多摩の移管については、「三鷹も府中も立川も…多摩はみんな神奈川県だった」「三鷹は品川県、府中・立川・八王子は韮山県」でいきさつを書きました。よかったら参照してください)。

その理由の1つに7年前のコレラ事件がある。玉川上水にコレラ患者の汚物を流したという噂が流れたのだ。

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(写真は武蔵境浄水場近くの玉川上水)

もちろん水道の管理は大切だ。でも7年前の話を持ち出すのはわけがありそうだ。やるならもっと迅速にしなければならない。

玉川上水とその水源は、北多摩、西多摩にある。南多摩(町田など)は関係がない。水道問題だけならば、南多摩は神奈川に残してもいいはずだが、一括して東京移管というのもおかしい。

それにはこんな事情が隠されていた。移管前年に明治25年に第2回総選挙が行われた。政府がが自由党をつぶそうとした「選挙干渉」で有名だ。

自由党の拠点高知では、自由党の弁士を暴徒が白刃で刺し殺したり、国民党と自由党が睨み合っていると警官が暴徒を指揮、銃声とともに自由党側に突っ込んだ。

他地区でも、警官が投票箱まで付き添ったため仕方なく与党候補の名前を書いたり、橋の上でとおせんぼをするなど妨害が激しかった。とおせんぼされた人は泳いで川を渡った。

歴史に残る弾圧にも負けず民党が多数を占めてしまった。

多摩でも干渉が行われたが、自由党が2議席を独占。干渉の責任者である神奈川県知事の追放をもとめて立ち上がった。

内海忠勝神奈川県知事は考えた。だったら、逆に三多摩自由党を神奈川県から追放してしまおう。そして西多摩と北多摩の移管をもとめていた東京府に、南多摩も含めた移管を提案したのだ。

やりますねえ。ある種の領土問題。神奈川県の土地を東京府にあげちゃうんですから、よほど自由党が憎かったんでしょう。いまなら知事はクビだよ。土地と県民がいなくなれば税収も減る。それでも自由党よりはよかった。

町田には自由党の指導者石坂昌孝がいた。移管直前に行われた選挙でも神奈川県議会は自由党の圧倒的勝利に終わっていた。

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        (上水脇の遊歩道と右手は境浄水場)

自由党つぶしも東京移管の目的だったんです。自由党ごと東京にくれてやったんです。東京は改進党が強くて、多摩の自由党が入ってきても多数派にはなれなかった。

南多摩の石坂昌孝らは移管に反対したが、北多摩、三鷹の吉野泰三は賛成にまわった。多摩自由党の分裂だ。

こうして実質審議10日で移管法案が通った。

吉野が賛成したのは甲武鉄道の開通(明治22年)も影響している。

新宿ー八王子に鉄道が通れば北多摩にとって横浜より東京の方が便利だ。

その後、三多摩差別などの問題はあるにせよ、東京になってよかったんじゃないかな。

明治34年には府立二中(都立立川高校)を立川に開校した。一中は日比谷。二中を多摩に持って来たのも懐柔策かな。

2010年11月 4日 (木)

もうすぐ公開・松井久子監督「レオニー」

4日、朝日新聞の生活欄で松井久子監督が大きく取り上げられていた。20日なんだよね、公開初日が。

原作の「イサム・ノグチ—宿命の越境者」を読んで映画にしたいと思ったのが7年前。

単身アメリカに渡り、ゼロから交渉をスタートし、ようやく公開にこぎ着けた。

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20世紀初頭のニューヨークのセットも作ったから製作費はなんと13億円。6年間かかって集めた。偉いよね。

朝日の記事で松井監督はこう話している。「米国人の女性が100年前に日本に渡り、一人で子育てをするのはどれほど困難だったか。自分で人生を切り開いて行く彼女の姿を、女性たちに伝えたいと思った」。

イサムの母レオニーの潔い生き方に引きつけられたのだという。

これは松井監督の生き方とぴったりと重なる。33歳で離婚し男の子を育てた。中学を出た男の子は留学したいと告げる。母は息子の挑戦を支えた。

レオニーも日本人の夫に捨てられるが日本にとどまり、少年のイサムを1人でアメリカの学校へ入れる。

松井監督は64歳。「潔い生き方」を描くために、まっすぐに進んで「潔い生き方」を実践してしまうんだからまねできない。

理屈ばかり言ったり、情勢や状況を分析して言い訳にする男にはできないことだ。

離婚のとき5歳で「お母さん、もう1回がまんしてみない? がまんできたら自信がつくよ」と言った男の子は、この映画のプロデューサーを務めている。(姓は松井ではない)。

当たってくれるといいな。      downwardright

               □    down    □

(「レオニー」については、one「松井久子監督の『レオニー』⑴、

two「松井久子監督の『レオニー』⑵試写、

three松井久子監督の『レオニー』⑶イサム

の父、

four「映画レオニーのコピーが最後の仕事だった」

で書いたので、よろしかったら、そちらをご覧ください)。


end           end

2010年11月 3日 (水)

年貢を納めた康夫ちゃんも通った桂花ラーメン・民事再生法申請

生まれてはじめて食べた豚骨ラーメンが新宿の「桂花」だった。熊本ラーメンです。「うまいラーメンがある」という友人に誘われ新宿末広亭そばの店に行った。

もう30年も前になるだろうか。多分、金がなかったからターロー麺ではなく桂花だった。つゆはこってりギトギト。太麺は硬め。最初は、そのこってりになじめなかった。

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テーブルにはザク切りしたキャベツがどんぶりに盛られていた。キャベツで口をさっぱりさせるという寸法だ。無料のキャベツをかじって、なんとか完食したが、初体験の感想は「?」だった。

「一度食べたらやみつきになります」と張り紙があった。ほんとかいなと思っていたが、しばらくしたら無性に食べたくなって一人で食べに行った。豚骨の味が分かったのか、うまかった。それからは時々顔を出している。


ターロー麺に乗っているブタの角煮のやわらかいこと。桂花ラーメンのチャーシューもうまい。そのころの東京ラーメンで、とろけるチャーシューなんて食べたことがなかったので、ちょっとしたカルチャーショックだった。

高菜入りの阿蘇は、ニンニク抜きで辛くないのが特徴だけど、個人的にはパンチが効いた方が好みだ。

12

でも、いつの間にか、あのこってりギトギト感が失われ、無料のキャベツも姿を消していた。東京人向けにあっさり系に変えたのか。

最初に食べた濃厚スープが懐かしい。

熊本出身の友人は「桂花なんて知らない」と言ってたし、地元じゃ有名じゃないのかな。濃厚スープに出合いたくて熊本に行った時に、駅近くの商店街を探したけど桂花は見つからなかった。

そういえば結婚が明らかになった田中康夫衆院議員も、桂花のファンだった。「噂の真相」時代の「ペログリ日記」を愛読してたが、時々長野から上京した時に食べに行ったと書いていた。

同行したお相手は「スッチー」のW嬢。スッチーなんて言葉は知らずに、康夫ちゃんから教わったものね。
2人は13年の交際を経て10月下旬に婚姻届を提出。W嬢は「恵」さん、44歳、北海道出身。

康夫ちゃんが通ってた店は新宿の東口駅前店かな。昔は行列ができていたのに民事再生法とは…。最近はあちこちに豚骨スープのうまい店が登場しているから競争に負けちゃったのね。

どこかのラーメン屋が支援するそうなので営業は続くだろう。九州ラーメンを広めた功績は大きいよね。がんばってね。

2010年11月 2日 (火)

こどもの国は弾薬庫・公園と戦争⑼

昭和記念公園は、返還された米軍立川基地の跡地に作られ、昭和天皇在位50周年を記念して昭和58年(1983)にオープンした。とにかく広い。総面積180㌶。ひと回りするとへとへとになる。

難をいえば隣接する自衛隊のヘリコプターの離発着でうるさい。夕方3時過ぎになると10分から15分間隔で次々に下りてくる。同じ飛行ルートだ。いつも同じ航路を使っていていいものなのか。

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地図を見ると多摩都市モノレールに「立飛」という駅がある。変な駅名だ。立川北から2つ目。ここには立飛企業がある。広大な敷地で倉庫業などを営んでいる。駅が作られるくらいだから相当に広い。面積は陸上自衛隊立川駐屯地と同じくらいあるんじゃないか。

もとは立川飛行機。中島飛行機の「隼」などを製造していた。今でも関連会社の新立川航空機が飛行機のエンジンなどを手がけている。プリンス自動車の前身でもあった。

こちらは在位50周年記念だが、皇太子ご成婚を記念して作られたのが、こどもの国。東京の町田市と横浜市にまたがっている。

米軍から返還されたのは昭和36年(1961)、4年後にこどもの国としてオープンした。

もともとは陸軍の田奈弾薬庫。貯蔵だけではなく弾薬を製造していた。100㌶というから広大だ。事故が近隣に及ぶのを防ぐ目的もあったのだろう。

戦後はアメリカ軍が接収し、同じく弾薬庫として使われ、朝鮮戦争の時には大量の弾薬が運ばれた。

園内には弾薬庫の遺構があちこちに残っているらしい。横浜線の長津田からの横浜高速鉄道こどもの国線も、もとは弾薬輸送の引き込み線だ。

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近くの稲城市と多摩市にまたがったところには、多摩火薬製造所があった。こちらは未だに米軍に接収されたままで、弾薬庫として使われたあと、現在は多摩レクリエーション施設になっている。(真夏に訪れた。その模様はこちら)。

ここの弾薬は横田基地に運ばれ、輸送機や戦闘機に積み込まれた。朝鮮に落とされ、ベトナムにも落とされ、町や村を破壊した。

ニュースで見る雨あられと降り注ぐ爆弾が日本で作られ、貯蔵されていた事実は重い。

それにしても多摩火薬製造所と田奈弾薬庫でどのくらいの量の爆弾などを製造し、貯蔵していたのか。それも首都のすぐ近くだ。

主に南武線と横浜線が輸送をにない、こっそりと中央線も使われた。まさに多摩は軍都だった。

「公園と戦争」シリーズは、埼玉県のジョンソン基地あとをたずねて、ひとまず終わろうと思っている。昨年たずねたがカメラを持ってなかったので、近々西武新宿線に乗るつもり。

次には「大学と戦争」シリーズもあり、かもしれない。多摩に建っている大学敷地の前身を見て行くのもぶらぶら散歩になりそうだ。

2010年11月 1日 (月)

三鷹は品川県、府中・立川・八王子は韮山県

多摩地区が神奈川県所属になったのは明治5年(1872)のことだ。明治の初め、多摩地区は神奈川県に属し、東京府への移管に関しては自由民権運動が関係していると前回、扱った

その前はどうだったのか。紆余曲折をたどっている。明治維新から移管までを駆け足で見ていく。

各地区まちまちで、多摩全体をくくることはできないので、三鷹地区を例にとる。明治維新でまず三鷹地区は品川県に入った。これが明治2年(1869)。まだ三鷹村は構成されていない。

多摩西部は韮山県だったか?これは多分、江戸時代の多摩方面の代官、江川太郎左衛門の管轄した地域が、そのまま韮山県になったのだ。江川は伊豆韮山が本拠。(あやふやなので興味のある方は確認してください)。

なんで品川県なのか不明だが、世田谷、調布、府中は品川街道が通っているし、多摩川という交通路があったせいか。

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(表札は「東京府北多摩郡武蔵野町境(緑ヶ岡)」となっている。三鷹の隣の武蔵野市のものだ。中央線の南側です)

混乱期なので政策はコロコロ変わる。明治4年(1871)11月には廃藩置県が行われ品川県は廃止された。

東京府に入ったのが牟礼、下連雀、上連雀。

他の野崎、野川、上仙川、中仙川、下仙川、深大寺、北野、大沢の各村は神奈川県になった。(井口がない。大沢がここでまとまりに入ってくる。それまでは他村は7番組だったのに対して大沢村は9番組に入っていた)。

2カ月後にはもう変更だ。明治5年の1月、多摩地方の村は神奈川県ということになった。したがって三鷹の牟礼や上・下連雀は東京から神奈川に所属替え。

この状態がしばらく続く。三鷹の西部地区の野崎や大沢は、別の組合に属していた。

三鷹村ができるのは、ようやく明治21年(1888)のこと。市制町村制が公布され、今の形になった。深大寺新田は調布の深大寺母村から分かれて三鷹に入った。それで三鷹と調布の両方に深大寺の地名が残っているわけです。

まだ所属は神奈川県です。

多摩は経済的に神奈川と密接に結びついていた。八王子の絹は「絹の道」を通って横浜に運ばれ、他の地区も養蚕を行っていたから鶴川街道などで横浜に運んでいた。多摩川の水運も横浜への輸送に役立った。

そんな状態のところへ多摩の東京府移管が発表された。

表向きは玉川上水の管理。府民が使っている水道なので東京の管理下がふさわしいというわけだ。だが、裏の目的もあった。

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