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2010年10月31日 (日)

三鷹も府中も立川も…多摩はみんな神奈川県だった

三鷹市に野崎という地名がある。文字通り、深大寺北側の「野」の先に位置している。野崎は「吉野さん」だらけだ。50人ほどの1クラスに4、5人は吉野がいた。学級全体では30人は吉野だった。

その野崎を東西に貫いている人見街道沿いに「吉野家(名主の家)跡地」の案内板が立っている。

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この建物は1963(昭和38)に現在の江戸東京たてもの園に移築された。ということは、私が地元の中学に通っているころは使われていて、前を通っていたんだ。記憶の風景はもう失われている。

名主の吉野といえば、三鷹では吉野泰三が有名です。明治の自由民権運動のリーダー。もう一人のリーダー石坂昌孝の娘美奈と結婚した北村透谷は吉野とも面識があり、近年、吉野家文書の中から泰三宛の書簡が発見されている。

泰三は名主でもあり、移築されたのは泰三の家かと思っていたら、そうではない。泰三のおじいさんの喜太郎の三男幸治郎の家のようだ。案内板には「悦時氏所有」となっている。悦時は幸治郎の孫の子か、あるいは孫の孫。

泰三の吉野家が、ここに移ってきたのは亨保(1716〜1735)のころ。西多摩郡の檜原村から来たといわれるが定かではない。そのころ別の吉野さんが、すでに暮らしていた。

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これがたてもの園にある吉野家。江戸時代の農家としては最大規模で、宅地内には土蔵2棟、納屋などがあり、玉川上水から水を引いた砂川上水も引き込まれていたという。

確かに、私が小学生のころは、ここらに小川が流れていた。深さ20㌢くらいだったのに弟が落ちて溺れそうになったことがある。上水から遠く、枝の引き込みだったので浅いのだ。今は埋め立てられているが痕跡をたどることができる。

泰三の家は、もう少し東にあった。今はタクシー会社になっている。どこに移ったのか?

なかなか本題にいきません。

透谷が泰三に書簡を送ったのは民権派が四分五裂になっていた明治22年(1889)ごろ。泰三は盟友の石坂昌孝とたもとを分かっていた。

その理由の1つに多摩の東京府移管がある。泰三は賛成派、石坂は反対派。透谷は義父ではなく泰三の方針に賛意を示している。

当時の神奈川県議会で多数派を占めていたのが石坂や泰三らの自由党だった。

なぜ、多摩は神奈川から東京に移されることになったのか?

on 続きます。

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