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2010年9月 2日 (木)

文革の恐怖と戦った日本人・「孫玉福」39年目の真実

「あの戦争から遠く離れて外伝」とサブタイトルがついている。娘の城戸久枝が、中国残留孤児として養父母に育てられ、文革の嵐を生き抜き、ついに帰国を果たした父・城戸幹の半生を描いたのが「あの戦争から遠く離れて」。大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞して評判になり、NHKが「遥かなる絆」としてドラマ化した。

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ドラマについては1月28日のブログで触れた。よろしかったらこちらを見てください。

城戸幹、中国名孫玉福が自らの半生をつづったのが、この「『孫玉福』39年目の真実」(情報センター出版局)だ。

すぐに読まなければと思っていたのだが、乱読なのであちこちに行ったり来たりして、ようやく手にした。

城戸さんが祖国の土を踏んだのは1970年。日中国交回復の2年前だった。だからまだ残留孤児の言葉はなかった。残留孤児の集団訪日調査が始まるのは、11年後のことだ。

日本赤十字に手紙を出しつづけ、その苦労が報われたのだ。当時、日本に国際郵便を出すことさえ、ある種の危険が伴っただろう。

子供のころ「小鬼子」(シャオダイズ)とからかわれた城戸さんに「恐怖」がまつわりつくようになったのは、文化大革命のころ。城戸さんは、自らのアイデンティティを確立するために日本国籍を選択した。そのために、大学もすべて不合格になった。

労働者として働くが、文革の嵐が襲う。いつつるし上げにあうのか、へたをすれば殴り殺されたり、公開処刑されるかもしれない。

この恐怖によく耐えられたと思う。

「1965年1月頃から、公社組織部の人が数回、託運公司に来ていた。『小車隊』の邱の話だと、私のことを調べに来たというのである。よくあることとはいえ、私はやはり注意が必要だと感じた。1960年から日記をつけていたのだが、この1月からおよそ2年間、日記をつけないようにした」。

1966年8月、紅衛兵の「100万人集会」を毛沢東が謁見。紅衛兵など造反派同士の武闘も始まり、文化大革命は、無政府状態の内乱へと様相を変えていた。

「工場長の汪富が、『打倒日本帝国主義』『打倒日本鬼子』のスローガンを掲げ、私を吊るし上げ批判しようと言い出したらしい」(67年のこと)。

公安の尾行は当たり前。69年、親しくしていた日本人女性の高橋さんが、「政治学習」のため刑務所に連れて行かれた。

「その晩、私は日記をチェックして、気になるところを全部焼き捨てた。父からの手紙もチェックし、父の軍人履歴部分も焼いた」。

日本では全共闘運動がピークを迎えていた。「造反有理」など紅衛兵のスローガンも使われた。言葉だけの移入で、内実は伝わらなかったか目をつぶっていた。個人的にも「造反有理」に理があると考えていた。破壊が創造につながると思い込んでいた。


「その夜、私はぐっすり寝ていたが、夜中にトイレに行きたくなって目が醒めた。…。『ん!?』ふと窓の外を見たとき、私は驚愕した。窓ガラスに人影が映っている。顔がガラスにぴったりついているためか、霜が融け、紛れもなく人の顔が見えた」。

この恐怖と不安。日本人は、いつ「三特」(米国、日本、ソ連のスパイ)にされるか知れない。日本人に生まれたというだけで味わう底知れない恐怖。よくぞ耐え抜いたものだ。

文革については、映画やノンフィクションでさまざまなことを教えられた。ただ、日本人が体験した民衆レベルでの文革の実相を明らかにしたことでも貴重な証言となっている。

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