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2010年8月11日 (水)

吉祥寺を縄張りにした四軒寺一家・初代の墓

吉祥寺は俗に四軒寺と呼ばれていた。駅前にお寺が4軒あるからだ。吉祥寺という名の寺は駒込にあるので、間違わないようにしたのか。今でも女子大通りのバス停にその名を留めている。

そのうちの一軒が月窓寺。小金井一家ゆかりの親分の墓が、我が家の墓のそばにあるようだ。子供のころ父親から「小金井小次郎の墓が近くにあるんだ」と聞かされていたが、ずっと確認しないままだった。

Cimg0429

ありました。「藤覚勝藏信士」とあるのがそうだ。小次郎本人ではなく子分のものだった。長年の疑問がこれで解決した。小次郎の墓は小金井にあります。こちらに写真を掲載しています。よろしかったらどうぞ。

小金井の小次郎は甲州街道や川崎などに勢力を伸ばし、関東一円に数千人の子分を抱え、11のブロックに分けて、それぞれに有力な子分を配したという。

吉祥寺、すなわち四軒寺を預かったのが「四軒寺勝藏」。

彼は天保元(1830)年吉祥寺の旧家に生まれた。20歳ころまでは伯父の材木商をまじめに手伝っていたが、博奕場に足繁く通うようになり小次郎とも顔見知りになった。

身長は6尺(1m80㎝)、たいへんな力持ちで、その上性格は豪胆で義侠に富み博奕が飯より好きだったため伯父も小次郎の盃をもらう事を許した。

この時藤蔵24歳。3年後には四軒寺を預かる身となり「四軒寺一家」を興す、と武蔵野市発行の「むさしのところどころ」にある。

安政3年小次郎がとらえられて三宅島送りとなるが、藤藏たちが力を合わせ親分の留守宅を守り、小次郎も生涯この事は忘れなかった。

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(左は歴代の名が彫られた記念碑)


 (右は月窓寺の墓地です。四軒寺初代は通路の右手の一角にあります。吉祥寺の駅前に、こんな墓地があるんです)


記念碑も建てられている。「昭和55年5月22日 八代目岡澤和佳志建之」とある。四軒寺一家は幕末から連綿と続いてるんだ。歴代の名も刻まれている。二代目は並木作次郎。ばあさんは並木家から嫁に来てるから、縁戚かもしれない。

お墓に刻まれているのが初代の没年のようだ。明治2年、1869年。39歳で亡くなっている。小次郎が三宅島から大赦で戻ってきたのは明治元年。留守を守った安心感が出てしまったのか。

四軒寺一家、今も吉祥寺を縄張りにしてるんだろうか。

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コメント

明治元年、政府から「四軒寺藤蔵」に出頭命令が出ており、その一年後に亡くなっているから獄中死かもしれない。
でも「触ると斬れるような子分」って子母沢寛に評されているから並の侠客ではなかったのだろうな。
いずれにしてもカッコイイ、藤蔵親分

甚左衛門さん。

詳しいですね。

子母沢寛、図書館で探して読んでみます。

「幕末奇談」です。私はけっこう探すのに苦労しました(笑)

甚左衛門さん。

ありがとうございます。

図書館の在庫に検索をかけてみます。

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