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2010年8月 9日 (月)

井の頭は「狛江」だった

久しぶりに街に出た。電車に乗って吉祥寺へ。買い物はそこそこに井の頭公園に避難する。平日の午後なのに涼を求める人でにぎわっている。

池の真ん中に渡されている橋を渡って対岸へ。ボート乗り場までは七井橋。昔は「七井の池」と呼ばれていた名残です。

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じゃあボート乗り場から対岸までの橋は? もう何十回も来ているが気にしたことがなかった。欄干の手前に「狛江橋」と彫ってあった。狛江なんだ。なんでだろう。

多摩川中流域で古代に最も栄えていたのが狛江だ。下流では世田谷区野毛や大田区田園調布に大きな古墳が作られているが、狛江では5世紀前半から6世紀中頃にかけて70基前後の古墳が作られた。

すでに大和朝廷とつながっている首長がここいらを治めていたようだ。それで現在の狛江を中心にした一帯を「狛江郷」といった。その範囲は現在の調布市、三鷹市、武蔵野市を含む広い地域だった。

狛江は高麗の江でこまえ。武藏には渡来人が多く住み、狛江もその中心地。深大寺を開いた満功上人もそうだし、三鷹には牟礼という小字がある。牟礼は古代朝鮮語のムルといわれている。岩波古語辞典も「むれ」は「やま」の意として「古代朝鮮語moriと同源か」と指摘している。

この一族は江戸時代に移住したようだが三鷹には「高麗」姓が多い。

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三鷹市役所近くの墓地は「高麗」一族のものだ。

吉祥寺も本郷・吉祥寺門前の人びとが移り住むまでは、牟礼野と呼ばれていた。牟礼の縄張りの野ッ原だった。

そんなわけで井の頭の池は狛江の池とも呼ばれていた。橋の名前はその名残なのだ。井の頭の池になったのは将軍家光が名付けてからで、そう古いことではない。


狛江橋からも見える井の頭弁財天は、源頼朝が1197年(建久8)に建立したと伝えられるが、実際に神社として祀り始めたのは、もっと古代にさかのぼる可能性は大きい。狛江郷と呼ばれ始めた頃には、豊富な湧き水を大事にした神事が行われていたと考えていいだろう。

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