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2010年8月の記事

2010年8月31日 (火)

カツオ1匹600円だけど食べきれない・スリランカ便り

スリランカから豊富な魚についてのメールが届きました。会社の先輩(65歳)がボランティアで現地の人に干物作りを教えているんです。

会社にいた時から、いろんな店を知ってました。特に安くてうまい店を探すのが得意でした。特技を生かしてスリランカでも料理にいそしんでいるようだ。


                  ☆        ☆


スリランカといってもB級だけでもないんです。特にトリンコマリーはスリランカ有数の漁港、といっても葉山や真鶴程度なんだけど…。ここに上がるのはカツオ、マグロ、シマアジ、モンゴイカ…もちろんアジ、サバなどまで。

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                                              ☆

マグロ刺身と中落ち焼き               漬けとフライとカツオの甘辛煮                                                                                                       
ただし獲ってから漁港まで冷凍どころか氷にも漬けてないため鮮度はイマイチだけど、何しろ安い。カツオもメジも1匹!600円くらい。


といっても1匹買っても1人じゃとても食べきれない。赤身の魚は緩慢冷凍すると旨くないのは分かっているけど、仕方ない。

解凍が重なると、マグロの漬け、フライ、カツオの甘辛煮、モンゴイカのげそ焼き…などが食卓に並んで、これで300円くらいか…となるとB級どころかA級。しかもシマアジの中骨やマグロの中落ちなんぞを焼いて食べると、もうマチダさんに怒鳴られそう…。


これにシロウリの塩もみ、B級のココナツ蒸留酒アラックを添えると、もう最高!これで暑くなければもっといいんだけれど…。


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何の花でしょう?メールには「花」としか書いてませんでした。

       ◎     ◎

焼いたシマアジの中骨、マグロの中落ちがつまみに良さそう。

2010年8月30日 (月)

合掌造りの古民家で食事・深大寺白金亭のまずいエビ

親戚の法事後に「白金亭」で食事をした。神代植物公園の東側にある。杏林病院との中間くらい。


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建物は飛騨・白川郷の民家を移築したものだが、屋根は茅葺きではない。従姉妹がセッティング、こんなレストランがあるとは知らなかった。予約をしておかないとならないほど有名らしい。

1階はふすまで仕切られた大きな部屋、2階には小部屋があるらしい。いろりが切ってあってたたずまいも落ち着く。

本日はおすすめランチコース。前菜盛り合わせ、深大寺そば、オマール海老のスープ、和牛の握り寿司、サラダ。ここまではおいしかった。

魚料理は伊勢エビ(あるいは大正えび、手長エビ?。とにかく大きなエビです)。これが鮮度がない。ひどい。冷凍か。冷凍の伊勢エビなんて食べたことがないぞ。材料がないんだったら、新鮮な時期の魚を用意すればいいのに、評判が台無しだ。

メーンは炭火焼のハンバーグ、数種類のソースが用意してあって、何種類かの味が試せる。デザートも果物やアイスクリームなど数種の盛り合わせ。

これで3800円。しなびたエビをのぞけばリーズナブルだろう。

ただし酒は高い。ビールは中ジョッキで700円。焼酎の水割りがべらぼうで1000円。昼間だというのに5杯も飲んでしまった。酒飲みは行かない方がいい。

はとこと大人になってからはじめて話をした。檜原村に住んで畑をやっている。村民だけが入れる共同の温泉を自慢していた。回数券を持っていけば入れるらしい。1回200円。

秋になったら檜原城跡に上って温泉につかるぞ。檜原村は甲斐の武田と関東の北条氏の国境。山の向こうは武田領だ。檜原城は防衛の拠点だった。

藤木久志さんの本を片手に、村人と戦国時代に思いをはせにいこう。

藤木さんの近刊は「中世民衆の世界ー村の生活と掟」(岩波新書)、同じ岩波新書の「刀狩り」は常識を覆してくれる。

2010年8月29日 (日)

とっておき!国立天文台裏の遊歩道

天文台見学を終えて裏手にまわる。畑が広がっている。市民農園もある。ウイークデイなので人はいない。農村が残されている貴重な光景だ。屋敷林に囲まれた大きな農家も残っている。

三鷹7中の脇を通り抜けると突然、遊歩道が出現する。

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左側は天文台の構内。竹林には「タケノコ無断盗掘禁止」の札が掛けてある。こっそりと掘りにくる人がいるのだ。

ここは崖の上。国分寺崖線、通称ハケ上の台地だ。だから右手は急坂になっている。坂の中腹には横穴墓も残されている。

出山横穴墓群。このあたりでは7群63基ほどの横穴墓が確認されている。出山横穴墓群もその一つで、第8号墓は内部に入れるように整備されている。

つくられたのは7世紀の後半と考えられている。壬申の乱が大海人皇子の勝利に終わり、天武天皇治世のころですかね。

行こうかと思ったが、林の中の小道を通らなければならない。また、やぶっ蚊に刺されそうなので今回はパス。

木立の間から味の素スタジアムが遠望できる。

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FC東京はどうしちゃったの。けが人が多いようだが、勝ちに見放されている。名古屋戦でロスタイムに闘莉王にヘッドで決勝点を決められたショックが尾を引いているのか。大黒を入れたのがフィットしていないのか。城福監督、なんとかせいよ。

いつだったか、敗戦を中2日の日程のせいにしてたけど言い訳をしてるようじゃ勝てない。

そんなことを考えてベンチに座っていたら女子中学生が、少し足早になって通り過ぎた。変なおじさんと思われたんだろうか。

坂を下りれば野川の少し上流が野川公園。自然観察園をのぞいてみる。

夏の花は終って秋の花が咲き始めている(多分、この表現で間違いないと思うが、違ってたらごめんなさい)。

前回訪れた時(8月15日付)に咲いていたヤブミョウガ、イヌキクイモ、ヒオウギなどはすでに散ってしまった。半月しか経ってないのに、季節は変わってるんだ。

秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 
      風の音にぞ おどろかねぬる  (藤原敏行  古今和歌集)

てなことです。

前回の記事「ヤブミョウガも立派な花をつける・野川公園」はこちら

目立ったのはシュウカイドウの赤い花とガガイモの白い花。

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シュウカイドウは江戸時代に中国から持ち込まれたもの。ベゴニア科です。秋海棠。

名前が分かるのは、入り口に咲いている場所の地図と写真つきで名前を表示してあるからです。

2010年8月28日 (土)

捕らぬ狸の東京天文台・地元の熱意は空振り

天文台周辺をぶらついている。天命反転住宅のカラフルな色彩をしばし眺めてから天文台通りを調布方面に下っていくと右手に長久寺がある。わが家の菩提寺だ。

(天命反転住宅についてはこちらをご覧ください。5回連載です)。

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この色彩感覚、初めは戸惑うが、何度も見ているうちに五感が刺激される感じがする。

右下は長久寺。お鷹場の標石が境内にあることでも知られている。

「従是東西北尾張殿鷹場」。もともとどこにあったのかは不明。

天文7年(1538)、兵火で大破したが、慶長4年(1599)に再建された。大沢村を開いた箕輪将監が高野山の僧長祐に助力した。

天文7年にはすでにあったというのだから相当に古い。大沢村も形作られてない頃、どんな人が住んでいたのか。ただし、明治まではこの場所ではなかった。今の天文台の構内にあった。

移転については、こんな悲喜劇が繰り広げられた。

明治42年(1909)東京帝国大学附属の天文台が三鷹村大沢に建設されることになり、用地が買収された。期待はいやがうえにも高まった。


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「中央線と甲州街道の間にはさまれ、なに一つ近代的文化施設なく、日露戦争後の反動による不況下に電灯もない平凡な純農村としてランプの下で味気ない生活を送っていた三鷹地方の人々にとっては、天文台という高度の文化施設がくるということは、村の生活に光明と発展を約束する者として、大変な魅力であり願望であった」(「三鷹の歴史」宍戸幸七、ハタヤ書店)。

三鷹村箕輪権右衛門村長(大沢村を開いた将監の子孫だろう)を先頭に「最高学府の営造物の建設は、独り三鷹村の栄光のみならず、近郷発展の原因なり」と請願書を出して誘致につとめた。

問題は予定敷地内の長久寺、八幡神社、民家の移転費用。この予算を国は計上していなかった。それも村人が寄付、合計5500円を集めた。天文台用地の買収価格が300坪(1反)につき200円だから相当な額だ。

ああそれなのにそれなのに。建設は遅れに遅れて開館したのは大正13年(1924)、しかも官舎が敷地内にもうけられたために、付近には商店、住宅はつくられず、期待した土地の発展は全く見られなかった。

境駅と調布を結ぶ天文台通りができたが、これも地元青年の勤労奉仕。おまけに国の施設になったので免税地が増えてしまい、村にとっては踏んだり蹴ったり。


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(鷹場の標石と天文台の正門)

「結局村人の大きな期待と願いは全くあてが外れた形になった」(前掲書)。

箱ものを持ってくれば発展すると考える単細胞は昔から変わらないようだ。

そんな事情で長久寺は移転して現在地に建っている。

移転費用は近在の村人も協力した。興味深いのが調布村の宮川半助と大沢村の宮川源七。ともに近藤勇(宮川家から近藤家の養子になった)の縁戚だろう。

宮川半助は多摩連光寺の聖蹟記念館の寄付者にも登場する。京王線聖蹟桜ヶ丘駅はこれにちなんでつけられた駅名。明治天皇の行幸にちなんで昭和5年(1930)に記念館が建設された時に、1500坪を寄付したのが半助。

まだ勇が「朝敵」という評価が残っていた。「その罪滅ぼし」だったという。

近藤勇については「近藤勇・産湯の井戸」(9回連載)で、あちこち歩いてます。興味のある方はよろしく。右側にある「カテゴリー」の「三鷹」の中に入っています。

2010年8月27日 (金)

暗殺された会津討伐の先鋒・福島市内散歩

一宿一飯の恩義もあり福島市内の友人の菩提寺で墓の掃除をした。裏手は阿武隈川、もとは福島城だった県庁にも近い。

長楽寺。もともとは越後にあったが、上杉の会津への国替えで1600年に移ってきた由緒ある寺だ。福島城代の本庄氏ゆかりの寺で、中興の祖本庄繁長の墓所がある。

山門を入ると苔むした碑がある。左手が「浅草屋宇一郎の碑」、もう一つが「仙台藩烏天狗組の碑」。

なんだっけ?「世良修蔵暗殺を手引きした岡っ引き」と友人。随分昔に、なんかそんな本を読んだ記憶がある。

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司馬遼太郎「斬殺」だ。「その結果、『う一』という者が、協力することになった。う一は子分を百人持つという博徒で、福島藩の御用をつとめているとはいえ、その生まれ在所は仙台藩領大河原であることから、
—ーいのちがけでやりやす。
と、その日から活動を始めた」。

その「う一」で、仙台藩などに会津攻めを促すためにやってきた参謀の一人、世良修蔵暗殺のために動静を探った。

その夜、世良は妓楼「金沢屋」に泊った。仙台藩士たちが宿を取り囲み、全裸の世良を取り押さえ、斬って捨てた。

金沢屋も長楽寺からは近い。

世良の碑は、稲荷社の隅に建てられている。

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「長藩世良修蔵霊神」。神になっている。とは言っても目立つ場所には建ってない。拝殿の裏、西北の角だ。神にしなければならなかった福島藩の心情を思う。

「斬殺」で司馬は世良を軽輩として描いている。官軍の威を借りただけで、ために暗殺の事態を招いたとしている。奥羽諸藩が快く思わなかったのは事実だろう。

世良の墓は桑折(こおり)の無能寺にある。

「烏天狗組」は会津攻めに際して立ち上がった義勇軍。といえばかっこいいが、烏合の衆だったようだ。戊辰戦争で敗れた残党が福島城下に乱入して放火、4人が討たれた。

それでも碑を建てている。福島の人間は人がいいんだか、したたかなのか。


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立派な稲荷社。拝殿の右後ろに世良修蔵の碑がつくられている。中には入れないように、しっかりと囲いがしてある。まだ、悪感情を抱いている人がいるんだろうか。

周囲は木立に囲まれているために、こんなに明るくありません。もっとじめじめとくらい感じです。明るく見えるのはデジカメのせいです。


写真は柵の間から撮ったもの。

確かに「霊神」になってます。まあ神として祀って、たたらないようにしてるんですね。

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2010年8月26日 (木)

スリランカ便り・カレーの食べ過ぎで74歳は寝たきり老人が普通

スリランカに行っている知人から、7月25日のブログ「NHKラジオ『渋谷極楽亭』と森口博子」について、次のようなメールが届きました。「私も森口さんが大好きです。勉強していることを、わざとらしくなく、さりげなく出すところがいい。逆に落語家の方が不勉強。そういうキャラにしているの?」。

海外邦人向けのNHKラジオ放送があるのは知っているが、娯楽番組もやっているのかと問い合わせ、ついでに、ブログに掲載したいので、そちらの生活などをメールしてきてください、とお願いしました。

さっそくメールが届きました。

知人は会社の1年先輩。多分65歳(誕生日が来てれば)。勤めも無事終えて、ボランティアで4月からスリランカに行ってます。何のお手伝いをしているのか詳しいことは知りません。なんでも魚料理を教えてるとか誰かが言っていた。

海に囲まれた島国なのに、魚料理のバリエーションが乏しいらしい。魚をおいしく食べられれば、食生活も豊かになり、貧困からの脱出にもつながるということか。

これは勝手な推測。間違ってたら訂正のメールが来るでしょう。

でもえらいです。65歳で知らない国に飛び込むなんて。

以下は現地のカレーの話。

                ◎         ◎

ラジオは聞いていません。あれは日本で聞いていたときの感想です。もうすぐ丸5ヶ月になります。

スリランカでブログ「多摩と入間の…」を見ています。スリランカといえば紅茶とカレー。特にカレーは3食カレーといわれるくらいで、まさにその通りです。

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ただし日本のカレーとはまったく違います。たとえば街のレストランでカレーを食べるとき、写真のような、いろいろなカレーの入った壷からバイキングのよ うに選んで、皿に盛ります。

それを右手の先の方でまぜながら食べるのですが、この光景にはいまだに慣れません。もちろん食前と食後に手を洗うところはあります。


喫茶店と呼ぶ(現地語ではホテル)安いところでは、バイキングではなくて各種のカレーが盛られて出てきます。カレーは野菜、チキン、魚、ポークなどがありそれぞ れ辛さが違います。それを指でまぜながら自分の好みに仕立てるわけです。辛味調味料もいくつかついてきます。


驚きは食べる量です。日本で言う大盛りよりたくさんです。こんなに辛いものを、こんなにたくさん食べて、スリランカの人の平均寿命は高くありません。貧しいし、老人の食費に回すお金はありません。ごく一部の公務員を除いて年金もないし、老人は大変です。

私とコンビを組む74歳のボランティアは「初めて日本人 を見たけれど、スリランカで、74歳といえばみんな寝たきりなのに、どうしてそんなに元気なのか?」と質問されて「あまりたくさん食べないから」と答えてました。


何だか取りとめがないですが、武蔵野や相模がちょっとなつかしいです。

                ◎        ◎

植野さん、またお願いします。

第2弾が到着したので、善は急げで掲載します。


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マチダさんの羽根付き餃子(7月31日の「羽根つき餃子の『你好』」のことです)に触発されました。究極のB級をお知らせします。

私は今、干物作りを教えるというこれもB級のシニアボランティアでスリランカのトリンコマリーという片田舎で一人暮らしをしたいます。

一人暮らしの友と言えば酒。こちらには特産の椰子の実(ココナツ)で作った蒸留酒、アラックがあります。ランクはいろいろあるようですが、B級ですのでまあ中間クラスのホワイトアラックという銘柄がお勧め。米や麦ほどの旨さはないものの、甲類よりはよほどまし、というくらい。

これにやはり特産のライムをたっ ぷり搾って、日本でも流行の炭酸をいれると、最高のB級?値段も中級とはいえ、最近の円高で4合瓶くらいのが650円前後(C級?)


つまみはマーボ茄子風を作ったり、牛肉と葱ですき焼き風を作ったり…。ボランティアに来てるんだか、B級に来てるんだかと、マチダさんには言われそうですが、世界のへき地で楽しむB級、これこそ究極!

              ◎        ◎

干物作りを教えてるんだ。どうやって食べるのかしら。

2010年8月25日 (水)

天文台構内をぶらぶら・三鷹

涼を求めて天文台の構内へ。観測の妨げにならないように武蔵野の自然が保たれているので、暑さをしのげるはずだ。正面受付で名前を書けばいつでも入れます(10:00〜17:00)。ワッペンを渡されるので、ペタンと張ってウオーキング開始。見学ガイドもくれる。随分と親切だ。ただし歩けるのは見学コースだけ。

目指すはアインシュタイン塔。ここだけぽつんと離れているので、自然がいっぱい。雑木林の中に塔がたってる。

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右は塔へいく道。突き当たりを右に行くとあります。正式名称は、太陽塔望遠鏡。一般相対性理論を太陽光の観測から検証する目的で建てられた観測施設が、ドイツのポツダム天体物理観測所にある「アインシュタイン塔」。

三鷹の建物も同じ構造と機能を持っているため、同じ名称で呼ばれている。屋上のドームから光が取り込まれて半地下の暗室で観測するのだ。

1930年に建設された。三鷹に移転してからすぐにできたんですね。国登録の有形文化財に指定されている由緒ある建物だ。

塔を眺めるようにベンチが置いてある。雑木林を抜けてくる風が心地よい。腰掛けてお茶など飲んでいたらやぶっ蚊が襲ってきたので早々に退散。歴史館や資料館をのぞいて別のベンチでひと休み。

昔は東京天文台で、東大の施設だったが今では国立天文台になった。野辺山、水沢、岡山、そしてハワイに観測施設があって三鷹はその本部。

ここでぜひとも見てみたいのが天文台構内古墳。7世紀の中頃から後半頃に築造されたものだが、上円下方墳なのだ。府中の熊野神社古墳と同じだ。上が円で、下の部分が四角。全国的にも非常に珍しい。確か全国でも3例しか発見されていない。

それが府中と三鷹の近接した地域から出ている。近畿では大化の改新から近江朝の時代。多摩川中流域で何が起っていたのだろう。

子供のころ、古墳の当たりで遊んだことがある。防空壕などの穴があって、そこに入り込んだものだ。もしかすると古墳にも上ったのかもしれない。

下には野川が流れる国分寺崖線の中腹。なだらかな傾斜のはずなのに、なんか起伏があったのを覚えている。隠れ家的な絶好の遊び場だった。

発掘の区切りがついたら見学会を設けてほしいものだ。

2010年8月24日 (火)

オンナたちの谷間戦争・東京カワイイTV

ブログ管理ページの「アクセス解析」の中にある「検索ワード」に「東京カワイイ」「谷間」が出現していた。期待されてるんだなと勝手に解釈して、22日オンエアのNHK「東京カワイイTV」について書きます。

以前、「NHKテレビ『東京カワイイ』を中心にした日曜深夜『おもしろゾーン』」を取り上げた。お時間のある方はこちらからどうぞ。

そのさいに「来週は『谷間ウォーズ』」とオンエア日を間違えて告知してしまった。それが22日にようやく放送されたので、何か触れてるだろうと検索してくれたんですね。

谷間をつくって水着で思い切り遊びたい東大工学部の子と、きれいな谷間をつくりたいモデルの女の子が登場、それぞれにスタイリストと水着デザイナー兼グラビアアイドルがついて望みを叶えてあげる。

水着メーカーや女性の下着開発チームの苦心談などもはさむが、谷間だけで30分番組をつくっちゃうんだからNHKも柔らかくなった。「おもしろゾーン」からは目が離せない。

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何だこの写真は。谷間じゃない。すみません。

調布の里山の稲穂です。よく実ってます。ことしも豊作か。豊作が谷間というより胸に対する私の原点。映画「赤い殺意」です。今村昌平監督が「にっぽん昆虫記」(1964)に次いでつくった作品。主演は春川ますみ。夫の西村晃が春川の胸に顔を埋めて「お・か・あ・ちゃん」とつぶやく。春川も「おとうちゃん」と応えるラブシーン。

春川の豊かな胸が豊作の象徴だった。今村監督の土着的な視点が、高校生の頭に強烈にインプットされた。18禁だったけど見に行って正解だった。「昆虫記」も封切りで見てます。それ以来のイマヘイのファンです。

だから稔りと胸がイコールなんです。

で番組のラストでは立派な谷間が出現します。スタイリストは、美乳スタイリストで有名らしい。こんな言葉があるんですね。パイレーツを担当して有名になったらしい。渋谷の街頭インタビューでは「盛り姫系」なんて言葉も出てきた。谷間強調の姫のようだ。決して使うことはないが、新しい若者用語を知っておくのもぼけ防止には良さそうだ。

司会の沢村一樹は、終始うれしそうだったけど、谷間作りの秘密を知って、ちょっと複雑だった。

22日はNHKBS「ポロロッカ アマゾンの大激流」を見てた。日本のサーファーが、あのアマゾンを遡る激流に挑む。あの波に37分も乗ったチャンピオンらも年に一度の冒険を楽しみにしている。

「東京カワイイ」で中断してしまったが、再びチャンネルを合わせたら激流に乗っていた。すばらしいシーンだった。世界新のために体力を温存するチャンピオンだが、日本チャンピオンの田中樹は華麗な技を繰り出す。チャンピオンもそれに応える。

技の限りを競う2人の男。雄大さの中に繰り広げられた力闘。そのため記録は出なかったが、力を出し尽くしたものだけが知る満足感がそこにはあった。

2010年8月23日 (月)

栃木県庁を栃木から宇都宮に移転したのも鬼県令の鶴のひと声

福島の秘湯高湯温泉から話がどんどんそれている。ついでに三島通庸が福島の次に赴任した栃木について。

そういえば、同行した友人が高湯温泉についてこんなことを話していたのを思い出した。福島市内の高校に通う高湯の学生の金ボタンは、すぐに錆び付いてしまったという。硫黄というより硫化水素のガスにさらされているせいだ。かなり目立ったのだろう。

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左の写真は「あったか湯」の下にある「ひげの家」。数年前に行ったが、こぢんまりしていい宿だった。なかなか予約が取れないようだ。下界は福島市内。その遥か向こうの山並みは霊山(りょうぜん)。南北朝の動乱で北畠顕家が拠点にしたところです。


さて栃木県。1873年(明治6)宇都宮・栃木両県が合併して栃木県になり、県庁は栃木町に置かれた。数年経って、県庁を宇都宮に移転しようとの運動が盛んになったが却下されてしまう。

1883年(明治16)三島県令の着任を機に運動が再燃。あっさりと移転は認められた。理由は宇都宮移転派の方が熱心だったから。

というのは表向き。栃木町は自由党の巣窟だったので、自由党嫌いの三島が政治的判断を下したのだ。

三島と対決したのは、だれあろう県議会議員の田中正造だ。しかし、1885年(明治18)三島の暗殺を謀った加波山事件に関係したとして逮捕されてしまう。多分えん罪だ。三島がいなくなったら。すぐに釈放された。

福島事件から加波山事件については、こちらを見てください。

田中は後に足尾鉱毒問題で天皇に直訴したことで知られる。公害反対の原点ですね。映画「襤褸の旗」が参考になる。主演は三国連太郎、監督は吉村公三郎。襤褸(らんる)は、ぼろ。農民のむしろ旗のこと。


福島は東京からも近くて便利だ。温泉場は近いしフルーツもうまい。今回は通り過ぎただけだけど飯坂温泉も、あちこちに足湯をこしらえたりして若者誘致に懸命だ。

公衆浴場の鯖湖湯が、熱くてたまらない。44、45度もするのだろうか。初めは足を湯につけることもままならない。我慢して入ると、湯上がりが実に爽快だ。鯖湖は、飯坂辺りの古い地名です。

秋にでもまた行こうかな。今度は伊達家の故地を巡りたい。

2010年8月22日 (日)

麻生太郎元首相は、三島通庸の孫の孫、鬼県令の華麗なる一族

怨嗟の声には全く耳を貸さずに三島県令(知事)は土木事業まっしぐら。宿敵・福島自由党の弾圧にも成功した。鼻高々だったろう。

福島県令だった三島通庸については、「やりたい放題『高湯温泉』を営業停止に追い込んだ三島県令」「自由党をぶっつぶせ!鬼県令の徹底弾圧・福島事件」で触れたので参照してください。

とはいえ、三島通庸はなかなかのやり手だった。東京府庁に出仕した時には、3年の予定だった市内の調査測量をたったひと月で完了してしまった。

東京銀座が大火で消失した際には、洋風建築での再興を主張した。時期尚早と周囲は猛反対したが、彼は自説を押し通した。こうして銀座煉瓦街が出来上がったのだ。先見の明も持っていた。


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でも、山間の温泉宿を営業休止にしてしまうことなどは何とも思わなかった。勝てば官軍、奥州の民衆のことなどは、毛ほども考慮していなかったのだろう。

こんなこともあった。教部大丞に任じられた時のこと。伊勢神宮の東京移転を計画し、その意義を滔々と語っていたという。さすがにこれは実現しなかった。

三島の辣腕をみこんだのが時の権力者、薩摩の大久保利通。酒田県を皮切りに東北の県令に任じ、まつろわぬ民衆を平定し大久保の覚えはますますめでたくなった。1887年(明治20)には子爵を授けられた。

やがて三島の次女峰子は、大久保の次男牧野信顕伯爵に嫁いだ。閨閥もしっかりとつくられた。2人がもうけた雪子が嫁いだのは吉田茂。

吉田茂の孫が麻生太郎というわけだ。まさに華麗なる一族。

いかに明治の世に、薩長が横暴だったにしても、ここまで強引に事を進めた県令はいなかった。そのため明治を語る時には欠かせない人物になった。

2010年8月21日 (土)

自由党をぶっつぶせ!鬼県令の徹底弾圧・福島事件

官舎が建ち並ぶふもとの町に温泉を引き、そのために高湯温泉を営業中止に追い込んだ三島通庸(みちつね)県令(知事)。そのいきさつは前回書いた。

ふもとへの引き湯が停止されたのは明治31年(1898年)になってからだ。実に14年も高湯温泉は営業できなかったのだ。恐るべし薩長の権力。横暴。

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今では共同浴場「あったか湯」がつくられ、その上は足湯が楽しめる公園になっている。福島市内が一望にできる絶景ポイントもある。

三島県令は、土木事業が大好きで自由党が大っ嫌いだった。

それをあらわす有名な言葉がある。「それがしが職にあらん限りは、火付け強盗と自由党は、絶対に頭をもたげさせません」。あるいは「火付け強盗と自由党は管内に1匹もおかぬ」。三島はこう大見得を切って福島に赴任、公約通りに自由党をぶっつぶしてみせた。

山形県令の時に河原を埋め立てて新庁舎を建てた三島の土木熱は、福島でも燃え盛った。明治15年(1882)、福島県令に就任するや、会津三方道路(会津若松から新潟、山形、栃木)の開削に着手した。

税金を使って建設会社に請け負わせるのなら問題はない。県民を強制的に徴発しての労役奉仕だったからたまらない。しかも、道路建設は、家も畑も踏みつぶしてまっすぐに突き進んだ。

労役に応じられない県民からは罰金をとった。金のない家からは家財を強制的に取り立てた。こうして自殺者が出たり、娘を売るしかない人もあらわれた。

このころ国会開設を求める声が全国に広まり、自由民権の波が大きなうねりとなっていた。三島の暴挙に憤激した農民千数百人が会津盆地の一角に集まり、警察署にデモを掛けた。

そのとき、窓ガラスに投石した者があった。「しめた!」とほくそ笑んだのは三島。「凶徒嘯集(しょうしゅう)罪」で自由党員と同調者約2000人を根こそぎ逮捕してしまった。

もちろんリーダーの河野広中らも獄につながれた。ここに福島自由党は息の根を止められてしまった。

後に福島自由党の青年志士たちは、神田小川町の警察署を襲うダイナマイト事件を起こし、栃木県令となっていた三島の暗殺を計画する。首謀者の1人が河野広躰(ひろみ)、広中の甥だ。

計画は事前にもれ、彼らは爆弾150個を担いで茨城・加波山に立てこもる。同志よ決起せよ!と参加を呼びかけたが、馳せ参じる同志はいなかった。

(福島事件など自由民権運動については「日本の百年2わき立つ民論」(ちくま学芸文庫)に詳しい。「福島県の歴史散歩」(山川出版社)も参考にした)

三島県令については、次の日付でも触れてます。


鬼県令三島通庸は塩原温泉の恩人 10/09/13 記事
栃木県庁を栃木から宇都宮に移転したのも鬼県令の鶴のひと声 10/08/23 記事
麻生太郎元首相は、三島通庸の孫の孫、鬼県令の華麗なる一族 10/08/22 記事

2010年8月20日 (金)

やりたい放題!「高湯温泉」を営業休止に追い込んだ三島県令

硫黄の匂いが温泉街一帯に充満して、福島に来るたびに通っている高湯温泉は古くから知られ、温泉宿として整えられたのは江戸時代の初めだという。

そんな高湯温泉に危機が2度訪れた。初めは戊辰戦争。米沢藩兵によって全焼したのだ。でも、焼けたら建て直せばいい。苦労して再開したのもつかの間、お上の命令が下った。

許可したのは悪名高き三島通庸(みちつね)県令だ。薩摩の出身で大久保利通の腹心。今の知事。権力は絶大だ。維新の敵、奥州の民衆のことなんて少しも考えていない。

そのころ知事や高級官僚の官舎は、ふもとの庭坂に置かれていた。


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明治17年(1884)、三島は高湯の湯をふもとまで引く許可を出した。「高湯ー庭坂疏泉工事」だ。写真は源泉から各宿に湯を送っているパイプなどです。この樋、あるいはパイプをふもとまでつなげたんですな。高低差があるから工事は川沿いにパイプを延ばして行けばいいので難しくはない。

だが、湯量の問題がある。各宿への引き込みは禁止されてしまった。温泉がなければ成り立たない。こうして高湯温泉の営業は休止に追い込まれてしまった。

庭坂はどうなったか。県令や部長、警察部長らの官舎が建ち並び、温泉歓楽街も作られた。温泉街は中央から視察に来る役人たちの接待に使われ、県令らは2頭立ての馬車で県庁まで通った。

三島は温泉好きだったようで、庭坂から飯坂温泉まで、ほぼ一直線の飯坂街道もつくっている。高湯から直接、湯を引けば両方の温泉が楽しめる。


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もっとも、ただ官舎まで温泉を引くのでは理由にならない。大義名分をつくった。福島ー米沢を結ぶ万世大路の開通で庭坂がさびれてしまうため温泉を引いて復興をはかるというのだ。

民衆のためといいながら自身の満足を第一に考える。政治家というのは変わらないものです。

その万世大路にしても、ほぼ地元の負担により開削されたものだ。強制労働、工費の強制徴収、土地の強制収用という過酷なものであった。未だ反抗的な旧庄内藩士やロシアを意識した軍用道路の側面もあった。

「土木県令」三島の横暴をあらわした1つの例だ。

三島のやりたい放題はままだまだ続く。

続きの「自由党をぶっつぶせ!鬼県令の徹底弾圧・福島事件 」はこちらです

2010年8月19日 (木)

硫黄の匂いがたまらない高湯温泉・福島

福島市内から高湯街道を西にまっすぐ行って、フルーツラインと交差してすぐに急な上り坂になる。下は晴れているのに雨がぱらついたりした。山の天候なのだ。

果樹園が多いのでフルーツライン。11月に東日本女子駅伝がここを通ります。きのう冷やし中華を食べたのはピーチライン。

一軒宿の信夫温泉を左手に見て、なおも上って行くと硫黄の匂いが鼻をつく。高湯温泉に来たなと実感する。

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共同浴場の「あったか湯」にドボン。250円、銭湯より安い。ただし内湯はなく露天風呂だけだ。それには訳がある。

ここの源泉はすぐ下の河原。「危険 立ち入り禁止」の標識が立っている。河原の石は硫黄や湯の花が積もって真っ白になっている。硫化水素ガスが発生しているのだ。吸い込むと命にかかわる。

あったか湯の浴槽までは源泉から60㍍。まだガスが十分に抜けきらない掛け流しの湯が、浴槽にそそぐことになる。

このため内湯を設けていないのだ。下流の温泉宿は距離があるのでガスの心配はないという。

湯船にも、源泉の近くで入らないでください、と注意書きがしてあった。

高湯温泉の硫黄濃度は、万座温泉、月岡温泉に次ぐという。硫黄をたっぷりと吸い込んで体の内と外に硫黄を満たす。

「あーあ」。心身ともにゆったりしたため息が出る。源泉の湯温は51度。夏なので、湯の量を調節してややぬるくしてある。

帰りがけにずらりと並んでいる桃の売店を冷やかした。「あったか湯」は混んでましたか?と、おばちゃんに訊かれた。「どうしてわかるの?」。「硫黄の匂いがするもの」。

シャツをかいでみたらしみついていた。


江戸初期から続くこの高湯温泉を営業休止に追い込んだ大バカものがいるんです。許せない。悪名高き三島県令です。

その話は次回に。

2010年8月18日 (水)

青いリンゴ、芭蕉、義経・医王寺(福島)

茂庭からの帰りに街道沿いのラーメン屋で冷やし中華を食べた。ふと見ると、駐車場の隣にリンゴが植えてある。

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どの木にも実がいっぱいついている。いいねえ、道ばたに果樹が植えてあるのって。食欲が満たされる感じがする。

その前に立ち寄ったのが医王寺。飯坂温泉の近くだ。源義経を守った佐藤兄弟、2人の菩提を弔った義経、弁慶、「奥の細道」で訪れた松尾芭蕉で知られている。

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左は山門。右は義経主従の像。左が弟の忠信、右が継信。平安時代に作られ深閑とした様が似つかわしいのに、安っぽい像です。こんなの作らなければいいのに、俗にまみれてるんですね。

京都でもあるまいに拝観料300円なりが必要だ。

兄弟の忠臣ぶりはこうだ。兄の継信は、屋島の合戦で敵の矢を受け楯となって義経を守り、帰らぬ人となった。

弟は京都で討ち死にした。頼朝に追われた義経一行、堀川の館で苦境に陥る。そのとき忠信は義経を装って応戦、無事に脱出させた。

その後、奥州入りした義経は平泉に向う途中、この寺に寄り、遺髪を埋めて追悼の法要を行った。

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奥の院の薬師堂の周囲が佐藤一族の墓所となっていて、兄弟の墓もここにある。

旧跡をたずねた芭蕉は「寺に入て茶を乞へば、こゝに義経の太刀弁慶が笈をとどめて什物とす。

          笈も太刀も 五月に飾れ 帋幟(かみのぼり)  


五月朔日のことなり、その夜飯塚に泊る」

と奥の細道に記した。

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左が本堂、右は薬師堂。

芭蕉は兄弟の嫁のけなげさに打たれ「奥の細道」に「女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと袂をねらしぬ」としている。これがあるので「五月に飾れ  帋幟」が生きてくる。

2010年8月17日 (火)

福島温泉巡り・もにわの湯

夏休みを取って福島に行ってきました。もっとも毎日が休みなんですが、世間が夏休みなので一応、右へ倣え!です。

同い年の友人が手ぐすね引いて待っていてくれて、その夜は幼なじみも集まって駅前のいつもの飲み屋で乾杯。NHK「新選組」以来の近藤勇ファンだというミッちゃんが会津若松の天寧寺で勇の墓参りをしてきたというので「そこにあるのは遺髪だけ。土方歳三が建てた墓で、遺体は三鷹の龍源寺にある」と、よけいなことを言ったら「真剣に拝んできたのに」と悔しがっていた。

翌日は「茂庭に行こう」と車で出発。運転は友人の中学の同級生。


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市内から飯坂温泉を通り抜けてなおも山道を登って行く。人家はない。この先にどうして人が住み着いたんだろうかと思わせる奥深さだ。

市内から約40分、さあついた。摺上川ダムと茂庭っ湖。写真上が湖、右はダムから下流を見たところ。車をちょっと走らせると、こんな別天地が現れる。

平安末か鎌倉の初め、この地に大蛇が棲みついていたので斉藤実良が神の加護によって退治、郷士になった。多分、茂庭家の祖なのだろう。

将門伝説もある。愛妻の桔梗の前が大蛇になり、細い谷を作って沼を作り移り住んだという。

伊達政宗にも縁がある。政宗の正室愛姫の母は、三春城主の急死で伊達家と対立、船引(田村市)に隠退したが、やがてこの地に移り住んだという。

伊達家が常陸(下館の中村)から奥州を与えられて最初に治めたのが今の桑折(こおり)。福島県伊達市の隣町。

桑折から山を越えるのは難しく、飯坂に出てから茂庭に来るルートしかなさそうだ。伊達家の目の届かない地を選んだのか。

まことに山深い里だ。もう少し山を登って行けば宮城、山形の国境と接している。茂庭家には国境警備の任務が与えられたのだろう。

山奥でも日なたは暑い。目指すは「もにわの湯」。

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左はインフォメーションセンター。国交省の無駄遣いの見本。福島市内の水道はここが水源なので夏でも冷たい。その代わりに冬は風呂を沸かすのに時間がかかる。水道代もかなり高いそうだ。

右が「もにわの湯」。その前に「茂庭ふるさと館」に寄る。打ち立ての10割そばが人気で、地元の農産物も置いてある。なすが1袋に10個以上入って100円。安い!帰って晩酌の肴にした。うまかった。

農産物を買いあさっているおばさんもいた。4200円も。民宿でも営んでいるのか。

温泉も入浴料250円。入り口に丸いなすが展示してあった。

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ちょうど生産者がいたので聞いてみたが「まだ食べてない」。成りが悪いので名物にするのは難しそうだ。

どぼんと湯につかって出たら、風が心地よかった。肌がさらさらした感じで、しばらく気持ちがよかった。


明日は高湯にいくぞ。

2010年8月16日 (月)

映画「レオニー」のコピーが最後の仕事だった

お母さん、

私はこの子を連れて

日本という国に行きます。


映画「レオニー」のメーンコピーだ。

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赤ん坊を抱き、額にキスをする女性の写真が、込められた決意をにじませる。下部では「天才彫刻家イサム・ノグチの原点ーーー母、レオニー・ギルモアの波乱に満ちた生涯」と、メーンを補う。

「レオニー」については、「松井久子監督の『レオニー』⑴「松井久子監督の『レオニー』⑵試写松井久子監督の『レオニー』⑶イサムの父で書いたので、よろしかったら、そちらをご覧ください。

簡単に説明すると、レオニーは生まれたばかりのイサムを連れて父の国に来てしまう。それなのに父親が実にひどいやつ。母子を捨てて日本人女性と結婚してしまう。明治時代ですよ。父なし子を抱えたアメリカ人をどんなに好奇の目で見たことか。それでもレオニーは逆境を切り開いてイサムを育て上げる。

父親は野口米次郎。戦前は慶大教授としてそれなりに知られた詩人だった。演じるのは中村獅童。

メーンコピーの「日本という国」に、レオニーの決意や無謀さ、待ち受ける困難などがすべて含まれている。

14日は通夜、15日が葬儀だった。斎場の入り口には、この映画のポスターがそっと置かれ、
「このコピーが最後の仕事になりました」と小さな白い紙が張られていた。

体調が思わしくないとは聞いていたが、最後まで映画に携わっていたんだ。列席していた松井久子監督と思い出話をしていたら、配給先についてもいろいろと力を貸してくれたという。

そんな中で作品の本質をつき、すべてを凝縮したコピーを考えだした。「これだ」と衆議一決したという。

団塊の世代の女性が単身、アメリカに渡って作り上げた「レオニー」は11月20日、角川シネマ新宿などで公開される。

山下健一郎さん、お世話になりました。

もう一度コピーを掲載します。


お母さん、

私はこの子を連れて

日本という国に行きます。


                ◎          ◎

映画プロデューサーの山下健一郎氏(やました・けんいちろう)が10日午後7時17分、胆管細胞がんのため都内の病院で死去。70歳。島根県出身。「瀬戸内少年野球団」「片翼だけの天使」などを手掛けた。宣伝作品は「エマニュエル夫人」「ジョニーは戦場に行った」「デルス・ウザーラ」など。

2010年8月15日 (日)

ヤブミョウガも立派な花をつける・野川公園(三鷹)

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自然観察園の入り口にヤブミョウガも咲いていると案内があったので探しに行った。この花だけ他とは離れて、雑木が生い茂りじめじめした暗いところで群生してた。

花芽がにょきっと伸びて茎に花がまつわりついている。園芸種の花もいいけど、こちらは素朴だけど工夫をこらした花をつけている。目立たせようという努力、虫を呼び寄せるために必死になって存在を主張している姿には打たれる。

立派なもんだ。

ミョウガの名前はついているが、ツユクサ科です。葉っぱが似ているのでヤブミョウガになったらしい。

花には両性花と雄花の2種類あって、両性花は白いメシベが目立つという。これは両性花だろう。

柵があるのは野鳥の保護区と分けるため。奥にもフェンスがあって、そちらはICU(国際基督教大学)の構内。お互いに自然を保護してるんです。

野川公園を訪れたのは約一月ぶり。前回は7月の初めで、ノカンゾウの盛りだった。「野川公園でノカンゾウが群生してた」と報告した。

真夏になって花の種類がすっかり変わっていたのには驚いた。

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右の黄色い花はイヌキクイモ。キク科ヒマワリ属。そういわれればヒマワリに似てる。北アメリカ原産の帰化植物だそうだ。

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これはヒオウギ(アヤメ科)。通りがかった女性に教えてもらいました。花に斑点があるのが特徴です。「あっちには、もっと赤みがかったのがありますよ」と親切に教えてくれた。なるほど、色合いが異なる。日当りの差か。


夏休みの週末というので野川公園は子ども連れでにぎわっている。野川に入って小魚や虫を捕まえているお父さんもいる。浅いので大人がついていれば大丈夫。

そういえば都内ではゲンゴロウ(ナミゲンゴロウ)が絶滅してしまったそうだ。網ですくえばいくらでも取れたのに、そんなにデリケートな生き物とは知らなかった。

ナミゲンゴロウは体長3.5~4㌢とわが国最大のゲンゴロウ。かつては全国の池沼や水田で見られ、食用にする地域もあったが、「田んぼなど湿地が減り、湖沼の環境が悪化したため」絶滅してしまった。

湧き水広場では、子どもをせせらぎで遊ばせている。そんな光景を眺めながら、こちらものんびりした時を過ごした。

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2010年8月14日 (土)

芸術品!カラスウリの花・野川公園(三鷹)

カラスウリの赤い実は知っているが花を見たことはなかった。まさに芸術だ。

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この写真は、残念ながらしぼんでしまった花です。細い糸が丸まっているのが見えるでしょ。これが広がってレース編みのように開くんです。「だったらそれを撮ってこい」と、おっしゃるのはごもっとも。でも夜に咲いて朝にはしぼんでしまうんです。

ここは都立野川公園の自然観察園。夜間は立ち入り禁止なんです。別の場所で昼間に確認して夜、撮りに行けばいいんですが、なまけてます。

入り口に、園内で見られる花の写真と場所を示したマップがあるので、すぐ分かります。咲いている写真も掲示してあって、それは見事なもんです。カラスウリの赤い実と、レース編みのような白い花との落差には驚かされます。大げさにいえば、子どもの頃に学校の授業で見たディズニー映画「砂漠は生きている」で受けた感動に匹敵する自然の驚異でした。

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このほかにもいろいろ咲いてます。左はキツネノカミソリ。ヒガンバナ科で道から離れた奥の方にありました。

右はキキョウ。池の端で咲いてます。湿気を好むのでしょうか。


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これは何だっけ? 入り口で確かめてくるのを忘れました。

自然をできるだけ残して武蔵野の草花を育てている自然観察園。野川公園に寄ったらぜひ訪れてください。

2010年8月13日 (金)

佐藤春夫は「戦後最醜の文章」・大岡昇平「常識的文学論」

前回の続き。毒はほうぼうに撒かれます。

先月最大の雄編は佐藤春夫「うぬぼれかがみ」であり、また戦後最醜の文章でもある。或いは日本文学始って以来かもしれず、無論世界文学史に例はあるまい、佐藤春夫はとにかく文学の世界で、もっとも醜悪な文章を書いたという名誉と共に、後世に残るであろう。

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かつてあれほど若々しく優美であった佐藤春夫が、どうしてここまで落ちてしまったのか。それとも、もともとこれが「田園の憂鬱」の作者の真の姿であったのか。わが若年の熱狂は、私の精神に彼と同じ欠陥があるために起ったのか。

ただたしかなのは彼が常に、「門弟三千人」にかこまれていたことで、彼らの囁く甘い言葉しか耳にしない人物となって行ったことである。

〈松本清張〉

しかし松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の破壊に向うわけでもなければ、眼には眼をの復讐を目論むわけでもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足に終るのを常とする。

CICも旧安保時代の官僚の腐敗も事実である。ただ松本の推理小説はその真実を描き出してはいない。彼は「社会機構の深部の真実は知りえない」と逃げているがmこれは多くの社会小説を目指す作家が、殺されても口にしなかった言い訳である。

                     ×    ×

大岡は連載を始めるにあたってこう書いている。

「文壇沈滞が叫ばれてから久しいが、沈滞を吹き払うような傑作はいっこうに現れない。批評家は毎月雑誌に掲載される夥しい作品の、悪口を言うのに疲れたらしく、むしろややましなものにこぞって讃辞を呈することで、お茶を濁す傾向が目立っている。

1961年、当時52歳。同じことは半世紀をすぎた映画にも当てはまる。

山田洋次「おとうと」は失敗作だ。新聞批評(雑誌は読んでいない)ではみんな姉弟愛にころっとだまされた振りをしてる。ボランティアのホスピスが、はみ出しものも救いますなんてきれいごとで終ってはいけない。

無難なことばかりで口に苦いものは好まれない世の中は、正常なんだろうか。

ほんとうのことがいいにくい社会、うわべだけ滑ってどちらに行こうとしているのか。

2010年8月12日 (木)

井上靖「蒼き狼」は歴史小説ではない・大岡昇平「常識的文学論」

大岡昇平「常識的文学論」(講談社文芸文庫)にいたく刺激を受けた。そこにあるのは、鋭い刃、挑発的言辞、ひと言でいえば毒。それが突き刺さって批評された作家たちを鋭くえぐる。

書かれたのは1961年、「群像」に連載されたもので、安保反対のうねりが収まりきらない社会状況の中、大岡は大衆化された文学を切って切って切りまくる。

常識的文学論 (講談社文芸文庫)


買ったきっかけ:
新聞広告を見て

感想:
ブログで書きます

おすすめポイント:
大岡の毒が小気味いい。今こそ毒が求められている


常識的文学論 (講談社文芸文庫)


著者:大岡 昇平




常識的文学論 (講談社文芸文庫)

以下、毒を抜き書きする。

「蒼き狼」がこれだけの賞讃に値する作品であるか。それはほんとうに叙事詩的進行を持っているか、はたして歴史小説か、というのが、反感が私に抱かせた疑問である。

「蒼き狼」の叙事詩的進行とは、むしろ自ら小説であるのをやめたことによって成立している。それは少しも「生産的」なものではなく、退行現象である。歴史性、叙事性、道徳性、残虐性、エロチシズム、なに一つ欠けたものはないが、すべてワイドスクリーンに映った影であり、現代の観衆の口に合うように料理されているにすぎない。

〈志賀直哉について〉

美しい言葉である。しかし同時にいつわりでもあるので、こういう勘違いから、どんなに下らない自己探検小説、自己発見小説が書かれたかを思えば、志賀直哉は或る意味では日本文学に取って疫病神みたいなものであった。今日、水上(勉)や檀(一雄)の愚作となって、文芸雑誌をよごしている原因は、こういう私小説の理念、その思い上りにあると言っても過言ではない。

〈水上勉「決潰」について〉

そこに到る経路で、真実なものは一つもない、というのがこの小説の不思議な特徴である。近松秋江「黒髪」連作も、似たようなテーマを扱ったものだが、同じように探偵小説的でありながら、真実は随所にきらめいている。そういうもののカケラすらない物語を、えんえん二百七十枚続けて、作者が少しでも自分で変だと思っていないらしいのが、奇妙なのである。

まだまだ毒は尽きない。

2010年8月11日 (水)

吉祥寺を縄張りにした四軒寺一家・初代の墓

吉祥寺は俗に四軒寺と呼ばれていた。駅前にお寺が4軒あるからだ。吉祥寺という名の寺は駒込にあるので、間違わないようにしたのか。今でも女子大通りのバス停にその名を留めている。

そのうちの一軒が月窓寺。小金井一家ゆかりの親分の墓が、我が家の墓のそばにあるようだ。子供のころ父親から「小金井小次郎の墓が近くにあるんだ」と聞かされていたが、ずっと確認しないままだった。

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ありました。「藤覚勝藏信士」とあるのがそうだ。小次郎本人ではなく子分のものだった。長年の疑問がこれで解決した。小次郎の墓は小金井にあります。こちらに写真を掲載しています。よろしかったらどうぞ。

小金井の小次郎は甲州街道や川崎などに勢力を伸ばし、関東一円に数千人の子分を抱え、11のブロックに分けて、それぞれに有力な子分を配したという。

吉祥寺、すなわち四軒寺を預かったのが「四軒寺勝藏」。

彼は天保元(1830)年吉祥寺の旧家に生まれた。20歳ころまでは伯父の材木商をまじめに手伝っていたが、博奕場に足繁く通うようになり小次郎とも顔見知りになった。

身長は6尺(1m80㎝)、たいへんな力持ちで、その上性格は豪胆で義侠に富み博奕が飯より好きだったため伯父も小次郎の盃をもらう事を許した。

この時藤蔵24歳。3年後には四軒寺を預かる身となり「四軒寺一家」を興す、と武蔵野市発行の「むさしのところどころ」にある。

安政3年小次郎がとらえられて三宅島送りとなるが、藤藏たちが力を合わせ親分の留守宅を守り、小次郎も生涯この事は忘れなかった。

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(左は歴代の名が彫られた記念碑)


 (右は月窓寺の墓地です。四軒寺初代は通路の右手の一角にあります。吉祥寺の駅前に、こんな墓地があるんです)


記念碑も建てられている。「昭和55年5月22日 八代目岡澤和佳志建之」とある。四軒寺一家は幕末から連綿と続いてるんだ。歴代の名も刻まれている。二代目は並木作次郎。ばあさんは並木家から嫁に来てるから、縁戚かもしれない。

お墓に刻まれているのが初代の没年のようだ。明治2年、1869年。39歳で亡くなっている。小次郎が三宅島から大赦で戻ってきたのは明治元年。留守を守った安心感が出てしまったのか。

四軒寺一家、今も吉祥寺を縄張りにしてるんだろうか。

2010年8月10日 (火)

月窓寺と俠客小金井一家・プロローグ・吉祥寺

吉祥寺に行ったら先祖の墓に参らなければならない。江戸時代から続いているが、じいさんとばあさんしか知らない。本家は五日市街道沿いにある。街道の開拓にどこからか応募してきたのだろう。玉川上水からも遠く、水の乏しい地域だ。苦労したんだろう。

墓があるのは駅から最も近い月窓寺。北口から歩いて5分もかからない。商店街の左手に変わった門が立っている。これが入り口だ。

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境内は結構広い。もともと寺があって後から駅ができたのでこうなっている。駅前商店街の土地をかなり持っている。地代が入るので「お布施は気持ちだけでいい」といわれるそうだ。

吉祥寺が開かれたのは江戸も初期のこと。本郷にあった吉祥寺(再度の火事で駒込に移転)の門前町が明暦の大火(1657年)で焼け、当時牟礼野と呼ばれていたここへの移住者を募った。


本郷の門前町だから、移住したのは町人か。彼らは開拓農民になったのか。それとも五日市街道沿いで何か商売を始めたのか。我が家は明暦の大火とは関係なさそうだ。

その時に月窓寺、安養寺、光専時、蓮乗寺も移ってきた。吉祥寺は焼けなかったので移ってきません。

明暦の大火では神田の連中は三鷹に移る。須田町や連雀町にいた人びとは三鷹の下連雀に移った。すでに玉川上水も開通していたので、幕府も積極的に移住を奨励したのだろう。


月窓寺の檀家の中心は本郷から移った人たちだ。

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本堂の左側に墓地はある。うっそうと木が繁り、とても駅前とは思えない。宗教法人だからいいが地価はいくらになるのか。数億円ではすまないだろう。ゼロが1つつくのか。

オヤジが言っていた小金井小次郎の墓を探そう。

いきさつについては4月8日の「野川沿いを歩いて俠客の墓へ③」で触れた。興味のある方は参照してください。

続きはこちら。四軒寺一家初代の墓を探します。

2010年8月 9日 (月)

井の頭は「狛江」だった

久しぶりに街に出た。電車に乗って吉祥寺へ。買い物はそこそこに井の頭公園に避難する。平日の午後なのに涼を求める人でにぎわっている。

池の真ん中に渡されている橋を渡って対岸へ。ボート乗り場までは七井橋。昔は「七井の池」と呼ばれていた名残です。

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じゃあボート乗り場から対岸までの橋は? もう何十回も来ているが気にしたことがなかった。欄干の手前に「狛江橋」と彫ってあった。狛江なんだ。なんでだろう。

多摩川中流域で古代に最も栄えていたのが狛江だ。下流では世田谷区野毛や大田区田園調布に大きな古墳が作られているが、狛江では5世紀前半から6世紀中頃にかけて70基前後の古墳が作られた。

すでに大和朝廷とつながっている首長がここいらを治めていたようだ。それで現在の狛江を中心にした一帯を「狛江郷」といった。その範囲は現在の調布市、三鷹市、武蔵野市を含む広い地域だった。

狛江は高麗の江でこまえ。武藏には渡来人が多く住み、狛江もその中心地。深大寺を開いた満功上人もそうだし、三鷹には牟礼という小字がある。牟礼は古代朝鮮語のムルといわれている。岩波古語辞典も「むれ」は「やま」の意として「古代朝鮮語moriと同源か」と指摘している。

この一族は江戸時代に移住したようだが三鷹には「高麗」姓が多い。

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三鷹市役所近くの墓地は「高麗」一族のものだ。

吉祥寺も本郷・吉祥寺門前の人びとが移り住むまでは、牟礼野と呼ばれていた。牟礼の縄張りの野ッ原だった。

そんなわけで井の頭の池は狛江の池とも呼ばれていた。橋の名前はその名残なのだ。井の頭の池になったのは将軍家光が名付けてからで、そう古いことではない。


狛江橋からも見える井の頭弁財天は、源頼朝が1197年(建久8)に建立したと伝えられるが、実際に神社として祀り始めたのは、もっと古代にさかのぼる可能性は大きい。狛江郷と呼ばれ始めた頃には、豊富な湧き水を大事にした神事が行われていたと考えていいだろう。

2010年8月 8日 (日)

調布野草園のナツズイセン

手前のコスモスと森の間に調布市の野草園があるのですが、全く見えません。場所は深大寺の東となり。中央高速の深大寺バス停の東側と言った方が分かりやすいのかな。


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まあ入ってみましょう。掘ったて小屋の事務所の奥からは清水が湧いてます。これを利用して水生植物を育てている。

まあ、こりもせずに毎日、湧き水スポットを紹介してます。散歩したいところはたくさんあるんだけど、この暑さでは街の中を歩く気にならない。日野、八王子、青梅、町田、そして所沢や狭山にも足を伸ばしたんだけど、もうちょっと涼しくなってからね。

ついつい近場の自然に足が向いてしまいます。

でも、紹介するスポットは尽きない。ひと月も行かないともう趣を変えている。

真夏は花が咲いてません。秋にならないとダメなのかと歩いていたら淡いピンクの花があった。説明の札があった。ナツズイセン。

観賞用に中国から持ち込まれたものが野生化したのだそうだ。彼岸花科。葉が枯れたあとに花芽が伸びるのも彼岸花と同じだが、ひと月ほど早く咲く。

なるほど茎と花だけです。

リコリスともいうらしい。里山に生育するのでここの条件はぴったり。別名はハダカユリ。


まあそうなんだけど、ちょっと恥ずかしいネーミングですね。

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こちらは真上から見たショット。↓

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こちらはカンゾウかな。それっぽいけど、わかりません。古本屋で「野草図鑑」を仕入れてこないといけないな。

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2010年8月 6日 (金)

調布の里山と都立農高神代農場・ことしも豊作か

猛暑が続くので、とても町中は歩けません。涼を求めて湧水スポットを巡ってます。きょう8月6日は、歯医者でクリーニングをしたあと調布の野草園へ。

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ここは里山が残っているところです。以前に「調布の里山、ミヤコワスレ、ヤナギハナガサ」として紹介(6月2日)したのは田植えの直後でした。ことしは全国的に「やや豊作」とかで稲の成長も順調のようです。

神代植物公園・水生植物園の田んぼはもう穂を出していたが、こちらはまだです。清水で育てているので遅いのだろうか。そういえば10年ほど前、新潟・月岡温泉の小さな旅館で食べたご飯がおいしかった。女将が言うには「湧き水で作っているので粒が小さいんです。その分、うまさが詰まっています。山の方で作っているのを取り寄せてます」。

水生植物園の方も湧き水なのだが池をこしらえたり園内を回遊させているので水が温まっているのかもしれない。

農業高校の神代農場もぐるっと見てきました。こちらは5月22日の「ワンダフル!農高神代農場」で取り上げてます。

水が湧いているところではワサビを栽培、一番奥で稲を育ててます。


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田んぼは網で囲ってました。中でアヒルがガーガー。自然農法で作ってるんだ。生徒たちはうまい飯が食えるな。

人を見ると、餌をもらえると思って近寄ってきます。何にもあげなかったので、ガーガーが恨めしげに聞こえた。こちらもまだ穂が出てません。里山の田んぼはこの下流になります。

いつきても、この里山の景色はいい。いつきてもあきない。いつまでも残してほしいふるさとだ。

田んぼの横から奥へ行くと自然広場。人はいないし、木陰にはベンチも置いてある。空気がうまい。右手に野草園があるのだけど、草に隠れて分からない。その上はカニ山キャンプ場。

コンクリの照り返しがないから涼しい。暑い暑いと騒いでいるけど、コンクリがなければそれほどでもない。自然が皆、吸収してくれるんです。


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もう通勤する気にはならんね。恋しいのはネオンだけ。

2010年8月 5日 (木)

憩いのスポットです深大寺の湧水源流

深大寺の山門前の参道と、そば屋が立ち並ぶ通りはにぎわっているが、一本山側に入ったこの道は人通りが少ない。もったいない。木陰のベンチに座って静寂を楽しむにはもってこいの場所だ。

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本堂と深沙大王堂の間の小道を歩いてみてください。崖下の岩の間からは湧水が流れ出し、小さな泉を作っています。小道の下からも水が湧きだして別の流れを作っています。

深大寺、すなわち深沙大王の名をつづめたものです。これは深大寺に伝わる恋物語に由来しています。主人公は、開祖満功上人の父福満。地元の娘と恋に落ちるが娘の両親は許さない。それどころか池の小島に娘を隔離してしまう。福満が深沙大王に願うと亀があらわれ、小島まで連れて行ってくれた。こうして両親の許しも得て思いを遂げたという。

福満は渡来人だと言われている。そのため初めは許されなかったのだ。こうして満功上人は、大王を祀るために深大寺を建てた。このあたりは古代は狛江郷で渡来人が多く移り住んだところだ。

深沙大王は日光・輪王寺の創建にも関わっています。もともとは流砂の中からあらわれて三蔵法師の危機を救った仏教の守護神。


流砂からあらわれるから、「西遊記」の沙悟浄のヒントになった神様かな。

大王堂は江戸時代までは、本堂に匹敵するほどの大きさがあったが、明治元年の神仏分離令によって破却されてしまった。再建されたのは1968年(昭和43)と、ずっと後のことです。

立派な鳥居もあったというから神社扱いか。寺は大きすぎて壊せないので、寺に附属していた神社を壊したのか。神社が仏教の神を祀っているのがいけなかったのか。どうもよく分からん。


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毘沙門天も弁天様も各地に残っている。これらもインドの神様で仏教を守っている。時の神道過激派は何が気に食わなかったのか。判断基準がまちまちだ。

大王は福満を小島にわたらせたことで分かるように水の神様です。

そのためお堂の裏に湧き水を集めた小さな泉が作られているのです。縁結びとしては本堂よりもこちらの方がふさわしいかもしれません。

そういえば、本堂の東側に多聞院坂はあるが、肝心の多聞院がないのが不思議だった。調べてみたら、深沙大王は多聞天の化身だった。神仏分離の時に一緒に壊されてしまったんですね。

この流れは春先に小型のショベルカーを入れて整備していた。大きな石はどこからか運んできたものです。それでちょっと人工の匂いがしてしまうが、木や草が繁ってきたので大分、自然に近くなった。

深大寺を訪れた時には寄ってみてください。


このところ散歩しているのは、野川公園、貫井神社、国分寺のお鷹の道、水生植物園、深大寺と湧き水スポットばかりです。府中の浅間山にも水が湧いている個所があります。そこは水手洗神社になってます。自然を祭神にする原始神道の面影を残してるんですね。

水はいいです。涼しいし、「気」が湧きだしているのが実感できます。

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2010年8月 4日 (水)

深大寺ハスの花に仏を感じた・水生植物園

暑いので例によって、深大寺の自由広場に昼寝に出かけた。隣のベンチの小学生の女の子は、トンボ採りに興じている。飛んでるのを網ですくっている。うまいもんだ。

ペットボトルのお茶を枕にごろりと横になると、すぐに寝入ってしまった。すっきりしたところで植物園の横の雑木林を抜けて深大寺定点観測。

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水生植物園は雑草が我が世の春とばかりに繁っていた。田んぼでは稲がもう穂を出している。

ハス田ではピンクの花が開いていた。なんともいえない優しさがただよっている。色合いも派手すぎず、すべてを包み込んでくれそうだ。お釈迦様が天上天下唯我独尊と元気よく生まれてきてもおかしくない。

空想の胎内なのか。

そんことを思うのは先日、7月の下旬にお施餓鬼に菩提寺に行ったせいだ。三鷹の農村地帯のお盆は、新盆でも旧盆でもなく7月下旬なんです。きっと農作業の関係なんだろう。

坊さんが10人来て、いっせいにお経を唱える。別にありがたいとは思わないが、昔むかしは、ある種のエンターテインメントだったんだろうなんて、退屈しのぎに考える。

お経の合唱は、きっと音楽性豊かな催しだったと想像する。大合唱が心の奥底を揺する感動を与えた。その前にはキラキラの仏像。音と色彩で衆生を仏の道に導いたのだ。

今じゃお寺も侘び寂びの世界に入っているが、平安仏教はもっと刺激的だったに違いない。

日本の教会で歌われる讃美歌は、あくまでも清々しいが、ゴスペルに変化した時に、心の叫びと重なる。あんな感じが昔の仏教にはあったのかなと夢想する。


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「ゲゲゲの女房」のおかげで深大寺の人出は3倍に増えたそうだ。すごいもんだ。都心から近くて、武蔵野の面影を残したお寺、名物のそば、そして神代植物公園と手軽な散歩コースが見直されたんだろう。夏休みなので鬼太郎茶屋は子どもたちでにぎわってる。

それでも自由広場や水生植物園には観光客はあまりやってこないので落ち着いた雰囲気が保たれている。ベンチも空いているのでいつでも昼寝ができる。ありがたいことです。

2010年8月 3日 (火)

古代の道はこんなに広いぞ!幅12㍍・東山道武藏路

車が通らないからキャッチボールもできます。幅が12㍍、まっすぐに伸びています。こんなに広い道が、どうして発想されたんだろう。この道は東山道武藏路。武蔵国分寺跡の北側から中央線の手前まで続いてます。

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右側、街灯のそばをライトバンが走ってます。車道です。

前方、かすかに見えるのは日立中央研究所の森です。右側は武蔵国分寺公園。バードウォッチングのできるいやしの散歩道も設けられています。

道の左右に色違いの線が引かれてます。これは側溝の跡。排水もちゃんと考えられてるんです。

武藏路は東山道の支線です。上野の国新田庄から府中までまっすぐに下ってる。当時は、東海道は相模から房総半島へと船で渡るルートだった。

江戸は寒村で、房総半島を通って浅草辺に至るのが交通路だった。だから東京湾沿いに官道を作る必要もなかった。海岸沿いの道は、湿地でもあり多摩川などを渡るのにも困難が伴った。

だからぐるっと大回りして信濃、下野を通って武蔵に入ったんです。この道が作られたのは7世紀の後半とされている。645年の大化改新からそれほど経ってません。少なくとも、その頃には整備が始まったようだ。

東山道は、7道あった都と地方の国府を結ぶ古代の幹線道路の1つ。同時に行政区域の名称でもあった。だから武藏の国は東山道に属していた。

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東山道から東海道に所属替えが行われたのは宝亀2年(771)のことだ。


それにしても広い。旧東海道や旧日光街道などが残っているが、比べ物にならない。箱根にある旧東海道なんて駕篭がすれ違えるくらい。昔の道はその程度という認識があるから、この広さには驚かされる。

牛車や馬車などがゆったりと通れるように構想されたんだろうか。古代の人はびっくりしたことだろう。律令国家の威信が隅々にまで浸透したことだろう。

近在の農民たちが工事に動員されたのだろうが、建設費もバカにはならなかった。そんな財力も持っていたのか。

国の威信を末端にまで行き渡らせるには土木工事が一番というのは昔も今も変わらないのだ。しかし11世紀の前半には道としての機能を失ったと考えられている。

東海道の方が重要になったのか。南武蔵の勢力が衰えたためか。

でも新田義貞は、ほぼこの道と同じようなルートで鎌倉を目指したのは確かだ。南は国府があったと考えられる大国魂神社のあたりよりも西の高安寺辺まで達していたらしい。この先はもう分倍河原だ。

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話変わって、この墓地は本多家のもの。現武蔵国分寺の横を占めている。全部が本多家だ。真ん前も墓地なのだが、この辺を切り開いた本多さんは特別な存在なのだ。

2010年8月 2日 (月)

湧水群となりの薬師堂にも寄ってみよう・国分寺

真姿の池湧水群を出たら西側の現国分寺にも寄ってみよう。医王山最勝院国分寺といい、新義真言宗のお寺だ。境内には万葉植物園が設けられ、崖下にあるので、ここからも清水が湧いている。水量は少ない。

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横にある薬師堂が深閑としていて趣がある。急な階段をのぼると立派な仁王門が構えている。国分寺崖線の雑木林の中につくられているので、深山に迷い込んだような錯覚に襲われる。

この奥に薬師堂がある。立てられたのは建武2年(1335)というから古い。建武の新政下、鎌倉攻めで覚えめでたい新田義貞が寄進したと伝えられている。

もともとは国分寺の金堂跡付近に建立されたというが、その後、亨保元年(1716)に修復、宝暦年間(1751〜1763)に現在地に再建された。

とはいえ、義貞の信仰心を褒めてばかりもいられない。国分寺を焼き払ったのは新田勢だからだ。

義貞は元弘3年(1333)5月、上野の国新田庄で挙兵した義貞は一路南下、小手指が原、久米川で優勢に戦いを進め、分倍河原まで進出した。ここを落とせば鎌倉は目前だ。

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ところが幕府方の援軍に打ち破られて狭山の掘兼まで一度は撤退した。この時に国分寺を焼き払ったのだ。だから薬師堂を再建したのは罪滅ぼしにしか過ぎない。

このあと義貞は再び分倍河原で合戦、寝込みを襲われた幕府側はちりぢりになって敗走した。こうして稲村ケ崎を突破して鎌倉に入り幕府は滅亡した。「稲村ケ崎名将の…」と歌われているのはこの時のことだ。

戦火で国分寺が焼けた時に、奇跡的に持ち出されたのが薬師堂に収められている薬師如来。平安時代の末期、あるいは鎌倉時代初期の作と考えられる国指定の重要文化財だ。正式には「木造薬師如来坐像」で、大正3年に重文に指定されている。

毎年10月10日に開帳される。

この薬師堂の裏手がひっそりとしていいんです。

四国八十八所巡りの石仏群が風雪に摩耗しながらも静かに並んでいる。横に八幡様があるので、ベンチに座ってひと休み。今回は国分寺跡方面ではなしに、西国分寺駅を目指す。


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2010年8月 1日 (日)

エプロン姿がかわいい内田裕也・チューボーですよ

夕刊のテレビ欄を眺めていたらTBS「チューボーですよ!」のゲストが内田裕也だった。これは見逃してはならない。いつもはNHK教育「新ビバリーヒルズ青春白書」が11時40分頃に終わってからTBSにチャンネルをまわすんだけど時計とにらめっこして11時半にはスタンバイ。

行方不明になったシルバーはどうなるんだろうか。彼女の壊れてしまった心は元通りになるのだろうか。気になるが来週を見れば分かるだろうと、思いは振り切る。

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作るのは夏野菜のパスタ。料理番組なんだから裕也さんもエプロン姿になる。はにかんだような、照れたような表情で野菜の下ごしらえをしてる裕也さんがかわいい。

なすの皮を剥いているんだけど、ほとんど形だけだ。ジャガイモの皮を剥くやつ、なんていうんだ、あれで剥いてるんだけど手つきはおぼつかない。料理なんかしたことはないだろう。

次はパプリカに包丁を入れているカット。へたを取り除こうとしてるが、切るところまでは映さない。

なすもパプリカも、振りをしてるカットを入れて、次のシーンでは野菜はきれいにカットされていた。

ふだんは堺正章が突っ込むんだけど、それもなしで下ごしらえは終了。あとは裕也さんがパスタを湯に入れるだけ。

トークは4000㍍からのスカイダイビング。普通は3000㍍らしいが「一番高いのヨロシク!」と頼んだそうだ。もうすぐ70歳だよ。ロックンローラーは大変だ。

食べた感想は「オレが(パスタを)入れたとは思えない」。誰が入れても同じだと思うけどね。

裕也さんとはじめて出会ったのは77年公開の映画、ATG「不連続殺人事件」(監督曽根中生)だった。自ら脚本を書くようになるんだけど、「コミック雑誌なんかいらない」「魚からダイオキシン!!」など横書きなんだよね。これはすごい。ポリシーを通してしまうんだ。でもスタッフ、キャストに配る印刷されたものは当然、縦書きに直されてます。

あるとき、何の帰りだったか、新橋の居酒屋に2人で入った。高速の下、正確な地名では土橋になるのかな。

裕也さんが「沢田を呼ぼう」と言い出し公衆電話から電話をした。携帯のない時代です。30分もしてあらわれたのは沢田研二。ジュリーです。

ジュリーも「こんばんわ」とさりげなく入ってきた。10時過ぎ、突然の誘いにいやな顔1つしないでくるジュリーはえらい。ますますファンになった。

来年はタイガースの復活があるようだ。待ち遠しいね。

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