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2010年7月 6日 (火)

伊藤左千夫の墓と「野菊の如き君なりき」その2

伊藤左千夫は牛乳屋さんです。小売りではなく牛を飼って搾っていたんです。牛乳屋を始めたところは本所区江東橋、今の錦糸町駅の南口だそうです。

のどかだったんです。明治22年(1889)のころは。牛が飼えたんですから。今じゃ周囲の住民が許さない。錦糸町と亀戸は隣町みたいなもんです。歩いてもまっすぐ北に行けばわけはない。牛舎と住居跡には歌碑が建っているそうです。亀戸の方が栄えていたようだ。今とは逆です。

牛乳屋の名前は「乳牛改良社」。明治の半ば、牛乳は普及していなかった。西洋の習慣を広めようという心意気みたいなものがうかがえるネーミングだ。

晩年は牛乳屋がうまく行かなくなり、大島に転居している。大島は都営地下鉄が通って今では便利になっているが、明治期には人口も少なかったようだ。伊藤左千夫は転居した大正2年(1913)に亡くなり、大島からも近い亀戸の普門院に葬られた。

伊藤左千夫は乳牛改良社が軌道に乗ると短歌を始め、正岡子規に師事。

こんな歌がある。「牛飼いが歌よむ時に 世の中のあらたしき歌 大いにおこる」。

「野菊の墓」を発表したのもホトトギス。明治38年(1905)のことだった。夏目漱石が評価したという。物語の舞台は、矢切の渡し近くの村だった。錦糸町からもそんなに遠くはない。

純愛を引き裂くのは、川であり舟だった。後年なら鉄道でもいいが、このころはまだ、舟が別離、旅立ちにはふさわしかった。


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木下恵介監督が映画化したのは昭和30年(1955)のことだ。戦前にはどうして映画化されていないんだろう。

映画評論家の井沢淳さんが「伊藤左千夫といえば、アララギ派歌人として有名だが、小説はつまらない。木下惠介が、そういう原作を見つけ出してきたことが興味深い」(日本映画作品全集、キネマ旬報社)とにべもない。話題にもならずに埋もれていたのだろうか。


タイトルが「野菊の如き君なりき」になったのは、当時の松竹首脳が「墓がつくタイトルなんて縁起でもない」と首を縦に振らなかったためだ。

木下惠介の業績については長部日出雄「天才監督木下惠介」(新潮社)が群を抜いている。丹念な取材と綿密な調査で、木下監督の素顔と全49作品に込められた屈折や畏怖を読み解いている。

黒澤明監督と並ぶ存在でありながら、やや印象が薄れている木下作品を再評価できる評伝だ。

その3に続きます。

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