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2010年7月15日 (木)

シリーズ「多摩の基地」・3分割された米軍府中基地

野川公園と武蔵野の森公園の間を通っている人見街道をまっすぐ府中方向へ行く。多磨墓地の南側を抜けムサシノキスゲで知られる浅間山の麓をなおも西を目指す。

この辺りは江戸時代まで人見村だった。浅間山には、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した武士・人見四郎の墓跡がある。村名の起こりは不明だが、武藏七党の人見氏がいた、あるいは浅間山が人見山と呼ばれていた、などの説がある。現在でも杉並区へ向けて、旧人見村の中心を人見街道が通り、浅間山の南側麓には、人見稲荷神社も鎮守している。

町名は若松町になっているが、町内会の名は人見。村のつながりが生きている。行政では割り切れない住民の付き合いが残っているのはいいことだ。


Cimg0300

脱線するけど、今の村の形ができたのは室町時代のこと。荘園の中に「村」と呼ばれるものが成立し、独自の祭りも行っていた。近世以降の集落につながっていくような村が成立してくるのは13世紀末から15世紀頃のことなのだ。

フーン、そうなんだ。それほど古いことではない。田んぼがあって村がある風景を日本の原型と考えているが、原風景が形成されたのは、600年ほど前のことなんだ。

また人見村は古戦場としても知られている。

南北朝時代の動乱期、1352年(正平7年)、新田義貞の息子である新田義興・義宗の兄弟は、浅間山周辺の人見原(ひとみがはら・府中市)と金井原(かないはら・小金井市)で、足利尊氏と戦った。足利尊氏はここで敗北し、石浜(台東区・荒川区)へ撤退、その後、小手指原・高麗原へ転戦した。

街道は突然、フェンスに囲まれた一帯にぶつかる。航空自衛隊の府中基地だ。

正面横の庭に戦闘機が2機展示されている。案内板が基地内にあるが、フェンスから遠いので読めないので戦闘機の名前は分からない。航空自衛隊の司令部が置かれているから重要な基地なのだろう。

もともとは陸軍の燃料廠で戦後、占領軍に接収された。アメリカ軍はここに、極東第5空軍司令部と在日米軍司令部を置いた。要だったんですね。自衛隊も同じように司令部を置いた。共同で作戦を立てたというより米軍の指揮下で自衛隊が行動していたのだろう。


Cimg0303


「写真を撮らせてください」とゲートの守衛さん(?)に聞くと、無線でどこかに連絡して「外からならいいですよ」。

正面ゲートからさらに西に行くと基地の隣が府中の森公園だ。雑木林が残されていて市民の憩いの場になっている。ここも1973年に返還されるまでは米軍基地だった。というより基地が分割されて自衛隊と公園になったのだ。

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