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2010年7月14日 (水)

基地の町だった多摩・武蔵野の森公園は飛行場・2

陸軍「調布飛行場」が完成したのは昭和16年(1941)。南北1000㍍と東西700㍍の2本滑走路が作られ、飛行第144戦隊などが置かれた。

残っているのは南北だけです。滑走路沿いには歩道が設けられて、味スタの近くまでまっすぐ行くことができます。

戦争末期には特攻隊の訓練と九州知覧基地への中継地にもなった。調布飛行場の244戦隊には新鋭戦闘機の「飛燕」が配備された。ダイムラーベンツの技術をもとに川崎航空機が国産化したもので、昭和18年(1943)に陸軍の主力戦闘機として正式採用された。

鹿児島県知覧町の「特攻平和記念館」には唯一「飛燕」の実機が保存されている。野川公園に展示されているのはプロペラだけだが、高倉健主演の映画「ホタル」(2001、監督降旗康男)がぐっと身近になるね。

我が家の上空も「飛燕」が飛んでいたんだ(生まれてないけど)。名残の掩体壕が公園内に2基、公園外の府中市白糸台にも2基残っている(非公開)。

コンクリートの表面がボロボロなのは、朝鮮戦争の時に鉄筋がはがされたためだ。

子どもの頃、鉄を拾って屑屋に持っていくと5円、10円で買ってくれた。銅はアカと呼んでもっと高値だった。電線工事のあとを狙っていくと切れ端が落ちていた。錆びていないピカピカのやつだ。10円以上になって、5円のコロッケを買いにいったっけ。

Cimg0267


(掩体壕「大沢2号」)


戦後は当然、アメリカ占領軍に接収された。都心に最も近い基地。何に使われたかというと、これが農場。

米軍は日本政府に、軍と家族に新鮮な野菜を供給するための農場を東京近郊につくるように命令した。選ばれたのが調布飛行場。

こうして昭和21年(1946)の大みそか、世界最大規模の水耕農場が完成した。

今でこそ野菜の大切さは浸透してるけど、当時は生野菜なんてほとんど意識していなかった。

アメリカはすごいね。兵站本部が命令してるんだもん。きっとレタスやブロッコリなど日本人が知らない野菜を作ったんだろう。

レタスを食べたのは、ハンバーガー屋ができてパンの間に挟んであったのが最初だ。生で食べたのはキュウリくらいか。キャベツの千切りもコロッケについていた。サラダなんて高級なものは知らなかった。

農場が閉鎖されたのは昭和36年(1961)。代々木に東京オリンピックの選手村がつくられることになり、予定地にあったワシントンハイツ(将校用住宅)が調布に移転、関東村となった。

返還されたのは昭和49年(1974)、平成12年(2000)には武蔵野の森公園がオープン、翌年には一部が「東京都調布飛行場」として正式開港したというのが歴史だ。

野川公園と武蔵野の森公園の間を通る人見街道を西に行くと府中の森公園に至る。ここも占領軍の府中基地で、極東第五空軍司令部が置かれていた。


Cimg0293

(ピントが甘過ぎますが、だいたいの位置関係を見てください。上の線路が中央線、縦の私鉄は西武多摩川線。公園の左手は多磨墓地、その西側はムサシノキスゲの浅間山。下方を横切っているのは京王線)


日本の強い意志があれば米軍基地は返還されるんです。民主党は官僚の言いなりになっているから、解決できないのだ。「抑止力」なんて抽象的な概念を引きずっていると、論議にならない。

そもそもアメリカが日本に基地を置いているのは、共産主義からアメリカを守るため。その最前線の位置づけだ。そのついでで日本の防衛になっている。ついでなんです。それを忘れてはいけない。

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