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2010年6月 1日 (火)

そろそろ桜桃忌なので玉川上水を歩く・その参

Jousui2
太宰治はあまり自然を描写していない。「乞食学生」のように玉川上水の流れを描いているのは珍しい。何かの暗示があったのか。近郊都市にはふさわしくない豊かな水量と流れの速さに、引き込まれるものがあったのか。

「『自然』に対して関心を持たなかった太宰は、三鷹に住みついてから書いたどの作品の中でも一個所も、三鷹の風景・風物について描写らしいことはしていない」(菊田義孝「太宰治と三鷹」、「太宰治の弱さの気品」所収)。ふーん、そうなんだ。

だから「乞食学生」が、玉川上水のイメージとも重なっていろいろと引用されるんですね。

桜の花弁を追いかけた太宰とともに歩いていくと、もう万助橋だ。渡辺万助さんが架けたので万助橋。安政年間のことだそうです。江戸時代の1854年頃のことだ。

渡辺家は下連雀の大地主で、関東大震災で大きな被害を受けるまでは醤油醸造業も営んでいたという。水のない武蔵野台地と醤油醸造は結びつかない。井の頭の湧き水を利用したのか。

橋を架けた万助氏の孫?の万助氏(世襲名、第八代)は、橋の手前の雑木林を切り開いて住宅街を開発、南井の頭田園住宅を造成、1924年(大正13)12月に竣工した。震災の被害を教訓にして、広い道幅を取り、井戸を整備して生け垣も奨励したという。今でも区画はそのままで、敷地の広い住宅が建ち並んでいる。言ってみれば三鷹の田園調布。大学教授やジャーナリストなどが旧東京市内から移り住んだという。「多摩のあゆみ」138号の「昭和初期撮影の空中写真ー玉川上水・南井の頭田園住宅・山本有三邸ー」(矢野勝巳)を参照。

矢野氏は、児童小説「ノンちゃん雲に乗る」はこの辺りをイメージして書かれた作品だと考察している。作者の石井桃子さんが山本有三邸をたびたび訪れていることから、東京郊外に住む中産階級の家族が住むところとして設定した可能性があるというのだ。(ノンちゃんの映画は子供の頃に見ました。鰐淵晴子がまぶしかった)

三鷹駅から万助橋までは約1㌔。吉祥寺通りを右に折れればジブリ美術館、左に行けば井の頭自然文化園の前を通って吉祥寺駅。橋を越えれば公園の雑木林。右岸がおすすめだ。バードウオッチのポイントは野鳥のサンクチュアリだし、ナザレ修女会跡地にはベンチが置かれ、ひと休みもできる。

新橋を過ぎると右手に明星学園高校の正門がある。この先で太宰治と山崎富栄の遺体が発見された。この辺りは玉川上水がカーブしているので、流れによどみが生じていたのだろう。

Photo

2人が入水したのはむらさき橋の手前。そこには玉鹿石(ぎょっかせき)が置かれ、脇の石には「玉鹿石  青森県北津軽郡金木町産 1996(平8)6月」とだけ記されている。よけいな説明をしていないのが好ましい。

「多摩文学紀行」(たましん地域文化財団発行)で著者の山本貴夫さんが胸を張っていた。山本さんは文芸郷土史家で三鷹太宰治研究会主宰とプロフィルにあった。「男物と女物の下駄がつま先を流れに向けて揃えて残されていたことは私が発掘し、昭和五九年一二月四日付の読売新聞にスクープとして取り上げられた」。

その紙面が紹介されており、社会面のトップのようだ。見出しは、「太宰は合意で入水した?!早朝の堤に下駄二足 “愛人主導”の切に一石 郷土史家が新証言発掘」となっていた。

遺体が見つかったのは入水から6日後の昭和23年6月19日。36年を経てのスクープだったわけだ。

今日はそろそろ戻ろうか。新橋を左に曲がると井の頭公園通りにぶつかる。左折すれば公園に戻る。


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