フォト
無料ブログはココログ

« グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く | トップページ | 眉根を寄せる女たち »

2010年5月12日 (水)

グリーンパーク野球場③六大学野球

グリーンパーク野球場の跡地に立っている。今の住所は武蔵野市緑町だ。武蔵野市役所の西隣になる。

正式のオープンは1951年5月5日、こけら落としの試合はプロ野球「国鉄—名古屋」だった。だが、その前に東京六大学野球が行われている。4月14日、土曜日の開幕戦だった。この試合の応援に行った早大生がいた。脇坂勇さんの著書「八幡町ものがたり」(河出書房新社)をのぞいてみよう。

Cimg0164
(武蔵野中央公園。原っぱを残している。右奥はNTT、戦前は逓信省だった。軍事と通信は密接なので、軍需産業と近接しているのもうなずける)

「私が観戦したグリーンパーク球場での早東戦は、結局七対ゼロの大差で予想していた通り早稲田が勝った。当時早稲田には末吉(三年生)、福島(二年生)という好投手がいたが、二人とも小倉中学出身で私の先輩だったから応援にも熱が入った」。

              ◇       ◇
☆☆☆☆☆※脇坂さんが在学していた時、小倉中学は甲子園で春、夏の連続優勝を成し遂げている。2人の投手は優勝メンバーなのだろう。脇坂さんは、東京に引っ越して武蔵野市八幡町に移り住んだ。高校も都立西高に編入。文芸部の同窓に作家の黒井千次がいた。卓球の世界チャンピオン荻村伊知郎も同期だ。肺を患っていたために国立はあきらめ、この年早稲田に入学したばかりだった。
              ◇       ◇

当時の武蔵野市は都内から見ればへんぴなところだった。今でこそ吉祥寺が最も住みたい町の1位になったりしているが、中央線で三鷹まで行くには相当の覚悟がいった。なにしろ並行して走る西武新宿線は「オワイ」電車などと陰口をささやかれていたくらいなのだから。江戸時代、いた明治や大正でもそうだったかもしれない。武蔵野の百姓は、肥え桶を積んだ荷車で江戸に行き、肥えを買ってきた。朝一番の西武電車は、百姓と同じように肥えを運んでいるという噂があった。

六大学の開幕戦にあわせて武蔵野競技場線が開業した。新駅の名前は「武蔵野競技場前(グリーンパーク野球場前)」。陸上競技用の競技場が近くにあり(今もある)、こちらの名称が使われた。期待された新球場だったが、不便さの方が先に立ってしまった。
Cimg0164
(都営アパートの地図。真ん中の楕円が球場の名残?)
「新設球場は、当日が曇天で肌寒かったせいもあるだろうが、客の入りが悪かった。一塁側三塁側とも内野席の一角を応援学生が陣取っているだけで、一般客は数える程度、外野席は空っぽに近かった。三鷹からの電車が開通したからといっても本数は少ないし、国電からバスに乗り換えるのも面倒だ。それに、武蔵野の郊外ではやはり草野球のイメージであって、プロ野球とか六大学リーグではどうもぴったりこない」(「八幡町ものがたり」)。

5月5日のプロ野球こそ満員で行われたが武蔵野グリーンパーク野球場の評判は散々だった。新聞の略称もセ・リーグとパ・リーグで「武蔵野」と「三鷹」に分かれるなど定着しないまま、1951年は12試合が行われただけだった。


☆☆☆☆※脇坂さんはジャーナリスト。「週刊女性」の発刊に携わるが肺結核のために療養。人物往来社で「近代百年の歴史」、河出書房では「世界の歴史」25巻を企画・編集。1975年からはフリーで「武蔵野編集室」と呼ぶグループを主宰。「八幡町ものがたり」は、移り住んだ都営住宅と自分史を重ねた極小の地域史。87年急逝。


Cimg0169_3


以下の項目はカテゴリーの武蔵野市にあります。お時間のある方はよろしく。

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

« グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く | トップページ | 眉根を寄せる女たち »

スポーツ」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

武蔵野市」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1320081/34642068

この記事へのトラックバック一覧です: グリーンパーク野球場③六大学野球:

« グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く | トップページ | 眉根を寄せる女たち »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31