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2010年5月31日 (月)

そろそろ桜桃忌なので玉川上水を歩く・その弐

玉川上水沿いを歩いている。申し訳程度の流れだ。淀んだところでは鯉が悠然と泳いでいる。

上水の流れは太宰にどう映ったのか。「だんだん歩調が早くなる。流れは私を引きずるのだ。水は幽やかに濁りながら、点々と、薄よごれた花びらを浮かべ、音もなく滑り流れてゐる。私は、流れてゆく桜の花びらを、いつの間にか、追いかけてゐるのだ」(昭和15年発表の「乞食学生」)。

徒歩で花びらを追いかけられるのだから、そんなに速くない。花びらは浮かんだままなので渦を巻くほどでもない。

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(万助橋から三鷹方面を望む。手前と右手が井の頭公園)

大正時代はどうだったのか。太宰も「乞食学生」で続けて触れている。「この辺で、むかし松本訓導といふ、優しい先生が、教え子を救ほうとして、かへって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を人喰い川と呼んで、恐怖している」。

「この辺」というのは、万助橋をわたって井の頭公園に入ったあたり。上水の左岸を行くと雑木林の中に小高くなったところがあり、大きな石碑が建っている。「松本訓導殉難の碑」と彫られている。訓導は今でいう教諭。

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(殉難の碑。随分と立派だ。麹町区の有志が建立し、時の文部大臣中橋徳三郎の篆額になる。後ろが玉川上水)


松本虎雄訓導らは永田町小学校全校児童を率いて遠足に来ていた。大正8年(1919)11月のことだ。生徒の1人が急流に落ち、助けようと飛び込んだ先生がなくなったのだ。松本訓導33歳だった。

徳川幕府の御用林だった井の頭一帯は明治22年(1889)に宮内省の御用林となり、大正2年(1913)に東京市に下賜された。大正天皇の即位記念の意味合いがあったのだろう。

東京市は日本初の郊外型公園として整備、4年後の大正6年に開園した。だから正式名称は井の頭恩賜公園。永田町小学校は、まだできたばかりの井の頭を遠足地に選んだのだ。

花びらを追いかけられる流れと人喰い川、随分と落差がある。しかし小説の構成としては巧みだ。やや急ぎ足で花びらを追うのは、小説を出版社宛に投函した後の屈折した心理と重なる。

松本訓導の話は次の展開の伏線として張られている。緩い流れでは、次の行動が読者に納得できないので、人喰い川を印象づけるために、この美談を持ち出している。場面の流れも急展開する。

叫び声が聞こえ、全裸の少年が泳いでいるのを目撃する。押し流される少年を追って私も救助のために全速力で追いかける。

当時の上水の流れはどちらだったのか。花びらを追える流れは、小説上の必要性で、全裸の少年が溺れると私が思ったほどの急流だったと思う。

だから太宰と富栄の遺体は、もっと下流で発見された。2人は1キロ以上も流されている。

上水は公園の中を突っ切って流れている。流れに沿ってもっと歩こう。


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