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2010年5月14日 (金)

グリーンパーク野球場⑤建設前史

1951年5月にオープンしたグリーンパーク野球場だが、1年も使われないで無用の長物と化してしまった。誰が主体となって作ったのか。どうしてずさんな計画がまかり通ってしまったのか。戦後の混乱期というか、民主化運動の成れの果てというか、そこには労働者たちのバラ色の未来があるはずだった。

グリーンパーク野球場の敷地一帯は軍需産業の中島飛行機の工場だった。東側が陸軍用の武蔵野製作所。隼、鍾馗、呑竜などのエンジンを、西側は海軍用で多摩製作所。こちらはゼロ戦、天山、銀河などのエンジンを隣の工場には明かさずに秘密裏に作っていた。

開発競争といえば聞こえはいいが、要はセクショナリズム。アメちゃんの技術革新が進んでいるのに、これじゃ負けるわけだ。

戦後、中島飛行機は富士産業と名を変えた。今の富士重工です。従業員全員が富士産業に移ったわけではなく、旧中島飛行機の残留従業員も工場にとどまっていた。戦争直後の労働運動の高まりは、今では考えられないものがあったらしいから占拠して権利を主張したことも十分に考えられる。

彼等は富士産業での完全雇用を求めず、従業員が会社を作り、自分たちで生きる道を模索することを選んだ。こうして工場の従業員への払い下げが決定した。従業員たちは工場跡に立てこもっていたのかな。戦争直後の労働運動の高まりは、今では考えられないものがあったから、占拠して権利を主張したことも十分に考えられる。
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(武蔵野中央公園の歴史を伝える碑。軍需産業があったために空襲で徹底的に破壊され、戦後はアメリカ軍に接収されていたことなどを記している。「この「原っぱ」をかけめぐる子どもたちの声に象徴される平和な光景がいつまでも続くよう…不断の努力を続けていきたい」と結ばれていた)

闘争の結果、労働者の主張が認められた。

こうして旧中島の従業員たちは、武蔵野を文化的に復興発展させようと、武藏野文化都市建設株式会社を設立した。1947年(昭和22)5月17日だった。

社長は逓信院総裁を辞任したばかりの松前重義。辞任といえば聞こえはいいが、公職追放になったのです。グリーンパーク球場一帯の地名、西窪に住んでいたのが縁のようだ。地元の名士ですな。現在でも逓信院の流れを汲むNTTの研究所が広大な敷地に建てられている。総裁の官舎がここにあったのかもしれない。

役員は武者小路実篤、徳川夢声ら。確か、武者小路も当時は三鷹の牟礼に住んでいた。夢声さんも武蔵野市在住だったと記憶している。

競輪場の計画もあったが野球場に落ちついた。その方が進駐軍の受けも良かったのだろう。武藏野文化都市建設株式会社は1950年(昭和25年)3月、(株)グリーンパークに変更した。

こうしてナイター設備も整った新球場は1951年に開場したのだが、あえなく実質1年でプロ野球の公式戦には使用されなくなってしまった。総工費1億円。今なら100億は下らない。従業員の夢ははかなくついえた。

(株)グリーンパークがどうなったかは知らない。球場以外にもまだ払い下げを受けた土地が残っている。切り売りしながら生き延びたのか。

このシリーズは6回です。カテゴリーの武蔵野市をクリックすると出てきます。

「武蔵野市にあった幻の東京グリーンパーク野球場」

「グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く」

「グリーンパーク野球場③六大学野球」

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

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