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2010年5月の記事

2010年5月31日 (月)

そろそろ桜桃忌なので玉川上水を歩く・その弐

玉川上水沿いを歩いている。申し訳程度の流れだ。淀んだところでは鯉が悠然と泳いでいる。

上水の流れは太宰にどう映ったのか。「だんだん歩調が早くなる。流れは私を引きずるのだ。水は幽やかに濁りながら、点々と、薄よごれた花びらを浮かべ、音もなく滑り流れてゐる。私は、流れてゆく桜の花びらを、いつの間にか、追いかけてゐるのだ」(昭和15年発表の「乞食学生」)。

徒歩で花びらを追いかけられるのだから、そんなに速くない。花びらは浮かんだままなので渦を巻くほどでもない。

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(万助橋から三鷹方面を望む。手前と右手が井の頭公園)

大正時代はどうだったのか。太宰も「乞食学生」で続けて触れている。「この辺で、むかし松本訓導といふ、優しい先生が、教え子を救ほうとして、かへって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を人喰い川と呼んで、恐怖している」。

「この辺」というのは、万助橋をわたって井の頭公園に入ったあたり。上水の左岸を行くと雑木林の中に小高くなったところがあり、大きな石碑が建っている。「松本訓導殉難の碑」と彫られている。訓導は今でいう教諭。

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(殉難の碑。随分と立派だ。麹町区の有志が建立し、時の文部大臣中橋徳三郎の篆額になる。後ろが玉川上水)


松本虎雄訓導らは永田町小学校全校児童を率いて遠足に来ていた。大正8年(1919)11月のことだ。生徒の1人が急流に落ち、助けようと飛び込んだ先生がなくなったのだ。松本訓導33歳だった。

徳川幕府の御用林だった井の頭一帯は明治22年(1889)に宮内省の御用林となり、大正2年(1913)に東京市に下賜された。大正天皇の即位記念の意味合いがあったのだろう。

東京市は日本初の郊外型公園として整備、4年後の大正6年に開園した。だから正式名称は井の頭恩賜公園。永田町小学校は、まだできたばかりの井の頭を遠足地に選んだのだ。

花びらを追いかけられる流れと人喰い川、随分と落差がある。しかし小説の構成としては巧みだ。やや急ぎ足で花びらを追うのは、小説を出版社宛に投函した後の屈折した心理と重なる。

松本訓導の話は次の展開の伏線として張られている。緩い流れでは、次の行動が読者に納得できないので、人喰い川を印象づけるために、この美談を持ち出している。場面の流れも急展開する。

叫び声が聞こえ、全裸の少年が泳いでいるのを目撃する。押し流される少年を追って私も救助のために全速力で追いかける。

当時の上水の流れはどちらだったのか。花びらを追える流れは、小説上の必要性で、全裸の少年が溺れると私が思ったほどの急流だったと思う。

だから太宰と富栄の遺体は、もっと下流で発見された。2人は1キロ以上も流されている。

上水は公園の中を突っ切って流れている。流れに沿ってもっと歩こう。


2010年5月30日 (日)

そろそろ桜桃忌なので玉川上水を歩く・その壱

三鷹駅の南口から玉川上水を下っていく。土手に植えられたケヤキや桜が大木に成長しているので、夏でもほどよい木陰を作り暑さを遮ってくれる。歩道が整備されているのでブラブラ歩きにはちょうどいい。クルマもあまり通らない。時折ジブリバスが親子連れを乗せて追い抜いていく。

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(上水沿いの道。緑豊かで木陰も作ってくれる)

太宰治ファンは、上水が線路をくぐったあたりの本町通りを南に下り、突き当たり手前の左手「太宰治文学サロン」に寄るといい。太宰が通った「伊勢元酒店」の跡地に生誕100年を記念して2008年に作られた。ゆかりの地を紹介するマップも売っているので片手にしながら散策すれば便利だろう。

5分も歩けば山本有三記念館。庭には無料で入れる。庭のベンチに腰掛けて古い洋館のたたずまいを眺めるのもいい。

手前のむらさき橋の駅よりが入水地点。玉川上水を描写しているので、よく引用される「乞食学生」の一節と上水脇でしゃがんでいる太宰の写真がレリーフになっている。

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有三記念館の横の平和通りを南に行くと三鷹井心亭が左手にある。茶室を中心とした和風施設で、この向かいに太宰が住んでいた。太宰の家にあったサルスベリがここに移植されている。

現在の玉川上水は、細流でしかない。それでも流れが復活しただけましだ。1965年(昭和40)に淀橋浄水場が廃止されると小平監視所から下流は流れが止まってしまった。浄水場がないんだから必要がなくなった。だから流れを止めた。近代化の論理だ。でも、むなしい。

子供の頃、昭和30年代の前半、自転車で三鷹駅辺まで遠征した。井の頭公園の中にあったプールに行ったのかもしれない。弁天様の近くにあり、都営だか市営だったので料金が安かった。子供が20円か25円だった。でも、井戸のくみ上げ水だったので水温が低くて、「井の頭のプールは冷たいので心臓マヒに気をつけなさい」と親にくどいくらいに注意されていた。そのプールは今はない。弁天様の南東に平らになったところがあるので、そこにあったのか。

「玉川上水には絶対に近づいてはいけません」とも注意されていた。ゴーッと音を立てて流れていたし、流れは渦を巻いていた。水量も豊富で子供心にも危険な流れというのは分かった。でも、おっかなびっくり覗き込んだ。その頃は柵もなかった。深さは見当もつかない。水の力に本能的に恐怖を覚えた。野川の流れとは全然違う。あっという間に溺れる。草の葉をちぎって投げ入れたら、見る間に流れに飲み込まれた。

太宰と山崎富栄は飛び込んで、「アー」と声を発する間もなく激流に飲み込まれてしまっただろう。山崎の家は駅から2、3分のところ。ここを出て、すぐに身を投げた。

でも「乞食学生」を読むと、そんなに流れは急ではなさそうに描写している。最初に発表されたのは昭和15年(1940)。戦前と戦後で水量が違うのか。

まだ、歩き始めたばかりだが、玉川上水水量の考察は続きます。

2010年5月29日 (土)

続・幻の山菜「シオデ」を食す

深大寺の門前そば屋の店先で貴重な山菜「シオデ」を買い求めた。いっしょに置いてあった「うるい」が蔵王産なので、宮城から送ってもらっているのか。

さっそく軽くゆでてドレッシングも作って食卓に並べる。
シャキシャキしている。歯ごたえが気持ちいい。シャキッっと噛み切れると若芽の息吹が広がる。それほど苦くない。アスパラガスよりもピンと背筋が張っていて生命のエネルギーがあふれている。

好き嫌いのある息子も食べている。「うまいだろ」と催促したら「うん」といってたけど、どうなんだか。その後も口に運んでいたので、まずくはなかったということか。

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仕事で遅くなった娘に「どうだった」と翌朝聞いたら「苦かったので食べなかった」。そんなもんです。広辞苑の「美味」は万人に通じるものでもないらしい。

まあ、おかずというよりやっぱりお酒です。器にちょいと盛って、しょうゆを2、3滴。辛めの冷やをぐいとやってシオデを口に運べば、すっきりして酒が進みそうだ。

それにしても覚えにくい名前だ。イメージが全然違う。辞書には山菜のシオデの次に「四緒手」があった。鞍につけるひものことで、蔓がからむ様が似ているので、草のこともそう呼んだのかもしれない。

きょうの夕飯のおかずは大根の葉っぱ。庭先販売で売っていたミニ大根(50円!)の葉っぱを炒める。あの苦さ、子供の頃から好きなんです。

《深大寺周辺情報》深大寺城跡に蒔いたそばが芽を出し10センチくらいにのびてます。花の見頃は9月。白い花がいいですね。

水生植物園では花菖蒲の手入れをしてました。雑草を取ってきれいにしてたので、6月になれば咲き出すのかな。何十種類も植えてあるので楽しみ。スイレンの黄色い花がちらほら咲いてます。見事な黄色で、これがほんとの黄色というのかもしれない。

神代植物園は春のバラフェスタでにぎわってます。グリーンギャラリーでは、三脚を立て水場に望遠レンズを構えたおじさんたちがじっと待っている。カルガモが卵を抱いているんだそうだ。誕生の瞬間を狙ってるんだ。

2010年5月28日 (金)

幻の山菜「シオデ」を食す

散歩の途中でなんと幻の山菜、シオデを売っていた。

以前、秩父に旅行した時に職場の同僚から「道の駅で売ってるはず。買ってきて。コシアブラも」と頼まれたことがあった。

はじめて耳にする名前、興味もあって探したけれどもみつからず手ぶらでかえったら不満そうな顔をしていた。

B級グルメで鳴らしている男、さぞやうまいのだろうと頭にはインプットしておいた。

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それが思いもかけずに店先に並べてある。

深大寺門前のそば屋だ。藁人形の赤駒を置いてある茶店の西隣。

「おばちゃん、どうやって食べるの」

「ゆでてドレッシングをかけてもいいし、マヨネーズでも。うちでは天ぷらにしてるけどね」

山菜そばの時に出すんだ。それとも特別メニューなのか。

1輪450円、一緒に出ていたうるいが280円、ワラビが250円だからいい値段だ。

シオデについてちょいと調べると、秋田のヒデコ節で有名とあった。

民謡で歌われているのか、でも知らない。山形では「山菜の王」と呼ばれてるそうだ。

数が取れずに、なかなか栽培するまでにはいたってないらしい。

アスパラガスに似た味でヤマアスパラともいわれ、貴重なので幻になった。

それにしても山菜にはなじまない名前だ。

つる科の植物で牛のしっぽに似ているので「牛尾出」の当て字をする。

「牛尾菜」とも書くらしい。アイヌ語シュウトンテから来てるという説もあるがどうなんだか。

広辞苑には「牛尾菜」で出てる。

「ユリ科の蔓性多年草。葉は卵形、基部に2本の巻鬚(まきひげ)がある」などとあった。

末尾につけ加えてあった。

「若葉は食用、美味」。

広辞苑にこんな主観的な記述があるなんて知らなかった。

広辞苑折り紙つきの「美味」を食さない手はない。

帰りがけに農家の庭先販売でミニ大根とちんげん菜をリュックに入れる。

大根の胴回りは25センチくらい、長さは30センチほど。葉っぱもついて50円なら安い。

50円玉がなかったのでちんげん菜はついで。虫食いだけど併せて100円ならお買い得でしょう。

さあ、夕飯のおかずを作るぞ。


てなわけで続きます。

2010年5月27日 (木)

いくつになってもロケンロールby亀淵昭信

部屋のカレンダーは隔週火曜日に印がついている。6月は8日と22日に丸をして、横に「亀」と書き込んだ。NHKラジオの「亀淵昭信のいくつになってもロケンロール」を逃さないためだ。

毎週ではなく隔週なので印をしてないと、うっかり忘れてしまう。亀ちゃんも番組で、「○カメ」を忘れないようにと、うっかり防止を呼びかけている。

タイトル通りロックというか、60、70年代の懐かしいヒット曲を亀ちゃんののりで流している番組。曲にまつわる、いろいろなエピソードなどが織り込まれているのもグーです。

25日は「あのころ聴いたかわいいポップス」のくくりで60年代女性シンガーの特集。曲目を並べるのが一番分かりやすいでしょう。

「レモンのキッス」             ナンシー・シナトラ
「ネイビー・ブルー」            ダイアン・リネイ
「悲しき16才」               ケイシー・リンデン
「アイ・ウイル・フォローヒム」       ペギー・マーチ
「愛して 愛して 愛しちゃったのよ」    ペギー・マーチ
「ワン・ボーイ」              ジョニー・ソマーズ
「ヘイ・ポーラ」              ポールとポーラ
「ジョニー・エンジェル」          シェリー・フェブレー
「悲しき片思い」              ヘレン・シャピロ
「ボビーに首ったけ」            マーシー・ブレイン
「涙のバースデイ・パーティ」        レスリー・ゴア


どうして「愛して…」なんてのが入っているのかというと、これはペギー・マーチが日本語で歌っているのでおまけ。「アイ・ウイル…」も日本語バージョンだった。日本語のバージョンを出した時にはもう「リトル」がとれてペギー・マーチになっていたのだろう。ジョニー・ソマーズは「内気なジョニー」にして欲しかったなんて、勝手に思い入れています。

60年代ポップスのころはラジオにかじりついてました。土曜日は家に早く帰ってFEN(米極東放送)の「ベスト20」でアメリカンチャートをチェック。初めのうちは分からなくても、何度も聴いていると曲目やタイトルくらいは聞き取れるようになります。それをノートにつけて大事に取っておいたのだけど、いつの間にかなくなってしまった。

これらの曲はおそらく中学から高校の頃のヒット曲。高校1年の文化祭では、レコードを持ち寄って、ポップス喫茶を開業したっけ。

これらの歌は今でも時々ラジオなどで耳にするけど、これだけまとまって放送されると懐かしさがどーんとこみ上げてくる。どれがいいかって、みんな思い出が詰まってる。


FENの次に聴いていたのがニッポン放送の「キャンデー・ベスト・ヒットパレード」。高崎一郎のDJだった。TBSラジオ「今週のベストテン」や文化放送「ユア・ヒットパレード」よりも革新的で、アメリカンヒットをいち早く取り入れていた。キャンデーというのは森永がスポンサーだったから。

このころ亀淵さんは高崎さんの助手を務めていたという。筋金入りのロック、ポップスのファンなのだ。亀淵さんが担当した「オールナイトニッポン」は1969年からなので、もう就職していて夜更かしをしていたので、あまり聴いてないが、知らないわけではない。NHKでもあの調子でしゃべてます。

興味のある方は隔週火曜日の午後9時からです。

一番ぐっと来たのは3月2日放送のブリティッシュロック特集。ピーターとゴードン、キンクス、サーチャーズ、デイブ・クラーク・ファイブ、ムーディー・ブルース、ハーマンズ・ハーミッツ、ゼム、アニマルズ、ホリーズ…。ねっ、すごいでしょ。

2010年5月26日 (水)

映画「心の旅路」・MGMの看板女優とひげ男

確か円楽さん追悼の日本テレビ「笑点」だったと思う。円楽さん司会の名場面を流した。詳細は忘れたが、お題が「記憶喪失」で答えに「心の旅路」が出てきた。歌丸の回答だったか。

それに円楽が「心の旅路ねえ。グリア・ガースン」と遠い目つきをしていた。円楽さん、歌丸の世代には共有体験がある。ご飯も満足に食べられない昭和22年、大人も子供も古典的ラブロマンスに、飢餓感を忘れてあこがれたようです。

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この年のキネマ旬報外国映画ベスト3は、1位「断崖」、2位「荒野の決闘」、3位「心の旅路」…。映画之友のファン投票では、1位「我が道を往く」、2位「心の旅路」、3位「ガス燈」…。前年にもランクインしていた「我が道を往く」が再登場しているのは、公開本数が少なかったため、戦後1、2年目に公開された作品を対象にしているのだ。前年1位の「カサブランカ」は、この年は8位。

ちなみに1946年に公開されたアメリカ映画はたった37本、47年は59本。前年の作品を上回れないのだから胸は張れないが実質的には「心の旅路」が1位といえる。

スター別で見ると、主演のグリア・ガースンは「人気スター・ベスト10」(映画之友ファン投票)でイングリッド・バーグマンに次いで2位。男優はゲイリー・クーパー、ビング・クロスビー、グレゴリー・ペックがベスト3。

「戦後公開アメリカ映画大百科」という全12巻の本で映画評論家の筈見有弘さんが増淵健さんとの対談でこんな発言をしている。「『心の旅路』に出ていたグリア・ガースンが、アメリカ映画で最初に見たきれいな女性、という感じがありましたね。好きとか嫌いという感情はないんですけど」。

だがガースンはここらが頂点だった。スターダムにのし上がったのは1942年の「ミニヴァー夫人」、戦時下の妻役でアカデミー賞受賞、つづくのが「心の旅路」でこれまた大ヒット、翌43年の「キューリー夫人」で人気を絶対的なものにした。MGMの大看板女優として揺るぎない地位を築いた。

そう、みんな戦争中の作品なんです。戦後は観客の好みも変わりリアリズム追求する傾向が濃くなった。貴婦人ガースンの出番は減ってしまった。だから、戦後の新作に見るべきものは少なくなってしまった。

ロナルド・コールマンはどうか。やっぱりひげを生やしている。鼻の下のちょびひげではなく八の字のやつ。出演作の中でひげを落としたのは1935年の「戦ふ巨象」だけだそうです。

このひげを日本では、コールマンひげと呼びます。まさにトレードマーク。いまでも通用するのかな?。

彼は48年の「二重生活」でアカデミー賞に輝いているが、その後は出番を減らしてゆく。

             ×     ×

空白の3年間に2人が過ごしたつつましい家。コールマンがたたずんでいる。そこへやってくるガースン。彼女はためらわずに当時の名前で呼びかける。「スミシー!」。振り返るコールマン。彼も空白期間の名前で答える。「ポーラ」。

なんど見ても「ウッ」とこみ上げるものがある。また雨の日に見よう。


2010年5月25日 (火)

雨降りなのでDVD「心の旅路」鑑賞

2日も雨つづきなので久しぶりに古典的なラブロマンスのDVDを引っ張りだした。
1942年のアメリカ映画、日本公開は戦争が終わったばかりの1947年(昭和22年)、戦意高揚の映画ばかりを見せられてラブロマンスに飢えていたんですね、美人女優グリア・ガースンの人気がピークに達しました。


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23、24(日、月)は季節外れの大雨、ラブロマンスが見たくなった。「めぐり逢い」(1957年版、ケーリー・グラントとデボラ・カー主演)がみつからなかったので「心の旅路」にした。オリジナルの「邂逅(めぐりあい)」(1939年)は見つかったんだけど、少し膨らましたリメークの方が好きだ。

記憶喪失ものです。今じゃ、はやらなくなったけど、古典的手法の仕掛けです。それが甦って、照れずに古くさくオーソドックスに現代版にすると「冬のソナタ」になりそうです。「冬ソナ」はこれに「君の名は」のあきれるばかりのすれ違いをまぶしていて、「少女」や「りぼん」のちょっと後の少女漫画育ちのおばさまたちのハートをわしづかみにした。

主演はロナルド・コールマンとグリア・ガースン。2人は2度結婚するんです。同じ相手と。なんでそんなことになるのか。フランス戦線で負傷したコールマンは記憶を喪失、第一次世界大戦休戦の日、病院を抜け出して踊り子と知り合い結婚する。イギリスの田舎、コーンウオール地方のデボンで静かな生活を営んでいた。

だが、コールマンは過去の記憶を失っていた。名前も思い出せない。ガースンは「スミス」と平凡な名前をつけ、「スミシー」の愛称で呼んでいた。「世界の果てね。寂しくて美しいわ」。ケルトの地。緑に包まれた穏やかな幸せ。

幸せはつかの間だった。コールマンは新聞社に原稿を書いて生計を立てていた。男の子が生まれたある日、原稿依頼を受けリバプールの新聞社に向かう。そこで交通事故。頭を打ち、記憶は甦ったが、今度はガースンと暮らした3年間の記憶を失ってしまう。空白の3年。

父親の葬儀の直後、兄弟が揃う中、実家に戻ったコールマンは遺言により家屋敷を譲られる。やがて実業家としても成功、政界にも打って出て議員に当選。

そんな彼を支えたのは誰あろうグリア・ガースンだった。マーガレットと名前を変え秘書として仕えているのだ。かつての妻を前にしても記憶は戻らない。

ある日、コールマンはガースンに結婚を申し込む。ガースンがかつての男を忘れられないのを知っているので、議員として体面を繕うための結婚だった。プロポーズの言葉は「友情による結びつき」。寝室も別々。

なんて残酷な。3年間の空白が戻らない夫。疲れ果てたガースンは南米旅行に旅立つ。そのまえに、あの幸せな生活を過ごした地を訪れる。


ラストがいいんです。ひしと抱き合う2人。ガースンのアップ。満面の笑み。右目から大粒の涙が…。こんな幸せの涙はなかなか描けない。

続きは日本でのガーズン人気などについて。

2010年5月24日 (月)

何だこれは・天命反転住宅・その5・住む心得

荒川修作さんが遺した「天命反転住宅」、映像作家の家族などが暮している。賃貸だ。

住むにあたっては「使用法」がある。商品には皆、使用法があるのに住居にないのはおかしい、と荒川さんが定めた。著書「三鷹天命反転住宅」で建築家・丸山洋志さんとの対談で、怒ってます。

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「1人の人間が一生涯、労働しつづけて買う一番高価なものっていうのが、自分の家なんだ。ところが、それに使用法がついてない。私たちは、こんなに、まったく間違った世界を作り上げてしまった」。

この発言、けっこう深い。既成の建築界ばかりでなく、便利さだけを求めてきた産業革命以来の思想を全否定しているのかもしれない。

じゃあ、使用法はどうなっているのか。以下が総論、効能もあります。

「この住居に入居された方は、建築する身体になるばかりでなく、生体位相研究家(バイオトポロジスト)としても生きることになるでしょう。自分を取り巻くものと全面的にかかわれば、建築する身体になります。また通常以上に、様々な規模の出来事に気づき、それに専念すれば、プロの生体位相研究家として生きていくことになるでしょう」。

ぎゅっと凝縮すれば「建築する身体」、自らの可能性を拡大させていく身体が獲得できるということか。


細則もあります。

□住居に入る時には、まずあらゆる方向から来る音に耳を傾け、それからドアをノックします。その後も、またあらゆる方向から来る音に耳をすませましょう。

□この家に住むあなたを取り巻いている、様々な鮮やかな色とかたちの立体群の感覚すべてを、聴覚と視覚に障害のある人、たとえばヘレン・ケラーに伝えるために、身体をいろいろと動かしてみましょう。

□床は、これからキーボードとなっていくものなのです。いったい、どんな楽器のキーボードになるのか考えてみましょう。時には、足ばかりではなく、手でもキーボードを使いましょう。あるいは全身でキーボードを演奏するというようなことをやってみましょう。

なんか楽しそうだ。考えるだけで「間違った世界」から少し抜け出したような気がする。「天命」が「反転」して、別の道を歩き出す。いい感じだ。

野川公園に行くことがあったら、広い道路、東八道路を三鷹方面に戻って、この変な建物を見物してみてください。大きな刺激を受けること間違いなしです。

           house   house    house


何だこれは・天命反転住宅・その4・その思想 2010.05.23

何だこれは・天命反転住宅・その3・住み心地 2010.05.21

何だこれは・天命反転住宅・その2・斜めの床 2010.05.21

何だこれは・天命反転住宅・その1      2010.05.20

2010年5月23日 (日)

何だこれは・天命反転住宅・その4・その思想

19日にニューヨークで亡くなった前衛芸術家の荒川修作さんが残したヘンテコな「三鷹天命反転住宅」、野川公園や天文台へ行く散歩コースの途中にあっていつも気になっていた。外観もカラフルだが中も負けず劣らずらしい。床が斜めにしつらえてあったりするが、住んでみると五感が刺激されて豊かになり、快適な生活が営めるようだ。

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何のためにヘンテコアパートを造ったのだろう。荒川さんは前衛だから今の建築界では異端のようだ。建築界でなくてもジョーシキでは考えられないよ。著書「三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために」(水声社)では、このように宣言している。

「1日も早く、この歴史的なコンセプトを使用し、病院、学校、ホテル、住居……そして街の建設が始まれば、毎日の生活空間の中からピョンピョンと奇跡が生まれ、老若男女、いや小学生でもそのイベントや現象に名前を与え、静かに外在化された遺伝子のような働きを始めれば、いずれは家族のように共生し合っていくでしょう。何千年もの間、考えても見なかった種や類としての共同性を持った『生命』が誕生するのです」。

ちょっと難しいが、ヘンテコを能動的に受け入れることによってヘンテコも動きだし、やがてはヘンテコも含んだ生命として輝く、ということか。

新しい生命があふれるとどうかわるのか。荒川さんは高らかに旗を掲げます。

「地球上で人類と呼ばれてきた生の歴史に、この共同性の働きや行為を持った新しい種が出現するとき、はじめて、17世紀以降進められてきた芸術、哲学、科学が方向を変え、必要になってくるのです。絶対自由の獲得に向かって……」。

欧米が支配してきた社会は、終焉のときを迎えている。植民地からの収奪のおつりで命脈を保ってきたヨーロッパ経済は、行き詰まっている。ユーロは南欧を斬り捨てないと破綻を免れない。いくら金をつぎ込んでもギリシャやスペイン、ポルトガル、さらにはイタリアは、大きくは変われない。収奪のおこぼれが身についているからだ。

ルネサンス後の枠組みが激動期に入ったということ。当然、日本も激動に巻き込まれ根底から変わらざるを得ないでしょう。

研ぎすまされた前衛芸術家の感覚は、すでに新しいうねりの表現を欲してやまない。そんな風に理解しました。

「絶対自由の獲得」は荒川さんの結論。高い理想だがヘンテコ住居の暮し方は、もう少しくだけています。荒川さんは「住居」に「使用法」が伴っていないことに怒ってます。カミソリ、ホウキの身近なものから、自動車など購入したものには「使用法」が書いてある。住居にもあるべきだと力説します。

堅くなったので力を抜いて次回へ


2010年5月22日 (土)

ワンダフル!農高神代農場を見学

深大寺周辺の賑わいをよそに都立農業高校神代農場を見学してきました。東京が真夏日を記録した5月21日(金)の午後。

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出会ったのは犬を散歩させている人ただ一人、聞こえるのは鳥の鳴き声だけの静寂。深い緑、湧き水とせせらぎの透明な水音。台地のささやき、なんて優しい響きだろう。

ここは谷戸(やと)と呼ばれる地形。ハケの下から湧水が流れ出て、長い年月の間に谷を作った。その谷を利用して農場がつくられ、時々高校生が府中の本校から実習に訪れる。

まず湧き水を利用して栽培されているのがワサビ。「都市園芸科生徒作 ワサビ 伊豆ダルマ」と標識があった。立ち入り禁止で近くには寄れない。その下流には池が作られ鯉や鱒を飼育、雑木林では椎茸も栽培しているそうだ。

それらの水を利用して田んぼもある。まだ田植えはしてなかった。

まさに別天地。ここは昔の武蔵野が保たれている。子どもの頃の原風景。貧しくても自然は豊かだった。谷から上がってベンチで飲んだお茶のおいしかったこと。
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(神代農場の谷戸。湧き水を利用して田んぼを作っている)


このすばらしい自然は「谷戸景観」といえばいいらしい。説明書きがあった。「谷戸は先人の知恵と自然のシンフォニー 農作業による二次的自然で動植物の生息域が維持されます。谷戸は、生物多様性、生命循環、歴史・文化の継承舞台。未来の子供たちへ田園・里地・里山的景観を残しましょう」。

いつまでも残してほしいものだ。切に願う。門を出てバス通りに出るとコンクリの照り返しもあってムッとした。農場の中の涼しさが実感できた。

神代農場は原則、金曜日に公開してます。玄関前のノートに記帳するだけです。

場所は青渭神社の真ん前です。

これにひきかえ深大寺あたりは平日だというのに、かなりの賑わい。「ゲゲゲの女房」で松下奈緒と上条恒彦が深大寺を散策した際に映し出されたそば屋はかなりの賑わい。これまでは門前から離れているために、そこそこだったのが平日というのにほぼ満杯。神代植物公園の深大寺門の前にあるそば屋です。週末には行列ができます。

工芸品の藁で作った赤駒も売り上げがアップしているらしい。万葉集の東歌が由来です。

「赤駒を 山野にはかし 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ」

防人に行くあの人を馬に乗せてあげたいのに、馬を放牧して捕まえられないので、徒歩で多摩丘陵を越えさせなくてはならない、と妻が防人の苦労を詠んだものです。

歌の舞台が調布であったかは定かではありません。多摩の横山が望めるところが皆、候補です。そのため歌碑は、調布を初め府中、多摩市、八王子に建てられています。

茶店の前には松下奈緒が赤駒を手にするカットがテレビから抜いて飾られてます。


水生植物園に寄ってみてきましたがムサシノキスゲは、そろそろおしまいです。また来年。


2010年5月21日 (金)

何だこれは・天命反転住宅・その3・住み心地

それは散歩コースの途中に建っていて、異彩を放っている。20日の朝刊に訃報が出ていた美術家で建築家荒川修作さんとパートナーのマドリン・ギンズさんが手がけた9戸の集合アパートだ。

毎日新聞武蔵野版の連載「中央線ものがたり2」の5月16日掲載から引く。記者は部屋に入って居心地を確かめている。でこぼこの床、斜めの洗面所、球体の書斎。ヘンにならないのか。

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「何とも不思議な部屋だが30分もすると居心地がよくなった。荒川さんの事務所『ABRF』スタッフ、松田剛佳さん(32)は『みなさん同じような感想を持ちますね』と話す。常に身体を使い、意識することで、生きていることを再認識することができる」。

今は3世帯が住んでおり、映像作家や映画監督だという。「うち家族4人で住む男性は引っ越してきてから約10キロもやせ、2人の子どもが部屋で育った様子を追った映画を近く公開する予定だ」。

やせたのは不安を感じたからではなく、ダイエットの効果があったのだろう。でこぼこや斜めが刺激を与えるのか。映画は見てみたいものだ。きっと毎日の武蔵野版に載るだろう。注意していよう。

住んでみたい人には部屋の募集もしてます。3LDK(60・48平方メートル、バルコニー20・96平方メートル)が月20万円、2LDKが16万円。ショートステイや体験会も行っている。

それにしても、どうしてこんなへんてこな建物を造ったのだろう。「天命」に「反転」して生きてゆく思想がそこには流れている。

次回に考えます。


何だこれは・天命反転住宅・その2・斜めの床

雨が上がったので午後から「三鷹天命反転住宅」をじっくり見物にいってきました。(5月20日)。きっかけは20日の朝刊に出ていた建築家・荒川修作さんの訃報。奇抜でカラフルな住宅の作者だ。

改めてじっくりと眺めた。見慣れたせいか違和感はない。でも、はじめての人はびっくりするだろうな。おや、人が住んでいる。女の人の姿がカーテンの向こうで動いた。郵便屋さんも配達に来た。どんな構造なのか。

歩いて2、3分のところにある三鷹西部図書館で荒川さんの著書「三鷹天命反転住宅 ヘレンケラーのために」(水声社)を広げる。(近所のよしみでちゃんと置いてあるんです)。建築の様子が数ページにわたってカラー写真で紹介されている。

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なるほど。簡単にいってしまえば、部屋の大きさの箱を横に並べ、その間に同じ高さの土管を配したものだ。箱には窓や扉をつけ、土管は円くくりぬいて箱とつなげたり、円天井の部屋になっている。それらの集合が1世帯のすみか。廊下で隔てられて幾つか独立して3階まである。そして、部屋も外壁も赤、青、黄、緑の原色で塗る。

荒川さんはどんな人か。「前衛美術の機種として活躍し、独特の建造物の作り手として知られた美術家・建築家」と毎日は紹介している。さらに「1960年結成の前衛集団『ネオ・ダダイズム・オルガナイザー』の一人として活動。その後、渡米してニューヨークを拠点にした。矢印や記号などで構成される『図式絵画』で注目を集めた」。

三鷹天命反転住宅を建てたのは2005年、図式絵画ならぬ図式建築だ。10年前の1995年には岐阜県養老町に「養老天命反転地」を手がけている。

そうだよな。「前衛」で「ネオ・ダダイズム」じゃなければ、こんなへんてこな住居は作らない。

内部はどうなっているのか。5月16日の毎日新聞武蔵野版から引用しよう。「中央線ものがたり2」という連載の「武蔵境 異彩放つ三鷹天命反転住宅」の回だ。

「部屋は全部で9戸。案内されると、真ん中に台所があり、一段高いところに四角や球体の部屋が全部で四つ、ぐるりと取り囲む。足元を見るとでこぼこ。荒川さんが『三和土(たたき)を意識した』という床は傾いている。足の裏が刺激されてなんだか気持ちがいいけど、一歩一歩には注意が必要だった」。

床はでこぼこ、足裏刺激のスリッパに立っているようなものだ。

さらに仕掛けがしてある。

「洗面所は足元が斜めになっていた。手を洗うにも体を使っているという感覚がついてくる。書斎は球体で中に入ると話し声が反響し、自分の声を実感する。室内には14色が使われているが気にならない」。

足裏刺激の次は、三半規管のテストだ。斜めにして気持ち悪くならないのか。ますます変だ。

(長いので、住み心地などは次回に。すぐにアップします)

2010年5月20日 (木)

何だこれは・天命反転住宅・その1

それは散歩コースの途中に建っている。曲線を描いた部屋が7つ、8つ。間には円い部屋で仕切られている。外壁は赤、青、緑、黄、原色で塗られている。

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                 ☆   ☆


この色彩感覚は、まるでおもちゃ箱。原色に塗った積み木や黄色のアヒルなど色も形も様々なおもちゃが詰まっているようだ。

3階建てで、アパートのようだ。あまりの奇抜さに、見ては行けないものを目にしてしまったようで、初めは知らんぷりをした。

でも引きつけられる。何だ、この家は!。何かのショールームなのか。道路の向かい側には広い住宅展示場があるので、その関連なのか。

住宅の前には細い道が大通りから分かれていて、両脇に繁った木の緑が濃いので、場違いにカラフルなその建物はいやでも目立つ。

洗濯物を干すようななスペースもないし、人が住んでいるのだろうか。そもそも、こんな異彩を放つ家に住む人がいるのだろうか。

それは武蔵境から調布へ至り、天文台の前を通る天文台通りと東八道路(東京と八王子を結ぶので東八、それにしてはまだ小金井までしか開通していない)の交差点の近くにある。

それがなんであるのか知ったのは、ことしの初めだった。新宿の紀伊国屋書店をぶらついていたら美術本のコーナーが設けられていて、見覚えのある建物が表紙になった分厚い美術書が真ん中に置いてあった。

その異彩を放つ建物、ド派手な外壁、間違いない。あのとんでもなくカラフルな建築物だ。

書名は「三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために (死なない住宅)」。ヘレン・ケラー、死なない、死に抗する…、しかとは分からないが、何か実験的に命に優しい住まいを追求しているのかもしれない。

著者は、「荒川修作+マドリン・ギンズの死に抗する建築」、版元は水声社。調べてみようと思ったが、そのままになっていた。

今朝(20日)、著者の荒川さんの訃報が新聞に載っていた。業績に「三鷹天命反転住宅」などを手がけたとある。奇妙な住まいを造った人だ。

「これらは身体の平衡がとれない不安定な建造物として知られた」と解説してあった。これだと、人は住めないようにも受け取れる。でも暮している人たちがいるんです。少し前の毎日新聞の武蔵野版で取り上げられていた。

そのことは次回に。


           house    house   house

5回続きです。

何だこれは・天命反転住宅・その5・住む心得

何だこれは・天命反転住宅・その4・その思想 2010.05.23

何だこれは・天命反転住宅・その3・住み心地 2010.05.21

何だこれは・天命反転住宅・その2・斜めの床 2010.05.21

2010年5月18日 (火)

武藏国府遺跡の説明会・こぼれ話

5月15日に行われた遺跡現場の説明会、土曜日だというのに係の人が発掘作業を続けている。背中に「KYOWA」と書かれた揃いのジャンパーを着ている。
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(右手奥が府中競馬場のスタンド)


中年の女性が「どういう人が作業をしているのですか」と府中市役所の担当に尋ねていたので横でお相伴にあずかった。

「発掘の会社があるんです。建設関連の仕事から発掘の会社を設立することが多いようです」

そうか、マンションなどを建設しているときに遺跡が出てくることがある。その場合は、遺跡の調査を終えるまで建設はストップする。随分昔のことだが、石原祐次郎の成城の自宅から遺跡が出たのが話題になった。調査が済むまで自宅建築がストップしたっけ。

そんな流れで遺跡に関わってくるのか。武藏国府遺跡も古墳時代前期から中世までの遺構が確認されている。それらが混じっている。どう見分けるのか。土の色が違うのだ。詳しくは分からないが、関東ローム層の赤土から、その下の黒土に掘られている箇所、黒土が上になっている箇所など、柱の跡の土の色が異なっている。

専門家が見ると、火山灰の積もり方などで年代がもっと細かく判明するのだろう。建設現場でいちいち専門家を呼んでいたのでは経費もかかるので、建設会社の人が専門に行う部署を作り、それが独立したのかもしれない。

「KYOWA」を調べると、名称は共和開発株式会社。平成3年の設立で資本金1000万円。従業員22人。本社は府中市若松町で売上高2億9000万円。うち文化財調査関連が2億円。20年度の調査は、舟渡遺跡、鴬谷遺跡、武藏国府関連遺跡などとなっている。

中年の女性は「私にも会社を作れるかしら」と興味いっぱいの様子だった。始められたらいいね。

                ×       ×

それにしても多摩川を眼下にした台地。弥生の遺跡が出てきても良さそうだが、発掘されない。北東にJRAのマークが見える。東京競馬場のスタンドだ。距離は500mメートルもない。このスタンドを作っているときに弥生時代の遺跡が出たきりだ。配布された資料には、そこは「祭祀場」と記入されている。

縄文遺跡は多摩川流域のあちこちにあるのに、どうして弥生が出てこないのか。多摩川の氾濫で流されてしまったのか。それだけではないだろう。

弥生人だって、川の氾濫は経験で知っている。高台に住居を造るだろう。弥生式土器命名のきっかけになった本郷の遺跡も高台だ。現在の武藏国府遺跡発掘の現場あたりは、少し高くなっていて氾濫からは免れそうだ。この下で田んぼを作り、住まいはここいらにすれば生活が維持できるように思えるが、そうはしなかったようだ。

多摩川で鮭を採り、武蔵野の原野に獣を追った縄文人はどこへ消えてしまったのか。


2010年5月17日 (月)

武藏国府発掘の説明会・その②

5月15日、武藏国府関連遺跡の現場説明会に行った。「府中御殿」については前回に書いた。今回は国府関連について。

会場で配布された資料にこうあった。

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(奥の林が大国魂神社の杜)

「今回、注目されているのは、整然と並ぶ5棟の古代(8世紀前半)と考えられる掘立柱建物跡が確認されたことです。慎重に調査を進めている為、詳細は不明ですが、その性格については想像力をかきたてられます」。

文章も慎重だ。どんな想像力をかきたてられるのか。これでは糸口もない。勝手に想像することにする。

8世紀前半といえば国府が置かれてすぐのことだ。武藏国府が置かれた正確な年は分かっていない。東山道武藏路の設置から類推するしかない。東山道武藏路が設けられたのは7世紀末のことらしい。東山道と東海道の連絡路の役割があり、武藏国を南北に貫いていた。その要衝として府中が選ばれ、国府も置かれたのだ。

国府の中心は大国魂神社の東側と推定されている。こちらは役所があった。今の霞ヶ関みたいな官庁街。

発掘現場の北側、高台ににうっそうとした森が見える。道路(府中街道)をはさんですぐだ。「あれは大国魂神社の裏手の森ですよね」、「そうです」と府中市教育委員会の人。ここは昔は大国魂神社と地続きなんだ。

「建物跡は何に使われたんですか」、「国衙で働いていた人たちの住居と考えられます」。役所が高台にあって、役人は少し下がったところに家を構えた。

「大国魂神社境内の北側も国衙跡ですよね。となると、そのころに神社は存在していなくて後に作られた?」、「…」。

官庁街と官舎が神社で分断されているなんて変だ。官庁街の周辺すぐに官舎があった方が便利だろう。大国魂神社の祭神は大国主、大和朝廷の出先機関の中心部に征服された神がいるのもそぐわない。応神天皇をまつる武藏国府八幡はもっと東、京王線府中競馬正門駅の近くに位置している。国府のはずれだ。

「あちらは鎮座1900年ですから」と別の説明役の人も濁していた。それはそれでいい。そっとしておこう。

でも、国衙は相当の規模を誇っていたようだ。西側にあるイトーヨーカドーの、さらに西側には国司の館(大館)も発掘されている。

古代の国衙については、こぢんまりしたイメージを抱いていたが、広大な敷地だった。大和朝廷の威力は相当なものがあったと見られる。大きな戦いもなしに、どうして武藏は大和朝廷の支配下に入り、大和朝廷はどのように支配権を及ぼしたのだろうか。わからないことだらけだ。

2010年5月16日 (日)

武藏国府発掘の説明会・その①

5月15日(土)  晴れ、夕方から曇り  

武藏国府に関わる重要な遺跡が出たというので現場に行ってきた。この日「武藏国府関連遺跡現場説明会」が、府中本町駅の北隣で行われたのだ。

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遺跡ブームとはいうが、いっぱいの人が訪れた。用意した史料が足りなくなり、府中市役所の職員が市役所に戻り増刷コピーしていたほど。午後2時頃、受付の人に「何人くらい訪れているんですか」と尋ねたら「2000人にはなる」とのこと。最終的にはどのくらいになったのだろう。

まず発掘されたのが「府中御殿」関連の建築物。江戸に入った徳川家康が鷹狩りなどの際の休憩所として建てたものだ。各地に100カ所くらいあるというが、場所が特定できるのは珍しいという。

府中本町駅の近くにはかつて「御殿下」の地名があったし、発掘現場の北側を通っている府中街道の坂は「御殿坂」と呼ばれていた。ここから1キロほど南に下ると多摩川に至る。多摩川の清流を「府中御殿」に運ぶために「御茶屋街道」もあった。今も郷土の森公園の東側に残っていて、案内板が掲示されている。

家康は、多摩川の水で茶を点て、名物の鮎の塩焼きに舌鼓を打ったに違いない。

とはいえ、家康のこと.単なる物見遊山であるはずがない。政治的、軍事的な戦略があったはずだ。家康が移った頃の江戸はまだ、まったくの寒村。奥州に向かった豊臣秀吉をもてなすために、府中に御殿を建てたともいわれる。東海道もまだ十分には整備されていず、西国の軍勢に対する備えも怠るわけにはいかなかった。

とはいえ「府中御殿」は絶景の地に建てられている。前方は多摩川、その向こうに多摩の横山と呼ばれた多摩丘陵。右手には富士山が望める高台だ。

「府中御殿」は、掘れば出てくるのは予測されていた。ここは御殿地と呼ばれていたのだ。元は製粉工場があり、その後はイトーヨーカドーの駐車場になっていたようだ。改めて掘ったらやっぱり出てきたということで、意外性はない。

こちらもやっぱりなのだが、8世紀の建物跡が発掘された。ここからは来年創建1900年を迎える大国魂神社との興味深い関連も想像できる。

2010年5月15日 (土)

グリーンパーク野球場⑥夢のあと

グリーンパーク野球場の跡地に立っている。都営のアパートなどにかわっていて、往時を偲ぶのは楕円形に作られた道路だけだ。この楕円が球場の痕跡だ。

中島飛行機跡地の東側は都営住宅に生まれ変わったが、西側は手つかずのまま放置された。徹底的に空襲でやられがれきの山で片付けるのも容易ではなかった。

1944年(昭和19)の11月、東京上空に偵察機が飛来した。軍需工場などを確認したアメリカ軍は11月24日、B29による本格的な空襲を開始した。狙われたのは中島飛行機武藏製作所。

当時の新聞、ラジオは住宅地を襲った"盲爆”だと発表した。大本営発表なのだろう。それでも工場は、迷彩色を施すなど擬装した。まるで効果はなかった。アメリカ軍は偵察機で精密な赤外線写真に収めていたのだ。爆撃は正確だった。終戦までに十数回の空襲が行われ工場は徹底的に破壊された。

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(中島飛行機の工場があった痕跡はないものかとうろついてみました。中央公園の北側に中島の後身、富士重工の社宅が建ってました。駐車場のクルマがみんなスバルなので分かりました)


そのがれきが手つかずになっていた。

目を付けたのがアメリカ軍。西工場の跡地3万5000坪に駐留軍宿舎を設けるというのだ。これより前、米軍基地のある立川では、基地による汚染、売春、暴力、ヒロポンなどからの浄化運動が起こっていた。

きっかけを作ったのが都立立川高校生徒会。「悪環境の都市立川の汚名をかぶったまま、いたずらに拱手傍観することはできない」との決議文を採択、浄化運動に参加したのだ。新聞にも取り上げられ、話題になったようだ。1952年、昭和27年のことだ。

知らなかった。脇坂勇さんの「八幡町ものがたり」で教えてもらいました。

=======余談だが、当時、武蔵野市、三鷹市は三多摩の都立校を受験するのが基本だったが、区部に近い 方は都立西高に通っても良かった。交通の便を考慮してのことだろう。だから脇坂さんの近所には立川高校に通っている友人がいた。その友人からいろいろと話を聞いていたようだ。==============


在学中、輝ける生徒会の歴史を聞いたことがあるのかもしれないが、まったく記憶にない。武蔵野市もおずおずと反対したが、アメリカ軍に逆らえるわけがない。政府も言いなりだ。現在とちっともかわってません。

工事は着々と進められ1954年(昭和29)に進駐軍家族の入居が開始された。今、市役所になっているところにはアメリカンスクールが建てられた。(その後、調布に移転、統合されたのか)。

返還されたのは1976年(昭和51)だという。米軍の占領は実に20年の長きにわたった。跡地には高層住宅建設の構想も持ち上がったが反対運動で挫折、とりあえず公園にすることになった。武蔵野中央公園として整えられたのは、ずっとあと1989年(平成元)のことだ。

こうして中島飛行機の跡地、通称グリーンパークの戦後はようやく終わった。

このシリーズは、以下のようなことを書きました。カテゴリーの武蔵野市をクリックするとあらわれます。

「武蔵野市にあった幻の東京グリーンパーク野球場」

「グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く」

「グリーンパーク野球場③六大学野球」

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

    

2010年5月14日 (金)

グリーンパーク野球場⑤建設前史

1951年5月にオープンしたグリーンパーク野球場だが、1年も使われないで無用の長物と化してしまった。誰が主体となって作ったのか。どうしてずさんな計画がまかり通ってしまったのか。戦後の混乱期というか、民主化運動の成れの果てというか、そこには労働者たちのバラ色の未来があるはずだった。

グリーンパーク野球場の敷地一帯は軍需産業の中島飛行機の工場だった。東側が陸軍用の武蔵野製作所。隼、鍾馗、呑竜などのエンジンを、西側は海軍用で多摩製作所。こちらはゼロ戦、天山、銀河などのエンジンを隣の工場には明かさずに秘密裏に作っていた。

開発競争といえば聞こえはいいが、要はセクショナリズム。アメちゃんの技術革新が進んでいるのに、これじゃ負けるわけだ。

戦後、中島飛行機は富士産業と名を変えた。今の富士重工です。従業員全員が富士産業に移ったわけではなく、旧中島飛行機の残留従業員も工場にとどまっていた。戦争直後の労働運動の高まりは、今では考えられないものがあったらしいから占拠して権利を主張したことも十分に考えられる。

彼等は富士産業での完全雇用を求めず、従業員が会社を作り、自分たちで生きる道を模索することを選んだ。こうして工場の従業員への払い下げが決定した。従業員たちは工場跡に立てこもっていたのかな。戦争直後の労働運動の高まりは、今では考えられないものがあったから、占拠して権利を主張したことも十分に考えられる。
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(武蔵野中央公園の歴史を伝える碑。軍需産業があったために空襲で徹底的に破壊され、戦後はアメリカ軍に接収されていたことなどを記している。「この「原っぱ」をかけめぐる子どもたちの声に象徴される平和な光景がいつまでも続くよう…不断の努力を続けていきたい」と結ばれていた)

闘争の結果、労働者の主張が認められた。

こうして旧中島の従業員たちは、武蔵野を文化的に復興発展させようと、武藏野文化都市建設株式会社を設立した。1947年(昭和22)5月17日だった。

社長は逓信院総裁を辞任したばかりの松前重義。辞任といえば聞こえはいいが、公職追放になったのです。グリーンパーク球場一帯の地名、西窪に住んでいたのが縁のようだ。地元の名士ですな。現在でも逓信院の流れを汲むNTTの研究所が広大な敷地に建てられている。総裁の官舎がここにあったのかもしれない。

役員は武者小路実篤、徳川夢声ら。確か、武者小路も当時は三鷹の牟礼に住んでいた。夢声さんも武蔵野市在住だったと記憶している。

競輪場の計画もあったが野球場に落ちついた。その方が進駐軍の受けも良かったのだろう。武藏野文化都市建設株式会社は1950年(昭和25年)3月、(株)グリーンパークに変更した。

こうしてナイター設備も整った新球場は1951年に開場したのだが、あえなく実質1年でプロ野球の公式戦には使用されなくなってしまった。総工費1億円。今なら100億は下らない。従業員の夢ははかなくついえた。

(株)グリーンパークがどうなったかは知らない。球場以外にもまだ払い下げを受けた土地が残っている。切り売りしながら生き延びたのか。

このシリーズは6回です。カテゴリーの武蔵野市をクリックすると出てきます。

「武蔵野市にあった幻の東京グリーンパーク野球場」

「グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く」

「グリーンパーク野球場③六大学野球」

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

2010年5月13日 (木)

グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖

近隣住民の期待を担ってオープンした武蔵野グリーンパーク野球場だったが、オープンの1951年(昭和26年)は、わずかに12試合が行われただけだった。

「昭和27年からは一試合も行われなかった」と武蔵野市百年史。31年には日本住宅公団が同野球場を買収、31年10月には解体工事が始まっている。観客を運ぶための武蔵野競技場線も27年から休止状態になり、34年に正式に廃止された。

どうしてこんなことになってしまったのか。隣町に住んでいた脇坂勇さんの「八幡町ものがたり」に頼ろう。

「風で舞い上がる砂ぼこりがひどくて選手も観客も音をあげてしまったのだ。武蔵野台地の表面を覆う関東ローム層の赤土のせいであった。住んでみればわかるが、この辺のからっ風のきびしさと風塵の激しさは大ていではない。季節風の吹き荒れる春先の天を染める黄塵は、江戸の昔から武蔵野名物の一つに数えられてきたのである」。
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(グリーンパーク遊歩道をたどって中央公園に至る。中央を横切っているのは玉川上水。左斜めは仙川上水)

「その、昔からの名物は新名物の誕生がお気に召さなかったらしい。試合のある日には決まって風の機嫌が悪くなり、スタンド颪しがグランドの土を舞い上げた。…かくて哀れ新球場は店開きして三月とたたぬ間に閉鎖となり、六大学もプロ野球も公式戦をほとんど数ゲーム消化しただけで早々に退散してしまったのである」。

風塵は突貫工事で芝が根付いていなかったことも原因だ。戦後の混乱期、環境も変わった。そもそもグリーンパーク野球場の開場は、慢性的な球場不足解消が狙いだった。神宮球場は進駐軍に接収され、東京で行われるほとんどの試合が後楽園を使っていた。セパ分裂で試合数も増えている。

ところが1952年になると神宮の接収が解除、川崎、駒沢の球場が誕生した。こうなると不便なグリーンパークを使用する理由がない。

いつだったか定かでないが、子どもの頃にグリーンパーク野球場にプロ野球を見に行っている。確か、ジュニアオールスターだった。二軍のオールスターゲーム。一塁岩下、二塁内藤、ショート平井などがメンバーだったように記憶している。解体までは二軍の試合で使っていたのか。

少年の大切な思い出。伝説の球場でプロ野球を見たということにしておいてください。


続きはカテゴリーの武蔵野市にあります。ご面倒ですが、そちらからどうぞ。

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

2010年5月12日 (水)

眉根を寄せる女たち

時間が余ったのでテアトル新宿で映画「武士道シックスティーン」(監督古厩智之)をみた。予備知識はゼロ、この映画の存在も知らなかった。剣道着の女の子がポスターになっている。はやりの女子クラブ活動ものだな。時間つぶしにはなるだろう。主演は成海璃子、活字で見たことはあるが顔は知らない。

剣道一筋の子と対照的なダメ少女が、お互いに刺激を受けながらしっかりと道をみつけ成長していく話だった。初めはダメ少女が主人公だと思わされた。冒頭からしばらくは、その家庭の事情などを説明していくから、てっきりダメ少女が一徹の子の言動から何かをつかんでいくストーリーだと思い込んだ。

途中から転調する。一筋少女の悩みが主になるのだ。あれれ、こっちがヒロインなのか。帰り際にポスターを見たら主演は2人ということらしい。この誤解は、ホンが有機的に絡み合っていないせいか。もっと螺旋状に絡み合った展開にならないと盛り上がっていかないな。

それにしても成海という子はどっちだ。ポスターでは一筋少女の方の扱いがいい。こっちらしい。ダメ少女は北乃きいのようだ。映画の中で、一筋少女はずっと眉根を寄せている。家は剣道の道場。小さいころから父親に剣道を仕込まれ、勝つことだけが目的になっている。

友達もいない設定だ。楽しさを知らない。だからいつも眉根を寄せている。顔が映るたびに眉間にしわが寄っている。せっかくの顔がもったいない。

楽しくないからって眉間にしわばかり寄せてるわけじゃないだろう。楽しくない顔ってどんなだ。しわを寄せなくて表現できないのか。

多分、監督から「君は悩んでるんだ」と注文を受けて、顔を作ろうとしたらしわを寄せるしかなかった。監督も演技指導の方法を知らないから、しわが寄っていれば雰囲気は出てると納得してしまう。幼稚園だな。

NHK「ゲゲゲの女房」の松下奈緒も同じだ。背が高いのがコンプレックスで、なにをやっても失敗ばかり、結婚してからも貧乏で難題ばかりが降り掛かる。だから眉根にしわを作っている。

CMで見ると普通の楽しそうな表情をしてる。この普通の表情から喜怒哀楽が出せないのか。困った時、人はどういう顔をするのか。1つじゃないだろう。その程度や具合によって微妙に変わってくるはずだ。

苦しむ、悩む、途方にくれる、迷う、切ない、やりきれない、当てが外れる、耐える、心配する、不安だ、どうしていいのか……。これらがみんなしわを寄せるで済まされている。

演じ分けてくれよ、頼むから。

                ×         ×

ちょっと関連するけど「顔をしかめる」と「眉をひそめる」「眉根を寄せる」「眉間にしわを寄せる」は、具体的に表情がどう異なるのか。だれか演じ分けて、見せてください。演技も難しいが日本語も難しい。
                ×         ×

成海は15日公開の「書道ガールズ!!わたしたちの甲子園」にも主演しているのか。剣道から書道になって演技がどうかわっているのかみてみよう。

グリーンパーク野球場③六大学野球

グリーンパーク野球場の跡地に立っている。今の住所は武蔵野市緑町だ。武蔵野市役所の西隣になる。

正式のオープンは1951年5月5日、こけら落としの試合はプロ野球「国鉄—名古屋」だった。だが、その前に東京六大学野球が行われている。4月14日、土曜日の開幕戦だった。この試合の応援に行った早大生がいた。脇坂勇さんの著書「八幡町ものがたり」(河出書房新社)をのぞいてみよう。

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(武蔵野中央公園。原っぱを残している。右奥はNTT、戦前は逓信省だった。軍事と通信は密接なので、軍需産業と近接しているのもうなずける)

「私が観戦したグリーンパーク球場での早東戦は、結局七対ゼロの大差で予想していた通り早稲田が勝った。当時早稲田には末吉(三年生)、福島(二年生)という好投手がいたが、二人とも小倉中学出身で私の先輩だったから応援にも熱が入った」。

              ◇       ◇
☆☆☆☆☆※脇坂さんが在学していた時、小倉中学は甲子園で春、夏の連続優勝を成し遂げている。2人の投手は優勝メンバーなのだろう。脇坂さんは、東京に引っ越して武蔵野市八幡町に移り住んだ。高校も都立西高に編入。文芸部の同窓に作家の黒井千次がいた。卓球の世界チャンピオン荻村伊知郎も同期だ。肺を患っていたために国立はあきらめ、この年早稲田に入学したばかりだった。
              ◇       ◇

当時の武蔵野市は都内から見ればへんぴなところだった。今でこそ吉祥寺が最も住みたい町の1位になったりしているが、中央線で三鷹まで行くには相当の覚悟がいった。なにしろ並行して走る西武新宿線は「オワイ」電車などと陰口をささやかれていたくらいなのだから。江戸時代、いた明治や大正でもそうだったかもしれない。武蔵野の百姓は、肥え桶を積んだ荷車で江戸に行き、肥えを買ってきた。朝一番の西武電車は、百姓と同じように肥えを運んでいるという噂があった。

六大学の開幕戦にあわせて武蔵野競技場線が開業した。新駅の名前は「武蔵野競技場前(グリーンパーク野球場前)」。陸上競技用の競技場が近くにあり(今もある)、こちらの名称が使われた。期待された新球場だったが、不便さの方が先に立ってしまった。
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(都営アパートの地図。真ん中の楕円が球場の名残?)
「新設球場は、当日が曇天で肌寒かったせいもあるだろうが、客の入りが悪かった。一塁側三塁側とも内野席の一角を応援学生が陣取っているだけで、一般客は数える程度、外野席は空っぽに近かった。三鷹からの電車が開通したからといっても本数は少ないし、国電からバスに乗り換えるのも面倒だ。それに、武蔵野の郊外ではやはり草野球のイメージであって、プロ野球とか六大学リーグではどうもぴったりこない」(「八幡町ものがたり」)。

5月5日のプロ野球こそ満員で行われたが武蔵野グリーンパーク野球場の評判は散々だった。新聞の略称もセ・リーグとパ・リーグで「武蔵野」と「三鷹」に分かれるなど定着しないまま、1951年は12試合が行われただけだった。


☆☆☆☆※脇坂さんはジャーナリスト。「週刊女性」の発刊に携わるが肺結核のために療養。人物往来社で「近代百年の歴史」、河出書房では「世界の歴史」25巻を企画・編集。1975年からはフリーで「武蔵野編集室」と呼ぶグループを主宰。「八幡町ものがたり」は、移り住んだ都営住宅と自分史を重ねた極小の地域史。87年急逝。


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以下の項目はカテゴリーの武蔵野市にあります。お時間のある方はよろしく。

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

2010年5月11日 (火)

グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く

廃線の跡をたどって、かつて使われた武蔵野市のグリーンパーク野球場をめざす。

太宰治が散歩コースにしていた跨線橋の先から廃線跡にできた堀合遊歩道を北に向かって歩く。

太宰は武蔵野の夕陽を好んだ。跨線橋からの風景ではないが「毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちてゐる。私は夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて…」と、「東京八景」で陽炎に揺れる夕陽の雄大さと三畳間の狭さを対比させている。三畳間の額縁いっぱいの夕陽、いい絵だ。
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跨線橋の先は電車庫だから見通しがいい。奥多摩の嶺の先には富士山、その右手に沈む夕陽を遮るものはない。三畳間よりパノラマは開けるが、ここが八景でないのが太宰なのだろう。

遊歩道の両側には木々が茂り、暑い夏でも木陰がさわやかさを作ってくれる。そのままたどっていくと玉川上水にぶつかる。

ここで堀合遊歩道は終わりだ。玉川上水を越えると武蔵野市に入るので名前が変わる。


現在(2010年5月)は都道の工事中なので少し迂回をしなければならない。上水の上流に行くと、別の廃線あとが公園になっている。こちらはJR武蔵境駅からの引き込み線跡だ。多摩川で採った砂利を西武多摩川線で武蔵境まで運び浄水場建設に利用、さらに軍需工場の機材を運搬するために、その先の中島飛行機武藏野製作所まで続いていた線路のあとだ。

玉川上水には鉄道用の橋の土台が残っている。その下流の橋を渡ると、舗装された道路の横にグリーンパーク遊歩道が北上している。これをたどれば中島飛行機の跡地にできた武蔵野中央公園につく。この東側に武蔵野グリーンパーク球場が偉容を誇り、日本一長い駅名の武蔵野競技場前駅があった。

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左カーブしている道が遊歩道。斜めまっすぐに下りている水色の線は玉川上水。線路の右手が三鷹駅)

球場までの線路は、三鷹電車庫の手前から線路を敷き、境浄水場の手前で元々あった線路につなげれば良かった。だから、そんなに多額の建設費を必要としなかったろう。

グリーンパーク野球場のために作られた国鉄武蔵野競技場線の総距離は3・2キロ。木々が日差しを遮ってくれるのでブラブラ散歩には、もってこいの道だ。

球場の跡地には都営アパートが建っている。案内地図があったので眺めると、楕円形に道路が造られている。球場外周の道がそのまま残っているのだ。歴史が痕跡をとどめている。なんだか、うれしくなる。


以下は、

「グリーンパーク野球場③六大学野球」

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

と、続いてます。カテゴリーの武蔵野市にあります。

2010年5月10日 (月)

見頃ですムサシノキスゲ

5月10日(月)  曇り

府中の浅間山公園に開花の確認にいってきました。まさにドンピシャでした。

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堂山にのぼって頂上にある小さな祠の浅間神社にお参り。西側に下る坂の右手が群生地。橙かかった黄色の花弁があちこちで開いてました。芳香がするといわれているけど、私の鼻には伝わってきませんでした。柵のすぐ近くに咲いていた花弁に顔を近づけたんですが分かりませんでした。

中山にある休憩所の東屋の周辺も満開、新小金井街道沿いの斜面にも咲いていて写生している学生がいました。

雑木林を伐採して日が射すようになったところが好みのようです。おそらく今週末までは楽しめるでしょう。

この公園は、前山、中山、堂山に3つの丘からなっており、結構広いんです。そこらへんに車を停めてのぼってきたおじさんが「随分と広いんだね」と感心してました。

おまけの情報。多磨墓地の正門にある交番の横にも2鉢、置かれてました。墓地の管理事務所横の花壇でも今が盛りでした。浅間山公園までは足に自信が無い方は、こちらでどうぞ。

2010年5月 6日 (木)

武蔵野市にあった幻の東京グリーンパーク野球場

1951年(昭和26年)5月5日 晴(多分)

待ちに待った新しい野球場のオープンの日だ。ボクは、朝からわくわくしていた。おじさんがプロ野球の試合に連れて行ってくれるのだ。まだ小さいので、後楽園球場では帰りが遅くなってしまうとお父さんが許してくれなかった。

でも、武蔵野市に野球場が新しくできたんだ。これなら近い。一緒に住んでいるおじさんは富士重工三鷹工場に勤めていて、野球の選手をやっていた。時々「ベースボールマガジン」を買ってきてくれた。野球じゃないんだ、ベースボールだぜ。ハイカラなんだ。字は読めなくても川上や大下の写真を見るだけでもうれしかった。

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(太宰が散歩の途中に立ち寄った陸橋。右手は三鷹電車庫)

おじさんがどこからか切符を手に入れて連れて行ってくれるのだ。三鷹の西の方に住んでいたボクは武蔵境の駅まで歩いた。隣の三鷹からは、野球場まで新しい国鉄が作られたんだ。駅もできた。武蔵野競技場前(グリーンパーク野球場前)という駅だ。

日本で一番、長い名前の駅だと、おじさんが話してくれた。一番は何でもうれしいもんだ。

席はもちろん外野。「こどもの日」だから、人でいっぱいだ。全部で5万1000人も入れられる大きな野球場だ。

今日の試合は「国鉄」と「名古屋」。もう1試合が「巨人」と「名古屋」だった。普通のダブルヘッダーではなくて、こういうのは変則ダブルヘッダーというんだ。

              ×        ×

以上は架空のボクの日記だけど、この年の5月5日に新球場がオープンしたのは本当のことです。オープンの日ではないけど、ずっとあとにグリーンパーク球場に行った記憶がある。おじさんが連れて行ってくれたのだ。そのことは別の機会に。

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(陸橋から西を望む。特に冬には富士山が見える)
というわけで5日は人気スポットを避けてグリーンパーク野球場の跡を探しにいった。歩くのは廃線跡にできた遊歩道。

三鷹からは北口を出て左(西)にまっすぐ行くと、跨線橋がある。三鷹に住んでいた太宰治が散歩の途中に上がった跨線橋だ。ここからは奥多摩や丹沢の山々、その向こうに富士山が望める。線路がまっすぐ続いていて遮るものがないから沈む夕日の雄大なこと。私も子どもの頃によく通いました。

そこを過ぎたあたりの右手から堀合遊歩道は始まる。これが武蔵野競技場線の跡だ。児童公園の左手だ。古木の木立に囲まれているから緑を目がければいい。

(つづく)

「グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く」

「グリーンパーク野球場③六大学野球」

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

と続いてます。カテゴリーの武蔵野市にあります。

2010年5月 5日 (水)

鎮座1900年・大国魂神社の謎⑥

大国魂神社の大鳥居をくぐって拝殿に向かうと随神門の手前を道路が横切っている。もちろん車は通れないようにしているが、ちゃんと舗装されている。神社のちょうど真ん中を区切っている。

道路が先にあって、あとから神社ができたようだ。変だな。左手の鳥居を出ると、斜め向かいに標識が出ている。京所道。きょうずみち。国司が置かれていた名残で、中心をあらわす京がついているのだ。お経を書写する部門があったので「経」が京になったともいわれている。

国司がつとめる建物、国衙が大国魂神社のあたりにあったことは間違いがないようだ。

この京所道はまっすぐ西に続いている。両側の家の表札は「猿渡」。代々、宮司をつとめている家だ。司馬遼太郎の「燃えよ剣」にも猿渡家の娘がくらやみ祭の夜に土方歳三と情をかわすシーンが登場する。

ずっと行くと京王線の府中競馬正門前の駅前に出る。ここで道は曖昧になるが多分、品川道につながっている。品川道(品川街道)は京王線東府中駅のあたりで消えている。京王線が開通する前は、2つの道がつながっていたのだろう。

京所道は、江戸初期に甲州街道が整備される前は、甲州への道として重要な役割を果たしていたという。そんな道が神社の土手っ腹をぶち抜いている。

さらに境内には武藏国府跡の石柱が立っている。境内も国府だったのだ。これも変だ。

ということは、律令体制が崩れたあと神社が興隆したのか。そこには権力争いや、宗教や文化のはやり廃りなど長い長い歴史があった。あれこれ勝手に思いを巡らしていると尽きることがない。

2010年5月 4日 (火)

開花ムサシノキスゲ

5月4日(火) 薄曇り  最高気温24・7度 

咲いてましたムサシノキスゲ。神代植物園の水生植物園、つぼみを持っていた株が気になったのでチェックにいってきました。

1株だけだけど花をつけてました。午後2時過ぎだったので日が当たりすぎるのか、茎がお辞儀をしてましたが、黄色い花弁が確かに一輪。他の株もつぼみをつけているので週末あたりには見頃になりそうだ。

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ムサシノキスギは府中市の浅間山公園が唯一の自生地。水生植物園のものは移植した株です。ということは浅間山の群落もそろそろ咲き始めるということ。咲いているかもしれない。

当たり前だけど、府中にしか自生してないということは、日本でも府中でしか見られないということ。島嶼はのぞいて、東京でだけ見られる植物なんていうのは珍しい。他にそんな例はあるのだろうか。

水生植物園でムサシノキスゲが植えられているのは、シランの赤紫の花の隣です。

あまり日の射さない雑木林の下ではキンランがまだ咲いてます。

それにしても深大寺の門前は観光客でいっぱいでした。そば屋も午後2時過ぎだというのに行列ができてました。以前に入ったそば屋の「多聞」には30人ほどの列が。元祖の嶋田屋も鬼太郎茶屋もにぎわってました。でも、水生植物園はわりと人が少ないので落ち着けます。カキツバタの青紫の花も盛りでした。


2010年5月 3日 (月)

鎮座1900年・大国魂神社の謎⑤

2010年5月3日(月)

鎮座1900年・大国魂神社の謎・その1

3日には神輿が大国魂神社の本殿前に遷される。町内の会所も立ち上げられてお祭りのムードが高まる。午後6時からは囃子の競演。けやき並木に10台の山車が揃い、囃子が披露される。

午後8時からは競馬式。「こまくらべ」とふりがなが振ってあります。けやき並木を6頭の馬が3回往復します。競馬とは何かと縁が深いんです。

くらやみ祭の行事で気になるのが、摂社の宮乃咩(みやのめ)神社と坪宮(つぼみや)だ。

クライマックスの5日。神輿が通り道を清めたあと、真っ先にお参りするのが宮乃咩神社。名前の通り、ここは女神で、祀っているのはアメノウズメノミコト。神社のパンフレットでも「創立は本社と同時代であるといわれています」と景行天皇41年(西暦111)頃に作られたとしている。

鎮座1900年・大国魂神社の謎・その2

北条政子もここに安産を祈願している。由緒ある神社なのだが今は参道の左側にひっそりと立っている。同時期に立てられただけではない何か意味があるのかもしれない。勝手に思うに、こちらの方が先に鎮座していたのではないか。

夜、暗くなって神輿が神社を出発。それを坪宮に報告する。坪宮は境内にはない。境外の摂社だ。神社を出て甲州街道を左に折れ、高安寺の手前の坂を下ったところに密やかに鎮座している。

ここで行われるのは国造代奉弊式。国造、くにのみやっこ、に供え物を奉る。祀られているのは兄多毛比命。エタモヒノミコト。武藏の国造といわれている人です。

神社のパンフレットは「当時(創建のころ)は武藏国造が代々神社に奉仕しましたが、大化の改新によって、武藏国府をこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになり…」。

鎮座1900年・大国魂神社の謎・その3

国造が境外に追いやられている。権力が移ったために離れたところに置いた。それでも代々の奉仕を忘れないために神輿の渡御を報告するのか。

それとも、国造の先祖が祀られる例は多いから、国造の本拠はこちらにあったのか。となると大国魂神社のそもそもが、こちらにあったとも考えられる。

2キロ近くはなれているが浅間山の麓に人見稲荷がある。畑のあぜ道だが、ここの参道は200メートルくらいある。人見氏の本拠地で、ここでは人見が原の戦いが歴史に残る。参道から推測して、往時は相当に大きな神社だったと思われる。祀っているのは兄多毛比命。坪宮と同じです。武藏国造はかなりの範囲を支配していたようだ。

2010年5月 2日 (日)

鎮座1900年・大国魂神社の謎④

5月2日(日) 快晴 最高気温22・1度

今日は御鏡磨式の日。午後7時半から神社の拝殿で鏡を磨き清める。大国魂神社のくらやみ祭も5日の神輿渡御に向けて着々と準備が整えられていく。

大国魂神社のかつての名称は六所宮、あるいは六所明神といった。武藏国の6つの神社をここに集めて祀っているので六所宮。氷川神社、秩父神社などもまとめられている。

国司が各神社を回るのが大変なので便宜上、一カ所にまとめたというが、もともと巡回はしていないのだろう。各地の総社を見ると六所宮と称していることが多い。

六所とは具体的な場所ではなく、東西南北、そして天と地。すなわち国のすべて。権力の中心がここにあることを示しているのだ。

名称はいつ変更されたのか。神社のパンフレットには「国内著名の神社六社を合祀したので、六所宮と称せられるようになりました」とあるが、肝心の「いつ」がはっきりしない。おそらく創建のときには六所宮で明治維新の神仏分離で変えたのだ。

理由の第一は、国の中心を意味することがふさわしくなかった。国の中心は1つしかない。それは天皇のいる京都。

その第二は、六所明神の呼び方。仏教的だとして排された。神田明神も神田神社に改めさせられた。

このことは創建の年代にも関わってくる。府中に武藏国府が置かれたので総社としてこの地に作られたのが始まりと見た方がいいだろう。

引田朝臣祖父が武藏守に任じられたとあるのが武藏守の初見。それは大宝3年(703)。教科書で習った大宝律令が作られた年の2年後です。この頃に武藏国府が作られ、武藏国の総社として六所宮も国司が祀るようになったと見るのが自然だろう。

2010年5月 1日 (土)

ムサシノキスゲとサワオグルマ

4月30日 ほとんど晴 GWの谷間


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(この写真は浅間山のムサシノキスゲです)

調布市の神代植物公園へ。行楽には最適な陽気になってきたので、いつもの倍くらいの人が入場している。駐車場には満員の表示が出ている。お年寄りのグループが多い。にぎやかさを避けて道路を挟んだ北側のグリーンギャラリーへ避難。ここは無料だけど知られていないのか訪れる人も少ない。

予算の関係か閉鎖されている事務所のひさしにはフジが満開。何ともいえないいい匂い。独り占めだ。

深大寺門前のそば屋はどこも込み合っている。NHK「ゲゲゲの女房」の影響もあるのか「鬼太郎茶屋」にも人が群がっている。孫の土産でも買っているのか。

(5月1日の放送で深大寺が登場してました。夫婦で自転車に乗って、はじめてのデート。テレビで見ると雑木林がたくさんあっていいところです。水木しげるが、とっておきの場所といっていた墓場もお寺の西側にあります)

素通りして水生植物園へ。業者が入って雑草を刈っている。花菖蒲の見頃に備えているのだ。湿地に今、咲いているのはサワオグルマ。キク科なので小振りな菊のような花びらをつけている。黄色が周りの緑に映えている。

雑木林に入るとおばさんのグループが黄色い花を接写している。「先生」と呼ばれた男性が何やら説明をしているようだ。混ぜてもらうとキンランが一株。花は小さいけど、ランだと主張している。気高さのある花弁だ。

あちこちでシャガが群れている。アヤメ科アヤメ属。学名がアイリス・ジャポニカ。白い花に紫がひそやかにまじり、じっとみると込み入った花の形をしている。別名を胡蝶花というらしい。そういわれれば蝶のような形の花だ。小振りなヒメシャガは、門の近くの花壇に植えられている。こちらは準絶滅危惧種。紫の花がいい色合いだ。

ムサシノキスゲと書いた名札があった。つぼみを持っている。唯一の自生地、府中の浅間山公園から移植したもののようだ。ここで開花を確認して浅間山に行けばいいんだ。貴重だといわれると見たくなるのは人の常。

林ではシジュウカラが「ツビ、ツビ」とメスを求めている。もう「ホーホケキョ」ではないがウグイスも鳴いている。

若葉に囲まれて花と鳥をめでる豊かな時間でした。

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