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2010年5月15日 (土)

グリーンパーク野球場⑥夢のあと

グリーンパーク野球場の跡地に立っている。都営のアパートなどにかわっていて、往時を偲ぶのは楕円形に作られた道路だけだ。この楕円が球場の痕跡だ。

中島飛行機跡地の東側は都営住宅に生まれ変わったが、西側は手つかずのまま放置された。徹底的に空襲でやられがれきの山で片付けるのも容易ではなかった。

1944年(昭和19)の11月、東京上空に偵察機が飛来した。軍需工場などを確認したアメリカ軍は11月24日、B29による本格的な空襲を開始した。狙われたのは中島飛行機武藏製作所。

当時の新聞、ラジオは住宅地を襲った"盲爆”だと発表した。大本営発表なのだろう。それでも工場は、迷彩色を施すなど擬装した。まるで効果はなかった。アメリカ軍は偵察機で精密な赤外線写真に収めていたのだ。爆撃は正確だった。終戦までに十数回の空襲が行われ工場は徹底的に破壊された。

Cimg0175
(中島飛行機の工場があった痕跡はないものかとうろついてみました。中央公園の北側に中島の後身、富士重工の社宅が建ってました。駐車場のクルマがみんなスバルなので分かりました)


そのがれきが手つかずになっていた。

目を付けたのがアメリカ軍。西工場の跡地3万5000坪に駐留軍宿舎を設けるというのだ。これより前、米軍基地のある立川では、基地による汚染、売春、暴力、ヒロポンなどからの浄化運動が起こっていた。

きっかけを作ったのが都立立川高校生徒会。「悪環境の都市立川の汚名をかぶったまま、いたずらに拱手傍観することはできない」との決議文を採択、浄化運動に参加したのだ。新聞にも取り上げられ、話題になったようだ。1952年、昭和27年のことだ。

知らなかった。脇坂勇さんの「八幡町ものがたり」で教えてもらいました。

=======余談だが、当時、武蔵野市、三鷹市は三多摩の都立校を受験するのが基本だったが、区部に近い 方は都立西高に通っても良かった。交通の便を考慮してのことだろう。だから脇坂さんの近所には立川高校に通っている友人がいた。その友人からいろいろと話を聞いていたようだ。==============


在学中、輝ける生徒会の歴史を聞いたことがあるのかもしれないが、まったく記憶にない。武蔵野市もおずおずと反対したが、アメリカ軍に逆らえるわけがない。政府も言いなりだ。現在とちっともかわってません。

工事は着々と進められ1954年(昭和29)に進駐軍家族の入居が開始された。今、市役所になっているところにはアメリカンスクールが建てられた。(その後、調布に移転、統合されたのか)。

返還されたのは1976年(昭和51)だという。米軍の占領は実に20年の長きにわたった。跡地には高層住宅建設の構想も持ち上がったが反対運動で挫折、とりあえず公園にすることになった。武蔵野中央公園として整えられたのは、ずっとあと1989年(平成元)のことだ。

こうして中島飛行機の跡地、通称グリーンパークの戦後はようやく終わった。

このシリーズは、以下のようなことを書きました。カテゴリーの武蔵野市をクリックするとあらわれます。

「武蔵野市にあった幻の東京グリーンパーク野球場」

「グリーンパーク野球場②廃線あとを歩く」

「グリーンパーク野球場③六大学野球」

「グリーンパーク野球場④あえなく閉鎖」

「グリーンパーク野球場⑤建設前史」

「グリーンパーク野球場⑥夢のあと」

    

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