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2010年4月27日 (火)

鎮座1900年・大国魂神社の謎②

府中の大国魂神社は来年、鎮座1900年になる。創立は景行天皇の41年。日本武尊東征譚にかかわる年代設定だろう。

それなのにどうして出雲の大国主が主祭神なのか。ご存知の通り、大国主は国譲りをして大和に従った。息子の事代主は承諾したが、別の息子の建御名方は異を唱え信濃に渡り、諏訪大社の神になった。

これは神の移動というよりは人びとの移動をあらわしているに違いない。

長野県には高句麗系の王族を中心とした大集団が1つの郡(高井郡)を作っている。「そういう集団のさらに拡張したというか、周囲に広まったのが、山梨の渡来系の集団です。…さらに東京都の狛江市のあたりまで広がっていて、霊亀2年(716)に武藏国に高麗郡ができたのです」(「日本史への挑戦『関東学』の創造をめざして」(森浩一、網野善彦、ちくま学芸文庫、森氏の発言)。

森氏は積石塚が長野、山梨、武藏と広がって行った様子から、渡来人の移動ルートを考えている。

建御名方は諏訪で高句麗系は高井郡、位置がずれていてイコールとはいえないので、出雲系と渡来人の両方が山梨を経て武藏にやってきた、あるいは文化を伝えたと考えた方がいいのか。

いずれにせよ大国魂神社は出雲系の神様を祭った。

景行天皇41年、西暦でいえば111年、日本列島では小さなクニができていたろう。北九州、出雲、大和などで人びとは弥生の稲作を行っていた。卑弥呼の登場はもっとあとになる。

武藏のことは分からない。古墳時代の初期、武藏の中心は狛江、あるいは田園調布のあたりにあった。多摩川沿いに行けば、それほど遠い距離ではない。大田区田園調布古墳群は武藏最古の古墳だ。宝来山古墳(全長97メートル)は4世紀前半、亀甲山古墳(107メートル)はそのあと4世紀代の築造とされている。景行41年よりはずっとあとのことだ。

いずれも前方後円墳であることから大和の政権と密接な関係を持っていたと見られている。

このころ狛江より多摩川上流の府中のあたりにどういう人びとがいたのかはよくわかっていない。

大国魂神社の創建が景行天皇41年で、祭神が大国主。どうしてこういう風に定めたのか、諏訪系、もっと先をいえば出雲系の人たちが関わっているとしか推測できない。

明治維新が関係しているのか。江戸時代までは六所宮と呼ばれていた。なぜ名前を変えなければならなかったのか。次回に考えたい。


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