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2010年4月 2日 (金)

野川沿いを歩いて俠客の墓へ②

小金井小次郎といってもいまや歴史の彼方にかすんでいる。幕末の俠客としては清水次郎長、国定忠次、黒駒勝蔵、大前田英五郎、新門辰五郎らが知られるが、小次郎はもう一つ有名ではない。余談になるが、次郎長や辰五郎は佐幕だったが、黒駒は勤王の志士だった。次郎長ものの講談や浪曲では敵役として描かれるが、そんなことはないようだ。

勝蔵は赤報隊にくわわったあと戊辰戦争に参加、功績があった。維新となり恩賞を期待したが、政府としては俠客を官につけるわけにもいかず、俠客時代の悪事を並べ立てて首を落としてしまった。赤報隊にいたのが政府にとって都合が悪かったのかもしれない。

官軍の先乗りとして東山道を進んだ赤報隊に対して官軍はニセ官軍のレッテルを貼って処分してしまった。税金が下がるなどの「公約」を勝手に触れ回ったとか難癖を付けたものだった。この事情は長谷川伸「相楽総三とその同志」に詳しく、長谷川は小説で赤報隊の名誉を回復した。

さて小次郎。3000人の子分を抱える大親分だった。小金井から川崎の方まで縄張りにし、川崎大師もシマにしていたという。お縄をちょうだいした佃の監獄で新門辰五郎と意気投合、義兄弟の契りを結んだ。

流された三宅島で井戸を掘るなど島民のためにつくした。これが縁で小金井市と三宅村は友好都市となっている。小金井市のホームページには「江戸時代の大俠客、小金井小次郎は遠島先の三宅島で島民のために尽くし、後世まで人びとに慕われ、小金井と三宅島が友好都市を作るきっかけとなった人物です」と紹介されている。昭和44年に小金井から桜を、51年にガクアジサイが三宅島から贈られ、53年に友好都市となった。

最後の将軍慶喜にかわいがられた新門は、謹慎した慶喜に従って水戸に向かった。「新門辰五郎は、この一行につかず離れず、勘定方からひそかに命ぜられた金二万両を子分に護らせて、水戸までお供をする。さすがの侠骨もこの道中は目を真赤にしてついて行った」(戊辰物語)。

戊辰の戦いは遠く三宅島にも伝えられた。小次郎の徳を慕う島民は、彼の指揮のもと江戸に入り、官軍と戦うことを望んだという。しかし、果たせず、小次郎が恩赦で江戸に戻ったときには既に時勢は一変していた。

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