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2010年4月の記事

2010年4月30日 (金)

鎮座1900年・大国魂神社の謎③

大国魂神社の元の名称、六所宮について考える前に、どうして景行41年に定めたのか、気になったので日本書紀をひもといてみた。

日本武尊は景行28年に熊襲を平らげたと天皇に奏上した。西の国はこれで収まった。女装して油断させて熊襲タケルを討った話です。

昔は有名な伝説だったけど今はどうなんだろう。日本書紀や古事記は教わらないのか。もとより神話の世界だったり、事実でないことも多いけど、国作りの何らかの事実が反映されてもいる。そこを読み取っていくのも面白いものだよ。

さて時は流れて40年6月、東国の蝦夷が背いて動揺しているという。兄の大碓皇子は身を隠してしまったので日本武尊が志願して10月に出発する。尊は駿河に至り、相模から房総半島に渡る。

これが古代(武藏が東海道に編入されるまで)のルートだったのです。東海道は三浦半島から船で安房に渡り、上総、下総を通って常陸へ向かった。だから、源頼朝もこのルートで浅草のあたりで隅田川(利根川)を越え、武藏に入った。そして大回りをして鎌倉に至る。

さて、日本武尊は上総から陸奥に行き蝦夷の国に到着。蝦夷の首領は尊の船団を見て降伏。こうして蝦夷も平定された。

10月に出発して途中、伊勢神宮に参ったりしているから年も変わって景行41年になるのだろう。

あれれ武藏が出てきません。

尊は蝦夷を討った勢いのまま今度は、信濃、越が服していないと言う。そこで甲斐から北方の武藏・上野を巡って碓井峠に至る。

武藏や上野は、甲斐・山梨の北方ではないがまあよしとしよう。東山道だと長野から栃木、群馬を経て武藏になるが、その帰りの道をたどったのだろう。

ようやく武藏が登場した。尊は武藏、栃木を通過して長野へ向かった。大国魂神社がある府中は東山道武藏路が通っているから、ここも通ったに違いない。時は景行41年。

きっとこういうことなんだろう。誰が、いつ考えたんだろう。たぶん、明治4年の神仏分離令のときではないかと睨んでいる。それは六所宮からの名称変更とも関係しているはずだ。

2010年4月27日 (火)

鎮座1900年・大国魂神社の謎②

府中の大国魂神社は来年、鎮座1900年になる。創立は景行天皇の41年。日本武尊東征譚にかかわる年代設定だろう。

それなのにどうして出雲の大国主が主祭神なのか。ご存知の通り、大国主は国譲りをして大和に従った。息子の事代主は承諾したが、別の息子の建御名方は異を唱え信濃に渡り、諏訪大社の神になった。

これは神の移動というよりは人びとの移動をあらわしているに違いない。

長野県には高句麗系の王族を中心とした大集団が1つの郡(高井郡)を作っている。「そういう集団のさらに拡張したというか、周囲に広まったのが、山梨の渡来系の集団です。…さらに東京都の狛江市のあたりまで広がっていて、霊亀2年(716)に武藏国に高麗郡ができたのです」(「日本史への挑戦『関東学』の創造をめざして」(森浩一、網野善彦、ちくま学芸文庫、森氏の発言)。

森氏は積石塚が長野、山梨、武藏と広がって行った様子から、渡来人の移動ルートを考えている。

建御名方は諏訪で高句麗系は高井郡、位置がずれていてイコールとはいえないので、出雲系と渡来人の両方が山梨を経て武藏にやってきた、あるいは文化を伝えたと考えた方がいいのか。

いずれにせよ大国魂神社は出雲系の神様を祭った。

景行天皇41年、西暦でいえば111年、日本列島では小さなクニができていたろう。北九州、出雲、大和などで人びとは弥生の稲作を行っていた。卑弥呼の登場はもっとあとになる。

武藏のことは分からない。古墳時代の初期、武藏の中心は狛江、あるいは田園調布のあたりにあった。多摩川沿いに行けば、それほど遠い距離ではない。大田区田園調布古墳群は武藏最古の古墳だ。宝来山古墳(全長97メートル)は4世紀前半、亀甲山古墳(107メートル)はそのあと4世紀代の築造とされている。景行41年よりはずっとあとのことだ。

いずれも前方後円墳であることから大和の政権と密接な関係を持っていたと見られている。

このころ狛江より多摩川上流の府中のあたりにどういう人びとがいたのかはよくわかっていない。

大国魂神社の創建が景行天皇41年で、祭神が大国主。どうしてこういう風に定めたのか、諏訪系、もっと先をいえば出雲系の人たちが関わっているとしか推測できない。

明治維新が関係しているのか。江戸時代までは六所宮と呼ばれていた。なぜ名前を変えなければならなかったのか。次回に考えたい。


2010年4月26日 (月)

鎮座1900年・大国魂神社の謎①

府中の大国魂神社へぶらぶらと。府中は古代から続く古い町なので見どころがたくさんある。いつも起点にしているのが大国魂神社だ。ここから旧甲州街道を下って高安寺方面に行ったり、坂を下って多摩川方向を目指し、時には橋を渡って多摩市まで進出している。

久しぶりに訪ねたら「御鎮座壱千九百年 記念事業」と大書した看板が掲げられていた。来年、平成23年には1900年を迎えるというのだ。いつ作られたのかというと景行天皇の41年5月5日。西暦でいうと111年。弥生時代だ。

とにかく古い。大極殿が建てられ連日大勢の人でにぎわっている平城京遷都の710年より600年もさかのぼる。はるか彼方のことだ。

5月5日にはじめて祀られたので、この日がくらやみ祭りのクライマックスの神輿渡御になるわけか。
記念事業の目的は、随神門改築、斎館新築、摂社・末社改修などで募金目標額は6億円。大変な事業だ。

景行天皇の時代に作られたという神社は各地にある。

埼玉県入間郡の出雲伊波井神社(毛呂山町)は、日本武尊が東征凱旋の際、侍臣武日命(大友武日)に創祀させた。

所沢市の物部天神社も日本武尊東征の時に作られた。

水戸市の吉田神社は、景行40年。東夷鎮定に赴く途中に軍団が常陸に至り、吉田山で休息したのが始まり。

茨城県久慈郡の八溝嶺神社の始まりは景行天皇40年。八溝山に立てこもる賊を日本武尊が討ったことによる。

まあ、このように景行天皇というよりも日本武尊の東征に結びついて東国の神社の縁起が語られている。だったら大和朝廷系の神を祀るのが自然だと思うのだが、大国魂神社のそれは名前の通り大国主の命。神社の境内東横にある観光所情報センターでもらったパンフレットには「大國魂神社は大國魂の大神を武藏の国の護り神として御祀りした社であります」としている。

なんで出雲の神を祀っているのか。
(各神社の社伝については「日本の神々 神社と聖地11関東」(谷川健一編、白水社)を参照した)。


2010年4月25日 (日)

小金井小次郎・補足、その2

小金井小次郎の墓の中に高さ3メートルもの大きな石碑が建っている。墓地の外からもひときわ目立つ。

墓碑を書いたのが幕府の重臣・山岡鉄舟。江戸城の無血開城に尽力し、清水の次郎長とも交わりがあった。小次郎が山岡鉄舟のために奔走して小金井に屋敷を建て、そのあとが今は尼寺の三光院になっているとも以前に書いた。俠客が好きなんですね。熱血漢を好んだのか。山岡自身も剛直な人だったと言う。

大きな石碑の文字は中村克昌の筆になる。そんな人知らない。誰だ。碑の側面に確かにそう書いてある。

自由民権運動で名を知られた人です。明治憲法ができ議会が開設されたときに衆院議員になっている。

中村克昌は調布の上石原の出身。上石原出身には有名な人がいます。近藤勇。

中村は「多摩の三筆」と言われたほど書が達者だった。他の2人は、石阪昌孝、吉野泰三。石阪の娘が美那、その夫が北村透谷。吉野は三鷹の自由民権家で、石阪らとたもとを分かち穏健路線になるが、その思想に透谷が共鳴したという。透谷が吉野に宛てた手紙が「吉野家文書」として残っている。

自由民権家と俠客、すぐには結びつかないが、小金井小次郎は調布で旅館も営んでいたというから、その縁で碑を書いたのだろう。調布には布田5宿があり、小次郎は飯盛り女を置く許可を幕府から5000両で買い、愛人に店を任せていたという。小次郎のシマだったわけですね。博打なんかもやっていたのか。襲名賭博とか。なんか映画の世界みたい。

甲陽鎮撫隊を率いた近藤勇が調布を通った時、上石原の人びとは近藤らを歓迎した。その中に中村もきっといたことだろう。

布多天神の「日露戦争記念碑」も中村の筆になる。

中村は上石原村名主の長男で、子息も調布町の町長を務め、国会議員に選出されている。

それにしても、新選組、俠客、自由民権運動が絡み合って、多摩というのはなかなかに面白い土地だ。

忌野清志郎の命日も近いし、そろそろ日野に行かなければならない。土方歳三のふるさとを訪ね、歳三の墓に隣接している清志郎が通った都立日野高校をぐるりとめぐってこよう。

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小金井小次郎については、

野川沿いを歩いて俠客の墓へ④ 2010.04.09
野川沿いを歩いて俠客の墓へ③ 2010.04.08
野川沿いを歩いて俠客の墓へ② 2010.04.02
野川沿いを歩いて俠客の墓へ① 2010.04.01

でも取り上げてます。

カテゴリー小金井の下の方にあります。

2010年4月24日 (土)

小金井小次郎・補足

府中の浅間山公園に行く途中で俠客・小金井小次郎の墓の横を通った。

町内の掲示板に「NPO現代座公演 和楽器の伴奏による語り 揺れる時代 共生の道に生きた 小金井小次郎」というチラシが張ってあった。

地元の小金井らしい企画だ。どういう視点から語るのだろう。

チラシには「幕末から明治にかけての揺れ動く時代の中で共生の道を生きた、ひとりの人間としての小次郎を三味線、篠笛、小太鼓等を使いながら、水戸眞澄と木下美智子が語ります」とあった。

激動期を生き抜いた小次郎のヒューマンな側面にスポットを当てるのか。あまり知られてないことなので興味がある。作品解説はもっと詳しくなる。

ガクアジサイはなぜ小金井で多く見られるのかと、意表をつく。これは三宅島村から友好の証として小金井に送られたものが広まったのだ。そのきっかけを作ったのが小金井小次郎ということは以前、このブログでも書いた。

三宅島に遠島になった小次郎が島民のために井戸を作ったことも書いた。

チラシの文が詳しいので引用します。

「三宅島は水源のない小さな島です。幕府から多数の流罪人が送り込まれることによって、島民は水と食糧の不足に苦しみ、流罪人とのいざこざも絶えませんでした。

黄金の井戸にたとえられる小金井の水で育った小次郎は、島の暮らしの中ではじめて水の尊さに目覚めます。小次郎は流罪人を指揮し、島民とともに貯水池の建設に挑みます.幕府の支配がもたらす困難を乗り越え、島民と流罪人との間に人間らしい『共生』の和が生まれます。この貯水池は『小次郎井戸』(三宅島村史跡)と呼ばれ、昭和三〇年代まで使われていました」。

いい話だ。水の豊富な小金井と島の対比が効いている。

時間があったらのぞいてみようと思っていたんだけど、公演は4月の23、24日で残念ながら終わってしまいました。まだ間に合うと勘違いしてました。間抜けなブログで済みません。

2010年4月23日 (金)

浅間山公園のムサシノキスゲ

4月21日(水)  晴れ 都心の最高気温25・5度 夏日

そうだムサシノキスゲを見に行こう!

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(写真は、ゴールデンウイーク後のものです)


もうそろそろ咲いているのではないか。まだ早いかな。去年、浅間山(せんげんやま、です)に行ったのはゴールデンウイークの真っ最中だったか、すぎたあたり、ムサシノキスゲの赤みがかった黄色い花が満開だった。

ムサシノキスゲはユリ科ワスレグサ属、丘陵地の林下などに生えるが、ここ府中市・浅間山にしか自生していない貴重な植物だ。ニッコウキスゲの変種。公園一帯が雑木林で自然が残っているので生きながらえているのだろう。

JRの武蔵小金井南口から歩く。3、40分も行けばつくだろう。見晴らしのいい箇所から南を望むと、こんもりとした丘がある。多分あれがそうだ。

暑い。上着を脱いでリュックにしまう。それでも暑いので腕まくり。多磨墓地が見えてきた。その右手が
浅間山公園。8万3000平米もあり、3つの丘からなっている。古代の多摩川の浸食から残った高地で、ここだけが小高い。標高約80メートルの頂上にまします浅間神社にお参りして、下りの小径周辺がムサシノキスゲの群生地。

まだつぼみも出ていない。通りかかったおじさんに「こんにちは」とあいさつして、「まだ早いんですか」と訊いてみる。「まだちょっと。ゴールデンウイーク過ぎてからだね。いまはキンラン、ギンラン。ほれ、そこに」

キンランが1株咲いてました。提灯のような黄色い花が。ランの野生種なんだろうな。
          ×               ×
「何を採ってるんですか」。虫を捕まえているおじさんがいた。小さなプラスチックのケースに虫を入れている。「カミキリムシ。ほら、ありんこみたいだろ。これ以上大きくならないんだ」。

アリよりちょっと大きい。体長5、6ミリの虫がケースの中で動いている。立派なひげもある。「今頃しかいないんだ。夏には卵を産んで死んでしまう」。伐採したクヌギの枝を集めた束からしきりに採集している。そんなに小さいカミキリムシがいるなんて知らなかった。家に戻って調べたらハナカミキリのようだ。小さいのは体長3ミリ。

前山尾根の富士見スポットへ。ここは関東の富士見百景にも選ばれた名所だ。ビルの間に富士山がかすんでいた。冬に来たときはもっとくっきりしていた。でも、三鷹辺りから見るよりも大きく見える気がする。錯覚か。

帰りは多磨墓地の中を通って西武多摩川線の多磨駅へ。GW過ぎたらまた来よう。


2010年4月22日 (木)

政商・岩崎弥太郎②三菱がやったこと

幻冬舍新書「岩崎弥太郎と三菱四代」の続き。18日の朝日新聞読書欄でフリージャーナリストの佐々木俊尚氏は「著者の歴史観、人生観が実にステレオタイプだ」と批評した。俗説は耳に優しいゆえベストセラーにランクインしているのだろうと感想を書いたのが前回。

著者の河合敦氏は「戦後の日本の教育界は」「個人主義・自由主義が誤って浸透」と10年1日の相変わらずの戦後批判をしているらしい。それに比べて岩崎弥太郎らは不断の努力と精神で国家の繁栄を目指し、その企業は公共心に満ち、国家も富ませたので「明治は良かった」というのが論旨のようだ。

へーえ、そんなに立派だったんですか。九州長崎沖合の高島炭坑に実態を見てみよう。

高島炭坑はいろいろいきさつがあって後藤象二郎が抗主となった。しかし、1878年(明治11)、過酷な労働と低賃金に耐えかねて2000人の坑夫が暴動を起こすなどうまくいかず、結局後藤は1881年(明治14)莫大な赤字を抱え込んでしまった。頼ったのが同郷の友人であり後援者でもあった岩崎弥太郎。

経営立て直しのために岩崎が取った対策は、それはそれはひどいものだった。嘉治隆一「明治の社会問題」は「三菱の経営になってより監獄部屋式を採用し『千古未曾有の圧政法を設け』」た。労働者ではなく囚人として扱い、当時でさえ「未曾有」の信じられないほどの働かせ方をした。

このため世の中の批判を浴び、有志が東京から視察に訪れ、明治21年には国粋雑誌「日本人」がその惨状を天下に訴えた。世論に動かされてついには警保局長清浦奎吾が現地を視察、労働条件と待遇改善を命令した。

国が命令を出すのだから明治の時代でもよほどひどかったのだろう。でもこれは富国強兵の一環だった。三菱の論理は、石炭の増産はお国のため、労働者の個人主義・自由主義は過たずに正しく浸透させると、徹底的な搾取に結びつく。「良かった明治」の実態にこうした暗部が含まれていることを忘れてはいけない。

政商・岩崎にこうした側面があったのは事実だ。今の経営者だってオブラートに包んではいるが、思考法は変わっていない。リーマンショックが起きれば、企業存続のためを錦の御旗に働き手の条件を下げたり、弱者を切り捨てていく。企業の論理としては当然だ。これを打ち破るために、弱肉強食ではない新しい社会の仕組みが求められているのだろう。

こうした過程を経て三菱は政商から大財閥へと肥大化していく。すべて国策に沿ったものだったし、国のためが三菱の利益に直結していた。

三菱の祖、弥太郎を賛美するだけでなく、こうした過去があったことは知っておいていいだろう。高島炭坑については「日本の百年2わき立つ民論」(ちくま学芸文庫)によりました。


2010年4月21日 (水)

続・ノビル掘り・無料

三鷹の国立天文台横の遊歩道で若葉を満喫して野川に下る。その昔にこのへんで栽培していたワサビから連想してノビル摘み。

子どもの頃に掘って遊んだことがあるのでノビルの葉は覚えている。ニラとネギを足して割ったような形だ。まっすぐに伸びているのですぐに分かる。しゃがんで雑草の中に目を凝らすと、そこら中に生えている。

そこらへんに落ちていた木の枝を使って根の脇を掘る。あった、あった。丸くて白い玉が出てきた。直径5ミリほど。小さい。

10株ほどが密生している。慎重に掘る。小さな玉が鈴なりだ。30分ほどで片手では持てないくらいになったので、もう十分。

湧き水で手を洗って、ノビルは手持ちのビニール袋へ。夕食のおかずに一品追加だ。

「そんなにたくさんか。大変だぞ」とオヤジ。簡単に考えていたけどその通りだった。ここからが一仕事。よーく洗って泥を落とす。凹みについたのがなかなか落ちない。黒ずんでいるところがあるので甘皮も剥く。黄ばんだり枯れてる葉も捨てる。小さなやつを一本一本だから手間がかかる。40分やってもまだ3分の1だ。残りはボールに取っておいて、きょうはここまで。

ノビルは百合科ネギ属の多年草。ビタミンCが豊富で疲労回復に効果があるという。生のままでもいいが、匂いが気になる人はゆでて酢みそ和えが一般的。しょうゆに漬けておけば半年ほどで食べごろになる。卵とじやベーコン炒め、天ぷらでもいけるようだ。

きょうは酢みそ和え。ザクザクとみじんに刻んでみそと和える。栄養満点だぞと威張って食卓に出す。玉が堅い。葉っぱも歯に残る。もっとしゃきっとしてるはずだ。サクっと噛めてじわっとほのかな臭みが広がらなければいけない。失敗作。「時期がちょっと遅いんだよ。3月末なら軟らかい」と90歳になるオヤジ。

明日また挑戦だ。玉は細かく刻んで、根も丁寧に落とす。葉っぱは少しゆでて卵とじにするか。

2010年4月20日 (火)

ノビル掘り・無料

4月19日(月) 晴れ 気温20度超え

萌える若葉を目に焼き付けたくて東京天文台から野川公園へ。天文台が崖上、急な坂を下ると湧き水を集めた野川が流れ、武蔵野の森公園と野川公園がある。野川公園の小金井よりは武蔵野公園で、この辺りはちょっとしたグリーンベルト地帯。散歩よし、ジョギングよし、思い思いのスポーツも楽しめるし、バーベキューのできる区域も設けられている。

国分寺崖線の坂には雑木林が自然のまま残っていて、若葉の黄緑が鮮やかだ。若葉はどうしてこんなに美しいのだろう。大自然が生きているという実感を与えてくれる。若葉のエネルギーを加えた木漏れ日を浴びながらその中を歩く。

近頃発見したのが、天文台の塀に沿った遊歩道。崖の上に作られた散歩道で、下には野川、遠くに目を凝らせば奥多摩の山々、今日はかすんでいたが、富士山を望むには絶好のポイントのはずだ。

野川の先には味の素スタジアム、その向こうには多摩丘陵、よみうりランドの観覧車が回っていた。ベンチも用意されているのでお茶を飲みながら、しばし一服(煙草は吸いません。念のため。散歩中はタバコを持たないようにしている)。人も来ない。ぜいたくな静寂。

急階段を下りて野川沿いへ。油絵を描いている画家、ジョギングしてる女性、散歩の母子。田んぼでは雑草を刈って田植えの準備をしている。子どもの頃、ここらにはワサビ田があった。豊かな湧き水を利用して、ワサビを作っていて名物だった。今も田の跡は残っているがもうワサビは植えていない。

そうだ。土手でノビルを摘んでいこう。

2010年4月19日 (月)

政商・岩崎弥太郎①

幻冬舍新書の「岩崎弥太郎と三菱四代」(河合敦)が売れているらしい。日曜の朝日新聞読書欄「売れてる本」で取り上げていた。八重洲ブックセンター本店調べのノンフィクション部門で第5位、すでに6刷9万部を発行しているようだ。

ちなみに1位は「検査のしくみ・検査値の読み方」。2位は「JAL崩壊」でこれはわかるが、いったい何の本だろう。どうして売れているのか、本屋で立ち読みしてこよう。

「岩崎」が売れているのは、もちろんNHK「龍馬伝」のおかげだろうが、類似本があまたある中でも訴える力があった。書評の佐々木俊尚氏(ジャーナリスト)は「その描写に違和感はないが、散見される著者の歴史観、人生観が実にステレオタイプだ」とばっさり。

でも逆に、このステレオタイプが支持されているのだろう。著者はさらに言う。「変動しつつある今の日本社会を、本書のように幕末から明治にかけての大変動期になぞらえるのは最近の流行だ。しかしこのような情緒的な『明治は良かった』論からは、何も生まれない」。

同感だ。清朝末期の腐敗や民衆の蜂起とロシア革命という相手側の事情もあって辛くも日清、日露の戦いには勝ったが、膨張策がもたらしたその後の日本を考えるならば、明治の日本に手放しで賛意を示すことはできない。

ただ、明治の日本人が抱いた、それぞれの夢や努力に郷愁を覚えるのにやぶさかではない。目的を失った今の日本人が思い起こすべきものがそこにはある。どこを目指すべきなのか、みんなが模索する中で、この本の中に答えを探しているのだろう。

見城徹社長の狙いがぴたりとはまったわけだ。ステレオタイプと切って捨てるのはたやすい。しかし、その底にうごめいているのは、鬱積した不満とやり切れなさだ。無党派層が支持した民主党もあのざまだ。自民党と同じ土俵に乗っていては、どん詰まりになることを分かっていなかったのか。民衆は強いパワー、エネルギッシュな牽引者を求めはじめている。それを嗅ぎ分けている見城社長の嗅覚はさすが一流だ。

2010年4月 9日 (金)

野川沿いを歩いて俠客の墓へ④

関家は鴨下家の分家だ。八代将軍吉宗の新田開発奨励に応じたのが勘右衛門。今の小金井公園のあたりを開いた。開発に功があり、分家して関家を興した。だから、この辺りの町名は関野町。小金井小次郎はその子孫というわけだ。

鴨下家はもともと足利家の家臣・関勝重を祖とし、小金井の鴨下に移り住んだのが始まり(相州津久井郡の鴨下出身ともいう)。先祖の姓を名乗ったのだ。関家のあたりの中町から小金井公園へは陣屋道が続いている。勘右衛門が陣屋に通った道だ。新田開発のために川崎平右衛門が陣屋を置き、手代が常駐していた。いろいろ指示を仰いだのか。玉川上水には陣屋橋がかかっている。

陣屋道には尼寺、三光院がある。元は山岡鉄舟の屋敷だかがあったところだ。土地の入手に骨を折ったのが小金井小次郎。境内には鉄舟の事績を記した石碑と「山岡鉄舟先生之碑」(頭山満書)が建つ。三光院は、知る人ぞ知る精進料理をだすという。京都・竹の御所風だそうだ。

ついでに言うと江戸名物、小金井の桜を植えたのが川崎平右衛門。大岡越前守の命により大和の吉野山や常陸の桜川からヤマザクラの苗を取り寄せて堤に植えた。勘右衛門も手伝ったことだろう。


堤に植えた桜は枯れてしまった。代わりに上水そばの小金井公園が桜の名所になっている。去年行ったけど、人であふれかえっていた。

そういえば「たてもの園」前の広場に出店が出て三宅島の焼酎を売っていた。「ここでしか買えません」とか呼び込んでいた。時々テレビで紹介される幻の焼酎だったのか。

その時は深く考えなかったが、なぜ、三宅島の特産を小金井公園で売っていたのか、一年越しで気づきました。繰り返すと、小金井小次郎が縁で小金井市と三宅村は友好都市なんです。堤に桜をよみがえらそうという運動も始まっているそうだ。

勘右衛門は近隣の村々の名主を務めたというから、鴨下一族の中でも特別の存在となり、墓所の真ん中に関家の墓域が設けられたのだろう。昭和33年、小金井が市になった時、初代市長を務めたのが関綾二郎氏。小次郎の孫だ。

ここで、この項の①で抱いた疑問、小次郎の墓は月窓寺にあるのか。どうも、うちのオヤジが間違って教わったようだ。小次郎の流れを汲む「四軒寺勝蔵」の墓が同寺にあるという。この話が誤ってオヤジの頭に刻まれたのかもしれない。今度吉祥寺に行ったときに確かめてみよう。

墓地横の坂を上がれば連雀通りと小金井街道の交差点。小金井駅南口は2分ほどだ。南口はイトーヨーカドーができ、マンションも建った。再開発の真っ最中。高いビルが建つと武蔵野には似合わないが仕方のないことか。

2010年4月 8日 (木)

野川沿いを歩いて俠客の墓へ③

小金井小次郎の追悼碑には建立に尽力した親分たちの名前が刻まれている。

四軒寺阿佐ヶ谷初代   桜井達夫
小金井一家新宿東初代  矢島武信
四軒寺九代目      佐伯茂雄 
西久保二代目      野呂正義
調布五代目       星野淑之

さらに、大久保、十二社、笹塚、阿佐ヶ谷、高円寺、堀之内、下北沢、烏山、代田橋、府中、調布、子安、川崎などの地名を冠した親分の名がある。

こんなふうに列挙すると壮観だ。昔の任侠映画を思い出す。襲名披露などのシーンでずらりと親分衆の名前が書かれた札が下がっていた、あの感じだ。

ところで話は飛ぶけど、突破者・作家の宮崎学さんが憲法違反で福岡県を訴えた。なんでも福岡県警がコンビニに対して、暴力団関係の書籍や雑誌を置かないように指導、そのなかに宮崎さん原作のコミックも含まれていたという。

これっておかしいでしょ。表現の自由と大上段に振りかぶるまでもなく、書籍で何を扱うか、テーマにするかは基本的に自由だ。それが反社会的な勢力や事柄を扱っていたとしても許されなければならない。これがとおったら、任侠映画ややくざを主人公にしたビデオも上映、販売してはいけないことになってしまう。表現は表現として認め、批判すればいい。極論すれば、反社会的という理由を付ければ不倫をテーマにしてはいけないことになる。道徳的に正しくないことですからね。一夫一婦制は国の基本、それを乱す行為は国家転覆罪かもしれない。

話は戻って、ここに名を連ねたのはどうやら一家の親分たちのようだ。つまりは、これらの地域が小金井一家の縄張りというわけだ。基本的に中央線の新宿から西と、京王線の沿線、多摩川を越えた川崎がシマだった。ちなみに四軒寺とは吉祥寺のこと。4軒のお寺があるのでそう呼ばれた。そのうちの一軒が、うちの親父が「小金井小次郎の墓がある」と、自慢していた、我が家の菩提寺・月窓寺だ。

ずいぶんと広い。碑が建てられた昭和30年代の後半には江戸時代から連綿と続く組が仕切っていたんですね。いまはどうなっているのか。高度経済成長で系列化が進み、組関係の地図も相当に変わってしまったんだろう。

小次郎の墓は、墓地のほぼ真ん中にある。まわりは鴨下家ばかりだ。西念寺の墓とは塀で区切られているから、ここは鴨下一族の墓地のようだ。ところが小次郎の一角は「関家」。関家の墓碑銘もある。どういうわけなのか。

脱線して長くなったので、稿を改める。

2010年4月 7日 (水)

松井久子監督の「レオニー」⑶イサムの父

映画「レオニー」ではヨネとして登場するイサム・ノグチの父はどんな人物だったのか。名前は野口米次郎、明治8年(1875)愛知県海部郡津島町(現津島市)生まれ。19世紀末から20世紀初頭の英米文壇にセンセーションを巻き起こした詩人。世界各地で日本の詩歌や美術について講演し、日本の文化を西洋に発信しつづけた日本文化の紹介者。慶応義塾大学の英文科教授。

肩書きは立派だ。戦前には、それなりの評価があった人のようだ。しかし米次郎についてはまったく知らない。第二次世界大戦中の戦争賛美の言論により戦後は忘れ去られた存在になったことも原因しているが、もっと本質的な問題もあるようだ。

イサムが生まれてもほったらかしだし、日本にやってきても生活の面倒は見ない。日本人の妻と結婚して恥じるところはない。責任なんてまるで感じていない。それどころか自分の都合で連絡を取ってくる。というのはヨネの英語では文学として通用しないのだ。レオニーの助けがなければ英語の詩人ではいられない。

こんな人います。あるのは自己顕示欲と出世欲。それでいて人の懐に飛び込むのがうまい。もう逢うまいと思うんだけど、頼ってこられるとムゲにできない。おまけに明治の男だから女性の立場なんて考えが及ばない。

そんな中、レオニーは家を転々としながらイサムを育てる。混血児を持つシングルマザー。女性の権利も認められない戦前の日本で生きたレオニー。こんな人生があったんだ。


松井監督から「イサム・ノグチの母のことをやるんだ」と聞かされ、「母ものか」と単純に連想した自分を恥じる。そんなべたべたな三益愛子主演映画のような母子関係ではないのだ。

原作の「イサム・ノグチ 宿命の越境者」(講談社)でドウス昌代さんは、こう書いている。「イサムが深く愛し求めた相手は、ただ美しかっただけではない。一生を賭けて打ち込む仕事を追求する女性であった.女性が自活をめざすのをイサムが当然としたのは、働く母親をみて育ったこともあるだろう。イサムが自分の世界を持つ女性に魅せられたのは、そういう女性が輝いてみえると同時に、彼が自分の仕事に没頭しやすいからともいえよう」。

試写会で松井監督がきっぱりと言っていた。「なんて大それたことを考えちゃったんだろうと、くじけそうにもなった。そんな7年間の思いのたけを込めた作品です。どんな批判も怖くない」。作りきった充足感が会場に放たれていた。

同い年でも女は強い。岩を動かしちゃうんだから、ただただ仰ぎ見るしかない。

角川映画の配給で11月中旬に公開だそうです。何スクリーンくらいの規模になるのだろう。


               ◎   ◎

「松井久子監督の『レオニー』⑴」はこちらです。

「松井久子監督の『レオニー』⑵試写」はこちらです。

2010年4月 5日 (月)

松井久子監督の「レオニー」⑵試写

浜辺、小さな波が打ち寄せている。波打ち際を女が歩いている。一人だ。カメラが静かに引く。窓があらわれ、額縁のようだ。海が入っている。ノミで石を刻む男、女性がいる。「母さんの話を聞かせて」。声がかぶさる。思いのこもったオープニングだ。「いいぞ」とつぶやいた。快調な出だしだ。

2時間13分、少しも長くなかった。もう終わってしまうのか、短かった。松井監督が登場、客席にいた女優の山野海さんが呼ばれた。レオニー家の女中役、強さと素朴さを合わせ持った人で、はまっていた。下北沢で彼女が主催する劇団「ふくふくや」の公演を見て、一発で決めたそうだ。

次いで中村獅童が歌舞伎座のサヨナラ公演を終えて駆けつけた。イサム・ノグチの父親役だ。つまりレオニーとの間にイサムが生まれた。

これがとんでもない男なのだ。妊娠を知ると、日露戦争が勃発したとか、対日感情が悪いとかなんとか言って、とっとと日本に帰ってしまう。男の子が生まれたと連絡してもなしのつぶて。名前も付けない。仕方なくレオニーの母親は「ヨー」と呼ぶ。ヨセミテのヨーだ。父親がヒッチハイクで旅をした思い出の地と名前の「ヨネ」を込めたのだ。排日感情が高まり、アメリカ人の子にイサムがいじめられるのを見たレオニーは日本行きを決意する。幼い子を連れ船で横浜に着いたレオニーのために住む家は用意していたが、獅童は勝手な理屈を並べる。

「どこへ行くのか」と問いつめるレオニーに対し「妻の所だ。日本では妻と別に家を持つことはふつうのことだ。非難されることではない」。日本に戻った獅童はさっさと結婚していたのだ。

            ×      ×       ×

獅童が笑わせる。「監督がぴったりの役があります」といってきたんです。彼がもめてたのと時期がちょうど重なるのかな。「とても複雑な気持ちになりました」。松井監督は追い討ちをかけた。「地で演じてください」、で、獅童「現場で傷ついてました」。ここで声を張り上げ「女性の敵みたいな役をやらせてもらって、一生忘れません」。

獅童が演じたのはひどい許せない男なのだが、どこか引かれる所を持つ。レオニーも断ち切れないのだ。「色気なんですよ。それを持っている役者は獅童さんのほかに見当たりませんでした」と松井監督がフォローしていた。

獅童が演じたヨネこと野口米次郎とはどんな人間なのか。

「松井久子監督の『レオニー』⑴」はこちら、続きの「松井久子監督の『レオニー』⑶イサムの父」は、こちらです。

つづく。


2010年4月 4日 (日)

松井久子監督の「レオニー」⑴

松井監督からこの映画のことを聞いたのはもう何年前になるのだろう。多分、著作「ターニングポイント『折り梅』100万人をつむいだ出会い」が出版されたときだった。だとすると04年だから6年前になる。イサム・ノグチの母の話をやるんだと言っていた。すぐに連想したのは、「遠き落日」だった。「母ものか」と興乗りしなかった。でも、イサム・ノグチには少しだけ反応した。

前年に見たんだと思う「フリーダ」の圧倒的な生き方にせん望を覚えていた。シュールレアリズムにも影響を与えたメキシコの画家フリーダ・カーロ。メキシコの澄み切った空気に負けない原色を駆使したその絵、奔放な生き方。保護者のようだった夫はほとんど無視、スターリンの圧政から逃れメキシコにやってきたトロツキーとのめくるめく愛、それはまさに命の燃焼だった。映画には出てこなかったがイサム・ノグチとも激しい恋に陥った。

イサムの生き方と母がどう関わっていくのか、ロシア革命やメキシコ革命など激動が背景になるんだとすると、とても大掛かりな作品になるのかと想像した。

「戦うサンチョビラ」のユル・ブリナー、「革命児サパタ」のマーロン・ブランド。詳しくは知らないが、なぜかメキシコ革命の話が好きだ。「ビバ!マリア」のブリジット・バルドーとジャンヌ・モローの2人のマリア。これもメキシコ革命が舞台。ドカン、ドカンと気持ちよく爆弾を炸裂させる痛快編。おそらく間違って理解しているのだろうが、明るい革命のイメージが映画で植え付けられている。フリーダの時代は少しあとだが、そんな陽気な戦いの雰囲気が残る中、イサムとの恋が展開されるとするなら個性と個性のぶつかり合いが楽しめそうだ、と勝手にふくらませた。

アメリカに長期ロケをするとも松井監督は言った。金もかかるし、普通ならやらない企画だ。でも、一人でアメリカに渡り「ユキエ」を撮ってきた人だから、やり遂げるんだろうな、がんばれよと心の中でエールを送った。

本当に撮ってきちゃったんです。製作費13億円だって。昨年4月に米ニューオーリンズでクランクイン、日米10都市のロケを重ね、ようやく完成した。ほやほやの作品の試写が4月3日に東京・赤坂の草月ホールで行われた。ここにはイサム・ノグチの傑作、石庭「天国」がある。

試写会の模様はあした

2010年4月 2日 (金)

野川沿いを歩いて俠客の墓へ②

小金井小次郎といってもいまや歴史の彼方にかすんでいる。幕末の俠客としては清水次郎長、国定忠次、黒駒勝蔵、大前田英五郎、新門辰五郎らが知られるが、小次郎はもう一つ有名ではない。余談になるが、次郎長や辰五郎は佐幕だったが、黒駒は勤王の志士だった。次郎長ものの講談や浪曲では敵役として描かれるが、そんなことはないようだ。

勝蔵は赤報隊にくわわったあと戊辰戦争に参加、功績があった。維新となり恩賞を期待したが、政府としては俠客を官につけるわけにもいかず、俠客時代の悪事を並べ立てて首を落としてしまった。赤報隊にいたのが政府にとって都合が悪かったのかもしれない。

官軍の先乗りとして東山道を進んだ赤報隊に対して官軍はニセ官軍のレッテルを貼って処分してしまった。税金が下がるなどの「公約」を勝手に触れ回ったとか難癖を付けたものだった。この事情は長谷川伸「相楽総三とその同志」に詳しく、長谷川は小説で赤報隊の名誉を回復した。

さて小次郎。3000人の子分を抱える大親分だった。小金井から川崎の方まで縄張りにし、川崎大師もシマにしていたという。お縄をちょうだいした佃の監獄で新門辰五郎と意気投合、義兄弟の契りを結んだ。

流された三宅島で井戸を掘るなど島民のためにつくした。これが縁で小金井市と三宅村は友好都市となっている。小金井市のホームページには「江戸時代の大俠客、小金井小次郎は遠島先の三宅島で島民のために尽くし、後世まで人びとに慕われ、小金井と三宅島が友好都市を作るきっかけとなった人物です」と紹介されている。昭和44年に小金井から桜を、51年にガクアジサイが三宅島から贈られ、53年に友好都市となった。

最後の将軍慶喜にかわいがられた新門は、謹慎した慶喜に従って水戸に向かった。「新門辰五郎は、この一行につかず離れず、勘定方からひそかに命ぜられた金二万両を子分に護らせて、水戸までお供をする。さすがの侠骨もこの道中は目を真赤にしてついて行った」(戊辰物語)。

戊辰の戦いは遠く三宅島にも伝えられた。小次郎の徳を慕う島民は、彼の指揮のもと江戸に入り、官軍と戦うことを望んだという。しかし、果たせず、小次郎が恩赦で江戸に戻ったときには既に時勢は一変していた。

2010年4月 1日 (木)

野川沿いを歩いて俠客の墓へ①

野川公園に隣接する武藏野公園を歩く。府中運転免許試験場の北側だ。バカ陽気というほどでもないが、セーターを着て薄手のジャケットを羽織っていると汗ばむ。セーターを脱ぐとしまい場所がないので我慢して腕まくりでしのぐ。ペットボトルのお茶がうまい。

野川が流れ、北側はハケ、国分寺崖線で急斜面なので宅地化されずに緑が残っている。草の上に腰を下ろし崖の緑を楽しむだけでもいい。四方は緑に囲まれ、車の音も聞こえない。あちこちの湧き水を集めて流れる野川も、ここいらは濁りがなく澄んでいる。
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(墓地の中でもひときわ高い小次郎の追悼碑)

野川沿いは遊歩道になっているので、上流へとのんびりと歩く。野川の源流の一つが東京経済大学の中にあるし、国分寺の日立中央研究所が源だ。滄浪泉園、貫井神社、殿ヶ谷戸庭園など湧水を利用した庭園や神社など見所も多い。家々も日当りがいいから思い思いの花や木を植えている。

とりあえずJR武蔵小金井駅近くの小金井小次郎の墓を目指す。我が家の先祖は武蔵野市吉祥寺の月窓寺に眠っている。吉祥寺北口の商店街を抜けた伊勢丹の真ん前にある寺だ。伊勢丹は閉店、ショッピングモールに生まれ変わるらしいが、デパートも時代のニーズとはかけ離れてしまったのだろう。墓参りに行くとオヤジが小金井小次郎の墓がすぐ近くにあると、なぜか自慢していた。

やくざの墓と近所付き合いでも自慢にゃならないと思うが、とにかく有名人ならいいんだろう。「ふーん」と、から返事をするだけでどれが大親分の墓なのかは未だに確認していない。

それだけの縁なのだが、観光ガイドを見ると、小金井小次郎の墓は、吉祥寺ではなく小金井にある。野川の北側の西念寺の南側だ。墓に参って小金井街道を北に行けば武藏小金井の駅だ。帰るのにも都合がいい。

広さ100坪ほどの墓地につくと、すぐに小次郎の墓は分かった。ひときわ高い碑がそびえている。3メートルはあろうか。普通の墓石は台座を含めても、その半分くらいだから、いやでも目につく。

「小金井小次郎君追悼碑」とあった。山岡鉄舟の筆になる。明治35年4月に建てたとあった。小次郎がなくなったのは明治14年。

大きな碑の横には「関家」の墓碑銘も刻まれた碑があり、小次郎の名もあった。戒名は「大雄院致精允徳居士」、俗名小次郎 明治14年6月10日没 行年65歳とあった。

確かに小次郎の墓だ。じゃあ、オヤジは何を言っていたのだろう。

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