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2010年3月30日 (火)

明治のえん罪事件ⅱ

世紀のえん罪事件になぜ、藩閥が絡むのか。

西郷・大久保を失った薩閥は一挙に落ち目になった。これに対して長州閥は日の出の勢い。偽札犯とされた藤田伝三郎は、長州派のチャンピオンだった。長州派と組んで儲け放題にもうけていた。

これに対して警視局は言わずと知れた薩摩閥。陸軍中将兼参議北海道開拓使長官の黒田清隆の夫人斬殺事件をもみ消してしまう力を持っていた。当時の警官の言葉は、ことごとく薩摩なまり。「オイ、コラ」なんてのがそうです。警視庁では、薩摩の言葉を使わないと肩身が狭いと言われたくらいだ。一時は全国の警察が薩摩出身者という有様で、当時の言い方に「芋づるを日本国中にはりまわした」というのがあった。

警視局のトップは、黒田事件を闇から闇に葬った川路利良大警視。かねてから藤田組が目障りだった。藤田組の不正を暴けば長州派にダメージを与えられると、藤田組に探りを入れていた。

そこへ有力情報が飛び込んできた。もと藤田組にいた男が「偽札作りの真相を知っている」とあらわれ、「真相」を書いた書類を差し出したのだ。それは、偽札は藤田が井上馨と謀ったもので、井上が欧州滞在中に仏独で贋造、日本に送った。自分は舶来の箱の中にあるのを見たというものだった。

証拠はそれだけだった。見たという証言だけ。当然、裏付けも何も取れない。しかも、証言した男は、使い込みをして藤田組をクビになっていた。しかし、そんなことはおかまいなし。安藤捜査主任は強引に捜査を進め、川路大警視の意向に添う状況証拠を山ほど集めてきた。

警視局は藤田説でまっしぐらだったが、冷静な検事が立ち会うと、とても証拠と呼べるものは出てこない。結局、でっち上げと判明した。

藤田ら一同は無罪放免、安藤捜査主任は、進退伺いを出して辞職した。

安藤警視は、どうして突っ走ったのか.一つには彼の能力による。「鼻柱は強いが、頭は単純で一度こう思い込んだ以上は思い返すことのできぬ性分」(尾佐竹猛「明治秘史 疑獄難獄」)。明治4年の広沢真臣参議暗殺事件のときも、無実の容疑者ばかり責めつけて、迷宮入りにした前歴の持ち主だった。

安藤にとっては名誉挽回のチャンスだった。功を焦った。思い込んだら命がけ。都合のいい事実だけを積み重ねた。

長州の仕業に違いない、いや長州なら権力争いに好都合だという警視局の思惑も拍車をかけた。恐ろしいことだ。思い込み、決めつけ、ご都合主義、明治のこととばかりはいえまい。いや、これは財界の有力者だったからデッチアゲが暴露されたが、名もない人だったら無実を叫んでも誰も取り上げてくれないケースだってあるだろう。

以上は「日本の百年2 わきたつ民論」(ちくま学芸文庫)に由りました。このシリーズ、全10巻だけどさまざまな史料から明治以来の歴史を叙述、教科書には出てこない時代相が映し出されてとっても面白い。何より、時代の空気が伝わってくるので、生き生きした歴史になっている。

後日談。しかし世間は納得しなかった。政府の長州派が手を回してもみ消したに違いないとささやきあった。真犯人は3年後に捕まった。神奈川県愛甲郡に住む医者兼画工だった。これでも世間の口は収まらなかった。犯人の名前が熊坂長庵。こんな芝居がかった名前なのは、これこそ偽造に違いない、とーー。

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