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2010年3月15日 (月)

武藏熊野神社古墳Ⅱ

熊野神社古墳の埋葬者はどんな人物なのだろうか。最新文化を取り入れることのできる在地の有力者は、どこからやって来たのか。「消えた弥生文化」の項(ご面倒をかけますが6回続きです。カテゴリーの府中にあります)で書いたように、多摩地方からは弥生遺跡がほとんど出てこない。縄文遺跡はたくさんあるのに弥生遺跡は数えるほどだ。縄文人はどこへ行ってしまったのか。では、古墳をつくった人たちはどこから来たのか。山の方から下りて来たのか。東国に移された渡来人の子孫が移り住んだのか。それとも文化を携えて西の方からやって来たのか。

いぜれにせよ熊野神社古墳の被葬者は飛鳥文化と密接な関係にあった。大和朝廷と関係を結びながら、府中の西の方を支配していたのか。

Cimg0063

もう一つ上円下方墳と見られる古墳が発掘されている。三鷹市の天文台構内にある古墳だ。こちらは一回り小さくて下段の一辺が約30メートル。つくられたのは同じ7世紀の中頃から後半頃。これも「多摩のあゆみ」第137号の「三鷹市・天文台構内古墳の〈かたち〉」(高麗正・三鷹市教育委員会)に詳しい。こちらも先進文化を取り入れることが可能な在地の有力首長の墓だろう。

7世紀の中頃、多摩の多摩川流域には地域ごとに首長が君臨していたようだ。クニなのか、ムラなのか。「魏志倭人伝」のようなクニの状態と考えてもいいのではないか。ただし大和朝廷とは活発な交流があったと見られる。

これらの古墳を最後に多摩地方は激動期を迎える。東山道武藏路が設置され、その東側には多磨寺が造営された。8世紀に入るとすぐに武藏国府が府中に置かれた。平城京遷都(710年)の頃だ。741年には国分寺造立の詔が発せられ、武蔵国分寺もつくられた。

つまりこういうことです。7世紀までは在地の有力者が分立していたが8世紀になると大和朝廷に支配された。言い換えれば大和朝廷の勢力範囲がここまで及んだ。戦争があった形跡はない。半島経由の先進文化がほしくて自発的に従ったのか。

武藏国府は今の大国魂神社のあたりに置かれた。道を隔てたすぐ東側に武藏国衙が再現されている。気になるのは、在地の有力者がいた熊野神社とは、ちょっと距離が離れていること。南武線の駅にすると、西府、分倍河原、府中本町と2駅になる。

武藏国造の地位をめぐって争いがあった。「日本書紀」安閑紀が記しているもので事実かどうかは不明だが、なんらかの動きを伝えているものと思われる。争ったのは笠原直使主と同族の小杵(おき)。笠原直が北武藏の首長、小杵は南武蔵の首長といわれている。結局、北の笠原直が勝ち、橘花、多氷などを屯倉として大和朝廷に献上したという。

Cimg0065

(熊野神社)

南武蔵の、後の多磨郡などが北の勢力によって献上されてしまったのだ。時期については諸説あるが5世紀後半から6世紀初めのことのようだ。このころ5世紀後半には、北武藏の行田に埼玉古墳群が出現している。あれだけの古墳をつくるのだから相当に強力な力を持っていた。支配地域も南武蔵の首長たちとは比べ物にならなかった。

こうした流れの中でも多摩地方の首長たちは勢力を保っていたが、8世紀にはついに大和朝廷に従うことになった。そのために勢力圏から外れたところに武藏国府は置かれた。

熊野神社古墳で地図を開いて、さて次はどちらに向かおうと考えていたら面白いことに気がついた。ほぼ、真南に行くと小野神社があるのだ。多摩川の向かい側の多摩市にもあるが、府中にも小野神社がある。延喜式の式内社で由緒のある神社だ。さいたま市の人は「そんなバカな。氷川神社に決まってるだろ」とお怒りでしょうが、武藏一の宮なんです。

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