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2010年3月20日 (土)

武藏一の宮・小野神社⑵

小野神社は多摩川のこっちとあちらに2つある。どちらも式内社だ。延喜式に定められた神社だから平安時代には存在していた。まことに古い。延喜式は延喜5(905)年、醍醐天皇の命により編纂され、全国の神社が記載されている。多摩では8座だけだ。そのうちの1座なのだから多摩でも比較的に栄えていた地域に祀られていたことになる。祀る人がいなければ祀られるものも存在しない。祀るものを定めるリーダーが、その地域を差配する。小野神社周辺は多摩でも重要なポイントだったに違いない。なにしろ、たった8社しかないんだから。

こっち、府中の小野神社には、遠慮がちに石の標が建てられている。それには「延喜式内 郷社 小野神社 多磨郡八座内(大正4年11月7日 沢井治助建之)」とあり、ようやく古式を誇っていた。

「江戸名所図絵」などにも描かれており、社域はもっと広かったが、その面影はない。他の本にも登場しているので、江戸時代まではこちらが一の宮の本家だったようだ。

現在の地名は府中市四谷になっているが、多摩市の小野神社に対してこちらは本宿の小野神社と呼ばれている。この辺りは明治22年に四谷、本宿、中河原が合併して西府村になった。府中の西だから西府はいい。本宿が気になる。いつから本宿と呼んでいるのだろうか。大国魂神社そばの宿は、本町、番場、新宿と3つの問屋場があるが、これは甲州街道の開設に伴って設けられたもので江戸時代のことだ。西府村の真ん中は鎌倉街道が突っ切っている。小野路から来るには、こちらの方が理にかなっている。町田市の小野路にも小野神社がある。関係はあるのだろうか。

熊野神社古墳といい、西府の方が先に中心だったのかもしれない。そういえば谷保天満宮の発祥の地も西府駅の南西だ。距離的には至近だ。谷保天満宮は洪水のために少し西に移り、崖の上の高台に遷座したので、現在は に鎮座する。小野神社にも遷座説がある。古代の多摩川は現在の流れよりも西府駅に近い所を流れていた。今、小野神社のある所は、河原だったと言ってもいい。水が出たらひとたまりもないだろう。

多摩市の小野神社は多摩川を渡った対岸にある。京王線聖蹟桜ヶ丘駅から歩いて10分くらいの多摩川べりだ。本宿の小野神社からブラブラ歩いてもいい。鎌倉街道を行って関戸橋で多摩川を渡ったら右に曲がればいい。こちらの方が広い。地名も多摩市一の宮。「延喜式内一宮小野神社」の標柱が鳥居のわきにある。きちんと主張している。

どうも明治以降はこちらが式内社と認識されているようだ。なにか価値の転換があったのか。薩長政府が口出しをしたのか。

本宿の小野神社は、大国魂神社に近すぎる。国府に隣接した大国魂神社が六所宮として武藏の6社をまとめた形になると小野神社は自然と、その中の1社に位置づけられる。府中あたりでは古来から祀られているということが知られていたから一の宮として敬意を払った。しかし、大国魂神社に頼朝など武家の加護が集まるにつれ地域の人たちだけが祀るようになり郷社になっていったのかもしれない。

多摩市の小野神社からは百草園はすぐだ。その1駅先が高幡不動。私鉄の駅だから距離はそんなに離れていない。川崎街道を行かないで南手の坂に迷い込んで多摩丘陵を歩くのもちょっとしたハイキング気分になれる。

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