フォト
無料ブログはココログ

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月の記事

2010年3月30日 (火)

明治のえん罪事件ⅱ

世紀のえん罪事件になぜ、藩閥が絡むのか。

西郷・大久保を失った薩閥は一挙に落ち目になった。これに対して長州閥は日の出の勢い。偽札犯とされた藤田伝三郎は、長州派のチャンピオンだった。長州派と組んで儲け放題にもうけていた。

これに対して警視局は言わずと知れた薩摩閥。陸軍中将兼参議北海道開拓使長官の黒田清隆の夫人斬殺事件をもみ消してしまう力を持っていた。当時の警官の言葉は、ことごとく薩摩なまり。「オイ、コラ」なんてのがそうです。警視庁では、薩摩の言葉を使わないと肩身が狭いと言われたくらいだ。一時は全国の警察が薩摩出身者という有様で、当時の言い方に「芋づるを日本国中にはりまわした」というのがあった。

警視局のトップは、黒田事件を闇から闇に葬った川路利良大警視。かねてから藤田組が目障りだった。藤田組の不正を暴けば長州派にダメージを与えられると、藤田組に探りを入れていた。

そこへ有力情報が飛び込んできた。もと藤田組にいた男が「偽札作りの真相を知っている」とあらわれ、「真相」を書いた書類を差し出したのだ。それは、偽札は藤田が井上馨と謀ったもので、井上が欧州滞在中に仏独で贋造、日本に送った。自分は舶来の箱の中にあるのを見たというものだった。

証拠はそれだけだった。見たという証言だけ。当然、裏付けも何も取れない。しかも、証言した男は、使い込みをして藤田組をクビになっていた。しかし、そんなことはおかまいなし。安藤捜査主任は強引に捜査を進め、川路大警視の意向に添う状況証拠を山ほど集めてきた。

警視局は藤田説でまっしぐらだったが、冷静な検事が立ち会うと、とても証拠と呼べるものは出てこない。結局、でっち上げと判明した。

藤田ら一同は無罪放免、安藤捜査主任は、進退伺いを出して辞職した。

安藤警視は、どうして突っ走ったのか.一つには彼の能力による。「鼻柱は強いが、頭は単純で一度こう思い込んだ以上は思い返すことのできぬ性分」(尾佐竹猛「明治秘史 疑獄難獄」)。明治4年の広沢真臣参議暗殺事件のときも、無実の容疑者ばかり責めつけて、迷宮入りにした前歴の持ち主だった。

安藤にとっては名誉挽回のチャンスだった。功を焦った。思い込んだら命がけ。都合のいい事実だけを積み重ねた。

長州の仕業に違いない、いや長州なら権力争いに好都合だという警視局の思惑も拍車をかけた。恐ろしいことだ。思い込み、決めつけ、ご都合主義、明治のこととばかりはいえまい。いや、これは財界の有力者だったからデッチアゲが暴露されたが、名もない人だったら無実を叫んでも誰も取り上げてくれないケースだってあるだろう。

以上は「日本の百年2 わきたつ民論」(ちくま学芸文庫)に由りました。このシリーズ、全10巻だけどさまざまな史料から明治以来の歴史を叙述、教科書には出てこない時代相が映し出されてとっても面白い。何より、時代の空気が伝わってくるので、生き生きした歴史になっている。

後日談。しかし世間は納得しなかった。政府の長州派が手を回してもみ消したに違いないとささやきあった。真犯人は3年後に捕まった。神奈川県愛甲郡に住む医者兼画工だった。これでも世間の口は収まらなかった。犯人の名前が熊坂長庵。こんな芝居がかった名前なのは、これこそ偽造に違いない、とーー。

2010年3月29日 (月)

明治のえん罪事件ⅰ

足利事件は菅家さんのえん罪が晴らされたが、いつの世にもえん罪を生む土壌はあるもので、明治の時代は人権など斟酌されないから、もっとひどかっただろう。これは偽札事件をめぐるえん罪、というよりも警察による完全なでっち上げ。これに類する捜査は日常的に行われていたのだろう。かなり強引なでっち上げで、明治の昔だとばかりは言えない面もあるので紹介する。

事件が起きたのは明治11年12月のこと。京都、大阪、岡山、鹿児島などで取り立てた税金の中から偽札が発見された。精巧なできばえの2円札で、表に描かれたトンボの絵の足が一本足りないだけだった。

明治11年と言えば、5月には内務卿の大久保利通が暗殺され、11月には近衛兵が騒動を起こした竹橋事件が起きるなど、とかく物騒な事件に明け暮れていたから偽札事件は不安な世情に拍車をかけた。
(えん罪には関係ない余談だけど、竹橋事件の首謀者53人は、深川越中島の刑場に運ばれ処刑された。何かと関係が深いんですね)。

でっち上げの主人公は警視局(今の警視庁)の捜査主任安藤・中警視。警視局は全国に探偵を放ち、安藤も部下を督励して犯人を突き止めた。なんと、恐るべきことに大阪財界の大立て者だった、と確信した安藤は警視局の警官100人を大阪に送り込んだ。大阪の警官ではなしに東京から派遣している所になみなみならぬ決意がうかがわれる。自信満々だったのだろう。

こうして翌明治12年9月15日未明、警官たちが藤田組の社長藤田伝三郎の邸に踏み込んだ。藤田が縄付きで出てくる姿を一目見ようと自宅前は黒山の人だかり。野次馬は、藤田が豪華な生活から転落するさまを確かめて、うっぷんを晴らすのを期待したのだ。

藤田組は西南戦争で要路と結託してぼろ儲けをした戦争成金。庶民からは、やっかみ半分で見られていた。藤田組の番頭も逮捕され、本支店や関係銀行まで家宅捜索されたが、偽札は1枚も出てこなかった。それでも藤田らは東京に護送され、厳しい取り調べを受けた。

その結果、出てくる出てくる、藤田組の不正行為が次々に暴露された。戦争中の不正取引、役人への賄賂の控え帳、大阪府知事が藤田邸で行った博打…。民衆の怒りはピークに達した。きっと民衆の間では偽札犯と決めつけていたんでしょう。今で言う劇場型犯罪の趣になった。

この騒ぎに、財界も動揺したため大阪財界の大立て者五代友厚が立ち上がった。五代は大阪財界人を招いて「天下の疑惑を解く」と題する演説を行い、藤田のえん罪を訴えた。事実、不正行為は出てきたが偽札に関しては、どう調べても藤田はシロだった。

安藤捜査主任は、どうして藤田をクロと決めつけたのか、それは薩摩と長州の藩閥争いが背景にあった。
(次回に続く)

2010年3月28日 (日)

明治の言葉「勇みの者」「女湯の刀架け」など(D)

性懲りもなく「戊辰物語」の用語勉強、続けます。

▽新場        「その時分は新場の方にも立派な魚がしがありやしてな、何かにつけてもう毎日のように出入り(喧嘩)がありやした」(魚河岸「樋長」、飯田徳太郎翁(八十一歳)談)。どこだろう。「江戸日本橋の魚河岸に対して、延宝〈1673〜1681〉年間に開設された材木町の新魚市場。主として伊豆・相模辺の魚介を集荷した」(広辞苑)。材木町は今の神田岩本町。


▽じんじんばしょり  「揃いの浴衣はいいが私は博多の帯が惜しいのでこれを背負い込み、襟巻きをさいて帯代わり、白たびに麻うら草履、白いこうもりをさし、他の三人は菅の三度笠をかぶってじんじんばしょり」(宝井馬琴談)。浴衣のはしょりかたで、ヂヂイバシオリ(爺端折)の転訛だそうです。「背縫いの裾から七〜八寸上をつまんで、帯の結び目の下に挟むこと」(広辞苑)。


▽ぶっちゃき羽織   「委員は筒袖のぶっちゃき羽織に、たっつけ袴をはいていたが、ひどく丁寧で、少しも威張るような調子はなかったと、原翁が話している」。奉行所の引き渡し式にやってきた官軍の服装。手元の辞書にはなし。たっつけは、筒太く、裾口は狭い。袴のように仕立てて、江戸時代には旅装として用いた。


▽粉本        「その頃の師匠と言えば手本を書いてくれるだけで、弟子はそれを一生懸命に模写したものです。自慢らしいが私なぞは直ぐお手本位は書けましたよ。今から考えると私がうまかったのではなくて先生の方が下手だったんですね」とは川合玉堂画伯。

で、師匠はどのように手本を描いていたのか。「ところがどうです。その書いている絵の下には粉本(ふんぽん)が置かれているじゃありませんか。先生は粉本の引き写しをやっていたのです」。その先生とは京都一流の大家、望月玉泉だという。「粉本」は、模写された絵画。昔は胡粉で下絵を描き、後に墨でかいたからいう。

▽鉢金        「いまの湯島切り通しの岩崎男邸は、徳川の四天王榊原の屋敷だったが、あの屋敷から一部の者が脱走して腹巻、鉢金の姿で源氏車の旗を立てて、上野の山へ馳せ込んで奮戦した『榊原の奮戦々々』として、その後、大評判であった」。彰義隊の戦いのあるエピソード。

「鉢金」は、かぶとの鉢の形をしたもの。「源氏車」は牛車の車輪にかたどった紋所や模様、榊原家の紋。こんなことは説明しなくても常識だったんですね。


てなわけで「戊辰物語」はさまざまな人がそれぞれの維新を語ってます。天野八郎を軸にした彰義隊、新撰組、新門辰五郎らの親分衆、廃仏毀釈で葬式もなくてお手上げの僧侶など、脇道の話が実に興味深い。国語のお勉強はひとまずここまで。

2010年3月27日 (土)

明治の言葉「勇みの者」「女湯の刀架け」など(C)

「戊辰物語」(岩波文庫)に出てくる言葉のおもしろがり、まだ続いてます。(ラジオをつけていたら亀田が負けた。亀田はだめか、つまらない回文)。

これはどうだ。講談の宝井馬琴の若い頃の話です。落語ブームだけど、たまに講談や浪曲もいいものです。時々NHKラジオでやってます。人物紹介に「講釈界の元老で、その修羅場読みは天下一品といわれる人」とある。子どもの頃にも馬琴を聞いているから、こちらは初代か。

さて、馬琴ら若手3人が東京をずらかって旅に出たときの話。藤沢の興行で大当たり。田舎では前代未聞の3銭という高木戸を打った。21日間打ちつづけ大もうけのはずが——。「何しろ二十八の若さ、帯付二十五銭橋手前十五銭という土地名物の女郎に引っかかって一文なし」。

▽帯付二十五銭橋手前十五銭   帯付けを取ると25銭、橋は川を渡るためにあるので、そこまでくるとまた15銭。じらされて、めくるたびに金を取られたということなのか。昔、新宿3丁目にもありました。ヌードをデッサンさせる商売。デッサンだから裸になっても違法ではない。ゲージュツだ。看板には500円とかなっていて、脱ぐたびに金を要求される。裸になるにはかなりの額になるというやつ。男のスケベ心につけ込んだうまい風俗だった。あの路地も都市開発でなくなってしまいました。

しかし、そんなんで大もうけはなくならない。もっと巧妙に長期間にわたって鼻の下を伸ばさせたのか。見当がつきません。


▽衣は骭(かん)に至る  「書生時代の十五、六。そのころおしなべて衣は骭に至るなりふりもきき飽きた話、米がいくらで下宿料が若干、西郷どんが崇敬されて朴歯の下駄やらさつま絣、そんな話はドモいけん…」(上原元帥談)。

骭は、はぎ、すねのこと。骭がすねまでなのだから短い。しかし、まだピンと来ない。広辞苑に出てました。衣を引くと、衣は骭に至り袖腕に至る、という使い方がある。頼山陽の「前兵児謡」にある句で、「ゆきたけの短い着物を着、脛と腕とをあらわしだす。武骨なさまにいう」。上原元帥は些末な日常や、形だけのはやりに閉口したようだ。

こんなことも言っている。「ただ一口にいえば昔はなたを作ろうという気持ちで作った。今日は、はさみをつくってなたに用いようとする、ありゃいけへん。ありゃいけへん。なた作りの名人がいまいないわい」。教育のことを言っているんです。同感だ。型にはめては育ちません。多分、文部省で寺脇研もそういう方向を目指して「ゆとり教育」を打ち出したんだと思うが、国民の創造力が怖い勢力と、お受験にやられてしまった。


▽糸びん奴      「女中は佐幕武士の奥様方の仮りの姿、出前持ちは糸びん奴に結ってはいても、みんな相当の武家ばかりだったのです」「西郷隆盛なんかもこの事を知ってひどく同情したといいます」(新橋花月、平岡得甫老談)。戦わずに負けてしまったのだからしようがないが、あれほど威張っていたのに町人姿に身をやつし、プライドもずたずた。「元禄頃流行した髪型。頂を広く剃り下げ、鬢を細く狭く残したもの。奴・俠客などが結った」(岩波古語辞典)。


▽十字屋       東京・銀座の楽器店「十字屋」の成り立ちを幕末町方与力の原胤昭翁が語る。「私と旧大垣藩士の戸田欽堂という者とで、明治八、九年の頃キリスト教の本屋を始めたのが今の銀座三丁目楽器店十字屋の成り立ちです。…私はこの仕事と一緒に三十間堀の河岸通りに原女学校という日本最初のキリスト女学校を建てて生徒を養った。この学校の学僕をしていたのが先代の十字屋の主人倉田繁太郎で、後に私たちはこの人に店を譲り、戸田が紙風琴というものを考えて売らせたのがあすこが楽器店になる始まりです」。なるほどキリスト教の本屋だったので十字屋、納得。

こんなエピソードもある。福島事件の河野広中らが獄に入ったときに「天福六家撰」という錦絵を出し、これが発売禁止に。政府転覆を天福ともじったのが引っかかった。でも原翁はくじけない。「発売なら悪かろうが無料なら良いんだろうと盾をついて、…禁止の絵を通行人にくれてやる」。そのためにますます睨まれて罰金30円禁錮3カ月で石川島の監獄に。えらい!    

2010年3月26日 (金)

明治の言葉「勇みの者」「女湯の刀架け」など(B)

「戊辰物語」(岩波文庫)で使われた明治の言葉、事柄の続き。岩波書店のHPを見たら、残部僅少となってました。まだ絶版ではないのだ。興味のある方はどうぞ。

▽都都逸とめりやす 「都都逸とめりやすの区別がわからんような武辺者の伊藤公らの遊びは多く吉原であった」。織物と都々逸がどうして比較されるのか。あっ、伊藤公は伊藤博文のこと。吉原へ繰り出しているようでは粋じゃないんです。山内容堂は依然として大名遊びをやっていたとあるので、遊び方が異なっているようだ。

「めりやす」は岩波古語辞典では「歌舞伎音楽の一。長唄と小唄の中間の長さで、三下り調の寂しい陰気な曲」。こりゃ吉原でうなるもんではない。ちなみにカタカナの「メリヤス」は、こちらも死語に近そうだが、「綿糸・毛糸などをループ状の編み目の集合により、よく伸縮するように編んだもの」(広辞苑)で、スペイン語のmediasからきたようだ。「めりやす」も「メリヤス」のようによく伸び縮みすることから由来するという説もある。


▽冷やめし草履   神田橋に住んでいた西郷隆盛を見かけた金子堅太郎枢密顧問官の話に「木綿の黒い羽織を着て刀を差し小倉のような木綿袴をはいて、しかも冷やめし草履を引ッかけておる。顔かたちは上野の銅像そっくりの印象が残っておる」。高級じゃないことは伝わるがそれ以上は不明。「藁緒の粗末な藁草履」と広辞苑。うまいこと言うもんです。


▽大阪格子    「私は十八位から、いわば天狗連で色物席を練り歩いたんですが、そのころの席亭というのが先ず薬湯のような構えつき、大阪格子に板のような生半紙を張って、客は小さなくぐりを入る」「落語家は普通は双子の縞の着物で席へ出た。これを唐桟(とうざん)に見せようてんで生地の中に槌でよく打ってもらって仕立てさせる、なかなか意気だった」。これらは三代目柳家小さんの話から。

雰囲気はつかめるが、分からないことだらけ。「天狗連」は、自らその道の達人とうぬぼれている連中。「薬湯のような構え」は普通の湯屋とどう異なるのか。「大阪格子」も具体的にはつかめない。「生半紙」は、混ぜ物のない純粋の和紙の半紙。読みは「きばんし」。「唐桟」は、細番の諸撚り綿糸で平織りにした雅趣ある縞織物。オランダ人によってもたらされたので舶来を意味する「唐」になっている。


▽姓名はお預かり 「震災で死んだ府会議員の小川作次郎さんもこの馬車ひきあがり、そのほか現存している有名な人もあるが姓名はお預かりだ」。名前は内緒ー—だと聞きたくなるが、こういわれると入り込む隙がなく、しかも角が立たずにスーっと丸く収まる。粋だね。見習いたいもんだ。


▽突きあげ戸   「仲見世の賑わいは今も昔も変りはないが、そのころは突きあげ戸を使ってその下に店を出していた。その間に混じって花屋、すみ屋、万年屋などいうおでん屋があって『お寄んなさい。おでんが焼けてます」。「突上窓」が岩波古語辞典にあって「窓の戸を棒などで突き上げてひらくようにしたもの」。そうか、棒を立ててつっかい棒にして戸を開き、その下に商品を並べているんだ。おでんは煮えてるではなく焼けてるなんだ。


▽さしこ     「お酉さんのお祭りは盛んなもので、江戸の職人たちはこの日初めて紺のさしこを着て、大勢そろって繰り込んだ」。着物の知識はゼロなので皆目見当がつかない。例によって岩波。「《指貫(さしぬき)の小袴の意》無地の平絹で作った、指貫のような形の短い袴」と出ていた。

辞書と首っ引きなのでいささか疲れました。こんなに辞書を引いたのは高校時代以来。45年も前のこと。でも、辞書って便利ですね。知らないことがたくさん書いてある。あらためてそう思いました。

続きはまた今度。まだ続けるのかなんていわないでください。年寄りの勉強です。

2010年3月25日 (木)

明治の言葉「勇みの者」「女湯の刀架け」など(A)

雨と寒さで散歩もままならないので図書館へ。似た境遇の定年オヤジに混じって新聞など読み、検索機械で入力したら「戊辰物語」(岩波文庫)があったので、地下の書庫から持ってきてもらって借りる。

戊辰戦争から60年目の次の戊辰にあたる昭和3年(1928)東京日日新聞の正月企画だ。古老からの聞き書きで、維新の動乱が江戸の町に生きていた人たちの目線で語られる。取材陣(執筆者)の中には子母沢寛も加わっていて、同じ昭和3年に出世作となる「新選組始末記」を出版している。前にもこのブログで書いたが「新選組始末記」も小説ではなく古老からの聞き書きで新選組の顛末を綴ったものだ。

「戊辰物語」には、大正15年の連載「五十年前」と新たに取材、執筆された「維新前後」が加えられて同じ年に出版されている。評判になったのだろう。「維新前後」には「新撰組」の項もあり、これは子母沢が執筆しているのか。

聞き書きだから当然、維新の全体をとらえたものではない。しかし、その断片が公式の歴史では語られない、町人たちの率直な見方になっている。

たとえば将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、さっさと江戸に戻ってくる。
「町人などは喜んで、八文の湯銭で朝風呂のざくろ口をくぐると、世間話に花を咲かせ、のうのう暮していた。さすがは将軍様、米がどかりと落ちたなどは、御威勢はえらいものだと感心した」。
将軍が帰ってくると100俵420両だった米が350両に下がったというのだ。

談話者の彫刻家高村光雲はこう話している。「京都の戦争の噂などもそろそろ伝わったがのんきなもので、ざくろ口の中が湯気で、もうもうしているから、風呂を出ても寒くない。いつまでも清元なんかをやっている。夜はざくろ口の外に魚のあぶらのかんてらが一つ、今考えると真暗な訳だが、それでいて、どこのおじさんが来てるというような事がわかって話し合ったものだ」。

そんなもんなんでしょう。戦争だって直接に見聞きしてなければ、よそのこと。火の粉が降り掛からなきゃ、行動には結びつかない。21世紀の今は情報が伝わりすぎて、それがバカなマスコミによってヒステリックに増幅されるから過敏になりすぎる側面もある。危機だ、危機だと騒ぎ立てるからそわそわして落ち着かない。Let it beでありたいね。

岩波文庫版では現代仮名遣いに改め、難しい漢字は仮名にし、ふりがなを振ってあるが、当時の話し言葉で語られているので、わからない単語や今では使わない言葉が出てくる。これがスパッと言い当てていていいんです。明治の初期には「因循」が流行語になりました。態度がはっきりしないことを言ったものです。もう使われないけど雰囲気は伝わる。そんな言葉や事柄を「戊辰物語」から拾ってみました。

まず「勇み」。「江戸名物浮世風呂、日の出と共にわいた。勇みの者や職人などは、何をさておいても起き抜けには湯へ行った」「気ッぷがいいので自然勇みの仲間へ入った」と使われている。今で言う「やんちゃ」に近いが、やんちゃの仲間とは言わない。岩波古語辞典にちゃんと出てきます。「任侠の気概に富み、言動の威勢がよいこと。また、そのような人。男伊達。勇み肌」。昔の侠の雰囲気が出ている。だけど今のやくざは勇みとは呼べない。素人に手を出して、なけなしの金をくすねているようじゃ男が廃る。

勇みの仲間に入ったのは、人入れ稼業の元締め、相模屋政五郎。「政五郎は世にいう『相政』、娘お貞を例の俳優『脱疽の田之助』へくれた俠客である」と説明があるが「例の」を知らないのでは話にならない。相政は土佐の山内容堂お出入りでもあり、容堂が死んだときにはがっかりして通夜のときに殉死しよとしたが板垣退助に助けられたという。

「女湯の刀架け」。「朝湯は女湯の方が奇麗なので、そっと誤摩化してこれへ入る算段ばかりした」。「ただ、八丁堀与力同心組屋敷は、同心なんかは女がいなければ平気でここへ入ったもので、七不思議の
一つに『女湯の刀架け』というのがあった」。

江戸時代はたびたび混浴禁止令が出されているから、そんなに気にしなかったんでしょう。風紀紊乱はつねにお上の発想。下々はおおらかなものだった。
                      (続く)

2010年3月20日 (土)

武藏一の宮・小野神社⑵

小野神社は多摩川のこっちとあちらに2つある。どちらも式内社だ。延喜式に定められた神社だから平安時代には存在していた。まことに古い。延喜式は延喜5(905)年、醍醐天皇の命により編纂され、全国の神社が記載されている。多摩では8座だけだ。そのうちの1座なのだから多摩でも比較的に栄えていた地域に祀られていたことになる。祀る人がいなければ祀られるものも存在しない。祀るものを定めるリーダーが、その地域を差配する。小野神社周辺は多摩でも重要なポイントだったに違いない。なにしろ、たった8社しかないんだから。

こっち、府中の小野神社には、遠慮がちに石の標が建てられている。それには「延喜式内 郷社 小野神社 多磨郡八座内(大正4年11月7日 沢井治助建之)」とあり、ようやく古式を誇っていた。

「江戸名所図絵」などにも描かれており、社域はもっと広かったが、その面影はない。他の本にも登場しているので、江戸時代まではこちらが一の宮の本家だったようだ。

現在の地名は府中市四谷になっているが、多摩市の小野神社に対してこちらは本宿の小野神社と呼ばれている。この辺りは明治22年に四谷、本宿、中河原が合併して西府村になった。府中の西だから西府はいい。本宿が気になる。いつから本宿と呼んでいるのだろうか。大国魂神社そばの宿は、本町、番場、新宿と3つの問屋場があるが、これは甲州街道の開設に伴って設けられたもので江戸時代のことだ。西府村の真ん中は鎌倉街道が突っ切っている。小野路から来るには、こちらの方が理にかなっている。町田市の小野路にも小野神社がある。関係はあるのだろうか。

熊野神社古墳といい、西府の方が先に中心だったのかもしれない。そういえば谷保天満宮の発祥の地も西府駅の南西だ。距離的には至近だ。谷保天満宮は洪水のために少し西に移り、崖の上の高台に遷座したので、現在は に鎮座する。小野神社にも遷座説がある。古代の多摩川は現在の流れよりも西府駅に近い所を流れていた。今、小野神社のある所は、河原だったと言ってもいい。水が出たらひとたまりもないだろう。

多摩市の小野神社は多摩川を渡った対岸にある。京王線聖蹟桜ヶ丘駅から歩いて10分くらいの多摩川べりだ。本宿の小野神社からブラブラ歩いてもいい。鎌倉街道を行って関戸橋で多摩川を渡ったら右に曲がればいい。こちらの方が広い。地名も多摩市一の宮。「延喜式内一宮小野神社」の標柱が鳥居のわきにある。きちんと主張している。

どうも明治以降はこちらが式内社と認識されているようだ。なにか価値の転換があったのか。薩長政府が口出しをしたのか。

本宿の小野神社は、大国魂神社に近すぎる。国府に隣接した大国魂神社が六所宮として武藏の6社をまとめた形になると小野神社は自然と、その中の1社に位置づけられる。府中あたりでは古来から祀られているということが知られていたから一の宮として敬意を払った。しかし、大国魂神社に頼朝など武家の加護が集まるにつれ地域の人たちだけが祀るようになり郷社になっていったのかもしれない。

多摩市の小野神社からは百草園はすぐだ。その1駅先が高幡不動。私鉄の駅だから距離はそんなに離れていない。川崎街道を行かないで南手の坂に迷い込んで多摩丘陵を歩くのもちょっとしたハイキング気分になれる。

2010年3月19日 (金)

深山含笑花

梅が終わって桜にはまだ早い。今頃はコブシの一人勝ちとばかり思っていた。あちこちの農家の庭にはコブシの大木がそびえていて、白い花が遠くからものぞめる。まっすぐに伸びた幹。枝のすべてに白い花弁がついていて空を向いて春の気配をいっぱいに吸い込んでいるようだ。
Cimg0077_2

例によって自宅から近場の深大寺あたりを徘徊する。農家の防風林は森をなしているし、畑もあちこちにある。いつものように自由広場のベンチに腰掛けて、おっさんたちが紙ヒコーキを飛ばしているのを眺める。いつも数人が集まってゴムを引いて飛ばしている。飛行時間は長くても10秒くらい。特に競っているわけでもなさそうだ。

柵越しに隣のグリーンギャラリーを見ると福寿草が一面に生えている。一身に春を体現しているような黄色い花。濃いめだが黄色が目の奥までしみこんでくるようだ。植物園は有料(大人500円)だが、こちらは無料。福寿草の葉が大分、伸びている。初めは地面から花だけがニョキっと顔を出していたが、いつのまにか葉もそろっている。

その奥に巨木があった。厚い葉が茂り、白い大きな花がいっぱいに咲いている。名札がついていた。「深山含笑花」(中国名)とあった。コブシもあるが、こちらは葉はまだ出ていない。モクレンのようだが少し違う。和名はモクレンとなっていたが、中国の固有種のようだ。


深い山で笑いを含む花。春に咲く感じが出ている。いい名前だ。奥山にもようやく訪れた遅い春、待ちわびた様子が忍ばれる。なんと読むのだろう。「がんしゅうげ」らしい。呉音なので仏教に関係がありそうだ。

ぐるりとめぐると、いろんな花が咲いていた。遅咲きの梅か、早咲きの桜かと近づいたらアンズだった。花びらはサクラそっくり。そういえば今週初めに自転車で杏林大学病院に行ったらアンズ(杏)が数本、入り口に植えられ満開だった。

灌木に小さな黄色い花がついていた。枝の先から直接、花がついていて3輪が重なっている。抑えめの黄色で派手さはないが、数株が一斉に咲いているので華やかだ。ニワウメと書いた札が近くに挿してあったが、幹は梅ではない。花の形も異なるしウメではないだろう。でも、なんの花かは分からない。濃いピンクが目立ったのがサトザクラ。横浜緋桜という種類。カンヒザクラもあった。こちらの方が薄いピンクだ。

Cimg0075_2


ありゃボケも咲いている。こちらは盛りをちょっと過ぎている。

草は、名札と花の位置が微妙に離れているので確認が難しい。紫に近いブルーのナルキッスス(?)の印象が強かった。スズランズイセン、トリトマ(シャグマユリ)など白い花が多い中で個性が強烈だ。西洋の花はやはり違います。

草の名があ合ってるかはまるで自信がありません。「花音痴」です。別の入り口に「今 咲いている植物」の表示があって
     サクラソウ    ヤブツバキ     ヒイラギナンテン   ユキワリイチゲ
     レンランローズ   ニホンズイセン   スノフレーク   
     フクジュソウ    クロッカス  
とあった。そんなに咲いていたかな。見逃したのか。分からないのか。花音痴は悲しいね。勉強しなきゃ。梅とコブシと桜だけじゃないんですね。この年になるまで何をしていたんだろう。貧しいね。

植物園の正面に行ったら見頃の花が写真入りで出ていて、サンシュユ、クリスマスローズも出ていた。

帰りにホームセンターに寄った。さっきの黄色い花の株を売っていた。枝から直接花が出て折り重なっている。同じだ。土佐ミズキ(マンサク科落葉低木)と書いてあった。(花はないけどムクゲも売っていた。あれですよ、あれ。映画「関の弥太っぺ」で印象的に使われる垣根がムクゲ。そのうち、物語の舞台、甲州街道吉野宿にも行きます)。

ハーブのコーナーではようやくバジルが出ていた。去年よりちょっと遅い。でも、寒さにやられたのか葉っぱの先が黒ずんで縮れていた。今売っている苗が売り切れ新しいのが入荷したらベランダに鉢植えしよう。

そういえばいつも庭のキンカンをついばみにきていた鳥が来なくなった。実はおおかた食べ尽くしてしまった。キンカンのついでにアシタバも突っついていた。枯らさないように葉の半分だけを食べていた。賢いものだ。渡り鳥で暖かくなったので北国に帰ったのか。雀やうぐいすよりも大きい鳥。名前が分からない。「鳥音痴」も悲しいし、恥ずかしい。野川公園で時々、野鳥観察会をやっているので勉強に行こうか。


2010年3月18日 (木)

調布と三鷹の深大寺⑴

「調布と三鷹の深大寺⑴」がウエブページだけにアップされていたので、ブログの方にも引っ越しました。ずいぶんと時間が経ちましたが、これが⑴です。


調布市には深大寺元町、深大寺東町、深大寺北町、深大寺南町と深大寺をつけた町名がある。この前、布多天神に行くときに「調布ケ丘」の大きな農家の前を通ったら表札が「深大寺町」になっていた。町名変更したのだろう。三鷹にも深大寺がある。市内の西の方、ICUの北側と、その東側一帯だ。

調布と間違いやすくて郵便配達も大変だ、町名を変えた方がいいーなんて意見が出て隣の井口とあわせて「深井口」はどうだなんて論議がされたらしい。なんて読めばいいのか。ふかいぐちーか。反対運動が起こったのか、地元が由緒のある名前は残すべきかと主張したのか、変な名前にならないで現在に至っている。

三鷹の深大寺の鎮守様である御嶽神社を訪ねた。大晦日だった。神社の前の通りにはしめ縄が張られ、神社もきれいに掃除されていた。大きくはない社だが、木々に囲まれ新年を迎える静寂に包まれていて、厳かな気持ちになった。

神社に案内標識が立っていた。「1716(亨保)のころ、調布“神代村”の深大寺絵堂(えんどう)の井上氏は、新田開発のため、この地に移住した。天文4年までは井上氏2戸であったが、文政のころ白鳥、嶋田、山本、小林各氏が移住して14戸になったという」とあった。天文元年の検地では下畑9町9反、林畑10町9反、野畑11町2反などと関東地方御用係をかねていた大岡越前守に報告したのだという。

急に大岡越前が出てくるのがほほえましい。この御嶽神社は、深大寺の別当多聞院より井上氏が勧請した。別の場所にあり、はじめは権現様として祀られていたが、明治の廃仏毀釈により御嶽神社となった。そして昭和3年、昭和天皇御大典記念に村中の寄付で念願の社が現在地にできたという。「渡来人」の時に書いた多聞院ですな。ははーん、多聞院は坂を上って青渭神社の横を通り過ぎたあたりにあったのかもしれない。(その後、多聞院坂の標識が出ているあたりをしげしげと見ていたら、今は深大寺小学校になっているあたりに多聞院があったと説明があった。明治になって学校を作ったときに多聞院の施設を使ったようだ)

深大寺から来たのでそのまま地区の名前も深大寺にした。将軍吉宗の亨保の改革の新田奨励に乗ったのだ。暴れん坊将軍の財政立て直しの一環で、武蔵野全域で開墾の申し出が殺到したという。しかし、実際には農民は集まらず開発助成金を出すことにした。一軒あたり金2両2分、農具料として一反につき銭624文が支給されることになった。

それはそうだろう。なにしろ水がないから古代から原野のままほっておかれた。玉川上水は1654年に完成しているが、用水で引いてくるのも並大抵ではない。マイマイズ井戸ではなく、つるべ井戸の技術は伝わっていたが、江戸の井戸掘り職人がたった2戸のためには来てくれないだろう。来ても2両ばかしでは手間賃が足りないのではないか。

同時に野崎新田、井口新田、大沢新田の開発も行われているから協力して玉川上水の水を引いたのか。昭和の20年代、深大寺新田の北側、いまの連雀通りには用水が引かれていた。コンクリートで蓋をされてしまったが、武藏野日赤病院の前は歩道が広くなっている。用水だったところだ。用水は右折し、いまの井口コミュニティセンターの前を通って人見街道の方に流れていた。青少年のひろば「なんじゃもんじゃの森」(たき火もできる市の遊び場)の南側にも用水がチョロチョロ流れていた。道路が急に直角に曲がっているのは、用水をそのまま埋め立てたせいだ。

この新田奨励で開墾されたのは、野崎十字路から上連雀塚までの西側。ちょうど、この地区に水を通している。武蔵境の北を仙川が流れているから、これから引いたのか。深大寺新田の近くにも用水があったのだろう。

深大寺新田は初め2戸、井上兄弟だったという。しばらくは他の移住者がなかったから条件が悪かったのか。いまでも井上さんは深大寺の大きな農家だが、ルーツの絵堂ってなんだろう。次はそちらを訪ねる。

2010年3月16日 (火)

武藏一の宮・小野神社⑴

熊野神社古墳をあとにして小野神社を目指す。前回も書いたがここは武藏一の宮なんです。「いや違う、一の宮は大宮の氷川神社だ」という人がほとんどでしょう。でも、府中では小野神社ということになっている。

それが証拠に大国魂神社のくらやみ祭りの神輿渡御の順番はこうなっている。
    一の宮  小野大神
    二の宮  小河大神(あきるの市一宮)
    三の宮  氷川大神(さいたま市)
    四の宮  秩父大神(秩父市)
    五の宮  金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川村)
    六の宮  杉山大神(横浜市西八朔)

いずれも有名な神社ですが小野神社だけがあまり知られていない。特別なわけがありそうだ。大国魂神社のパンフレットによると小野神社の所在地は、多摩市一宮となっている。大国魂神社では府中の小野神社でなく、多摩市の方を認めているんですね。府中のそれは旧郷社と格式は低い。氷川神社の官弊大社に比べると見劣りがする。

この並びだと近い所から順にしているのかもしれない。杉山神社は多摩川を渡って横浜市だから距離的には近い。系統的に異なった部分があるのか。

鎌倉街道を南へ行き中央高速をくぐってすぐに左折すればいい。熊野神社でもらった冊子をみると地図に古墳の印がある。南武線西府駅の南口すぐだ。御嶽塚とあって散策用に道路に点線がついている。これをたどればいい。

児童公園の隣に小山があった。市史跡御嶽塚(円墳)。直径25メートル、階段がついていて頂上に小さな祠があった。「御嶽大権現 安政五年十一月吉日 小野宮願主 内藤伊助」と刻まれていた。小山が御嶽信仰に使われたのだ。

Cimg0068
(こちらはかわいい古墳。駅の真ん前だ)

もとは古墳群があったようで、御嶽塚古墳群と国立市の下谷保古墳群は行政区が別なためにそれぞれに名前が付けられているが、同一の古墳群だったようだ。「両古墳群で、これまで全体で二八基の古墳が確認され、時期的には、六世紀前半から七世紀前半代と考えられます」(「多摩のあゆみ」第137号、江口桂氏)。熊野神社古墳より古いようだ。これらの首長をまとめあげたのが熊野神社古墳の主なのか。

古代の多摩川はこの古墳群のすぐ下を流れていた。崖のすぐ下だ。住居や墓は崖の上に置き、多摩川を利用して田んぼをつくっていたのか。崖(府中崖線)をたどって東に行くと1キロほどで高倉塚古墳がある。分倍河原駅の手前200メートルほどの所だ。こちらでは30基ほどの古墳が確認されている。築造時期は6世紀前葉から7世紀前半代という。御嶽塚と同じ頃だ。

ここから下は崖になっている。崖の下には小川が流れている。西府町湧水から沸いた水だ。ホタルがいるらしい。かつてはいろいろなところから沸いていたが今では西府町湧水だけになってしまった。南側はNECの工場。広い敷地だ。道がわからないので鎌倉街道に出て中央高速をくぐって左折する。

住宅街に「小野宮・間島自治会」とあった。2つの神社の氏子たちが連合で町内会をつくっている。地名は府中市四谷だが、こんなところに昔の字名が残っているのがうれしい。自治会館の右手の奥まった所に小野神社はあった。住宅に囲まれ杜の面影のケヤキが何本か残っているが、神社だけがぽつんとある。これが一の宮? 拍子抜けするほど何もない。一の宮だという自己主張もしていない。宅地化して昔の氏子たちが少なくなってしまったのか。一の宮に行くぞ、と意気込んだこちらが悪いのか、古くから鎮座する式内社としては寂しい。

府中は昔は小野と呼ばれていた。小野牧があり小野郷だった。町田は小野路だった。国府のある小野に行くから小野路。鎌倉街道を町田に向かっていくと小野路町がある。その南が野津田町。「民権の森」も天気のいい日に散歩に行きたい。このへんは「里山」が残されており自由民権運動を感じ取るためにも欠かせない。聖蹟桜ヶ丘から小野路をたどって歩くつもりだ。

小野神社についてもう少し考えたい。

2010年3月15日 (月)

武藏熊野神社古墳Ⅱ

熊野神社古墳の埋葬者はどんな人物なのだろうか。最新文化を取り入れることのできる在地の有力者は、どこからやって来たのか。「消えた弥生文化」の項(ご面倒をかけますが6回続きです。カテゴリーの府中にあります)で書いたように、多摩地方からは弥生遺跡がほとんど出てこない。縄文遺跡はたくさんあるのに弥生遺跡は数えるほどだ。縄文人はどこへ行ってしまったのか。では、古墳をつくった人たちはどこから来たのか。山の方から下りて来たのか。東国に移された渡来人の子孫が移り住んだのか。それとも文化を携えて西の方からやって来たのか。

いぜれにせよ熊野神社古墳の被葬者は飛鳥文化と密接な関係にあった。大和朝廷と関係を結びながら、府中の西の方を支配していたのか。

Cimg0063

もう一つ上円下方墳と見られる古墳が発掘されている。三鷹市の天文台構内にある古墳だ。こちらは一回り小さくて下段の一辺が約30メートル。つくられたのは同じ7世紀の中頃から後半頃。これも「多摩のあゆみ」第137号の「三鷹市・天文台構内古墳の〈かたち〉」(高麗正・三鷹市教育委員会)に詳しい。こちらも先進文化を取り入れることが可能な在地の有力首長の墓だろう。

7世紀の中頃、多摩の多摩川流域には地域ごとに首長が君臨していたようだ。クニなのか、ムラなのか。「魏志倭人伝」のようなクニの状態と考えてもいいのではないか。ただし大和朝廷とは活発な交流があったと見られる。

これらの古墳を最後に多摩地方は激動期を迎える。東山道武藏路が設置され、その東側には多磨寺が造営された。8世紀に入るとすぐに武藏国府が府中に置かれた。平城京遷都(710年)の頃だ。741年には国分寺造立の詔が発せられ、武蔵国分寺もつくられた。

つまりこういうことです。7世紀までは在地の有力者が分立していたが8世紀になると大和朝廷に支配された。言い換えれば大和朝廷の勢力範囲がここまで及んだ。戦争があった形跡はない。半島経由の先進文化がほしくて自発的に従ったのか。

武藏国府は今の大国魂神社のあたりに置かれた。道を隔てたすぐ東側に武藏国衙が再現されている。気になるのは、在地の有力者がいた熊野神社とは、ちょっと距離が離れていること。南武線の駅にすると、西府、分倍河原、府中本町と2駅になる。

武藏国造の地位をめぐって争いがあった。「日本書紀」安閑紀が記しているもので事実かどうかは不明だが、なんらかの動きを伝えているものと思われる。争ったのは笠原直使主と同族の小杵(おき)。笠原直が北武藏の首長、小杵は南武蔵の首長といわれている。結局、北の笠原直が勝ち、橘花、多氷などを屯倉として大和朝廷に献上したという。

Cimg0065

(熊野神社)

南武蔵の、後の多磨郡などが北の勢力によって献上されてしまったのだ。時期については諸説あるが5世紀後半から6世紀初めのことのようだ。このころ5世紀後半には、北武藏の行田に埼玉古墳群が出現している。あれだけの古墳をつくるのだから相当に強力な力を持っていた。支配地域も南武蔵の首長たちとは比べ物にならなかった。

こうした流れの中でも多摩地方の首長たちは勢力を保っていたが、8世紀にはついに大和朝廷に従うことになった。そのために勢力圏から外れたところに武藏国府は置かれた。

熊野神社古墳で地図を開いて、さて次はどちらに向かおうと考えていたら面白いことに気がついた。ほぼ、真南に行くと小野神社があるのだ。多摩川の向かい側の多摩市にもあるが、府中にも小野神社がある。延喜式の式内社で由緒のある神社だ。さいたま市の人は「そんなバカな。氷川神社に決まってるだろ」とお怒りでしょうが、武藏一の宮なんです。

2010年3月13日 (土)

珍しい上円下方墳・府中の熊野神社古墳Ⅰ

相当に貴重な古墳だ。府中の郷土の森博物館に行くとくらやみ祭りの部屋に続く展示室に、まず最初にで〜んと展示してあるのが、この武藏府中熊野神社古墳の模型だ。

「大変に珍しい形式なんです。上円下方墳と言ってこれまでに全国でも3基しか発掘されていないんです」と学芸員さんは誇らしげだ。ここは、ウイークデイの客の少ない時間に訪れると親切に説明してくれる。府中には弥生遺跡が少ないと残念そうだったが、上円下方墳の話になると、ちょっと得意げになった。「上円下方?」と聞き慣れない用語に首を傾げると、模型に案内してくれた。「下が四角で上が円なんです」。模型を見て納得した。

7世紀に入ると、大規模なものがつくられた前方後円墳の時代が終わって、その後につくられたのは円墳が主流だった。そのころを終末期古墳という。終末期は、推古朝の飛鳥文化、天武・持統朝の白鳳文化が花開いた時代と重なる。

それなのに、ここ府中につくられたのは上円下方墳。全国でもこれまでに3基しか確認されていないらしい。京都・奈良境の「石のカラト古墳」、静岡の「清水柳北1号墳」、福島の「野地久保古墳」の3基で、武藏府中熊野神社古墳は大変に貴重な発掘だったといえる。だから国史跡にも指定された。

築造年代は飛鳥時代。7世紀の中頃から後半と見られている。むしごはんの大化の改新のころになる。昨年秋にさきたま古墳群に行って以来、すっかり古墳ファンになってしまった。有名なワカタケル大王(雄略天皇)の名を記した鉄剣(国宝ですぞ)が出土した稲荷山古墳を初め古墳がうじゃうじゃある。それらの古墳には階段が設けてあっててっぺんまでのぼることが出来る。全長120メートルの稲荷山古墳にのぼると見晴らしもいいし、何よりびっくりしたのは国宝の鉄剣が頂上部からみつかったことだ。被葬者は上の方に埋められていたんだ。横穴を掘って下の方に埋葬すものとばかり思っていたので、これには驚きました。

関西の大型古墳はやたらに入ったりできないが、こちらは開放されていて、大きさや形状などを体験できるのがすばらしい。

行かずばなるまい。地図で見ると、熊野神社が鎮座しているのは府中の西のはずれの方。隣は国立だ。甲州街道を西に行けば1キロ足らずで谷保天満宮に行ける。最寄りはJR西府駅。09年の3月に開業したばかりの新しい駅だ。とはいえ民営の南武鉄道が国有化された44年(昭和19)までは西府停留場があったというから新設というより復活なのかもしれない。

中央線を立川で乗り換えて谷保の次が西府だ。北口に下りるが、まだ区画整理の杭やしきりがされているだけで何もない。商店が1軒もない駅前というのも珍しい。タクシーが所在なげに2、3台停まっている。コンクリで覆われた空き地にはビルが建つ計画なのか。不景気で予定が頓挫してしまったのか。

案内板がある。「熊野神社古墳500メートル」と出ている。甲州街道にぶつかって左折すれば右手にあるらしい。へそ曲がりなので、甲州街道を直進して次の道を左折してみた。

住宅街を進むと前方に円い山が見えて来た。あたりにそぐわない感じが期待観を高まらせる。結構大きい。円は石で覆われている。びっしりと敷き詰められている。「こんな古墳があるのか」。土まんじゅうを作って搗き固めただけではないんです。道は古墳にぶつかって折れ曲がっているので、直進すると横原に至る。右手は幼稚園。園児たちが古墳の目の前で遊んでいる。左手が熊野神社だ。

古墳は神社の裏手の小山として残っていた。室があったという文献に気づいた府中市が発掘を進めて古墳だと判明したのだ。パンフレットによると、墳丘の高さは5メートル。下方部(1段目)の一辺は32メートル、下方部2段目は23メートル、上円部の直径は16メートル。立派なものでしょ。

築造には当時の最新技術が使われたようだ。墳丘が崩れないようにするためには、種類の異なる土を交互に堅く積み上げる「版築工法」を用い、墳丘部は全面を河原石で葺いている。「上円下方」は中国の思想に基づく。古代中国には「天円地方」の考え方があり、円が天を、四角が地を象徴し、この形が宇宙や世界をあらわしているという。出土した鞘尻金具には「七曜文」がついているという。模様の中に7つの○があって、これは国産初の貨幣「富本銭」だけに見られるもの。古代中国の宇宙観をあらわしたもので、最新文化として取り入れたのだという。

誰の墓なのか。「つまり、熊野神社古墳の被葬者は、在地の有力者でありながら、新しい思想や技術をいち早く取り入れることのできた人物であり、後の多摩郡の郡を監督した郡司層につながっていく有力者であったと考えられます」。ちょうど、今年の2月に発行された「多摩のあゆみ」が「特集 多摩川流域の七世紀古墳」を扱っていた。そのなかの「七世紀における多摩川中流域左岸の古墳と集落」(江口桂氏)からの引用だ。

「多摩のあゆみ」(季刊)は、財団法人たましん地域文化財団の発行で、多摩信用金庫の窓口に行けば無料でもらえる。すでに137号を数え、様々な特集を組んでいる。国立駅前には資料室があり多摩に関する書籍や史料を収集、研究者に閲覧しているので、時々お世話になる。地域文化に貢献している多摩信用金庫は偉い。

在地の有力者とはどんな人物だったのだろう。

2010年3月10日 (水)

近藤勇・産湯の井戸・その9

若い頃、人間くささが抜けている進歩史観がどうも面白くなくて八切史観を片っ端から読んだ。常識を覆した奇説が、既成の価値観を覆そうという時代にあっていたのかもしれない。なかでも「徳川家康は二人いた」は奇説中の奇説と膝を打ったものだ。歴史というよりも、八切ワールドの独自の解釈を楽しんだ。後に隆慶一郎も「影武者徳川家康」で家康は入れ替わったと題材にしている。

八切のオリジナルとばかり思い込んでいたがどうも違うらしい。「しかし、一読すれば気づくことだが、「徳川家康は二人いた』という小説のストーリーは、ほぼ全面的に『史疑』の内容に負っているのである。にもかかわらず八切は、『史疑』について、一言『参考にした』と述べる程度である。『史疑』にある史料を重引しながら、そのことを断っていない箇所もある」(「歴史民俗学21号[特集]検証・八切止夫」の「八切の徳川家康替玉説を読む」・礫川全次)。

オリジナルがあったのだ。村岡素一郎の「史疑」で、すでに「願人坊家康」(南條範夫、58)、「家康をニセ者と断定した男」(榛葉英治、63)、「徳川家康替玉説」(村本喜代作、65)などがあるらしい。まあ、八切意外史は「何とも怪しげである。このあたりのいかがわしさが八切の魅力でもあり、一時期はかなりの読者を得ていたのである」(同書、八切原住民史観と太田竜の「日本原住民」、青木茂雄)。

——ああ、太田ドラゴンも平岡正明も冥府に旅立ってしまった—ー


そんな八切の唱える除地説、何か訳があるなくらいに思うだけでいい。後に日野を訪ねたときに触れるが、洪水に流される前の土方歳三の生家も浅川と多摩川に挟まれた低地だ。

多摩はお鷹場だった。三鷹だけではない。一帯の狩猟などが制限されていた。餌になる虫だって、やたらに駆除してはいけない。農民たちには大変な苦労があったようだ。宮川家は、鷹場の管理というか、何か特別な任務をもって上石原宿から派遣されたのではないか。

新田開発と言ったって地続きの大沢村の人間が耕せば済む話だ。新田が増えれば石高がまし、下石原の年貢が増える。開発に伴う利益のほかになにか村に利益になるものが徳川家から与えられていたのではないか。

大沢村にも宮川さんがいる。勇の宮川家の分家か。では、どうして上石原でなく大沢に属しているのか。昔の村の境界は、アプリオリに決まっていたのではない。開拓した農民が属していた元の村が村域を広げていった。つまり縁続きで境が形成されていったのだ。開墾されない野原は、領主のものではあっても、農民の視点から見ると誰のものでもなかったのかもしれない。言ってみれば入会地か。とは言っても入会地でも入会の権利はある。宮川家の土地は上石原の入会地だったのか。いくら考えてもわからないので、疑問は疑問のままで、何かわかったらまた書きます。

この項の初めに、多摩連光寺の聖蹟記念館について触れた。その時、宮川家の人が多額の寄付をしたというが詳細は不明とした。ノートをめくっていたら、そのくだりが出て来たので紹介する。

「聖蹟記念館の建っている連光寺大松山の所有者は、調布市の宮川半助でした。宮川はすでに大正十二年富沢政賢らと『聖蹟記念館』を組織することを取り決めていました。宮川が記念館の土地一万五〇〇〇坪を無償で寄付した理由が『幕末京都で、多くの勤皇の志士を倒した新撰組の局長近藤勇が宮川家の出で、近藤の罪滅ぼしという意味があったからだ(沼謙吉前掲書、注・「多摩聖蹟記念館建設への道」ふるさと多摩 第5号)と言われています」と、「多摩と江戸ー鷹場・新田・街道・上水」(大石学編)にあった。

記念館ができたことで京王線の駅名も連光寺から聖蹟桜ヶ丘に変わった。大正になっても新選組の関係者は首をすくめていたんですね。

2010年3月 9日 (火)

近藤勇・産湯の井戸・その8

天保9年(1838)の宗門人別五人組帳が残っている。そこには

武州多摩郡上石原村
一、百姓 源次郎 年六十七才
  …… 
  同断 勝五郎 年  5才
    
      武州多摩郡府中宿高安寺末寺
           同州同郡  大沢村
             禅宗  龍源寺


とある。

源次郎は戸主で宮川家の4代目。勝五郎が近藤勇です。長男の久次郎が5代目を継いでいる。高安寺は足利尊(高)氏の高をもらったともいわれている由緒ある寺だ。崖(府中崖線)をのぼったところにあり、多摩川を望む絶好の場所だったところから高安寺館として何度も陣所になっている。崖を下りれば名高い分倍河原の古戦場跡は近い。藤原秀郷(俵藤太)を祀る秀郷稲荷も寺の西側にある。

宮川家は上石原村なんだけど、宿までは遠いので三鷹市大沢にある龍源寺が菩提寺なんです。
「宮川家は上石原宿から北の方小一里の久保と呼ばれた新田にあった。人見街道と小金井街道の分岐点に位置していたので、辻とも称されていたが、のちに野水とも呼ばれていた武蔵野新懇の地であった。幕府の新田開発事業は亨保改革(1771)の重要な一環になって本格的に進められたが、宮川家の初代弥五左衛門は亨保十七年(1732)に没しているので、新田開発の一員として上石原宿から参加した一人ではなかったか」

近藤勇生家十代目の宮川豊治氏(1925年生まれ)が「近藤勇のすべて」(新人物往来社、93年刊)の一章「近藤勇と宮川家」に記している。亨保改革の前に初代はこの地に開墾の鍬をふるったようだ。

とはいえ宮川家は上石原の鎮守、若宮八幡の氏子だった。「神社の神輿は当家をお旅所としていた。筆者の少年時代には庭で休んでいた神輿を目にしている」と宮川豊治氏。神輿を担いでここまでくるのは大変だったろう。

若宮八幡は京王線西調布駅(昔は上石原駅だった。府中方向に一駅行くと飛田給駅。味スタへの最寄り駅です。東京オリンピックのマラソンでは飛田給が折り返しだった。調布の同級生の家でテレビを見ていてランナーたちが近づいたら甲州街道に出た。裸足のアベベの速さにびっくりした)の南方にある。品川道を越えてまっすぐに行けば左手の杜がそうだ。多摩川を見下ろす崖の上だ。

境内に「当神社と近藤勇との由来」という案内板がつくられている。「慶応4年、甲陽鎮撫隊を率いて上石原村に到着した勇は、この神社の方向に拝礼し、戦勝を祈願したという」。新宿でどんちゃん騒ぎをした一行は、甲州街道を進んだが調布には泊まらずに日野を目指した。勝てば10万石を約束された近藤は得意の絶頂にあったろう。旧甲州街道から若宮八幡は指呼の距離だ。勇もお祭りのときは、ここまで遠征して遊んだのだろうか。

それにしても、どんな理由があって宮川家は新田の開墾に携わったのだろうか。低地で氾濫の恐れはあるが野川に近く、田んぼには良さそうだ。もっとも今の野川は掘り下げられていて洪水など起こしそうにないが、昔は水量も多く、もっと堤防にそって流れていた。工事をしたのは昭和40年代。このために宮川家から100メートルほどの所にある根岸家の水車が川面から離れてしまい水車が回らなくなった。(今、水車をまわす計画が進行中と聞く)。

どうも上石原から開墾に加わったのは宮川家だけのようだ。調布市に属する旧家はこの辺りにはほかにはなさそうだ。他の旧家は皆、大沢村になっている。

ほとんど信用しない方がいいが、八切止夫氏は「誠・新選組 意外史」(日本シェル出版)で「上石原は「武藏風土記稿』によると「浅川にそって流れる大栗川の百草、関戸、府中、上石原は除地なり』と出ている」という。日野の佐藤家をめぐる謎に挑んだ神津陽氏は「新選組多摩党の虚実—土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎」(彩流社)で、土方家と宮川家の出自をめぐって、この個所を引いている。

神津陽、何十年ぶりかに聞く名前だ。叛旗派の指導者、著書「蒼氓の叛旗」が話題になったっけ。ブントの統一(他党派は野合といっていた)前は、中大の独立ブントの理論家で、三多摩ブントにも関わっていたんだっけ? 

(話が脇道に行くのでまた明日)

2010年3月 8日 (月)

近藤勇・産湯の井戸・その7

天文台通りと東八道路の交差点を府中方面に向かうと右斜めから人見街道が横切っている。左に折れる人見街道は切り通しになっている。かなりの急坂だ。50年前はもっと急で、道も狭かった。いまでも自転車で上るのは骨が折れる。工事中に犠牲者が出た。その碑も残されている。

人見街道と東八道路が交差する手前に大沢八幡神社がある。縄文海進で形成された岬を現在に訪ねる中沢新一の「アースダイバー」に出てくる「古八幡」が、ここに移されたのだ。野川沿いの低地だったので崖(国分寺崖線)の上に移築して洪水を避ける必要に迫られたのだろう。(明治末までは別の場所に鎮座していた。その経緯については項を改める)。「こはちまん」と言ったら、現大沢八幡の神主に聞き返された。「ふるはちまん」だそうだ。神主さんは箕輪姓で、大沢村を開いた箕輪将監の末裔なのだろう。村の鎮守の神主になるのだから直系なのかもしれない。勤めを続けながら神主をしているので「忙しいんだ」と笑っていた。

Cimg0056
(いい男です)

人見街道を下ると右手に龍源寺がある。門前には近藤勇の銅像が建てられている。ほほ骨が張った典型的な多摩顔だ。「実際よりも美男だ」と何かの本にあった。写真と見比べて、その理由がわかった。目がぱっちりしているのだ。縄文人の特徴を残す関東人の顔は、ただでさえ細い目が張ったほほ骨のせいで、よけいに細く見える。それをくっきりさせれば無骨だが意志の強そうな顔になる。

ちょっと行くと二股に分かれる。人見街道を行けば多磨墓地に至る。そのさきは浅間山。せんげんやま。戦国時代の豪族、人見四郎の墓跡がある。ムサシノキスゲの群生地として知られる小高い山だ。

右は野川公園正門。ちょっと行くとアメリカンスクール。校庭で高校生がタッチラグビーみたいなことをやっていた。

二股の三角地帯に近藤神社はある。30度くらいの角のところは堅牢地神。堅の左上の臣が目になっており、牢もウカンムリではなく穴カンムリと難しい字だ。堅牢神社は、字の通りに土地の守り神。転じて豊作を祈る神様。バラモン教の神が日本に土着したのだ。毘沙門天などと同じだ。石鳥居建立者の名前が、箕輪、峯岸、指田…となっていた。大沢村に古くからいる人たちだ。やはり箕輪が筆頭に刻まれている。ここまでが三鷹市。

道で境界がつくられて、すぐに近藤神社になる。産湯の井戸も残されている。勇の生家は7000平方メートルの敷地があったという。その一部が生家跡として保存され、神社が建立された。生家は戦争中の昭和18年に取り壊され、戦後はアメリカ軍に接収されたのか、売りに出されたのか。しばらくはアメリカ人が住んでいたという。調布市が買い戻したんですね。

アメリカンスクールがつくられたように米軍の施設がこのへんには多くある。左手は調布飛行場、人見街道をまっすぐに行けば府中の空軍司令部(今は自衛隊)にぶつかる。ICUは崖を上がったところだし、野川公園はICUの構内だった。清水がわき池があり自然のままだったから、わんぱくどもの格好の遊び場だった。その後、一時は9ホールのゴルフ場になって入れなくなってしまった。学校関係者や軍人が使っていたのか。

生家跡の北側は分譲され、その西側は再び三鷹市。そのさきは府中市になっている。人見街道の向かいの近藤家、撥雲館もそこだけ三鷹市と府中市に挟まれている。境界が入り組んでいる。調布の地名は「野水」。雨が続くと水浸しになる低地を野水と呼んだらしい。

だが、宮川家の字名は上石原だった。上石原の村は甲州街道沿いにあり、今の京王線西調布駅のあたりだ。生家跡からは調布飛行場、味の素スタジオ、甲州街道、中央高速を通り越さなければならない。ずいぶんとはなれた飛び地だ。今の甲州街道の手前まで人家がない。江戸時代から野っ原だったようだ。何か事情があったのか。

2010年3月 6日 (土)

「ベン・ハー」ラモン・ノヴァロ版・キリストの物語 続続

ヘストン主演の「ベン・ハー」のサブタイトルも「a tale of the Christ」です。まず「Ben-Hur」と画面いっぱいに表示される。画面が変わって次にサブタイトルが出てくるので、印象は薄れる。タイトルの前にノヴァロ版では15分も費やしたキリスト誕生が駆け足で描かれる。59年の時点では、すでにキリスト誕生は数多くの映画で描かれて来たので、もう繰り返す必要がなかったのだろう。1925年の作品ではまだキリスト誕生は映像として描かれること自体が観客の期待感を満足させたのだろう。

有名な水飲みシーンでキリストは後ろ姿だ。ベン・ハーは「神よ助けたまえ」と祈るが、まだ水を与えたのが神の業とは認識していない。後に十字架を背負って歩くキリストを見たベン・ハーが「あの人だ!」と水をくれた人と同一と気づく心打ち震えるシーンの前提になっている。

その後、キリストは終盤まで直接には描かれない。族長のもとにいたときの東方の博士の話、恋人エステルの話に出てくるくらいだ。

クライマックスが一気にキリストの物語になるのは25年版と同じ。谷からの帰り。丘の上で愛を説いているキリストにベン・ハーは関心を示さない。絶望が支配していたためだ。エステルは近くに寄って目を輝かせて話に聴き入る。

ゴルゴダの丘に向かうキリスト、ここでベン・ハーが神の存在に目覚めるが奇跡はまだ起らない。それは嵐を避け洞穴に避難した母と妹、エステルに起こる。すべての罪を背負ってはりつけになったキリスト。激しい嵐が襲う中、母と妹は体が痛い、手が痛いともだえ、苦しむ。くぎが打たれ血が流れているキリストの右手のアップのインサートショット。エステルが気づく。母親の手が元通りになっている。顔もすべても。妹もそうだった。実に効果的なインサートだ。

ノヴァロ主演版よりもキリストに関する叙述は少ないが、トータルな構図は一緒だ。ワイラー監督は昔の作品と基本的構成は同じにしながら、キリストの登場を抑えて、より効果的にクライマックスを盛り上げたといえる。

どちらがすごいか。59年の作品は、そりゃあ圧倒的だ。スケール感、迫力、色彩、主人公など、こんな贅沢な映画はもう作れないでしょう。モブシーンでは、こんなに必要なのかと思わせるほどの大群衆だし、戦車シーンのカメラワークは圧巻、3時間半を超える長尺だけど、シーン一つをとっても中身が濃い。

ただ、25年版の戦車シーンのカメラワークも、よくぞ撮ったりと叫ばせる迫力だ。こちらを見て改めてヘストン主演作を見ると、キリストに関して簡略にした部分が、すごく理解できる。歴史スペクタクルとしてエンターテインメント作に仕上げてはいるが、実は宗教映画だということが押さえられる。その意味でも貴重な作品だ。

59年版が日本で公開されたのは翌60年。配収12億円のビッグヒット、2位の「アラモ」が6億4000万円だから倍も稼いでいる。ちなみに61年は「ウエスト・サイド物語」が稼ぎ頭で、配収はやはり12億円だ。歴史スペクタクルは続々とつくられ63年の「クレオパトラ」でピークを迎える。だが、興行成績が振るわずフォックスが経営不振に陥ったため以後、超大作は影を潜め、やがてアメリカン・ニューシネマが若者たちに支持されていく。

「クォ・ヴァディス」もローマでのキリスト教徒の迫害が主テーマだったが、「聖衣」(53)もシネマスコープ第一作として記録に残る。ヒロインのジーン・シモンズが「ローマの休日」のオファーを蹴って、こちらに出演したのは有名な話です。主演はリチャード・バートン。

カリギュラに追われてエルサレムに赴任した護民官がキリストを十字架にかける。キリストがまとっていた赤いローブをまとったときから彼の苦悩が始まる。彼の従者が持ち去ったローブを取り戻し、燃やすためにイスラエルに戻った護民官は、ローブを手にしたとたん啓示に打たれる。こうして信者となった護民官はローマで布教活動を始める。中心となるのはペテロ。そうペテロの殉教が下敷きにあるのですね。やがて裁判にかけられた護民官は、恋人のジーン・シモンズとともに刑場へと向かう。微笑みをかわす2人、喜びに満ちあふれた2人のアップに「ハレルヤ」が荘厳にかぶさる。

聖書に出てくるストーリーらしい。原題は「THE ROBE」、日本タイトルは抹香臭いけど英語にするとなんということはないんですね。この年の全米ナンバーワンヒットになったそうだ。でも、基本的に地味でまじめな宗教映画になっている。バートンよりも従者役のビクター・マチュアの方が輝いている。出番は多くはないが、存在感はバートンを圧している。

それにしてもシモンズはどうして「ローマ」ではなく、こちらに出たのか。「黒水仙」(47)で注目され、「ハムレット」(48)で人気女優になったシモンズの路線とすれば「ローマ」になりそうだが、大作の方が良かったのか。「聖衣」のシモンズはなんということはない。少女の頃からバートンにあこがれていたというのも説明不足だし、信者になっていく過程も唐突だ。ラストは「ハレルヤ」で祝福されるとはいえキリスト教の宣伝映画みたいで、頭ではわかるが諸手を上げて感情移入するわけにはいかない。信者ならば違うんだろうけど。

ローブを手にしたバートンが信仰に目覚めるくだりもピンとこない。信者ではないせいなのだろうが、命がかかっているのだからそんな簡単なことではないだろうとつっ込みたくなる。

シモンズは58年の「大いなる西部」でようやくウイリアム・ワイラー監督作品に出演する。主演は「ローマ」のグレゴリー・ペック。ワイラー監督は、一度は袖にされたけどシモンズにずっとご執心だったようです。


ペテロでつまらないことを思い出した。「天使にラブソングを」の項でもらしていた。修道院にかくまわれたウーピー・ゴールドバーグ。12使徒の名前を言ってご覧と問われて「ジョン、ポール、ジョージ」。ここまではいい。ヨハネ、パウロ、ゲオルギウスの英語表記だからだ。次にウーピーが「リンゴ」と挙げて尼僧たちをがっくりさせる。こんないたずらもしゃれている。ペテロはピーターです。念のため。

2010年3月 5日 (金)

「ベン・ハー」ラモン・ノヴァロ版・キリストの物語 続き

さて、やさ男のノヴァロが扮したベン・ハー。他の奴隷たちとともに鞭で打たれながら砂漠を行く。過酷な行進だ。水も少ししか与えられない。やがてナザレに着く。井戸の水を飲む兵士たち。奴隷には与えられない。ベン・ハーは絶望する。「イスラエルに神はいないのか」。

柄杓の水を差し出す手がある。ごくごくと飲み干すベン・ハー。柄杓を持つ左手だけしか映さない。誰だろう。ベン・ハーの頭上に左手がかざされる。生気が蘇り、希望に満ちあふれた顔に変わる。ベン・ハーは感謝を言葉にする。「神よ、力が沸いてきました」。

こうして2人のドラマが交差する。

時はたち、ガレー船団の執政官アリウスを助けたことで息子になったベン・ハーは、アンティオキアにかつての使用人(身分は奴隷)を訪ねる。洗濯女たちが伝道者について話している。

ここからまたカラーだ。「ナザレの男は弾圧の苦しみを和らげてくれるそうよ」。場面変わって大勢の人びとを前に丘の上で語りかけているイエス。「重荷を背負っているものは私のもとに来なさい」。群衆の表情は喜悦にあふれている。イエスの全身は映さない。左手だけだ。これですべてがわかる。また洗濯場。「彼の武器は、真実の剣と愛の楯なの」。

メッセラとの戦車競走に勝ったベン・ハーは救い主に従うために全財産を捧げることを誓う。キリストもイスラエル入りする。ここからはカラーが多用される。癩病者の谷にいるベン・ハーの母と妹が前面に出てくる。ベン・ハーは2人が死んだと思っている。

女に石をぶつけている群衆がいる。右手を上げたキリストが呼びかける。「罪のないものがいたら、まずこの女に石を投げなさい」。もう石をを投げるものはいない。ベン・ハーは救い主を助けるために兵士を集めている。

最後の晩餐。当然カラーです。カメラは正面からとらえるがキリストの顔は見えない。後光だけが輝いている。真ん前に男がいるためだ。ユダなのか。

一気にクライマックスへ。十字架を背負いゴルゴダの丘へと向かうキリスト。ベン・ハーには天の声が聞こえる。「剣を収めなさい」。死んだ赤ん坊を抱いた母親が「この子を生き返らせてください」と願う。左手をかざすと赤ん坊は泣き声を上げる。そこへ、恋人のエスターが谷から母親と妹を連れてくる。右手がかざされる。たちまち病が癒える。ベン・ハーとの劇的な再会。はりつけは右手のアップのシーンだけ。ラストは「人びとの心の中で永遠に生き続けていく」とベン・ハーがつぶやいてエンドタイトルだ。

ねっ、キリストの物語でしょ。タイトルを確認するとベン・ハーよりも「a tale of the Christ 」のほうが大きくなっている。サブタイトルではないのだ。

特色はパートカラーと、キリストを体の部分だけしか描かないこと。手や通り過ぎる足、そして足跡しかあらわさない。見えないから逆に効果的だ。

日本では嵐寛寿郎が明治天皇を演じた。「明治天皇と日露大戦争」(監督渡辺邦男、1957)ですね。アラカンの明治天皇が大きな話題を呼び、配収5億円を超したという。今は興収で発表しているので単純にいって倍。当時の入場料は封切りで100円していないから15倍くらいの収入になるか。150億円以上の興行収入になる。「アバター」クラスのヒットだったのだろう。


”神”の描き方の日米の違い、思い切ってアラカンに演じさせた新東宝の大蔵貢社長の決断はえらかった。多額の寄付をしたことで、出身地の長野県の大蔵村(?)には大蔵氏の銅像が建っているという。この4年後に新東宝は倒産しているけどね。

500円DVDでいえば「クォ・ヴァディス」のキリストも印象的だ。ピーター・ユスチノフ、ロバート・テイラーの主演。暴君ネロの弾圧の中で生き延びるキリスト信者の話だ。このラストにキリストが登場する。ここに書くと印象が薄れるので、興味のある方は自分で見てください。

ヘストン版(ワイラー版と言った方がいいのだが、便宜的にこうしておく)との比較は次回に。

2010年3月 4日 (木)

「ベン・ハー」ラモン・ノヴァロ版・キリストの物語

「そっちがいい」とイナモトが言ったから  今日のテーマは500円DVD

昔の仕事仲間が、お疲れさん会をを開いてくれた。これから、どうなさるんですか、と聞かれたので「散歩のブログを始めるよ」と答えて映画の話になった。「心の旅路」のストーリーを話していたらイナモトが「そっち(500円DVD)のテーマの方がいい」とリクエストしてきた。開いてくれたモテキさん、イシカワさん、オオニシさん、それにサトマサ、アブラダ、ありがとう。そんなわけで今回のテーマは「ベン・ハー」。きっかけはなんのことはない、テレビ欄を見ていたらNHKBSで4日夜にチャールトン・ヘストン主演の「ベン・ハー」を放送することになっていた。それだけのきっかけだが、いい機会だからその前につくられた作品についても書き、イナモトの要望に応えたい。

ラモン・ノヴァロ主演の「ベン・ハー」がつくられたのは1925年。ずいぶんと昔です。その前に1907年に15分のサイレント映画が製作されているが、これは2時間20分の本格的な歴史スペクタクル。後のヘストン版と比べても遜色ないできばえだ。もちろんサイレントだが、宿敵メッサラとの戦車シーンの迫力も申し分ない。原作は1880年、ルー・ウォレスの大ベストセラー。「風と共に去りぬ」が出版されるまで記録が破られなかったというから歴史的な売れゆきだったようだ。こちらの映画も当時の記録破りのヒットを記録、MGMのドル箱になった。

最初にびっくりしたのはモノクロ作品なのだが、パートカラーだったこと。パートカラーは日本のピンク映画の発明と思っていたけど、こんな昔から使われていた手法なんですね。日本の場合は、予算が少なかったためにベッドシーンになると突然カラーになった。赤い襦袢がなまめかしかったのを覚えている。

比較すると怒られちゃうけど、「ベン・ハー」でカラーになるのは、キリスト関連のシーンだ。サブタイトルが「a tale of the Christ」、キリストの物語。キリストの生涯を生誕からはりつけまでをベン・ハーに重ねている。ヘストン版よりも原作に近そうだ。

冒頭から15分はキリストの生誕だ。マリアとヨセフが雑踏にまぎれながらベツレヘムを目指す。モノクロだが、マリアのアップになると顔が光り輝いている。後ろからも強い光を当て、前からもピンポイント風に当てる。どういう照明のやり方なんだろう。こんなわざとらしい当て方は見たことがないのでわからない。とにかく後光が射している。その顔は慈愛にあふれている。

2人が宿屋の馬小屋に案内された頃、東方の賢者も救世主の誕生を祝福しようとベツレヘムを目指している。流れ星があらわれ、やがて巨大な星が出現するとキリストの誕生だ。ここらへんからカラーになる。マリアがキリストを抱いている。マリアには後光が射している。羊飼いたちは巨大な星の出現に救世主の誕生を知る。

感動ものですよ。パートカラーの効果が活かされている。崇高なものを感じましたね。襦袢に興奮しているだけでは申し訳ない。

話かわってようやくベン・ハーが登場する。
主演のナヴァロは淀川長治さんが「やさ男」と評していた。1925年の作品も見ているんです。すごいです。筋肉隆々のヘストンとは比べ物にならない。背は小さいし肉体も普通の体つきだ。メキシカンらしいからゲルマンよりは大分、貧弱だ。顔は美男の範疇に入るのだろうが、なんと言う特徴はない。「世界映画人名事典」(キネマ旬報社)ではこうなっている。


「1899年、メキシコのデュランゴ生まれ。セシル・B・デミルの『小米国人』18などに出た。…しょせん”第二のヴァレンティノ”を出なかったのは、エピゴーネンの限界であろう」。68年にハリウッドの自宅で惨殺され、かつてのスターが週45ドルの失業保険で細々と暮らしていたことが明らかになった。そして殺害の犯人が異常性格の兄弟だったことがスキャンダラスな話題になったという。

この項の筆者は増淵健さん。黙礼くらいはしたが、あまり話をした覚えはない。まじめそうな人だった。

(つづきはまた)

2010年3月 3日 (水)

自由民権への旅・その前に

教育委員会主催の講演会に行った。典型的なリタイアオヤジだよ—と日曜日の28日、娘に自嘲気味に言って家を出た。講演は「古文書のおもしろさ〜三鷹の文化財と歴史〜」、講師は国学院大学の根岸茂夫教授。「吉野泰平家文書」の整理を通して三鷹や三多摩の自由民権運動の研究をつづけ、昨年9月に東京都文化功労表彰を受章された人だ。

泰平さんの曾祖父が吉野泰三、町田の石阪昌孝と並んで多摩地域の自由民権運動の指導者として知られる。吉野家には泰三の運動に関する古文書が膨大に残されている。少しでも直接の研究者の話が聞きたかった。

休憩を挟んで2時間たっぷり。質問コーナーを加えれば2時間を超えていた。狭い会場は簡易椅子がぎっしりと並べられ、ほぼ満員の盛況。オーバーシックスティが多いが、4、50代の女性もいる。実に興味深かった。2時間があった言う間だった。学生時代にこんなにまじめに講義を聴いたことはない。

前半は、吉野家に伝わる「野川村盗賊殺害届書」。野川村というのは今の三鷹市新川あたり。盗賊が出たので居場所を突き止め、4人を打ち殺したと役所に届けている。時は慶応4年6月。秋には明治と改まるころだ。

これの古文書を読んでいく。コピーを渡されているが初めは何が何やら見当もつかない。初めは根岸教授が1字1字読んでくれる。そうするとなんだか自分で読めたような気がしてくるから不思議だ。古文書の面白さを、軟らかいたとえを交えながら話してくれるので得した気分になる。

この届けに名前を連ねているのが野崎村名主見習いの吉野泰蔵(泰三、この頃はこう書いていた)。下連雀村は名主の萬助。井の頭公園の文化園と西園の間を抜け、玉川上水に架かっている橋が万助橋。この渡辺万助にちなんだ名前だ。三鷹からジブリ行きのバスに乗ると、万助橋と言う停留所があるはずだ。

後半は古文書解読のあれこれ。どうしてこういう崩し方になるのか、基本的に左側にある偏などが省略しやすいなど解読入門の前段階を、あれこれ具体例をまじえながらだった。古文書なんてハナから苦手と決めつけていたので、ちょっとだけ手がかりを示されて、面白そうだなと思ってしまうのは、ノーテンキすぎるか。

吉野泰三と北村透谷、娘のりうと透谷の妻石阪美那、その父石阪昌孝。泰三と昌孝は運動の同志でありながら後にたもとを分かつ。結婚に反対され昌孝とは縁が切れた透谷は泰三の思想に共鳴する。りうと美那は、同じ日尾塾に学び、美那のあとを追うように横浜のミッションスクール共立女学校に入学、美那を頼りにしていると泰三宛の手紙に記している(この手紙も吉野家文書に残っている)。町田には市立の自由民権資料館がある。透谷の「三日幻境」も八王子に訪ねたい。五日市憲法の五日市にも行かねばならない。日野の佐藤家は、土方歳三もそうだが、自由民権運動にも関わってくる。

他のテーマもある。リタイアオヤジは忙しい—と、なんでつまらないブログを続けているのかという疑問への決意表明です。

2010年3月 2日 (火)

ふきのとう100円❷

100円のふきのとうをリュックにしまってお鷹の道を西へ進めば現武蔵国分寺の門前だ。この辺りはすっかりきれいになった。現国分寺の東となりには「おたかの道湧水園」ができ、その中に武蔵国分寺跡資料館がつくられている。以前は、現国分寺の敷地内にあった資料がこちらに引っ越したようだ。向かい側には「おたカフェ」というしゃれたカフェが新築された。手前には民家を改造して「おやすみテラス」もできていた.こちらはうどんやまんじゅうを商っている。

カフェで「湧水園」の入場券(100円)を求めて入る。国分寺跡からの出土品が展示されている。なんといっても興味深いのは瓦だ。武藏各地の窯で焼いた瓦が出ているのだ。どうしてわかるのかというと瓦に焼いた土地の名前が刻まれている。「企」とあるのは比企郡、「玉」は児玉郡、「父」は秩父郡、「多」は多摩郡というわけだ。

湧水園や資料館は昨年10月にオープン、記念の特別展示で「住田古瓦コレクションの世界」が行われていた(6月27日まで)。パンフレットによると住田正一氏は、呉造船所社長や東京副知事を歴任した海事史・法制史学者。古瓦研究者としても活躍し、「特に国分寺瓦の研究を生涯のテーマとされ、各地の国分寺跡を東北地方から九州地方まで精力的に踏査し、全国50余国の国分寺瓦を収集されました。全国の国分寺をほぼ網羅した古瓦資料は他に類例が無く、きわめて学術性の高い資料です」。「第六高等学校(岡山市)に進学したのちも暇を見つけては有名な古墳を訪ね歩いています。そして古墳の近くには国分寺があることに注目し、やがて古代寺院へと興味を深めていくのです」。一緒に瓦拾いに出かけたのが徳富万熊(蘇峰の息子)で、日曜日や夏休みを利用して遠く四国、九州まで出かけて瓦を集めたのだ。

つまりはタダ。これが立派な収集物になるのだから面白い。住田とは、どこかで聞いた名字だと思ったら、ご子息は住田正二氏。元のJR東日本の社長さんだった。ローカル線を廃止し、国有地を売りまくり、組合をつぶした国鉄民有化のときに、この人はどうしてたんだっけ。まあ、いいや。こつこつと瓦を拾ってた人の息子がJR東日本の社長という取り合わせが妙におかしかった。ロマンは成り立たなくなったということか。

このコレクションは「住田正二氏(現JR東日本相談役)が理事長を務める財団法人交通研究協会より、史跡武蔵国分寺跡が所在する国分寺市へ、計画中の(仮称)郷土博物館における学術活用にと寄贈されました」といううから、そうでもないか。

これらの南側が武蔵国分寺跡。今回はそちらに向かわずに西国分寺を目指す。武蔵国分寺公園(昔は鉄道学園があった。学園はどこにいったんだろう)の西に広い道がまっすぐ北に通っている。西側はマンション群、東側は公園。この道が東山道武藏路の跡だ。武藏は所属替えが行われるまで東山道に属していた。道というのは道路だけのことではなく、地域と考えた方がいい。つまり東山道地域。武藏路は東山道の本道から上野国新田で分かれ武藏国府に至る交通路だった。この路を軍勢を従えて鎌倉目指したのが新田義貞。鎌倉街道とはルートが違うらしいが、そんなには変わらないだろう。

東山道武藏路は7世紀後半にはつくられていた。つまり国府と同じ頃につくられている。大化改新(645)から50年もたたないうちにはつくられていたんですね。東海道になったのは宝亀2年(771)のことだ。武藏国府から国分寺、国分尼寺の間を通って新田まで北上していた。この路の跡が約300メートルにわたって歩道で残されている。昔の道は狭いという概念があるが、なんと幅が12メートル。側溝もあって、かなり立派な道だ。北に向かうと日立中央研究所の森がみえて気分がいい。この研究所の中に野川の源流がある。春の桜の頃と、秋の紅葉時に市民に開放しているので、興味のある方はホームページでチェックしてしてください。泉がわき、池がつくられ、自然が残っていていい庭園ですよ。芝生に座るむしろも無料で貸してくれるので、のんびりするにはもってこいだ。

西国分寺駅をすぎた右側に姿見の池がある。ここらの地域は恋ヶ窪。鎌倉街道の宿駅があったところだ。地名の通りに姿見の池には悲恋物語が伝わっている。前回の真姿の池、今回の姿見といい、池は姿を見るものなんですね。このあたりは都の緑地保全地区になり、雑木が植えられ、以前訪ねたときはここでも子どもたちが小川でザリガニを釣っていた。

悲恋物語とは——。この宿の夙妻(あさづま)太夫と坂東武者畠山重忠が悲恋の主だ。重忠が西国で討ち死にしたという嘘を聞かされた夙妻は近くの姿見の池に身を投げたという。横恋慕した男の仕業だろう。

この話を知った村人が夙妻の墓をつくり、塚の上に1本の松を植えた。これが一葉松(傾城の松)で、少し北に行ったところにある。また、近くの東福寺には伝承に関する記念碑と一葉松が植えられている。

湧き水を訪ねる散歩道でした。

2010年3月 1日 (月)

ふきのとう100円❶

暖かかったので武藏国分寺跡周辺を歩いた。25日のことだ。国分寺崖線、通称ハケの崖を下る道や、崖からわき出す湧き水が小川となっていて、このあたりは武蔵野がちゃんと残されている。

JR中央線の国分寺から商店街を抜けて坂を下っていってもいいし、西国分寺からは都立武蔵国分寺公園を通って雑木林を抜けハケを下ればいい。ブラブラ歩きなんだから車が通らない方が追い立てられないので、いつもは西国分寺から国分寺跡を目指す。どっちにせよ10分くらいの距離だ。でも、この日は“国分寺書店のオババ”のいた古本屋があった頃の景観を思い出そうと国分寺で下りた。当時、高校生の頃は改札を出てから陸橋を渡って古本屋のある南口に行っていたはずだ。今はすっかり駅も変わってしまって陸橋なんて影も形もない。立派な駅ビルになっている。作家の椎名誠が「さらば」とタイトルをつけたように、もう40年くらい前に再開発で古本屋はなくなっている。面影はまったく失われている。

国分寺で下りるのはその頃、たいていは荒井晴彦(脚本家)の家に行くためだった。当時はやりのプレハブの勉強部屋を建ててもらい、そこに勉強しないやつらがたまっていた。小遣いを出し合って500円のサントリーレッドを買って来てわいわいやったり、くだらないことばかりをしていた。世の中のことも少しは話し合った。「宣言」は当然、読んでいたし、岩波新書の「昭和史」もその頃は高校生の必読書だった。でも、代々木はどうも肌合いがあわないと感じていた。そこらへんは佐藤がまじめで荒井とよく論争していた。おれはまだ知識が足りなかった。高校3年生だった。高校の頃についてはいずれ項を改めて書く。

ダラダラ坂の商店街を下って野川をわたり左に折れると「お鷹の道」にぶつかる。ハケから湧きだした清水を集めた小川だ。勢い良く流れている。6月には蛍が舞うという。「カワニナをとらないで」の看板が立てられている。小川沿いに歩けるようになっていて、別の小川が崖の方から流れ込んでいて合流する。別の流れの方には「真姿の池」があり、弁天様が祀られている。

「真姿の池」の由来はこうだ。いまから1150年ほど前のこと。玉造小町という美しい娘がいた。癩病にかかり顔が醜くなってしまった。武蔵国分寺の薬師如来に祈願したところ21日目に童子があらわれて、この池の水で体を洗えとのお告げがあった。言われた通りにすると7日目には病は治り、元の姿に戻ったという。元の姿を映したので真姿の池。

この流れも勢い良く、崖のところに行くと湧き水がどんどんと出ている。近所の人がペットボトルを持って汲みに来ている。小さな子どもは釣り竿の糸にイカのゲソをつけてザリガニをつっている。きれいな流れなのでアメリカザリガニではなくニホンザリガニがいるのか。石の間に隠れているらしい。そこを目がけて糸を垂らしていた。

ちょうど弁天様の前には農家の庭先販売所がつくってある。のぞいてみたら、ふきのとうを売っていた。1パック100円、7、8個は入っている。安い。スーパーで見たら6個入りのパックで300円だった。形は不揃いだが、味に変わりはあるものか。どうせ、畑の畦などに勝手に生えてくるものだ。おばさんに聞いたら、朝、とって来たのは売り切れたので、今しがたとって来たばかりだという。4パック買って、週末に天ぷらにした。春の苦さだった。

こういう幸せがあるので散歩は三文の得だ。でも、盛りつけた天ぷらを見たうちのオヤジは「地ものだね」と見抜いた。90歳になろうというのに、百姓育ちの目は確かだ。

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31