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2010年2月22日 (月)

近藤勇・産湯の井戸・その4

近藤勇と新選組が大衆に受け入れられるようになったのは、いつからなのだろう。善と悪の図式から言って戦後も大分、たってからだと思い込んでいた。日本の近代化を進めた明治維新が善で、それに歯向かった佐幕、ことに京都の警察権力を担った新選組は戦前は到底受け入れられていないのではないか。

どうもそれほど単純ではない。個人的に新選組=敵と勝手に信じていたにすぎないようだ。進歩史観に惑わされていたのかもしれない。

「新選組随想録」(歴研)というムックに新選組映画の表が載っていた.よくここまで調べたと感心する労作だ。それによるとはじめてつくられたのは大正3年の「近藤勇」(日活向島)で勇役は森三之助、大正10年には尾上松之助の勇で「近藤勇」(日活京都)。目玉の松ちゃんが主演しているのだから期待作だったのだろう。大正13年には「燃ゆる渦巻」(マキノ)、大正14年「新選組」(日活)、「増補新選組」(東亜等持院)と続々と製作されている。

この辺りはまったく実感がない。ともかくも近藤が映画の主役になっているのは、大衆にもその名が浸透してきた現れだろう。加太こうじさんの「興亡新選組」(光和堂、1989年刊)に時代の雰囲気を教わった。以下、同書によって新選組がどのように浸透していったかを追ってみたい。

近藤勇が英雄になったのは、私の理解に反して大佛次郎の「鞍馬天狗」だという。大佛は大正13年から鞍馬天狗を書き始めた。昭和2年からは当時最大の部数を誇った少年雑誌「少年倶楽部」に少年向けの鞍馬天狗「角兵衛獅子」の連載を始めた。これが大当たり。評判を呼んだ。近藤はどのように描かれたのか。「鞍馬天狗と対立する英雄として近藤勇が登場した。剣豪で物わかりがよく、いわば、花も実もある武士として近藤がえがかれたわけである」

単純な敵役ではないのだ。「パリ燃ゆ」でフランス革命を民衆の側から描いた大佛さんだけに、図式ではとらえていない。さすがだ。それ以前の大正末年には剣豪映画ブームがあったのだそうだ。そのため新選組の映画も数多く作られた。しかし、幕末ものをつくったとき新選組は勤王の志士を苦しめる敵役として登場した。だから近藤役は必ず、悪役専門の役者がつとめた。流れが変わってくるのは前回に書いた子母澤寛「新選組始末記」等が出版されてからだ。

さらに「角兵衛獅子」の映画化で評価ががらりと変わる。天狗はご存知アラカン、若手の歌舞伎俳優だった嵐長三郎を引き抜いて主役に据えた。近藤も従来の悪役タイプではなく、立派な人物として演出しようということになった。近藤役も舞台の剣劇スターだった山本礼三郎をもってきた。

「この山本の近藤勇が落ち着きがあってすご味があってすばらしい出来ばえだった。当時の少年は映画『角兵衛獅子』の近藤にあこがれた」(同書)

ついで人気絶頂の阪東妻三郎で「新選組隊長近藤勇」、売り出し中の大河内伝次郎は「維新の京洛」で近藤に扮した。ここで近藤に対する大衆のイメージは一変したようだ。

昭和6年には決定打が放たれる。今なお語り継がれる名作「興亡新選組」が公開されたのだ。脚本・監督伊藤大輔、主演は大河内伝次郎。加太さんの言葉を借りる。「内容はほとんど史実に近く、しかも時代の流れに抗する者の悲哀が十分にえがかれていた。この映画あたりから近藤勇のイメージが大衆のあいだに定着した。近藤勇は大衆小説と剣戟映画によって日本人の多くに知られるようになったわけである」

戦後も多くの新選組をテーマにした映画やテレビがつくられたが、多くの近藤像は、この大河内か、「角兵衛獅子」の山本を原型にしているという。

次回は戦後の描かれ方を見ていく。

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