フォト
無料ブログはココログ

« 廃線跡を歩く | トップページ | 近藤勇・産湯の井戸・その2 »

2010年2月 7日 (日)

近藤勇・産湯の井戸・その1

新選組は敵だった。勤王の志士を倒していく悪い奴らだった。いわば、日本の夜明けを遅らせる保守反動のテロリストが近藤勇を筆頭とする新選組だった。羽織の背中に染め抜いた「誠」が白々しかった。新しい日本をつくるために日夜戦っている志士たちを倒す行動が誠なんかであるわけはなかった。

そう思い込まされていた。近藤が眠る三鷹市大沢の龍源寺や、すぐ近くだが調布市の生家跡も遊びの行動範囲だったが、特に気には止めなかった。今は散歩コースの1つになった。ICU(国際基督教大学)の構内には豊かな自然が残っているし、天文台(受付で署名をすれば入れてくれる)は、もっと深い森が原始のままかと思えるほどに保たれている。その中は立ち入り禁止だが、そのうっそうとした森を眺めるだけでも、自然の偉大さに圧倒される。天文台から東八道路に戻り野川公園の正面を目指せば、野川をわたった所が竜源寺だ。

どうして幼心に新選組が許せない反動だったのだろう。おそらく映画やラジオのせいだ。両親に連れられて嵐寛寿郎のあたり役「鞍馬天狗」を見に行ったのだろう。戦後、アラカン主演では17本の「天狗」がつくられたが、どの作品だったかはもちろん覚えていない。(ちなみに戦前は23本)。杉作は美空ひばりだった。

原作は大佛次郎。「鞍馬天狗こと倉田典膳は勤王倒幕派の剣士。姿かたちは浪人スタイルだが、温厚誠実な人がらで、ひたすら庶民と勤皇派を守って佐幕派と戦う。おともは角兵衛獅子の杉作少年と侠盗・黒姫の吉兵衛」(「日本映画作品全集」キネマ旬報増刊)。「丹下左膳と並ぶ時代劇のヒーロー」とあるが、もっと絶対的な存在だったように記憶している。なにしろ天狗には時代がついている。

まだ戦後民主主義の揺籃期だった。朝鮮戦争の特需で景気は持ちなおしつつあったとはいえ日本は貧しかった。昼の弁当を持ってこられない子がたくさんいた。ズボンの膝にツギがあたっているのは当たり前だった。1クラスは50人以上だったし、教室が足りないので二部授業だった。午前と午後に分けて授業を受けるのだ。午後からだと午前中は休み、こっちは楽だったけど…。教わったのはなんと言っても民主主義だった。江戸時代の封建体制は否定されるべきものだった。

だから天狗はヒーロー。風呂敷を背中にかければ月光仮面、天狗のように角ばったりはしなかったが、頭にかぶれば正義の味方の鞍馬天狗になった。「折り目の正しい剣士ぶりと鮮やかな太刀さばきは鞍馬天狗の人気を不動のものにした。黒紋付の着流しに宗十郎頭巾という天狗の看板スタイルは寛寿郎が考案したものである」(「同」)。(余談だが、この項の執筆者は「深沢」となっている。映画評論家の深沢哲也さんだろう。西部劇を語らせたら右に出るものはないと言われた深沢さんが天狗を担当しているのが、なんとなくおかしい)。

ラジオドラマでも「鞍馬天狗」を放送していたのかもしれない。我が家にテレビが登場するのは小6か中1のときだ。街に出るには歩いて20分以上かかったし、近くの町には2番館があったが、貧乏だったので滅多に映画は見られなかった。(2番館というのは、封切館での上映が終わった後に上映する映画館。名画座ほど古くはない。プリントの状態も悪くなっており料金が安くなった)。でないと、悪ガキに鞍馬天狗が共通のヒーローにはなりにくい。無料のソースがあったと思われる。

新選組の復権が一般的な流れになるには、多くの時間が必要になる。戦後のアメリカ軍の進駐を民主主義の到来と諸手を上げて歓迎した左翼政党、その膠着した進歩主義史観が修正されるまで待たなければならなかったのかもしれない。

« 廃線跡を歩く | トップページ | 近藤勇・産湯の井戸・その2 »

三鷹市」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1320081/33287024

この記事へのトラックバック一覧です: 近藤勇・産湯の井戸・その1:

« 廃線跡を歩く | トップページ | 近藤勇・産湯の井戸・その2 »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31