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2010年2月14日 (日)

近藤勇・産湯の井戸・その2

「鞍馬天狗」の映画を見たのは、公園にスクリーンを張った夏休みのイベントだったかもしれない。どういうものかというと、公園に2本の柱を立て、その間にスクリーンを張る。近在の人たちは昼間から場所取りにむしろを敷いておく。やがて暗くなって7時過ぎから上映が始まる。子供たちはお菓子を食べながら、じっと見ているのだが、退屈するとスクリーンの後ろに回って見たりする。雨のときは当然、中止だった。

夏休みに2回くらいこうした催しがあった。誰が主催していたのだろう。プリント費は町内会が出したのか、町の予算に組み込まれていたのか。テレビが普及するまでは続いていたが今はやっていない。この野外上映会で未だに残念に思っているのが「里見八犬伝」の完結編を上映してくれなかったことだ。確か5部作で4部を上映したと思う。犬士たちが敵に囲まれ絶体絶命のピンチ、さあどうする。ここで次回のお楽しみになってしまった。

キネマ旬報の「日本映画作品全集」にあたると、やはり5部作で、1954から59年につくられている。犬塚信乃が東千代乃介、現八は中村錦乃助、監督は河野寿一。純然たる娯楽作品だが「スケールの大きな撮影で、千代乃介と錦乃助の天守閣上の死闘はまさに見もの。…映画的満足を十分に与えてくれる」と高い評価だ。子供心にわくわくしながら見たもんな。

ビデオで見るべきか、ずっと思案しているが、いつまでも高揚感を保っていた方がいいだろうと、見ないままだ。

さて、勤王の志士が善で、新選組は敵だと信じ込まされた少年が新選組を郷土のヒーローと認識するのはずっと後年になる。

明治政府が戊辰戦争の敵対者を祀ることを許可したのは1874年、明治7年のことだった。多摩地方でも近藤勇、土方歳三らの復権運動が展開された。佐藤俊正(もと彦五郎)、小島為政(もと鹿乃助)らゆかりの人々が中心になった。

佐藤は日野の下佐藤家の当主で、歳三の姉ノブを妻にしていたので歳三は、父母のいない実家よりもこちらにいることの方が多かったという。この下佐藤家で天然理心流の出稽古が行われてもいる。

小島は小野路村(町田市)の寄場名主で、勇と義兄弟の盃を交わしたが新選組には加わらず、陰から支援したという。

「殉節両雄乃碑」が歳三の菩提寺である高幡不動に建てられたのは、それから14年の年月が必要だった。明治政府の許可が出たとはいえまだ、おおっぴらに新選組を顕彰することははばかられたのだ。碑の篆額は元会津藩主松平容保、書は勇と親しかった元幕府御典医松本順。ちょっと手元にないので確認できないが、碑は完成したが久しいこと、ほっておかれたと記述している本があった。「多摩と甲州道中」(吉川弘文館)は「紆余曲折の末」と暗示するにとどめている。

1930年(昭和5)東京府南多摩村連光寺に多摩聖蹟記念館がオープンした。明治天皇の行幸地があったことによるものだが、ここの開館にも近藤ゆかりの宮川家の人がかなりの寄付をしたという。この時代になってもまだ賊の汚名は完全には拭われていなかったのかもしれない。

篆額は初め徳川慶喜に頼むべく松本順が動いたようだ。司馬遼太郎は「燃えよ剣」でこう描写している。

家令小栗尚三を通じて意向をうかがったところ、慶喜は往時を回想するように顔をあげ、
「……」
小栗が松本におくった手紙に「ただ御無言にて御落涙を催され候あいだ……」
慶喜の涙を察するに、譜代の幕臣の出でもないこの二人が最後まで自分のために働いてくれたことに、人間としての哀憐の思いがわき、思いに耐えかねたのであろう。

ひたすら恭順していた慶喜は、書きたくても書けなかったのかもしれない。

新選組復権の大きなエポックは子母澤寛「新選組始末記」を待たねばならない。


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