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2010年2月の記事

2010年2月27日 (土)

近藤勇・産湯の井戸・その6

佐藤忠男さんの解説の続き。

「これは、たぶん、新選組というのが、一つの意地に生き抜いた集団であるとうところからくるのではなかろうか。かれらは百姓から武士になりあがろうとして懸命に努力した。しかもそれは、卑屈な態度で支配階級にとり入るというようなやりかたではなく、あくまでも堂々と、自分たちの能力を誇示しながらやり抜いた。しかし、無知な百姓あがりや素寒貧の浪人あがりの悲しさからか、天下の大局を見る目をもたず、滅びる側についたために、その努力は挫折した.しかし、挫折しながらも、既成の佐幕派の武士たちがろくに戦いもせず時勢に流されていったなかにあって、とにもかくにも全力をつくして敗れて死んだ。つまり、バカはバカなりに、意地だけはたてとおした。その、意地だけはたてとおしたというところに、現代の観客の泣きどころに触れるものがあるのだと思う」。

バカよばわりである。「天下の大局を見る」と「時勢に流され」はどう違うのか。大局を見て日和見を決め込んだ方が良かったのか。近藤は武士になりたかった。多摩は天領でもある。佐幕になるのは必然でもある。立場は尊皇佐幕だった。ために、時代に乗り遅れてしまった。

新選組が戊辰戦争で敗れ、甲陽鎮撫隊を組織した時に近藤は、甲府を抑えれば10万石の大名にしてやると手形をもらった。実は勝海舟らに体よく江戸から移動させられたというのが真相らしいが、近藤はこのとき本気で大名になることを夢見ていた。土方には5万石、沖田には3万石をやろうと約束したという。

司馬遼太郎は「燃えよ剣」で、「幕府瓦解のときに、大名になることを考えた男は、近藤勇ただ一人であったろう」と皮肉を込めて一行を記している。近藤はこっけいである。でも、愛すべき思考だ。時流に乗ることだけが正しいわけではない。時代の波にあらがった生き方だってあっていい。

薩長だって自藩の利益のために尊皇攘夷を利用した。開港によって日本の鉄や木綿を扱う商人は大打撃を受けた。外国の安い鉄や木綿が入ったためだ。商人たちは自分たちの利のために攘夷を口にした。「幕府中心の政治をやめさせて、幕府もふくんだ日本中の大藩の連合体による政治をして、どうせ開港するなら、利益を分けあおうという考えが徳川氏と親戚関係にない外様大名などから起った」(加太こうじ著「興亡新選組」)。こうした背景があって時流は維新に傾いた。だから、明治になると攘夷のスローガンはすぐにおろされた。攘夷なんかできっこないとは薩長も考えていた。ただ、維新に力を結集するために攘夷を唱えていたにすぎない。

加太さんの先祖は幕末には政商だった。幕府が敗れ家産を失った。父親の菊太郎氏についてはこう記している。「一徹なところがあって『日の丸なんてものは、ご一新のときに薩長のやつらが東京へ持って来たもんだ。江戸っ子の旗じゃあねえから、加太の家では立てる必要はない』といって、日の丸を門口へかかげることもしなかった」(前掲書)。

ご自身についても「そんな家に育ったから、わたしは薩長がきらいで、彰義隊、白虎隊、新撰組などには比較的幼い頃から興味を持っていた。子ども心にも家計が苦しいのは薩長藩閥政府に連なる人びとが天下を取っているからだと思っていた」。

こうした心情は戦後すぐに生まれた私の中にも少しは残っている。だから、多摩が生んだヒーロー近藤や土方の一途な生き方に共鳴したくなる。

明治になって多摩は自由民権運動の拠点となった。自由民権運動と 新選組の土壌は同じだと言ったら驚くだろうか。近藤らを支えた豪農たちが明治になって自由民権運動を戦った。こちらは別の機会に触れていく。

近藤勇・産湯の井戸・その5

新選組の映画は戦後も作り続けられる。「伊藤大輔監督の戦前の名作『興亡新選組』(1930)にはとても及ばないが、…これはこれで楽しめる骨太の娯楽映画」(日本映画作品全集、キネマ旬報社)と微妙な褒められ方をしている東映の「新選組」(監督佐々木康、1958)が一応の代表か。近藤勇は片岡千恵蔵が熱演している。そのほか、「新選組鬼隊長」(1954)、「壮烈新選組幕末の動乱」(1960)=以上東映=、「新選組・始末記」(1963、大映)、「新選組血風録・近藤勇」(1963、東映)などがあげられる。三船敏郎が近藤に扮した「新選組」(1969、東宝)は、沢島忠監督によるオールスターキャストの豪華版。中村錦之助、三国連太郎、北大路欣也らが共演したが、欲張りすぎて拡散した内容になってしまった。

近藤中心の捉え方から流れが変わるのは篠田正浩監督の「暗殺」(1964、松竹)から。主人公は清河八郎(丹波哲郎)にすえた。幕府を欺いて浪士隊を結成、京都に入って尊王攘夷の勅諚をもらい、倒幕勢力に仕立て上げようとした策士に焦点を当て、幕末の動乱を鮮やかに描き出している。原作は司馬遼太郎の「幕末」だ。坂本龍馬はなんと佐田啓二、年を取りすぎている感じもするキャスティングだが、重厚感を持たせようとしたのかな。

新選組のとらえ直しはすでに司馬遼太郎がはじめていた。1962年から週刊文春で「燃えよ剣」の連載が開始されたのだ。主人公は近藤ではなく土方歳三。大国魂神社のくらやみ祭りから始められる。男女の自由な出会いが許された祭りの夜、宮司の娘との半ば強引な出会い、そして近藤を支えた冷徹な組織者として描き、函館戦争まで戦い抜いた姿に「最後の武士」を見る。

「燃えよ剣」は11月から2年後の64年3月まで連載されたが司馬は5カ月前の62年6月からサンケイ新聞で「竜馬がゆく」の連載を始めている。大きくくくって勤王と佐幕の両面から幕末をとらえようとしたのだろう。

こうした中で歳三ブームが巻き起こり、沖田総司がアイドル的な人気を博すことになる。1965年にNET(テレビ朝日)で「新選組血風録」がドラマ化された。歳三は栗塚旭。これが当たり役になった。欲念の1966年には「燃えよ剣」が映画化、歳三はもちろん栗塚、勇は和崎俊哉、総司は石倉英彦だ。この年の1月には歳三を内田良平、勇は小池朝雄、総司は杉良太郎でテレビ東京がドラマ化してもいる。

1970年にはテレビ朝日がドラマ化。歳三は栗塚、勇舟橋元、総司は島田順司だった。評判になり新選組は悪役から人気者になってしまった。特に総司ブームはとどまるところを知らなかった。女性ファンが退去して麻布の総司の墓を訪れ、絶えず訪れるので今では命日にしか立ち入れないようになってしまった。

明治維新から100年を経過、幕末の血みどろの戦いもはるか彼方のことになってしまったのか。おそらくブームの背景には「善」でも「悪」でもない新選組があるだけだ。価値観をなくして漂う新選組は、すでに歴史的な存在から離れてしまっている。それではつまらないではないか。反革命集団として否定されながらも、武士としての生き方を貫いた姿にこそ美学があるのではないか。04年にはNHK大河ドラマで「新選組」が放送された。歳三の兄役で栗塚旭が、死期の近い総司をかくまい療養させた植木屋で、かつてブームを巻き起こした島田順司が出演していた。脚本の三谷幸喜の遊びと言うかオマージュだったのだろう。今放送している「龍馬伝」で新選組はどう描かれるのか。

評論家の佐藤忠男さんは「日本映画思想史」(三一書房)の中でこう位置づけている。客観的に見れば佐藤さんが正しいのだろう。「新選組というのは、明治維新における反革命暴力集団みたいなものだから、歴史上の役割から見て彼等を支持する人々というのは現代ではほとんどいないはずである。にもかかわらず、映画の時代劇のなかでは、新選組は、昭和一〇年代から今日まで、かわらぬ人気をもってつくられつづけている。べつにかれらを、英雄だとも、正義の士だともいわないにもかかわらず、かれらはいわゆる憎々しい敵役とは違う一を幕末ものの時代劇の中で確保しつづけてきた」

その理由を次に解説する。

(長くなってしまったので次の回に改めます)

2010年2月22日 (月)

近藤勇・産湯の井戸・その4

近藤勇と新選組が大衆に受け入れられるようになったのは、いつからなのだろう。善と悪の図式から言って戦後も大分、たってからだと思い込んでいた。日本の近代化を進めた明治維新が善で、それに歯向かった佐幕、ことに京都の警察権力を担った新選組は戦前は到底受け入れられていないのではないか。

どうもそれほど単純ではない。個人的に新選組=敵と勝手に信じていたにすぎないようだ。進歩史観に惑わされていたのかもしれない。

「新選組随想録」(歴研)というムックに新選組映画の表が載っていた.よくここまで調べたと感心する労作だ。それによるとはじめてつくられたのは大正3年の「近藤勇」(日活向島)で勇役は森三之助、大正10年には尾上松之助の勇で「近藤勇」(日活京都)。目玉の松ちゃんが主演しているのだから期待作だったのだろう。大正13年には「燃ゆる渦巻」(マキノ)、大正14年「新選組」(日活)、「増補新選組」(東亜等持院)と続々と製作されている。

この辺りはまったく実感がない。ともかくも近藤が映画の主役になっているのは、大衆にもその名が浸透してきた現れだろう。加太こうじさんの「興亡新選組」(光和堂、1989年刊)に時代の雰囲気を教わった。以下、同書によって新選組がどのように浸透していったかを追ってみたい。

近藤勇が英雄になったのは、私の理解に反して大佛次郎の「鞍馬天狗」だという。大佛は大正13年から鞍馬天狗を書き始めた。昭和2年からは当時最大の部数を誇った少年雑誌「少年倶楽部」に少年向けの鞍馬天狗「角兵衛獅子」の連載を始めた。これが大当たり。評判を呼んだ。近藤はどのように描かれたのか。「鞍馬天狗と対立する英雄として近藤勇が登場した。剣豪で物わかりがよく、いわば、花も実もある武士として近藤がえがかれたわけである」

単純な敵役ではないのだ。「パリ燃ゆ」でフランス革命を民衆の側から描いた大佛さんだけに、図式ではとらえていない。さすがだ。それ以前の大正末年には剣豪映画ブームがあったのだそうだ。そのため新選組の映画も数多く作られた。しかし、幕末ものをつくったとき新選組は勤王の志士を苦しめる敵役として登場した。だから近藤役は必ず、悪役専門の役者がつとめた。流れが変わってくるのは前回に書いた子母澤寛「新選組始末記」等が出版されてからだ。

さらに「角兵衛獅子」の映画化で評価ががらりと変わる。天狗はご存知アラカン、若手の歌舞伎俳優だった嵐長三郎を引き抜いて主役に据えた。近藤も従来の悪役タイプではなく、立派な人物として演出しようということになった。近藤役も舞台の剣劇スターだった山本礼三郎をもってきた。

「この山本の近藤勇が落ち着きがあってすご味があってすばらしい出来ばえだった。当時の少年は映画『角兵衛獅子』の近藤にあこがれた」(同書)

ついで人気絶頂の阪東妻三郎で「新選組隊長近藤勇」、売り出し中の大河内伝次郎は「維新の京洛」で近藤に扮した。ここで近藤に対する大衆のイメージは一変したようだ。

昭和6年には決定打が放たれる。今なお語り継がれる名作「興亡新選組」が公開されたのだ。脚本・監督伊藤大輔、主演は大河内伝次郎。加太さんの言葉を借りる。「内容はほとんど史実に近く、しかも時代の流れに抗する者の悲哀が十分にえがかれていた。この映画あたりから近藤勇のイメージが大衆のあいだに定着した。近藤勇は大衆小説と剣戟映画によって日本人の多くに知られるようになったわけである」

戦後も多くの新選組をテーマにした映画やテレビがつくられたが、多くの近藤像は、この大河内か、「角兵衛獅子」の山本を原型にしているという。

次回は戦後の描かれ方を見ていく。

2010年2月20日 (土)

近藤勇・産湯の井戸・その3

近所の肉屋に買い物に行った。店のご主人と無駄話をして同級生のことになった。
「木工所の平井くんと一緒なんですよ」
「タイちゃん?」
「名前は忘れた」
「タイちゃんは天然理心流を継ぐただ一人なんだそうですよ」
「えっ!」
「NHKの新選組のときにはテレビに出てましたよ」

家に戻って小学校の卒業アルバムの集合写真を見たら最前列に座っていた。名前を確認すると「タイちゃん」だった。帰り道が一緒の方向なのでよく遊んだ。高学年になって、いつのまにか疎遠になってしまったが、剣道を、それも天然理心流を習っているとはまったく知らなかった。アルバムでは、足を開いてどっしりと椅子に腰掛けている。そう聞かされるとなんだか、姿勢がしっかりしているような気がする。
生家の向かいに近藤勇の甥勇五郎(1851〜1933)が開いた剣道場「撥雲館」に通ったのだろうか。

勇五郎は、勇の娘と結婚し、近藤姓を継いでいる。勇五郎は板橋で近藤の処刑を目撃し、遺体を掘り起こして菩提寺の龍源寺に運んだ。首は京都でさらされたが、遺体が菩提寺に眠っているのはこのためだ。

勇の生家跡と人見街道を挟んだ向かい側に撥雲館の看板もある。敷地は200坪ではすまない。広すぎてわからないが300坪はあるだろうか。野菜を植えたりしている。

近藤勇と新選組が朝敵の汚名をそそぐには昭和まで待たねばならない。子母澤寛の「新選組始末記」、平尾道雄の「新撰組史」の出版が一つの契機になった。昭和3年だった。戊辰戦争から60年、これが作家・子母澤のデビューだった。新聞記者だった子母澤は新聞の連載で維新ゆかりの人々を尋ねた聞き書きを担当した。

「新撰組始末記」は小説ではない。ゆかりの人々への聞き書きだ。男爵の山川健次郎博士は「永倉新八序」でこう語っている。「初め芹沢鴨が其の隊長なりしときには、規律も厳ならず暴悍の行なきにしもあらざりしが、近藤勇が隊長となり京都守護職に附属せしより、隊長勇を初めとし、其の責任の重きを自覚し、規律を厳粛にし、恒に守護職の命令により行動したる適法の警察隊なりき。故に当時有志の徒と称する過激派の浪人等は、新撰組の取締を受けて其跋扈を逞しうし得ざりしより、新撰組を不倶戴天の仇とせり」

適法の警察隊と正当性を認めている。其の取締が維新後に恨みを買ったという。
「維新後此の浪人と同系統の人々政権を握り、新撰組の適法の行為を犯罪となし、其の私怨を報揺るに至れり。近藤勇の犯罪は甲州勝沼の一戦と、関東に於ける戦闘準備のみなるかかわらず、勇を斬に処したる後、其首を京都に送りて之を し、京都を以て犯罪地とし、勇が京都に於ける適法の行為を犯罪となししは、私怨を報いたる一例なり」

さらに維新後の新撰組の悪評、賊呼ばわりについてはこう解説する。
「且彼等は口に筆に、新撰組を罵りて私設の暴行団体の如く云い倣せり、爰に於て世人も亦往々之に惑わされ、小説に講談に、新撰組を暴行団体の如く信ずるに至る。而してその寃を解くものなきは予の遺憾とするところなり」

私らもこの延長で新選組が時流に逆らう暴力集団と思い込まされたのだ。

子母澤はなぜ新選組の真実を記録しようとしたのか。実は彼の祖父は彰義隊の一員として上野の戦争に加わった。さらに函館・五稜郭まで行って土方歳三らとともに戦った。降伏後、とらわれの身となったが士籍を返還して札幌近辺で開墾事業に従い、その後、厚田村に移住した。
子母澤が生まれたのは厚田村の網元の家。

祖父から上野の戦争や函館での戦いについて聞かされたに違いない。祖父は徳川の世はよかったと懐かしんだことだろう。図らずも朝敵になったが、新選組は世情言われるような犯罪集団ではないと繰り返し聞かされたことだろう。土方はヒーローだったかもしれない。

「新選組始末記」(中公文庫)の解説で尾崎秀樹は「彰義隊崩れを祖父に持つ彼は、維新の動乱を藩閥政府から見ることある種の不満を抱いていたに違いない.それは勝てば官軍の発想によるお手盛りの明治維新観に対する無意識の批判であり、彼なりに維新史をとらえ直してみたいという欲求にたつものだった」と執筆動機を推測している。

しかし、まだ新選組復権の狼煙が上がったにすぎない。新選組に対する抵抗が薄れ、ブームとなるまでにはまだ40年近くが必要だった。


2010年2月18日 (木)

都はるみのこと

TBS「チューボーですよ」を見たかと会う人ごとに尋ねた。月曜に集まったおっさん4人と長老の5人のうち4人は見ていた。最近はNHK「東京カワイイTV」にチャンネルをあわせることが多いが13日は再放送だったので「チューボー」になった。

「東京カワイイ」は若い女性の流行の最先端を紹介しているので、おっさんにもためになる。6日は世界に発信する日本のファッションで、フランスの顔グロ娘、スペインのアニメコスチューム娘なども紹介、NHk だからやらせはないんだろう。興味深かったのは日本の女性ファッション誌の中国進出だった。日本発売から2週間くらいで見出しや記事を中国語になおして発売、確か「レイ」という雑誌は日本の発行部数は20万部だが、中国では100万部を発売しているという。まだ中国の一部に進出しているのにすぎないのだろうから、これがさらにマーケットが拡大したら出版社にとっても魅力は大きい。

不況の中、男社会は元気がないが、若い女性は世界に発信できるパワーを秘めているのかもしれない。その前には、女性ジョガーなどのファッションを取り上げていた。皇居を1周する彼女たちを「美ジョガー」というんだそうだ。あえるかなと思って四谷から有楽町まで歩いたが、時間が合わなかったのか男ばかりだった。

「チューボー」のゲストは都はるみ。「料理番組に出るのは久しぶりですか」とか司会の堺正章が聞いていたが、デビュー時はいざ知らず、ほとんどないのではないか。堺が料理だか食べ物にかけて「あんこ」というと、あのうなりを効かせて都が「あんこ〜」と歌いながら登場した。自然に入ってきてもう、スタジオの空気を支配していた。

さらに結婚の話を堺が振って、都は「私は外に出ていて、お帰りなさいとねぎらいの言葉があって、食卓には料理ができている。そんな人が…」と答えて、「浪速恋しぐれ」が流れる。当然、2人のデュエット。コント仕立てだが、歌詞とぴったりはまっていた。「あんたが日本一の料理人になるためやったら あたしはどんな苦労もしてみせます」の台詞が前述の都のコメントに重なってクスリとさせる趣向だ。歌のために堺はずいぶんと練習したようだ。

都がこうしたバラエティ番組に出演したのは記憶にないが、素のままの彼女がそこにいたように感じた。
肩の力が抜けていて、無理をしないで出演を楽しんでいる。「あ、変わったな」と思った。これは開放感なのかもしれない。戦い続けたプレッシャーを乗り越え、うまく自分の中で折り合いを付けた姿なのだろうか。

昨年、長年のパートナーでもあったプロデューサーが亡くなった。多額の負債が残ったという。最高のステージを作り上げるためなどが原因だったようだ。都は昨年、負債の半分を返却したという。すごいがんばりだ。これまでのこと、これからのこと、すべてを彼女に聞いてみたい。

これから、どんな都はるみが繰り広げられるのか。番組を見終わって、わくわくと期待している自分がいた。

2010年2月14日 (日)

近藤勇・産湯の井戸・その2

「鞍馬天狗」の映画を見たのは、公園にスクリーンを張った夏休みのイベントだったかもしれない。どういうものかというと、公園に2本の柱を立て、その間にスクリーンを張る。近在の人たちは昼間から場所取りにむしろを敷いておく。やがて暗くなって7時過ぎから上映が始まる。子供たちはお菓子を食べながら、じっと見ているのだが、退屈するとスクリーンの後ろに回って見たりする。雨のときは当然、中止だった。

夏休みに2回くらいこうした催しがあった。誰が主催していたのだろう。プリント費は町内会が出したのか、町の予算に組み込まれていたのか。テレビが普及するまでは続いていたが今はやっていない。この野外上映会で未だに残念に思っているのが「里見八犬伝」の完結編を上映してくれなかったことだ。確か5部作で4部を上映したと思う。犬士たちが敵に囲まれ絶体絶命のピンチ、さあどうする。ここで次回のお楽しみになってしまった。

キネマ旬報の「日本映画作品全集」にあたると、やはり5部作で、1954から59年につくられている。犬塚信乃が東千代乃介、現八は中村錦乃助、監督は河野寿一。純然たる娯楽作品だが「スケールの大きな撮影で、千代乃介と錦乃助の天守閣上の死闘はまさに見もの。…映画的満足を十分に与えてくれる」と高い評価だ。子供心にわくわくしながら見たもんな。

ビデオで見るべきか、ずっと思案しているが、いつまでも高揚感を保っていた方がいいだろうと、見ないままだ。

さて、勤王の志士が善で、新選組は敵だと信じ込まされた少年が新選組を郷土のヒーローと認識するのはずっと後年になる。

明治政府が戊辰戦争の敵対者を祀ることを許可したのは1874年、明治7年のことだった。多摩地方でも近藤勇、土方歳三らの復権運動が展開された。佐藤俊正(もと彦五郎)、小島為政(もと鹿乃助)らゆかりの人々が中心になった。

佐藤は日野の下佐藤家の当主で、歳三の姉ノブを妻にしていたので歳三は、父母のいない実家よりもこちらにいることの方が多かったという。この下佐藤家で天然理心流の出稽古が行われてもいる。

小島は小野路村(町田市)の寄場名主で、勇と義兄弟の盃を交わしたが新選組には加わらず、陰から支援したという。

「殉節両雄乃碑」が歳三の菩提寺である高幡不動に建てられたのは、それから14年の年月が必要だった。明治政府の許可が出たとはいえまだ、おおっぴらに新選組を顕彰することははばかられたのだ。碑の篆額は元会津藩主松平容保、書は勇と親しかった元幕府御典医松本順。ちょっと手元にないので確認できないが、碑は完成したが久しいこと、ほっておかれたと記述している本があった。「多摩と甲州道中」(吉川弘文館)は「紆余曲折の末」と暗示するにとどめている。

1930年(昭和5)東京府南多摩村連光寺に多摩聖蹟記念館がオープンした。明治天皇の行幸地があったことによるものだが、ここの開館にも近藤ゆかりの宮川家の人がかなりの寄付をしたという。この時代になってもまだ賊の汚名は完全には拭われていなかったのかもしれない。

篆額は初め徳川慶喜に頼むべく松本順が動いたようだ。司馬遼太郎は「燃えよ剣」でこう描写している。

家令小栗尚三を通じて意向をうかがったところ、慶喜は往時を回想するように顔をあげ、
「……」
小栗が松本におくった手紙に「ただ御無言にて御落涙を催され候あいだ……」
慶喜の涙を察するに、譜代の幕臣の出でもないこの二人が最後まで自分のために働いてくれたことに、人間としての哀憐の思いがわき、思いに耐えかねたのであろう。

ひたすら恭順していた慶喜は、書きたくても書けなかったのかもしれない。

新選組復権の大きなエポックは子母澤寛「新選組始末記」を待たねばならない。


2010年2月 7日 (日)

近藤勇・産湯の井戸・その1

新選組は敵だった。勤王の志士を倒していく悪い奴らだった。いわば、日本の夜明けを遅らせる保守反動のテロリストが近藤勇を筆頭とする新選組だった。羽織の背中に染め抜いた「誠」が白々しかった。新しい日本をつくるために日夜戦っている志士たちを倒す行動が誠なんかであるわけはなかった。

そう思い込まされていた。近藤が眠る三鷹市大沢の龍源寺や、すぐ近くだが調布市の生家跡も遊びの行動範囲だったが、特に気には止めなかった。今は散歩コースの1つになった。ICU(国際基督教大学)の構内には豊かな自然が残っているし、天文台(受付で署名をすれば入れてくれる)は、もっと深い森が原始のままかと思えるほどに保たれている。その中は立ち入り禁止だが、そのうっそうとした森を眺めるだけでも、自然の偉大さに圧倒される。天文台から東八道路に戻り野川公園の正面を目指せば、野川をわたった所が竜源寺だ。

どうして幼心に新選組が許せない反動だったのだろう。おそらく映画やラジオのせいだ。両親に連れられて嵐寛寿郎のあたり役「鞍馬天狗」を見に行ったのだろう。戦後、アラカン主演では17本の「天狗」がつくられたが、どの作品だったかはもちろん覚えていない。(ちなみに戦前は23本)。杉作は美空ひばりだった。

原作は大佛次郎。「鞍馬天狗こと倉田典膳は勤王倒幕派の剣士。姿かたちは浪人スタイルだが、温厚誠実な人がらで、ひたすら庶民と勤皇派を守って佐幕派と戦う。おともは角兵衛獅子の杉作少年と侠盗・黒姫の吉兵衛」(「日本映画作品全集」キネマ旬報増刊)。「丹下左膳と並ぶ時代劇のヒーロー」とあるが、もっと絶対的な存在だったように記憶している。なにしろ天狗には時代がついている。

まだ戦後民主主義の揺籃期だった。朝鮮戦争の特需で景気は持ちなおしつつあったとはいえ日本は貧しかった。昼の弁当を持ってこられない子がたくさんいた。ズボンの膝にツギがあたっているのは当たり前だった。1クラスは50人以上だったし、教室が足りないので二部授業だった。午前と午後に分けて授業を受けるのだ。午後からだと午前中は休み、こっちは楽だったけど…。教わったのはなんと言っても民主主義だった。江戸時代の封建体制は否定されるべきものだった。

だから天狗はヒーロー。風呂敷を背中にかければ月光仮面、天狗のように角ばったりはしなかったが、頭にかぶれば正義の味方の鞍馬天狗になった。「折り目の正しい剣士ぶりと鮮やかな太刀さばきは鞍馬天狗の人気を不動のものにした。黒紋付の着流しに宗十郎頭巾という天狗の看板スタイルは寛寿郎が考案したものである」(「同」)。(余談だが、この項の執筆者は「深沢」となっている。映画評論家の深沢哲也さんだろう。西部劇を語らせたら右に出るものはないと言われた深沢さんが天狗を担当しているのが、なんとなくおかしい)。

ラジオドラマでも「鞍馬天狗」を放送していたのかもしれない。我が家にテレビが登場するのは小6か中1のときだ。街に出るには歩いて20分以上かかったし、近くの町には2番館があったが、貧乏だったので滅多に映画は見られなかった。(2番館というのは、封切館での上映が終わった後に上映する映画館。名画座ほど古くはない。プリントの状態も悪くなっており料金が安くなった)。でないと、悪ガキに鞍馬天狗が共通のヒーローにはなりにくい。無料のソースがあったと思われる。

新選組の復権が一般的な流れになるには、多くの時間が必要になる。戦後のアメリカ軍の進駐を民主主義の到来と諸手を上げて歓迎した左翼政党、その膠着した進歩主義史観が修正されるまで待たなければならなかったのかもしれない。

2010年2月 4日 (木)

廃線跡を歩く

府中の郷土の森博物館を出て左手に歩くと、まっすぐな道と交差する。北に向かってどこまでもまっすぐだ。大分さきには中央高速が見えるが、その下をくぐってもまだまっすぐだ。畑の中の道は、緩やかなカーブを描いていたりするが、この道はひたすら直線だ。

住宅が押し寄せてきてはいるが、まだまだ広い畑が残っている。今は大根や白菜が植えられている。こんなに広い畑を見るのは久しぶりだ。遊歩道だから車は通らない。それでいて片側1車線弱の広さがあるから自転車とすれ違っても気にならない。

西に傾いた日を浴びながら畑の作物に目をやりながら歩く。気づいて振り返ったら府中の森の雑木林の向こうに多摩丘陵が緑一杯だった。丘の麓には、大麻止乃豆乃天神社(といっても急な階段をのぼる)や城山公園があるので宅地造成から免れている。おおまとのつの神社は延喜式の式内社で由緒ある社だ。「新吉原 五十軒通り平松屋」が寄進した灯籠があった。明治二年と彫ってあった。卜占業者に崇敬されたということなので、はるか吉原の業者がここまでお参りに来ていたのか。

散歩の人や買い物の主婦が通るだけなので静かだ。車の音も聞こえない。のんびりと歩けて気持ちがいい。空気もきれいだ。ここは下河原緑道。昔の下河原線の跡なのだ。だから、まっすぐ。

「下河原線は、1910(明治43)年に東京砂利鉄道として多摩川で採取した砂利を輸送する目的のため、国分寺—下河原間に開通した。その後、東京競馬場前まで分岐線が開業し、旅客業務も開始した。しかし、1973(昭和48)年開業の武蔵野線に旅客業務をゆずり、1976年には貨物輸送も廃止された.国分寺ー西国分寺ー北府中間は現在も中央線・武蔵野線が走っているため、下河原線の跡はほとんど確認できない」(東京多摩散歩25コース、仙田直人、山川出版社)

そういえば、東京競馬場前駅が日本一だか、何番目だかに長い駅名だと話題になったことがあった。いつの間にかなくなっていたが、南武線と、武蔵野線の府中本町駅に吸収されてしまったのだ。

この緑道にある農家の庭先販売所は充実している。普通は数種類を置いているだけで、ほとんど無人だが、ちゃんとおばちゃんが店番をしている。種類も20品以上置いている。大根、人参、ジャガイモ、白菜など。知らない野菜も並んでいたがメモするのを忘れた。奥さんたちが自転車で買いにきている。新鮮で安いのだろう。

緑道を外れて右にちょっと入った所には産みたて卵の直売所もあった。「家の光に紹介されました」と宣伝がしてあった。自信がありそうだ。その近くには和菓子のアウトレットがあった。工場の道路側を小さな店舗にして和菓子を売っている。ここにも自転車のママさんがたかっていた。肉類さえどこかで求めれば晩のおかずは新鮮なもので調達できそうだ。いい町だ。

まっすぐ歩いて右手にイトーヨーカ堂が見えたらそこが府中本町駅、ずっといけば南武線にぶつかる。そこらあたりから左に行けば分倍河原駅。気分次第でどちらでも。なおもまっすぐいけば旧甲州街道。街道を右に行けば大国魂神社が見えてくる。京王線府中駅はその北側だ。

郷土の森の梅まつりも始まった。「国府はいつできたか&調査速報」の特別展も始まっている。梅の見頃を計ってまた郷土の森を訪ねよう。

2010年2月 3日 (水)

またまた・消えた弥生時代

移住元の浜松市博物館の鈴木敏則さんはこのようにまとめている。
「こうした遺跡が他にも厚木市御屋敷添遺跡とか寒川町高田遺跡とか大蔵東原遺跡などで確認されています。相当大規模に相模の地へ、しかも短期間に広域的に、三河・遠江からヒトが入ってきているとしか思われないわけです西川修一さんもいわれているように、たとえば武装集団や侵略者が来たという状況ではないだろう.そういった集団であれば、武器と鍋釜だけもってくればいいわけですが、そうしたものだけでなく、生活文化一切合財持って移動してきているわけですので、どうも家族を単位にした集団が短期間に入ってきていると想定せざるを得ないわけです」

「すると、相模の地になぜ遠くの地域からヒトが入ってきたのかというのが問題になるわけです.相模の地には、後期後半には独自の土器様式がない.ないというよりは、どうも人口が少ない状況が生まれていたのではないか.そのために、遠江や三河からの入植が容易になされたのではないかと考えているわけです」

相模の人口が減ったことを三河などの人が、いち早く察知している。当時、三河や遠江は人口過剰だった。遺跡の状況を見ると、海上ルートでヒトが頻繁に移動したり交流をしていた。そのため情報入手は可能だった。

さがみ(当時は相模とはもちろん言っていない)はヒトがいなくなったからチャンスだ。移り住めば米がたらふく食えるぞ!と移住を募ったのかもしれない。

東京湾の内陸部についてはこう見ている。
「菊川式土器は、相模湾の西の方に入って、相模の土器様式に影響を及ぼしているようです。そしてさらに東へ移動し、東京都新宿区の下戸塚遺跡では、菊川式土器を持った人が開村に関わったようです.荒川流域の板橋区とか埼玉県の和光市付近にも、菊川式土器がたくさん出ているわけで、かなりの量になります。影響の強さや土器量から考えて、当然ヒトの移動を想定しなければなりません。ヒトの移動も、やはり当地の情報が遠江にもたらされていたからこそできたと考えているわけです」。

シンポジウムは岡本孝之さんがまとめを述べた。
「弥生文化は基本的には南関東で止まっていますから、後期は北に拡大しようとするその方法をめぐって各地の勢力がいろいろな試行錯誤、模索をするという段階なのではないかと考えています。……それが古墳時代になるとそのジレンマが一挙に解放されて、東北中部の宮城県仙台市を越えた辺りまで拡大することになります。…北へ広がろうとする弥生文化以来の運動は、奈良・平安時代のいわゆる蝦夷征伐、坂上田村麻呂などの歴史とつながっていくのです」。

縄文時代がおわって、人口が激減する現象が出現した。相模については富士山の噴火と見る人もいる。では、武藏ことに多摩はどうか。弥生を経ずにいきなり古墳時代に入ったように見える。まず田園調布や狛江の古墳群、これがすたれるとさきたま古墳群など北に中心が移る。

「北へ広がろうとする弥生の運動」とはなにか。文化だけが伝播したのか。縄文文化を保ってきた人たちが受け入れたのか。このシンポジウムから理解すると、舟で東京湾までやってきた菊川の人たちがやがて、多摩川や荒川をさかのぼり、西から伝わってきた古墳文化を定着させたのか。それともまた別の一派が古墳文化を伝えたのか。どうも、無人の地に古墳文化を根付かせた人たちがいたような気がしてならない。多摩の文化には断絶がありそうだ。その原因は不明だ。

以上、いろいろと考えてきたが、教科書で習った縄文から弥生、そして古墳という段階は多摩では成立しない。こうした段階は西の歴史だ。東の私も西の歴史がさも列島全体の歴史のように覚え込まされていた。権力中心の歴史叙述ではそうならざるを得ないのだろうけど、せめて副読本では多摩の空白時代などの解説があっても良かった。さらに東北の人たちは、西の歴史をどう受け取っているのだろう。それは自分たちの歴史ではない。列島を支配した人を中心にした記述だと断ってから、西の歴史を教える必要がある。

また・消えた弥生時代

多摩では、縄文から弥生へと連続的に続くのではなく、何か大きな要因が発生した。その結果、多量に残した縄文遺跡をそのままにして、縄文人が蒸発してしまった。小金井公園にある江戸・東京たてもの園のビジターセンターでは古代から戦国までの出土品を展示していた。縄文の遺跡は、そのほぼ半分を占めるのに対して弥生はまことにあっさりとしたもの。出土品はなしだ。出てこないんだから、展示しようがない。

これは相模のことだけど参考となる事実があった。弥生時代の後期、相模では人口が激減した。急にいなくなってしまったようなのだ。「考古学リーダー1 弥生時代のヒトの移動〜相模湾から考える〜」(西相模考古学研究会編 六一書房、2002年刊)は、それの報告やシンポジウムをまとめた本だ。

考古学財団・池田治さんはまず、綾瀬市の神崎遺跡について、出土した土器が三河あたりの土器に非常に近い、95%がよそから来た土器だと指摘する。しかも、土器の特徴は三河だが、材料の土はそうではないという。ここから導かれるのは「土器が持ち込まれたのではなくて、土器を作る人が来てこちらで作ったから形はそっくりでけれど土は故知の土ではない、そういうふうに理解できるのではないかと思います」。

相模に三河から集団移住している。

東京都埋蔵文化財センターの及川良彦さんは、東京についての報告。「例えば集落が減る時期、後期の初頭、遺跡数はかなり減りますけれど、その段階もたとえば宮ノ台の縮小に伴って、村の状態がずたずたになってくるという考え方も一つあるだろうし、低地に志向して動いたということもまだ頭の隅っこに入れておいたほうがいいのではないかと考えています」。

何か変化があったようだ。及川さんはずたずたではなく低地への志向を考えているようだ。だが、遺跡はまだ出ていない。次に武藏も相模と似た状況あったという。
「そもそも武蔵野台地の所に菊川系の人が後期の前半にだいぶ入ってきています。菊川のどの地域の人かわからないんですけれど、もともと低地に住んでいた人たちが動いてきているのではないかというイメージを持っていまして、低地に住んでいた人が関東に来たときに、いきなり台地の上に登ってしまうのかな気がしております」。

移動手段については「今のままでいきますと、いわゆる舟に乗ってきて東京湾に入ってきたときに、そのま外洋の舟で川をさかのぼったりはたぶん、できないと思うので、どこかで舟を捨てないといけないと思います。舟を捨ててそのまま台地の上に、たとえば菊川系の人が登ってしまうのか私は疑問に思っています。たぶん低地に一度村を作っているのではないかというふうに考えています」。

相模にも武藏にも駿河から大量に人々が移住してきている。舟で伊豆半島の沿岸をたどりながら進み、東京湾にまで達した。武藏といってもまだ東部にとどまっているようだ。

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