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2010年1月31日 (日)

続・消えた弥生時代

郷土の森博物館には古代からの府中市の歴史が展示してある。とはいえ最初の展示はくらやみ祭だ。5月5日の夜に神輿発御が行われ、昔は町中を真っ暗にして行われた。祭りには近在の村々からも見物に訪れ、声をかけた男と女は、自由な出会いを楽しんだ。遠くは「かがい」にもさかのぼる風習なのだろう。風紀紊乱が認められていたのだ。というより、年に1度、男女の出会いの場を設けていたのかもしれない。

展示では4月30日に始まり5月6日までの神事が映像で紹介される。はじめは「品川海上禊祓式」。品川沖で祭りに用いる潮水を汲む儀式だ。品川とはどういう関係にあるのだろう。大国魂神社の東側、京王線東府中のあたりから品川街道が通じている。調布、世田谷を通って品川まで通じているのか。ほぼ多摩川に沿っており、筏道とも呼ばれていた。奥多摩から木材を筏を組んで流していたための命名だ。多摩川を遡上して府中あたりに定着した先祖の記憶をあらわしているのか。

クライマックスの5日は、本殿に神撰を備え道を清めたあと、摂社の宮の咩(みやのめ)神社に参り、午後6時にようやく神輿が大国魂神社を出発する。宮の咩神社は北条政子が安産祈願をし、源頼朝が1186年、武藏国中の神職に天下太平の祈願を行うように令して以来、毎年7月12日に国中の神職が参会し終夜、神楽を奏したという。創建は景行天皇の御代(111年)とある。おそらく大国魂神社と同時期(平安時代末)にはできていたのだろう。

随身門の手前左手にある小さな祠で、なぜ、この祠がそんな重要な役目を持つのだろう。何か曰くがありそうだ。探ってみよう。

くらやみ祭の紹介は、大きなモニターが全体像を映し、四隅におかれた小さなモニターで細部がわかるようになっている。祭りの全体像がこれでわかる。これで把握してから祭り見物に出かけた方がいいかもしれない。

ここを出ると古代からの展示が始まる。縄文、弥生、古墳と続いていくのだが、あれれ、弥生が貧弱だ。というより、1カ所の展示しかない。ボタンを押すと府中市内の弥生遺跡が表示される仕組みだ。なんだ、これだけかーとたたずんでいたら、学芸員さんが「ご案内しましょうか」と声をかけてくれた。

「弥生はこれだけなの?」
「はい、弥生遺跡は少ないんです」

そんなばかな。稲作が伝来した弥生時代がないなんて。奥多摩では弥生の痕跡は発見されていないという。山間部なので稲作には適していないのかなと単純に考えていた。府中は多摩川が流れている。水田は作れたはずだ。「そうなんです。府中市史にも弥生時代の記述は少ないんです」

日本列島は石器時代から縄文、弥生、古墳と、順を追って移行してきたと教わってきた。東国の縄文時代は食糧もかなり豊かで、西国よりも人口が多かった。その象徴的存在が青森の三内丸山遺跡だ。食糧が足りていたから稲作の必要性がなかったのか。それとも多摩川の氾濫で痕跡もなく流されてしまったのか。

「それが出てきたんです」
と、学芸員さんが言った。うれしそうだ。誰でも郷土に誇れるものがあるのは、うれしい。弥生遺跡がないなんて教科書から外れている。西国と交流したときに人知れず悔しい思いをしたのかもしれない。良かった、良かった。

安心したところで次回へ続く。

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