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2010年1月20日 (水)

役立たずの深大寺城⑶

三鷹市役所から人見街道を久我山方面にたどって行くと三鷹台団地の先に小高くなったところがある。鳥居があり急な石段をあがりきったところが牟礼の神明社だ。こんもりとした森になっており、見晴らしが利く。境内に由来を記した標識がある。井の頭公園の南を流れる玉川上水を下ってきてもいい。この上水沿いも雑木が茂って絶好の散歩コースだ。井の頭公園ほど人がいないのが何より。

▼深大寺城の遺構

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「天文6(1537)年北条綱種(今の高橋姓)が上杉家の老臣難波田弾正の立てこもる深大寺城に相対して当地に築陣した旧跡で陣内鎮護のため芝飯倉神明宮より御神体を天文6年11月15日遷霊」。

このとき綱種は江戸城主。江戸城を進発して深大寺城に対峙したのだ。牟礼から深大寺までは途中に高いところはないから、当時は軍勢の動きが確かめられたのかもしれない。直線距離にして3、4キロしかない。江戸城との間にくさびを入れた訳だ。

上杉朝定が深大寺城を修築した1537年はどんなときだったのか。今川と武田の同盟が成立。このため北条は、扇谷上杉、武田、今川と敵対、つまり北条包囲網が築かれたわけだ。西ではまだ信長は登場していない。だいたい、中学、高校の歴史では西の大名を中心に戦国時代を習うから東のことはあまり頭に入っていない。北条を破って秀吉の天下が確立するくらいにしか覚えていない。このときはまだ北条が日の出の勢いだった。この後武田や謙信がちょっかいを出してくるが籠城戦などでしのいでいる。

これより7年前の1530年。扇谷上杉勢は江戸城奪回のため府中に出陣、多摩川の小沢原で合戦して敗走してしまった。これで府中に陣取らなかったわけが判明した。小沢原は「役立たずの深大寺城⑵」で書いた小沢城の麓だろう。多摩川の南はすでに北条に抑えられてしまっていたのだ。鎌倉と川越の間というと新田義貞で知られる久米川辺りになるが、いかんせん江戸まで遠すぎる。それに当時は見渡す限りの野っ原で道もない。五日市街道や青梅街道ができたのは江戸時代のことだ。野原を進軍するにしても第一水がない。水がなければ軍勢は養えない。江戸と川越の両方ににらみを利かすには深大寺しかなかったのだ。

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(正面の林手前の土塁にあがると、多摩川の向こうに小沢城が一望できたはずだ)


これに対して北条方は、江戸から牟礼に進軍。本隊は鎌倉街道を北上、川越を落としてしまった。深大寺城の軍勢は川越に取って返そうとし、牟礼の北条勢と三鷹市内でこぜりあいもあったという。

こうして江戸から府中にかけての南武蔵の大部分は北条氏の支配するところとなった。それから8年。有名な「河越の夜戦」と呼ばれる合戦で北条が勝利、武蔵の大部分が北条の領地になったーーとは「街道の日本史18多摩と甲州道中」の要約。

牟礼で深大寺城に対峙した綱種は、その後北条が滅びてどうなったか。牟礼村の開祖(開村は天正8、1590)は北条康種で、その父が江戸城主の綱種。小田原城の落城後に牟礼に土着、高橋を名乗った。板橋、岩崎、浅野らの武将もこれに従い、つづいて石井、栗原、阿佐美、海老沢らも後を追ってきたという。


時は流れてご一新。三鷹村が成立した。初代村長が高橋美種。

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