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2010年1月22日 (金)

渡来人の交通ルートを考える⑴

深大寺門前でそばを食べてきた。20年ぶりくらいか。それ以来、名物は量も少なくて値段も高いものだとおもっていた。今度は別の店。勤めに行っていたとき、土日にいくと、いつも行列ができている店があった。門前からは少し離れている。以前はなかった店だ。ウイークデイでしかも時分時を外れているのですんなり入れた。深大寺そば600円、多聞そば700円。最初に書いてあった多聞そばにする。どうちがうのかは聞いていない。

運ばれてきたそばはもりもふつうで、コシはしっかりしている。つゆもへんに甘くなくていける。梅雨のそばつゆを入れて飲んだら、そばの香りと味がしっかりとした。昔、信州出身の社長と会社の近所のそば屋で偶然、いっしょになったら「そばの味がしない」と嘆いていたのを思い出した。私はそば通ではないので、何ともいえないが、その社長が食べたら何点くらいをつけるのか。まあ水準なのか。観光客以外も来店していたので、深大寺では上の部類に入るのか。

乏しいそば経験(ふつうのはいつも昼に食べている)では門前仲町交差点のすぐ近くにある宝盛庵が好きだ。つゆが辛い。そばも北海道産の国産を使って細めに切ってある。そばをたっぷりつゆにつけてはいられない。箸でたぐって少しだけ浸してすするのがちょうどいい。そうするといい具合にそばとミックスして、だしのうまさも広がる。

つゆにたっぷりつけるのは田舎者だという。その意味がこれで分かった。たっぷりつけたら辛くていけない。むかしのつゆは、辛くて濃厚だったんだと思う。だから、ちょっとつけてたぐる食べ方になる。門前仲町は江戸の文化が生きているのだーと勝手に解釈している。

今から10年ほど前、知人の墓参りでいった下諏訪駅の立ち食いそばはうまかった。さすが信州。立ち食いでは中野駅北口の田舎そばが気に入っている。

入った店の屋号は多聞。店の向かいに多聞橋があり、そのさきは多聞院坂になっているので、多聞院が坂の上にあるのか。しかし、それらしきお寺はない。門前のマップにも記載されていない。むかしはあったのだろうか。のぼり口の不動の滝はウイークデイのためなのか、きょうはお休みだった。あっ、前回書いた水生植物園も3月15日まで工事中です。城跡へは行けます。

さて渡来人は高麗郡、新羅郡へはどのようなルートをたどったのだろう。文献にはそこまでは記していない。陸路か海路か、陸路ならどのルート、海路ならどこに上陸したのか。このへんがわかると、高麗郡と多摩各地の関係がたどれるのではないかと考えている。まず、移住の波を年表にする。

666年(天智天皇5)  百済の男女2000を東国に移住。
684年(天武天皇13) 百済の僧尼、俗人23人を武蔵に
687年(持統天皇元)  新羅の僧尼と百姓男女22人を武蔵に
690年(同   4)  新羅の韓奈末許満ら12人を武蔵に
716年(霊亀2)    駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国に住む高麗人179             9人を武蔵に移住させて高麗郡設置
758年(天平宝時)   新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武藏国に住まわせ新羅郡             (今の新座郡)を建郡
                    (「街道の日本史18多摩と甲州道中」の巻末年表より)

記録にあらわれただけで、これだけ移住している。716年の例を見れば、記録にあらわれないたら偉人が7カ国に散らばっていたことになる。果たして彼らは、移住させられたのか、それとも自らの意思で新天地を目指したのか。そのころの大和朝廷が絶対的な権力を持っていたとは考えられない。お前らは違う国の人だから未開の武藏にでも行って開拓しろと命令して、ハハァと恐れ入って従ったのではないだろう。

まだ稲作の技術は低い。西国の稲作可能な土地は耕作されてしまったのだろう。人口も増えてくる。武藏に稲作が伝わったのは西国より300年も遅れたという。多分、東海地方で足踏みしたのだろう。陸路では箱根の山を越えるのが難しく、海路でも伊豆半島を容易には越えられなかった。縄文時代には、武藏は信州との交易の方が盛んだった。そのルートが続いているかもしれない。

しかし、遅れても東国に弥生時代はやってきた。伝えたのは誰か。モミを持って行くだけでは稲は実らない。灌漑の技術もいる。それらの総合技術は誰がもたらしたのか。進んだ文化をもたらした人たち。記録に残る東国移住とは別に、いくつものグループが東へ、東へと移動し、稲作可能な関東までたどり着いたのは、いつのことだったか。

多摩には縄文遺跡は多いが、弥生の遺跡は少ない。代表的な例では八王子の川口川べり、小金井の野川べり、青梅の霞川べりの3カ所だという。ちょっと古い資料なので、最新の調査ではどうなっているのか。弥生式土器が最初に見つかったのは本郷台地。多摩川流域にはあまり伝わらなかったのか。文化の伝播が遅れる何らかの理由があったのか。いわば稲作に関しては後進地帯だった武藏に大量の移住者がやってきた。(つづく)

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