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2010年1月31日 (日)

続・続・消えた弥生時代

「出てきたんです」と学芸員さんは誇らしげだった。
「どこからですか」
「東京競馬場のスタンドの改修工事をしましたでしょう。そのときに発見されたんです。でもまだ、水田の遺跡は出てません」
「どうして弥生の遺跡がないんですか」
「発見されていないだけかもしれません。獲物が少なくなったので皆、山の方に行ってしまった、なんて人もいますが、どうなんでしょう」
「それにしても不思議ですね」
「昔の府中市史にも弥生の記述は少ないんです」

それではと昭和43年の府中市史にあたる。「弥生時代の府中」の項目があった。引用する。
「府中市内では現在までのところ、弥生時代に属すると思われる遺跡は一つもみつかっていない」と驚くべき記述だ。

「弥生文化が関東地方に伝えられた経路は二つあり、一方は長野地方から群馬県へ、他方は海岸沿いに静岡県から神奈川県にいたったものであるために、東京の大部分の地域はその間にはさまれて、弥生時代の前半の前半の遺跡を欠いている.しかし、後期後半になると遺跡は都内のあちこちに増加してくるのであるが、どうしたわけか市内では、弥生のはじめから、古墳時代の後半まで、まったくその資料を欠いている。一つには奈良時代以降に急速に造られた多くの竪穴住居によって、占地が同じであったために破壊されてしまったのではないか、ということが考えられる。しかし、それにしても、まったく形跡がなくなるということは考えにくい.このことは、残念ながら現在のところ疑問のまま残し、今後の調査研究に待つことにしたい」

行間に悔しさがにじんでいる。弥生遺跡が発見されないなんて、そんなはずはない、「今後の調査研究」で絶対に発見されるはずだ、と読み取れる。「府中市史」が書き換えられたかどうかは知らない。大国魂神社のわきに図書館があるから今度行ったときに調べてみよう。

府中のあたりにいつごろから再び人が住みはじめたのかは、続いて「村落の出現」の項がある。
「府中市に村がたしかに出現したのは、それより約一〇〇年後になってからである。西暦七世紀の後半、おそらくは六四五年の大化の改新の跡に、集落がぽつぽつとひらかれはじめたらしい。……ともあれ、古墳時代の府中は非常にさびれたところで、その末期にいたってはじめて武藏の国の中心としての萌芽が認められたといえよう」

府中だけのことなのか.市内に野川が流れ、湧き水が豊富な三鷹はどうか。「三鷹市史」(昭和45年刊)も実にあっさりしている。

「いずれにせよ、現在まで知られている限りでは、仙川遺跡の一例が挙げられるだけで、本市の弥生時代の様相をそれ以上追求することは困難である」

たったこれだけだ。東国には2、3百年は遅れたとはいえ、縄文から弥生という段階を踏んだのではなかったのか。東京で弥生遺跡が発見されたのは本郷だ。東京湾の沿岸部には人が住み着いたが、多摩地区で大規模な弥生の遺跡が発見されたと追う話はなさそうで、弥生文化を持った人々はまだ多摩川を上っては来ていなかったのか。

縄文から弥生へ、どうやら多摩地区は教科書で教わった歴史とは異なった段階を踏んでいる。どう解釈すればいいのか。なにがあったのか。長野、群馬から、もう一方は神奈川方向から、いずれにせよ西の方から伝播してきた弥生と縄文の葛藤、摩擦、あるいは戦いがあったのか。

教科書とは別のことを考える必要がありそうだ。というより教科書や歴史書は、西の方面のことしか触れていない。だかr、時期は遅れるにせよ、東の方も同じ段階をとったと間違ったことをすりつけられてしまう。これはおかしい。


まだ、続きます。

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