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2010年1月24日 (日)

渡来人の交通ルートを考える⑶

利根川が今のルートになったのは江戸時代のこと。氾濫対策と舟運のルート開通のため、太平洋に注ぐように付け替えを行ったのだ。

またまた鈴木氏。「新羅郡(現在の新座郡)、高麗郡は、いうまでもなく荒川流域におかれた郡である。また荒川という川の名自体、荒い川(あばれ川)という意味ではなく、朝鮮からの渡来氏族『安羅』の川の意味だとする見解もあることをつけ加えておこう。武蔵野台地上の縄文・弥生人の後裔の文化とは異質の文化が、浅草を足場に『東国』に普及していった」。

渡来人の主流はこのルートをさかのぼっていったと考えたい。この主流部隊が武藏守になり、やがて多くの支族がうまれ武藏全体に大きな影響を及ぼしていくようになる。

高麗郡、新羅郡で成長した一族が、やがて荒川や多摩川を今度は下り、各地に勢力を広げて行った。それは武士の登場と重なってくる。

飛鳥時代の武藏の人口は約15万人、上総下総安房が27万人、列島全体では450〜500万人前後と推定されている。武藏はまだ未開の地だったようだ。それが関ヶ原の戦いの1600年になると、71万人、47万人、1200万人となる。上総などが2倍にも行っていない。全体でも2倍か2倍強だ。これに対して武藏は5倍近い。これは何を意味しているのだろうか。また、記録にあらわれるだけでも5000人近くの渡来人が武藏、あるいは東国に移り住んでいる。1600年くらいではどのくらい増えているのか。

ちなみに弥生時代の人口が60万人、1600年で1200万人、今は1億3000万人、江戸直前の10倍だ。

若い頃、金逹寿氏の「日本の中の朝鮮文化」に大きな刺激を受けた。江上波夫氏の騎馬民族王朝制服説にも興奮した。いまでも大筋では江上氏の説が正しいと思っている。大和朝廷の成立について、そして日本についてずっと考えていたからだ。

「日本の中の朝鮮文化」は教えられることも多かったが、あまりに金氏が「あれもそうだ。これもそうだ」と指摘するので、うんざりして嫌になってしまった。処分して手元になかったので古本屋で第一巻の「相模・武藏・上野・房総ほか」(講談社文庫)を探し出した。たとえば「要するにこれらの古墳は、朝鮮語ではオイソ(いらっしゃい)の意味を持つ大磯に上陸し定着した高句麗系渡来氏族の墳墓と見られるのであるが…」という強引なこじつけがやっぱり気になる。何でもかんでも朝鮮語にされてしまっては面白くない。日本語と朝鮮語の類似点はたくさんあるが、言語学的にはまだ兄弟語とまではなっていない。同じウラル・アルタイ語族ではあるが、いつわかれたなどははっきりしていないようだ。「万葉集は朝鮮語で読める」と行ったたぐいと同じに思えてしまうのは金氏の損だ。

とはいえ、武藏の渡来人が無視できない大きな影響を与えてきたのは事実。それも底流にしながら散歩を続けていきたい。

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