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2010年1月19日 (火)

役立たずの深大寺城⑵

深大寺に戻って城のことを考える。

「東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼」(東京都歴史教育研究会編、山川出版社)にはこう書いてある。

「『北条記』によると1537(天文6)年扇谷上杉朝定が、北条氏康の北上を阻止する目的でこの城を修築し、家臣難波田弾正広宗に守らせた。しかし、氏康は直接川越城に向かい朝定を破ったので、この城は数カ月で廃城となった」。

「東京多摩散歩」(仙田直人、山川出版社)ではこうなっている。

「上杉朝定が、江戸城を奪った北条氏綱に対抗するために再築したが、同年廃城になっている。現在はいくつかの空堀などが発掘され、復元されている」。

(土塁と空堀)

Cimg0650


北条氏が勢力を伸ばしている時期で、すでに上杉は江戸城を奪われている。

本拠は川越だ。

鎌倉から川越を攻めるなら、普通は府中を目指す。

鎌倉軍は鎌倉街道を北上すれば川越に至る。中世の戦は鎌倉街道で起こっている。

分倍河原の戦いしかり。小手指が原もそうだ。

まだ、鎌倉から東海道で武蔵に至るコースはとっていない。なぜ、深大寺の城を修築したのだろう。

城跡の少し高くなった土塁にあがってみる。

多摩川の向こうに小沢城が見えるはずだが、ビルが建っているために今は見えない。

京王よみうりランド駅の近くにちょっとした山がある。

その中腹に穴沢天神社がある。式内社の1つというから創建は相当に古い。

この南に小沢城があった。

「鎌倉時代の武将で町田の豪族小山田有重の子稲毛三郎重成とその子小沢次郎重政の居城で、1351(観応2)年にはここに陣を取った足利直義軍と尊氏方の薬師寺公義軍がたたかった地としても有名である。現在では空堀などの確認は困難となっている」(東京都の歴史散歩 下)。 


Cimg0651

深大寺城が急ぎ作られた時はどうなっていたのか。

多摩川をはさんで双方がもっとも高いので、軍勢が出入りすれば見えたはずだ。

小沢城の備えだったのか、どのような理由があって深大寺を守備拠点にしたのか。

これらの記述だけでは不明だ。扇谷上杉は、もう戦略眼が衰えていたのか。それとも、深い訳があったのか。

NHKラジオ「亀淵昭信のいくつになってもロケンロール」がはじまったので、また次にします。 


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» ★ 城郭探訪 深大寺城3 ★ [〜未知なる城を求めて〜城郭研究ノート]
2回にわたって御紹介してきた深大寺城、最後に、いったいいつ頃の城で、誰が築城したのか、について見てみたいと思います。 つい最近まで、深大寺城のことが記されている文献は、江戸時代に編纂された軍記物の類のみとされてきました。いくつかあるんですが、例えば『北条五代記』というものには いつよりか例ならずと心ちそこなひて、天文六年卯月下旬世をはやくさりて、嫡男五郎朝定、生年十三歳にして家をつぎ給ひぬ。ていれば、七々日の服忌さへ経ずして、道をあらためて兵をおこ..... [続きを読む]

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