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2010年1月の記事

2010年1月31日 (日)

続・続・続・消えた弥生時代

東国の学者も肩身の狭い思いをしているんだ。こんなくだりをみつけた。

「「いつもこういう所で話をするんですが、ある関西の有名な先生から、『大塚くん、君みたいなあずまえびすは』『おい、あずまえびす』って言われましたからね.つまり、関西の研究者は、『東京などは、今は日本の政治・文化・経済の中心だけども、かつては俺らの方が上よ。田舎っぺ』って言うんです。(笑い)」

冗談ではあるが、碌な遺跡が出てこないので研究材料としては下に見られているんだ。これは「東京の古墳を考える」(品川区立品川歴史館編、雄山閣、2006年発行)に収録された「講演 東京の古墳を歩く」(大塚初重)からの引用。すみません、変な所だけ引いてしまって。後に古墳時代を書くときにちゃんとした内容も引用します。


大塚氏は東京の弥生時代についてこう語っている。
「今日は古墳時代の話ですけども、もう一つ前の弥生時代の話ということになって参りますと、例えば北区の飛鳥山公園一帯の調査でもって、弥生時代の環濠集落、濠を巡らした集落が出ています。江戸川を挟んだ対岸の千葉県市川市の下総台地の縁辺には国府台の遺跡群がございまして、これも弥生時代の中期と後期の環濠集落が、最近発掘され、確認されています。


つまり、東京湾に流れ下る江戸川が作った東京低地を間に挟んで、千葉県側一帯は一番、千葉県の入り口の下総台地の突端、武蔵野のほうは、東京湾に面した武蔵野台地の一番東の突端のへりに弥生時代の後期の環濠集落が営まれています」

「ということは、江戸川の河川流域や東京湾の海上交通圏内には、弥生時代の社会から、かなり重要な拠点があったと思われます」

そうなんだ。武蔵野台地の東端のへりにしか弥生の集落はないんだ。逆に言えば、まだ、川をさかのぼっている弥生人はいない。

その東端の遺跡はどこか.具体的には、摺鉢山古墳(上野公園の東京都文化会館のすぐ裏、かつては長さ70メートルもあった前方後円墳だったとみられている)、東京国立博物館正面から入ったところにある表慶館(これを建てるときに古墳から刀などが出土した)、芝丸山古墳(増上寺の隣、100メートルを超える前方後円墳)などがあると大塚氏は指摘している。

いずれにせよ多摩地方は出てこない。弥生が消えてしまっている。おおざっぱに言ってしまうと、東と西の文化の違いは、すでにこの頃に始まるのかもしれない。網野善彦さんを読み直してみよう。

まだまだ、多摩の弥生を考え続けている。

続・続・消えた弥生時代

「出てきたんです」と学芸員さんは誇らしげだった。
「どこからですか」
「東京競馬場のスタンドの改修工事をしましたでしょう。そのときに発見されたんです。でもまだ、水田の遺跡は出てません」
「どうして弥生の遺跡がないんですか」
「発見されていないだけかもしれません。獲物が少なくなったので皆、山の方に行ってしまった、なんて人もいますが、どうなんでしょう」
「それにしても不思議ですね」
「昔の府中市史にも弥生の記述は少ないんです」

それではと昭和43年の府中市史にあたる。「弥生時代の府中」の項目があった。引用する。
「府中市内では現在までのところ、弥生時代に属すると思われる遺跡は一つもみつかっていない」と驚くべき記述だ。

「弥生文化が関東地方に伝えられた経路は二つあり、一方は長野地方から群馬県へ、他方は海岸沿いに静岡県から神奈川県にいたったものであるために、東京の大部分の地域はその間にはさまれて、弥生時代の前半の前半の遺跡を欠いている.しかし、後期後半になると遺跡は都内のあちこちに増加してくるのであるが、どうしたわけか市内では、弥生のはじめから、古墳時代の後半まで、まったくその資料を欠いている。一つには奈良時代以降に急速に造られた多くの竪穴住居によって、占地が同じであったために破壊されてしまったのではないか、ということが考えられる。しかし、それにしても、まったく形跡がなくなるということは考えにくい.このことは、残念ながら現在のところ疑問のまま残し、今後の調査研究に待つことにしたい」

行間に悔しさがにじんでいる。弥生遺跡が発見されないなんて、そんなはずはない、「今後の調査研究」で絶対に発見されるはずだ、と読み取れる。「府中市史」が書き換えられたかどうかは知らない。大国魂神社のわきに図書館があるから今度行ったときに調べてみよう。

府中のあたりにいつごろから再び人が住みはじめたのかは、続いて「村落の出現」の項がある。
「府中市に村がたしかに出現したのは、それより約一〇〇年後になってからである。西暦七世紀の後半、おそらくは六四五年の大化の改新の跡に、集落がぽつぽつとひらかれはじめたらしい。……ともあれ、古墳時代の府中は非常にさびれたところで、その末期にいたってはじめて武藏の国の中心としての萌芽が認められたといえよう」

府中だけのことなのか.市内に野川が流れ、湧き水が豊富な三鷹はどうか。「三鷹市史」(昭和45年刊)も実にあっさりしている。

「いずれにせよ、現在まで知られている限りでは、仙川遺跡の一例が挙げられるだけで、本市の弥生時代の様相をそれ以上追求することは困難である」

たったこれだけだ。東国には2、3百年は遅れたとはいえ、縄文から弥生という段階を踏んだのではなかったのか。東京で弥生遺跡が発見されたのは本郷だ。東京湾の沿岸部には人が住み着いたが、多摩地区で大規模な弥生の遺跡が発見されたと追う話はなさそうで、弥生文化を持った人々はまだ多摩川を上っては来ていなかったのか。

縄文から弥生へ、どうやら多摩地区は教科書で教わった歴史とは異なった段階を踏んでいる。どう解釈すればいいのか。なにがあったのか。長野、群馬から、もう一方は神奈川方向から、いずれにせよ西の方から伝播してきた弥生と縄文の葛藤、摩擦、あるいは戦いがあったのか。

教科書とは別のことを考える必要がありそうだ。というより教科書や歴史書は、西の方面のことしか触れていない。だかr、時期は遅れるにせよ、東の方も同じ段階をとったと間違ったことをすりつけられてしまう。これはおかしい。


まだ、続きます。

続・消えた弥生時代

郷土の森博物館には古代からの府中市の歴史が展示してある。とはいえ最初の展示はくらやみ祭だ。5月5日の夜に神輿発御が行われ、昔は町中を真っ暗にして行われた。祭りには近在の村々からも見物に訪れ、声をかけた男と女は、自由な出会いを楽しんだ。遠くは「かがい」にもさかのぼる風習なのだろう。風紀紊乱が認められていたのだ。というより、年に1度、男女の出会いの場を設けていたのかもしれない。

展示では4月30日に始まり5月6日までの神事が映像で紹介される。はじめは「品川海上禊祓式」。品川沖で祭りに用いる潮水を汲む儀式だ。品川とはどういう関係にあるのだろう。大国魂神社の東側、京王線東府中のあたりから品川街道が通じている。調布、世田谷を通って品川まで通じているのか。ほぼ多摩川に沿っており、筏道とも呼ばれていた。奥多摩から木材を筏を組んで流していたための命名だ。多摩川を遡上して府中あたりに定着した先祖の記憶をあらわしているのか。

クライマックスの5日は、本殿に神撰を備え道を清めたあと、摂社の宮の咩(みやのめ)神社に参り、午後6時にようやく神輿が大国魂神社を出発する。宮の咩神社は北条政子が安産祈願をし、源頼朝が1186年、武藏国中の神職に天下太平の祈願を行うように令して以来、毎年7月12日に国中の神職が参会し終夜、神楽を奏したという。創建は景行天皇の御代(111年)とある。おそらく大国魂神社と同時期(平安時代末)にはできていたのだろう。

随身門の手前左手にある小さな祠で、なぜ、この祠がそんな重要な役目を持つのだろう。何か曰くがありそうだ。探ってみよう。

くらやみ祭の紹介は、大きなモニターが全体像を映し、四隅におかれた小さなモニターで細部がわかるようになっている。祭りの全体像がこれでわかる。これで把握してから祭り見物に出かけた方がいいかもしれない。

ここを出ると古代からの展示が始まる。縄文、弥生、古墳と続いていくのだが、あれれ、弥生が貧弱だ。というより、1カ所の展示しかない。ボタンを押すと府中市内の弥生遺跡が表示される仕組みだ。なんだ、これだけかーとたたずんでいたら、学芸員さんが「ご案内しましょうか」と声をかけてくれた。

「弥生はこれだけなの?」
「はい、弥生遺跡は少ないんです」

そんなばかな。稲作が伝来した弥生時代がないなんて。奥多摩では弥生の痕跡は発見されていないという。山間部なので稲作には適していないのかなと単純に考えていた。府中は多摩川が流れている。水田は作れたはずだ。「そうなんです。府中市史にも弥生時代の記述は少ないんです」

日本列島は石器時代から縄文、弥生、古墳と、順を追って移行してきたと教わってきた。東国の縄文時代は食糧もかなり豊かで、西国よりも人口が多かった。その象徴的存在が青森の三内丸山遺跡だ。食糧が足りていたから稲作の必要性がなかったのか。それとも多摩川の氾濫で痕跡もなく流されてしまったのか。

「それが出てきたんです」
と、学芸員さんが言った。うれしそうだ。誰でも郷土に誇れるものがあるのは、うれしい。弥生遺跡がないなんて教科書から外れている。西国と交流したときに人知れず悔しい思いをしたのかもしれない。良かった、良かった。

安心したところで次回へ続く。

2010年1月29日 (金)

消えた弥生時代

武蔵境駅から西武多摩川線に乗って府中の郷土の森博物館を目指す。他の西武線とはつながっていないローカルな線だ。マークシートを手にしたおじさんたちが乗っている。おりるのは終点1つ手前の競艇場前だ。他場開催で今日は多摩川ではやっていないのだろう、数が少ない。

そもそもここに競艇場ができたのは、砂利を採取した跡の大きな穴に水を溜め込み(自然に湧いたのかもしれない)観覧席を作ってオープンした。夏には近隣住民へのサービスとして花火大会をやっていた。今も続いているのかな。観覧席の花火見物は特等席だ。

その昔、子供の頃は日曜日になると三鷹の我が家までモーター音が聞こえた。もともと車なんて、そんなに走っていなかったが、それでも日曜は静かだったのだろう。

武蔵境からは貨物線の跡が残っていた。砂利を武蔵境の浄水場まで運んだのかと思っていたが、中島飛行機までつながっていたようだ。今の武蔵野市役所と武蔵野中央公園のあたりに零戦も作った軍需産業の中島飛行機はあった。そういえば今でも武蔵境の北口から遊歩道がそちらにつながっている。廃線跡なのだ。

おりるのは是政。これまさです。北条氏照の家臣、井田是政が小田原落城後に帰農、この辺り一帯を切り開いた.東京競馬場のコースの内側には井田家の墓がある。名物の大けやきのあたり。サイレンススズカが故障を起こしたのもあの辺だった。握りしめた馬券がパーになった。虚脱感を味わったのを思い出す。是政ステークスというのもあります。

ここからは二ヶ村緑道が西に向かっていて道なりにいけば体育館などスポーツ施設があり、そのさきが博物館だ。子供の交通公園もあり親子がゴーカートに乗っていた。蓮の池もある。釣り堀もある。林を残してあり、ほとんど騒音もないから静かでいい公園だ。

途中に御茶屋街道が南北に通っていた。府中本町駅のイトーヨーカドーのところに江戸の初期、府中御殿があった。そこへお茶のために多摩川の水を運んだので名付けられた。府中御殿とは何ぞや。これは平たく言えば徳川家康の別荘です。家康はここで多摩川の鮎を所望し、お茶会も開いたんだそうだ。小田原城を見下ろす山の上で連れションをしながら豊臣秀吉が「関東8カ国を進ぜよう」と家康に告げた。仕方なく家康は江戸に入ったが、まず国府のあった府中で情勢をうかがい江戸城へと向かった。

多摩川からの坂を上ったところにあり、南方は多摩の横山と言われた多摩丘陵。周囲は大国魂神社の森、後ろには高安寺。足利尊氏の元の名前の高氏から1字をもらって名付けられたという由緒ある寺だ。分倍河原の古戦場にも近く、中世には様々な武将がここを拠点として出陣していった。多摩川の清流を望み、周囲は森に囲まれている。野点などして、鮎の塩焼きで一杯やったら最高だろう。

緑道と御茶屋街道の交わるところに奴車道の標識があった。交差するところに吉野家があり、奴車という水車が回っていたので、ここからさきは奴車道。

なかなか目的地に着かない。府中はさすがに古い町だ.歴史の跡があちこちにある。多摩川の土手で休んでから目指すことにしよう。

2010年1月28日 (木)

NHK「遥かなる絆」

久しぶりに町へ出た。10日ぶりか。駅前の大きな本屋をのぞいたら「あの戦争から遠く離れて」(情報センター出版局)が平積みになっていた。奥付を見ると14刷、売れているんだ。隣には「『孫玉福(スン・ユイフー)』39年目の真実…」(同)も平積みになって並んでいた。前者が娘の城戸久枝さんが書いたノンフィクション。後者はご本人の城戸幹さんの手記だ。

城戸幹さんは、残留孤児として義父母に中国で育てられ、1970年に帰国した。その父親の苦難の半生をたどったのが久枝さんの著書だ。昨年4月にNHK土曜ドラマ「遥かなる絆」のタイトルで放送された。最初は見逃した回があったので年末の再放送で再び見た。

いつ見ても胸に迫り、たまらなくやるせないのが、孫玉福(幹さんの中国名、グレゴリー・ウォン)と育ての母・付淑琴(岳秀清)の牡丹江駅での別れのシーン。日本人の子を育てることで、人知れぬ苦労を重ねて来たであろう母、帰国がかなわず失意の日々を送る孫に、胸の内を隠して「生きているうちに日本に帰れ」と励ました母、そんな強い母が「帰らないで…」と泣き崩れる。まさに崩れ落ちるシーン。胸が張り裂けるとはこういうことを言うんだろう。力が抜け、プラットホームにへなへなと倒れてしまう岳秀清の演技が見事だった。

幹さんは、成長するに従い日本人であることを自覚、祖国への思いを募らせる。日本人であること明かしたために成績は合格ラインに達していたにもかかわらず、大学入試で不合格になってしまう。労働者として肉体労働に従事し、田舎から母を牡丹江に呼び寄せる。2人の生活を心の底から喜んでくれる母、親孝行だと友人たちも喜んでくれるが、祖国への思いは募るばかり。日本赤十字などに何百通も手紙を出すが
返事はない。

やがて愛媛の両親が判明、帰国の運びとなるが、折から文化大革命の嵐が襲う。いつ日本人として糾弾されるか、尾行がつく日々。摘発されれば命の保証もない。もちろん帰国など論外だ。

ようやく嵐が収まり、牡丹江駅のシーンになる。羽田に降り立ったのが1970年4月8日。城戸幹さんは28歳になっていた。よど号ハイジャックの8日後だった。

ハイジャック報道の陰に隠れてしまったのか、城戸さんの帰国は記憶にない。当時まだ、中国残留孤児という言葉はなかった。新聞は「満州孤児」と伝えていると久枝さんの本にある。まだ日中国交正常化前。中国に残された幼い子供たちのことは、何もわかっていなかった。

城戸さんは帰国して必死で日本語を覚え、勤めながら通った夜間高校で知り合った看護婦さんと結婚、久枝さんらが生まれ、日本の大学入学の夢は果たせなかったが、定年まで勤め上げた。

ドラマは、国費留学生として吉林大学(長春市)に留学した久枝さんが、父親の中国での歴史を辿っていくスタイルで、現在と過去が交差して進行する。久枝さん役の鈴木杏は、達者な中国語を操って好演、娘の留学に心配でたまらない現在の幹さん役の加藤健一の寡黙さが、いい知れぬ苦労を自然と物語っていた。

気になったのが、久枝が学友たちに日本の「あの戦争」の侵略などをなじられるシーン。「日本人は何も教えられていない」「どう思っているのか」と問いつめられるが、何も答えられない。中国に留学する人が、何も勉強してこなかったはずはない。満州国、日中戦争、南京虐殺などの基礎知識はあったろう。ドラマは何も知らないために、答えに窮してしまうように感じられた。原作では少し違う。一応のことはわかっているのだが、糾弾の凄まじさに、なまじの答えは発せられないのだ。両国の認識の隔たり、「侵略しました」と日本人がいってみたところで、それは単なる言葉で、中国の学生の怒りは、もっとイデオロギーの次元に向かっているので、言葉は無力なのだ。

まあ、これをドラマで表現するのは難しいだろう。

もう一つ、久枝と互いの母国語を教え合い、ボーイフレンド以上(恋人未満?)に親密になる大学院生との交流が、やや浮いていた。脚本家の意図としては、文革の悲劇や日本の発展に目を向けだした新しい世代を彼に込めていて、それはわかるのだが、その行方も描かないし、尻切れとんぼの感は否めなかった。

やはり原作には、この大学院生は登場しなかった。当時の中国の人々の一側面を託しているのだが、事実の重みの中に放り込むと、軽さは否めない。

とはいえこれらは、ささいなことで、あの戦争のその後を描いて心に響くドラマだったのは間違いない。戦争中も戦後もヒッッ氏で生き抜いた私たちの父母の世代の苦労と努力が基礎になって今、一応の平和を保っていることを忘れてはならないと肝に銘じよう。

DVDもポニーキャニオンから発売されているそうです。幹さんの「孫玉福…」も図書館で借りてこよう。


2010年1月26日 (火)

調布と三鷹の深大寺⑵

調布にも三鷹にも深大寺という地名がある。さきに三鷹の方から訪ねた。暴れん坊将軍吉宗の亨保の改革の新田奨励によって、深大寺の絵堂から移り住んだ井上兄弟が苦労に苦労を重ねて原野を開拓したのだ。それで地名も深大寺。

いまは地番の整理で変わってしまったが、三鷹の深大寺の番地は3000とか4000番だった。「明治22年、深大寺村より分離して三鷹村に包含された。地番1〜3728は調布の深大寺。3729より4062までは三鷹市の深大寺。さらに4063より再び調布…」(「三鷹の歴史」宍戸幸七)。宍戸さんは明治43年生まれ、町議や収入役を務めた人です。

飛び地で深大寺村とは深い関係にあったのだ。用水も図書館で古い地図を見てきた。連雀通りから右に曲がり、井口八幡の前を通って野崎八幡へ。そのまま南下してお寺の深大寺方面へと南下していた。

いまの地図では絵堂という地名はない。たまたま青渭神社の東側を歩いていた。市指定天然記念物の「絵堂のカゴノキ」という標識があった。都立農業高校神代農場(基本的に金曜日が見学日と看板に出ていた。田植えの頃にでも見学に訪れてみよう)の北側をフェンスぞいに歩いていく。舗装されておらず、土の感触が心地よい。武蔵野の自然をそのまま残した農場が見える。国分寺崖線の崖になっており、しばらく行くと田んぼが下の方に見える。湧き水が出ているようだ。中央高速の手前に、金網が坂下に続いているところがある。下っていけば、前に書いた自然広場に出る。こっちへ行くのもグッドな散歩コースだが、別のフェンスにそって歩く。


(絵堂のカゴノキ)

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視界が開け、大きな農家がある。そこに絵堂のカゴノキがある。案内によると幹囲2・80メートル、樹齢300年。カゴノキはクスノキ科で、関東ではあまり見られない植栽なので、ここに移り住んだ時に植えられたと推測している。誰が植えたのか。「多摩市連光寺の富沢家から久大夫が分家し深大寺の小字『里』に住み、後に崖上に移った。その年代は正保または元禄年間(1644〜1703)と推定される。

このあたりが絵堂なのだ。現在の住所は深大寺南町。新田奨励よりもずいぶんと前だが、このへんは水が出るので、切り開けば稲作は可能だったのだ。多摩川の向こう側からやってきたのだ。連光寺はいっぱいで、こちらは開墾可能な土地が残っていたことになる。富沢家の松之助は深大寺用水を作っている。

少し行くとまた市天然記念物がある。絵堂のヒイラギだ。新築のときに聞に2本のヒイラギを植えるのがこの辺りの風習だという。根元周りは1・2㍍と1・1㍍。樹齢は記していない。こちらは富沢家の分家か。

両家ともうっそうとした木々に囲まれて、昔の農家のたたずまいを残している。この一角全体を市の天然記念物に指定してもいいくらいの落ち着いた雰囲気だ。


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(こちらはヒイラギ)

なおもぶらぶらしていたら法性院と墓地があった。墓地は富沢家がいい場所にある。ここにも案内板が。「深大寺絵馬堂跡といわれ、それに伴い字名を絵堂という」。なるほど。

井上兄弟はこの辺りから移り住んだのだ。その前はどこにいたのか。富沢家と同様に連光寺だったのか。そういえば、これも市の天然記念物になっている禅寺丸柿も、柿生(神奈川県)から持ってきて植えたらしい。こちらも多摩川の流域から武蔵野台地に上がってきている。移住に一定の法則があるのかもしれない。

どうも武蔵野には西の方から次第に平野におりてきたような気がする。武蔵野の新田の開発には西多摩の山間部から続々と開発農民が集まったというから、山間部の人口が増えたのか、新たな畑を求める必然性があったのか、何か大きな変化があったのかもしれない。


▼法性院

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調布と三鷹の深大寺(1・5)

「調布の三鷹の深大寺⑴」としてブログを書いたのだけど、あれこれ操作していたらウェブページの方にアップされてしまった。グーグルで検索してみても出てこない。どこへいってしまったのか。ブログの方に移したいのだが、やり方がわからない。親切な人がいたら教えてください。使っているのはimac
です。

全文をまた打てばいいのだけど大変なのでダイジェストをしてから⑵に続けます。

亨保の改革で武蔵野には新田開発が奨励された。これに応じたのが調布の深大寺絵堂に住んでいた井上兄弟。2家族で開墾に従事、元文4年頃までは2戸だけだったが、文政の頃には白鳥、嶋田氏などが移住してきて14戸になったという。これにより地域の名前も深大寺になった。正しくは深大寺新田と呼ばれたのか。

ここにある神社が御嶽神社。深大寺の別当、多聞院から井上氏が勧請したものだ。それにしても当時のこの辺りは一面の原っぱか雑木林。川も流れていない。つるべ井戸を掘ったのだろうが、大変な苦労をしたのだろう。

ちなみに新田奨励は亨保7年(1722)、元文4年は1739年。文政は1818年ごろ。よくぞ耐えたものだ。

昭和の20年代には、いまの連雀通りに用水が流れていた。武蔵野日赤病院の南側の通りの歩道が広いのは用水に蓋をして歩道にしたせい。これが上連雀塚の手前で右折、いまの井口コミュニティセンターの東側を流れていた。村の名前でいえば井口と野崎、深大寺新田は、この用水を分けてもらっていたのだろうか。

そんなわけで「調布と三鷹の深大寺⑵」は井上兄弟のルーツ深大寺絵堂を訪ねる。

2010年1月24日 (日)

渡来人の交通ルートを考える⑶

利根川が今のルートになったのは江戸時代のこと。氾濫対策と舟運のルート開通のため、太平洋に注ぐように付け替えを行ったのだ。

またまた鈴木氏。「新羅郡(現在の新座郡)、高麗郡は、いうまでもなく荒川流域におかれた郡である。また荒川という川の名自体、荒い川(あばれ川)という意味ではなく、朝鮮からの渡来氏族『安羅』の川の意味だとする見解もあることをつけ加えておこう。武蔵野台地上の縄文・弥生人の後裔の文化とは異質の文化が、浅草を足場に『東国』に普及していった」。

渡来人の主流はこのルートをさかのぼっていったと考えたい。この主流部隊が武藏守になり、やがて多くの支族がうまれ武藏全体に大きな影響を及ぼしていくようになる。

高麗郡、新羅郡で成長した一族が、やがて荒川や多摩川を今度は下り、各地に勢力を広げて行った。それは武士の登場と重なってくる。

飛鳥時代の武藏の人口は約15万人、上総下総安房が27万人、列島全体では450〜500万人前後と推定されている。武藏はまだ未開の地だったようだ。それが関ヶ原の戦いの1600年になると、71万人、47万人、1200万人となる。上総などが2倍にも行っていない。全体でも2倍か2倍強だ。これに対して武藏は5倍近い。これは何を意味しているのだろうか。また、記録にあらわれるだけでも5000人近くの渡来人が武藏、あるいは東国に移り住んでいる。1600年くらいではどのくらい増えているのか。

ちなみに弥生時代の人口が60万人、1600年で1200万人、今は1億3000万人、江戸直前の10倍だ。

若い頃、金逹寿氏の「日本の中の朝鮮文化」に大きな刺激を受けた。江上波夫氏の騎馬民族王朝制服説にも興奮した。いまでも大筋では江上氏の説が正しいと思っている。大和朝廷の成立について、そして日本についてずっと考えていたからだ。

「日本の中の朝鮮文化」は教えられることも多かったが、あまりに金氏が「あれもそうだ。これもそうだ」と指摘するので、うんざりして嫌になってしまった。処分して手元になかったので古本屋で第一巻の「相模・武藏・上野・房総ほか」(講談社文庫)を探し出した。たとえば「要するにこれらの古墳は、朝鮮語ではオイソ(いらっしゃい)の意味を持つ大磯に上陸し定着した高句麗系渡来氏族の墳墓と見られるのであるが…」という強引なこじつけがやっぱり気になる。何でもかんでも朝鮮語にされてしまっては面白くない。日本語と朝鮮語の類似点はたくさんあるが、言語学的にはまだ兄弟語とまではなっていない。同じウラル・アルタイ語族ではあるが、いつわかれたなどははっきりしていないようだ。「万葉集は朝鮮語で読める」と行ったたぐいと同じに思えてしまうのは金氏の損だ。

とはいえ、武藏の渡来人が無視できない大きな影響を与えてきたのは事実。それも底流にしながら散歩を続けていきたい。

渡来人の交通ルートを考える⑵

多摩の弥生遺跡はまことに少なかった。こつ然と縄文人が消えてしまったかのようだ。奥多摩などは弥生の遺跡は全く出てこないという。どうしてしまったのだろう。採集狩猟生活の食料が不足してしまったのか。しかし、古墳時代にはいると遺跡がたくさん出てくる。世田谷や狛江の古墳、時代が少し下ると北武藏の古墳が目立つ。これらの古墳を築いた豪族や、それに従った人々はどこから、どのようにしてやってきたのか。突如として武藏にあらわれたようだが、そうではあるまい。当然、稲作が基本になっているから、西の方から順次やってきたのだ。信州から来たグループもいたのだろう。まだ人口は希薄だったと推定される。

そんな状態のところへ大勢の渡来人がやってきた。666(天智天皇5)の移住が百済の男女2000人。決して少ない数ではない。このころ東山道武藏道が開設された。「この道路は、東山道の本道とともに七世紀後半に開設されたと推定されており、当初から東山道と東海道の連絡路として、上野国と相模国を結ぶ機能を期待されていたらしい」「東山道武藏道は、東西方向に流れている河川の流域地帯を、あたかも南北方向に貫くような形で通過しているのである。東山道武藏道の路線決定には、この道路を背景として、河川流域ごとに結びついている地域をつなぎとめ、武藏国として一体化させることで、地方支配を押し進めようとする律令国家の目論みが働いていたのではないだろうか」(街道の日本史18多摩と甲州道中)。

こうは考えられないか。「武藏国の一体化」「地方支配推進」のために渡来人が送り込まれた。渡来人の中には僧尼や半島の官僚が含まれている。先進の文化を伝え、それによって東国の人々を大和朝廷に服させる。716年(霊亀2)の移住が決定打になる。武藏以外の東国の高麗人1799人が一挙に武藏に移住、入間郡を割いて高麗郡としてた。ついで758年(天平宝字2)には新羅郡が作られる。そして770年には高麗郡出身の高麗福信が武藏守となる。

渡来人の本格的移住が開始されてから約50年で武藏支配が一応の完成を見る。国府が府中に置かれ、その北方には、国分寺が作られた。こうして武藏が大和朝廷の範疇に入った、あるいは渡来人が武藏の人々をまとめあげた。

移住期の交通はどうなっていたか。移住開始にあわせたかのように武藏道ができたが、東海道本道は三浦半島から海路で上総にわたる路線だけだった。7世紀の末になると武藏国府から下総国府間の陸路が開削され、相模→武藏→下総を連絡する東海・東山道連絡駅路が成立する。

しかし、皆がこのルートを使ったわけではない。まだ陸路は安定していない。名著の誉れ高い「江戸の川 東京の川」(鈴木理生、井上書院)はこう指摘している。「これらの渡来人の武藏への経路は、……台地上の人々が河流にそい、河流を利用せざるを得なかった事情と同じ条件の下における移動であった。つまり彼等の列島における移動の場合、列島の海岸ぞいを舟で移動することが、最も安全かつ能率的な方法であった。この舟運コースは一朝にして成立したものではなく、遠く縄文・弥生人の時代から徐々に形成されていった"生活の知恵”のつみかさねの成果そのものであった。『官』の成立以前の移動、『官の記録』以外の移動は、おそらく非常に長い期間にわたり、膨大な件数であったろう」。

こうしてようやく伊豆半島を越えるルートを見つけた人々は、相模に至る。どうしたのか。再び鈴木氏に耳を貸そう。「この列島に波のようにつぎつぎに渡来してきた人々は、海岸に面した入江や河口をみつけると、ほとんど例外なしにそこを拠点として内陸に進出している。すでに先住者がいる場合はさらにさきに進んで、陸地への足がかりを求めていった」。

最初に相模川に至り、内陸へとさかのぼったのは秦一族だった。相模国府の位置は確定していないが、延喜式の東海道駅路は、箕輪駅を経て相模国府に達す。国府から相模川を渡り、北上して今の東京都町田市付近から武藏国府へと向かっている。この辺りは高座郡、たかくら、つまり高句麗。

多摩川をさかのぼったグループは世田谷や狛江の古墳群を作ったのではないか。そのさきはどうなったのか。

「東漸してきた古代人にとっては、『広義の利根川』という桁違いの大きな河流は障害物であったが、その西側の山地(その一つとしての武蔵野台地)は無限の可能性を持った天地にみえたことであろう。『広義の利根川』の一支流である荒川河口の浅草を基地に、人々の波は何回も何十回も、関東地方内陸部に進出していった」。

利根川は当時、東京湾に注いでいた。


2010年1月23日 (土)

天使にラブソングを

ブログのタイトルとは全く関係ない昨日テレビで見た映画の話を。といっても最後の30分くらいのラスベガスの追っかけしか見てないけど「天使にラブソングを」は、アイデア賞ものの作品だ。昔、見ているのでどこから見ても楽しめる。

ラスベガスの売れないクラブ歌手が殺人事件を目撃、裁判の日まで修道院にかくまわれることになる。じっとしていられないウーピー・ゴールドバーグは聖歌隊の指導に乗り出す。ここでも堅苦しい讃美歌には我慢できない。

当然、ロック調にアレンジしだす。効果的に使われるのが「アイ・ウイル・フォロー・ヒム」。そう、リトル・ペギー・マーチの全米ナンバーワンヒット曲。かわいらしかったねペギー・マーチ。1962年に14歳でデビュー、伸びやかな歌声にパンチがあって日本でも大ヒットした。

実はこの曲、ペトゥラ・クラークがオリジナルを歌ってたようだ。あの「ダウンタウン」のペトゥラ。元歌のタイトルは「愛のシャリオ」、これをアップテンポにアレンジして見事全米ナンバーワン。こちとらニキビの高校1年生。毎週聞いていたFEN(米極東放送)の「トップ20」から流れてきたときは、すっかりペギーのファンになっていた。

当時アメリカのヒットと日本の発売は時差があったので、待ちかねてレコード屋に発売日に駆けつけたっけ。

ゴールドバーグはこれを讃美歌にした。歌詞はほとんどそのままだ。「私は彼について行く」。ペギーが歌っているのはボーイフレンドだけど、讃美歌になると「彼」はキリストのことになってしまう。日本語に訳すと「主」になる。「どんな困難を乗り越えても主に従う」。讃美歌では、himは大文字のHimになってキリストになる。耳で聞いている分には同じだ。歌詞のその他のくだりも、彼がキリストでも、少しも違和感がない。

このことに気づいた製作者は偉い。ラストは、初め聖歌隊がスローで歌い始め、途中からテンポをかえると聴衆も立ち上がって踊りだす。来賓のローマ法王も立ち上がって手拍子だ。他にソウルミュージックの「マイ・ガイ」を「マイ・ゴッド」にしたバージョンもある。

日本の演歌は讃美歌になるか。「あなた、あなた」とか歌っている曲を歌詞をかえたら可能かもしれない。そうなれば教会も楽しいものになるかもしれない。それにしても、映画でしかしらないけど、教会のシーンでは、歌ったり踊ったりのエキサイティングなシーンが多いよね。こんな教会なら日曜日にのぞいてもいいかななんて思わせるね。

この映画がアメリカで受けたのもこのへんの感覚だったのだろう。92年の公開。まだ、アメリカもゆとりがあった頃の話だ。イラクやアフガンに首を突っ込んで、にっちもさっちもいかなくなっている今とは、国民の意識もずいぶんと違うのだろう。

2010年1月22日 (金)

渡来人の交通ルートを考える⑴

深大寺門前でそばを食べてきた。20年ぶりくらいか。それ以来、名物は量も少なくて値段も高いものだとおもっていた。今度は別の店。勤めに行っていたとき、土日にいくと、いつも行列ができている店があった。門前からは少し離れている。以前はなかった店だ。ウイークデイでしかも時分時を外れているのですんなり入れた。深大寺そば600円、多聞そば700円。最初に書いてあった多聞そばにする。どうちがうのかは聞いていない。

運ばれてきたそばはもりもふつうで、コシはしっかりしている。つゆもへんに甘くなくていける。梅雨のそばつゆを入れて飲んだら、そばの香りと味がしっかりとした。昔、信州出身の社長と会社の近所のそば屋で偶然、いっしょになったら「そばの味がしない」と嘆いていたのを思い出した。私はそば通ではないので、何ともいえないが、その社長が食べたら何点くらいをつけるのか。まあ水準なのか。観光客以外も来店していたので、深大寺では上の部類に入るのか。

乏しいそば経験(ふつうのはいつも昼に食べている)では門前仲町交差点のすぐ近くにある宝盛庵が好きだ。つゆが辛い。そばも北海道産の国産を使って細めに切ってある。そばをたっぷりつゆにつけてはいられない。箸でたぐって少しだけ浸してすするのがちょうどいい。そうするといい具合にそばとミックスして、だしのうまさも広がる。

つゆにたっぷりつけるのは田舎者だという。その意味がこれで分かった。たっぷりつけたら辛くていけない。むかしのつゆは、辛くて濃厚だったんだと思う。だから、ちょっとつけてたぐる食べ方になる。門前仲町は江戸の文化が生きているのだーと勝手に解釈している。

今から10年ほど前、知人の墓参りでいった下諏訪駅の立ち食いそばはうまかった。さすが信州。立ち食いでは中野駅北口の田舎そばが気に入っている。

入った店の屋号は多聞。店の向かいに多聞橋があり、そのさきは多聞院坂になっているので、多聞院が坂の上にあるのか。しかし、それらしきお寺はない。門前のマップにも記載されていない。むかしはあったのだろうか。のぼり口の不動の滝はウイークデイのためなのか、きょうはお休みだった。あっ、前回書いた水生植物園も3月15日まで工事中です。城跡へは行けます。

さて渡来人は高麗郡、新羅郡へはどのようなルートをたどったのだろう。文献にはそこまでは記していない。陸路か海路か、陸路ならどのルート、海路ならどこに上陸したのか。このへんがわかると、高麗郡と多摩各地の関係がたどれるのではないかと考えている。まず、移住の波を年表にする。

666年(天智天皇5)  百済の男女2000を東国に移住。
684年(天武天皇13) 百済の僧尼、俗人23人を武蔵に
687年(持統天皇元)  新羅の僧尼と百姓男女22人を武蔵に
690年(同   4)  新羅の韓奈末許満ら12人を武蔵に
716年(霊亀2)    駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国に住む高麗人179             9人を武蔵に移住させて高麗郡設置
758年(天平宝時)   新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武藏国に住まわせ新羅郡             (今の新座郡)を建郡
                    (「街道の日本史18多摩と甲州道中」の巻末年表より)

記録にあらわれただけで、これだけ移住している。716年の例を見れば、記録にあらわれないたら偉人が7カ国に散らばっていたことになる。果たして彼らは、移住させられたのか、それとも自らの意思で新天地を目指したのか。そのころの大和朝廷が絶対的な権力を持っていたとは考えられない。お前らは違う国の人だから未開の武藏にでも行って開拓しろと命令して、ハハァと恐れ入って従ったのではないだろう。

まだ稲作の技術は低い。西国の稲作可能な土地は耕作されてしまったのだろう。人口も増えてくる。武藏に稲作が伝わったのは西国より300年も遅れたという。多分、東海地方で足踏みしたのだろう。陸路では箱根の山を越えるのが難しく、海路でも伊豆半島を容易には越えられなかった。縄文時代には、武藏は信州との交易の方が盛んだった。そのルートが続いているかもしれない。

しかし、遅れても東国に弥生時代はやってきた。伝えたのは誰か。モミを持って行くだけでは稲は実らない。灌漑の技術もいる。それらの総合技術は誰がもたらしたのか。進んだ文化をもたらした人たち。記録に残る東国移住とは別に、いくつものグループが東へ、東へと移動し、稲作可能な関東までたどり着いたのは、いつのことだったか。

多摩には縄文遺跡は多いが、弥生の遺跡は少ない。代表的な例では八王子の川口川べり、小金井の野川べり、青梅の霞川べりの3カ所だという。ちょっと古い資料なので、最新の調査ではどうなっているのか。弥生式土器が最初に見つかったのは本郷台地。多摩川流域にはあまり伝わらなかったのか。文化の伝播が遅れる何らかの理由があったのか。いわば稲作に関しては後進地帯だった武藏に大量の移住者がやってきた。(つづく)

2010年1月21日 (木)

役立たずの深大寺城・追加

神明社の向かい側にお屋敷がある。うっそうとした林に囲まれた典型的な武蔵野の農家だ。敷地は何百坪あるのだろうか。表札には「高橋」とあった。道灌窯の看板が出ている。先祖が江戸城主だったゆかりで名付けたのだろうか。ここが一族の本家なのかもしれない。
 
敷地の一部が公園になっている。なだらかな坂をなしており、庭の南面部分を市に寄付(売却?)したもののようだ。芝生が植えられ、ベンチも置かれている。ひと休みするにはちょうどいい。名主さんの庭でくつろぐ気分が味わえる。

このお屋敷は、見てきた限りでは三鷹一の立派さだ。農家は皆、相続税対策もあって畑や屋敷の一部を切り売りしてきた。母屋の周囲が切り取られ、かすかに昔の面影を残すだけになっているところが多い。何とかならないのか。このままでは細切れの住宅地ばかりになってしまう。お屋敷の維持、管理には手間とお金がかかる。税の問題もある。将来に残したい景観に指定するなど、相続税を免除する仕組みを作って、いつまでも保存してもらう方法はないのか。分譲住宅ばかりでは散歩の楽しみが失われてしまう。

近くには墓地がある。高橋家の菩提寺の墓地だ。三木露風の墓もある。石井家の墓には「当家は北条家の一族にして初代八右衛門より此の地に移り住み石井家を興す」とあった。小田原落城後に高橋家に従ってきた一族なのだ。

大学に入ってからは都心にばかり目が向いていたが、地元をふらつき回って、土地土地のゆかりを訪ね歩くのも目が開かれる思いだ。

2010年1月20日 (水)

役立たずの深大寺城⑶

三鷹市役所から人見街道を久我山方面にたどって行くと三鷹台団地の先に小高くなったところがある。鳥居があり急な石段をあがりきったところが牟礼の神明社だ。こんもりとした森になっており、見晴らしが利く。境内に由来を記した標識がある。井の頭公園の南を流れる玉川上水を下ってきてもいい。この上水沿いも雑木が茂って絶好の散歩コースだ。井の頭公園ほど人がいないのが何より。

▼深大寺城の遺構

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「天文6(1537)年北条綱種(今の高橋姓)が上杉家の老臣難波田弾正の立てこもる深大寺城に相対して当地に築陣した旧跡で陣内鎮護のため芝飯倉神明宮より御神体を天文6年11月15日遷霊」。

このとき綱種は江戸城主。江戸城を進発して深大寺城に対峙したのだ。牟礼から深大寺までは途中に高いところはないから、当時は軍勢の動きが確かめられたのかもしれない。直線距離にして3、4キロしかない。江戸城との間にくさびを入れた訳だ。

上杉朝定が深大寺城を修築した1537年はどんなときだったのか。今川と武田の同盟が成立。このため北条は、扇谷上杉、武田、今川と敵対、つまり北条包囲網が築かれたわけだ。西ではまだ信長は登場していない。だいたい、中学、高校の歴史では西の大名を中心に戦国時代を習うから東のことはあまり頭に入っていない。北条を破って秀吉の天下が確立するくらいにしか覚えていない。このときはまだ北条が日の出の勢いだった。この後武田や謙信がちょっかいを出してくるが籠城戦などでしのいでいる。

これより7年前の1530年。扇谷上杉勢は江戸城奪回のため府中に出陣、多摩川の小沢原で合戦して敗走してしまった。これで府中に陣取らなかったわけが判明した。小沢原は「役立たずの深大寺城⑵」で書いた小沢城の麓だろう。多摩川の南はすでに北条に抑えられてしまっていたのだ。鎌倉と川越の間というと新田義貞で知られる久米川辺りになるが、いかんせん江戸まで遠すぎる。それに当時は見渡す限りの野っ原で道もない。五日市街道や青梅街道ができたのは江戸時代のことだ。野原を進軍するにしても第一水がない。水がなければ軍勢は養えない。江戸と川越の両方ににらみを利かすには深大寺しかなかったのだ。

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(正面の林手前の土塁にあがると、多摩川の向こうに小沢城が一望できたはずだ)


これに対して北条方は、江戸から牟礼に進軍。本隊は鎌倉街道を北上、川越を落としてしまった。深大寺城の軍勢は川越に取って返そうとし、牟礼の北条勢と三鷹市内でこぜりあいもあったという。

こうして江戸から府中にかけての南武蔵の大部分は北条氏の支配するところとなった。それから8年。有名な「河越の夜戦」と呼ばれる合戦で北条が勝利、武蔵の大部分が北条の領地になったーーとは「街道の日本史18多摩と甲州道中」の要約。

牟礼で深大寺城に対峙した綱種は、その後北条が滅びてどうなったか。牟礼村の開祖(開村は天正8、1590)は北条康種で、その父が江戸城主の綱種。小田原城の落城後に牟礼に土着、高橋を名乗った。板橋、岩崎、浅野らの武将もこれに従い、つづいて石井、栗原、阿佐美、海老沢らも後を追ってきたという。


時は流れてご一新。三鷹村が成立した。初代村長が高橋美種。

2010年1月19日 (火)

役立たずの深大寺城⑵

深大寺に戻って城のことを考える。

「東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼」(東京都歴史教育研究会編、山川出版社)にはこう書いてある。

「『北条記』によると1537(天文6)年扇谷上杉朝定が、北条氏康の北上を阻止する目的でこの城を修築し、家臣難波田弾正広宗に守らせた。しかし、氏康は直接川越城に向かい朝定を破ったので、この城は数カ月で廃城となった」。

「東京多摩散歩」(仙田直人、山川出版社)ではこうなっている。

「上杉朝定が、江戸城を奪った北条氏綱に対抗するために再築したが、同年廃城になっている。現在はいくつかの空堀などが発掘され、復元されている」。

(土塁と空堀)

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北条氏が勢力を伸ばしている時期で、すでに上杉は江戸城を奪われている。

本拠は川越だ。

鎌倉から川越を攻めるなら、普通は府中を目指す。

鎌倉軍は鎌倉街道を北上すれば川越に至る。中世の戦は鎌倉街道で起こっている。

分倍河原の戦いしかり。小手指が原もそうだ。

まだ、鎌倉から東海道で武蔵に至るコースはとっていない。なぜ、深大寺の城を修築したのだろう。

城跡の少し高くなった土塁にあがってみる。

多摩川の向こうに小沢城が見えるはずだが、ビルが建っているために今は見えない。

京王よみうりランド駅の近くにちょっとした山がある。

その中腹に穴沢天神社がある。式内社の1つというから創建は相当に古い。

この南に小沢城があった。

「鎌倉時代の武将で町田の豪族小山田有重の子稲毛三郎重成とその子小沢次郎重政の居城で、1351(観応2)年にはここに陣を取った足利直義軍と尊氏方の薬師寺公義軍がたたかった地としても有名である。現在では空堀などの確認は困難となっている」(東京都の歴史散歩 下)。 


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深大寺城が急ぎ作られた時はどうなっていたのか。

多摩川をはさんで双方がもっとも高いので、軍勢が出入りすれば見えたはずだ。

小沢城の備えだったのか、どのような理由があって深大寺を守備拠点にしたのか。

これらの記述だけでは不明だ。扇谷上杉は、もう戦略眼が衰えていたのか。それとも、深い訳があったのか。

NHKラジオ「亀淵昭信のいくつになってもロケンロール」がはじまったので、また次にします。 


役立たずの深大寺城⑴

春を思わせる陽気に谷保天満宮の梅が咲いていました。早咲きなのか、日当りの良い場所にある紅梅と白梅はもう5、6分咲き。天満宮なので、ちゃんと梅林があるんです。匂いおこせよ梅の花ですな。

なんでも、ここは交通安全祈願発祥の地なんだそうです。というのは、明治41年8月1日、有栖川宮が遠乗り会をしてこの梅林で食事会をしたんだそうです。境内には宮が乗っていた自動車の模型が置かれてました。一行は日比谷公園を出発して立川までの8里をドライブ、帰路、ここに寄った。梅林には食事が用意され、「ビールやサイダーは傍らの清水に投げ込み」冷やしてのどを潤した、と東京朝日に写真入りで出ている。梅林に掲示されている写真を見ると一行は30人ほど。今でも境内の真ん中を湧き水が流れ、西側の池には湧き水が注いでいる。裏手には雑木林が残されていて、武蔵野の面影が保たれている。ほっとする空間だ。

話かわって深大寺。お寺と植物園だけではもったいない。植物園北側の自由広場で一息ついたら東側の道を歩こう。雑木林が残っていてあまり伐採していないので、昼でもお日様があまりあたらない。そのまま坂をおりて深大寺に参拝したら水生植物園を目指そう。右手の坂を上ると深大寺城跡だ。芝生の広場になっており、大きな木の下のベンチに腰掛けると夏は通り過ぎる風が心地よい。

さらに調布市野草園まで足を伸ばしてほしい。水生植物園を出て右へ。三鷹通りにぶつかったら右折、コンビニのところを左折、田んぼがあるので左折。野草園と自由広場、かに山キャンプ場があり、自然が残された区画だ。とにかくこの辺りをぶらついてほしい。田んぼと雑木林、ふるさとの原風景だなあと心休まる。中央高速をくぐって北側に行くと小川が流れている。その向こうは金網が張ってあって農業高校の敷地。武蔵野の自然がそのまま残されている。左手に雑木林の道があり、上りきると視界が開ける。住宅もあるが左手は園芸用の植木が植わっている。広い敷地だ。道なりに行くとお屋敷の門があるが、そこまで2、3分はある。採れたての野菜や花を売っていることもある。その先が三鷹通りだ。

お寺と違って、ほとんど人はいないし、武蔵野を独り占めできる。夏にかに山キャンプ場を歩いていたら、若い男女がテントを張っていて、じろりと睨まれたけど、そのくらいのマイナスは、自然を堪能するには仕方ないだろう。野草園の北側には湧き水が流れ出ている個所がある。チョロチョロ湧いているのをみながら、せせらぎの音をじっと聞いているのも興がつきない。繰り返すがとにかく、この一帯をふらつくのがおすすめだ。


2010年1月17日 (日)

調布の入間川④

今日の目的地は都立武蔵野の森公園。東八道路を野川公園方面へ。人だかりがしているのでのぞくと、搗きたてのお餅をみんなで食べていた。自然食品の店「グルッペ」だった。買い物をするとお餅券がもらえるらしい。店に若い女性が入ってきた。店の人と挨拶している。常連なのか。「来ちゃった」「バスで?」「自転車で」「どこから?」「西荻」。寒さも緩んだので遠出したのか。春近し、なのか。人のつながりがあったかかった。

東八を左折して人見街道へ。野川公園をはさんで道がV字に分かれているところが近藤勇産湯の地。生家の跡だ。その北側を分譲している。そこもおそらく近藤の実家、宮川家の敷地だったと思われる。つまり勇の実家跡を売り出しているのだ。ここに住んだらちょっと自慢できるかもしれない。94.44平米で3180万円、などとなっていた。係の女性に質問などしたらあめ玉1袋をくれた。

あめをなめながら武蔵野の森公園へ。小高い丘があって、そこにあがると調布飛行場が見渡せる。小型飛行機の離着陸が楽しめる。のんびり座って飛行機を見ているのもいいものだ。プロペラ機がよっこらさと離陸して行く光景は、思わず拍手してしまいたくなる。

この公園は調布基地の跡地に作られた。飛行場をはさんで南北にわかれ、横には通路もついていて、突き当たりは味の素スタジアムだ。滑走路が約1キロ。それよりも南北は長い。米軍に接収された基地も今ではレクリエーションやスポーツで市民が楽しんでいる。府中の米軍基地跡も一部は自衛隊が使っているが、残りは公園になっている。これが本来のあり方だろう。沖縄の基地のことを思う。基地を沖縄だけに押し付けてはいけない。民主党にベストの選択を望みたいが、どうもぶれているので心配だ。


さて入間川。流域一帯は深大寺の勢力圏にある。深大寺北町、深大寺東町、三鷹市を通って、西つつじヶ丘、若葉町、入間町で野川に注いでいる。つつじヶ丘は昔、金子だったようだし、若葉町は大町の一部と思われる。というのも実篤邸の近くに神代高校があるし、神代村だった痕跡があちこちに残っている。明治22年、調布町と神代村が誕生したとき神代村は、深大寺、佐須、柴崎、金子、入間、大町、下仙川の大字からなっていた。そして昭和35年の町名変更で入間町の大部分と大町、金子町の一部を合わせ入間町となった。

深大寺が渡来人と関係が深いというのは定説になっている。深大寺縁起にある長者の娘とよそ者の恋物語。よそ者福満が湖の小島に隔離された娘に会うために祈ったのが深沙大王。たちまち大亀があらわれて湖の中の島へと運んでくれた。長者は2人の結婚を許し生まれたのが満功上人。すなわち深大寺の開祖。開山は733年という。よそ者すなわち渡来人と見るのが一般的だ。よそ者が次第に勢力を増やして行った様子を、この縁起が伝えているのかもしれない。

さて一帯は、狛江郷だった。狛江市の古墳群はかねてより知られており古くからこの辺りの中心だった。三鷹には牟礼があり、これは古代朝鮮語のムルの変化したものといわれている。つつじヶ丘の厳島神社は移住してきた金子氏が祀ったもの。高麗神社には高麗氏系図があり、金子氏もそこから出たとなっている。深大寺境内の坂をあがったところに開山堂がある。その玉垣には高麗姓がたくさん掘られている。寄進者だ。また、三鷹市役所から人見街道をちょっと東に行ったところに墓地がある。そこの一番いいところは高麗氏の立派な墓石が建っている。この墓地は基本的に高麗氏一族のもののようだ。

このように調布、三鷹、狛江は渡来人の痕跡がたくさんある。多摩川、支流の野川、国分寺崖線のわき水を利用して早くから稲作が行われていたのだ。いち早く稲作を伝えたのが渡来人だったのだろう。では渡来人はどのルートでやってきたのか。埼玉の高麗郡から来て故郷の入間川の名前を伝えたのか。それとも相模の秦氏が多摩川を越えてきたのか。高麗人1799人が埼玉の高麗に移住したのが716年。高麗郡で栄えた渡来人が新たな土地を求めて狛江に下ってきたのか。

高麗郡に移った高麗人たちはそれより前には大磯に上陸している。大磯を開拓した後に高麗郡移住となっている。その途中に狛江に寄り、一部が残ったのか。深大寺の開山と高麗郡移住とは17年の差しかない。となると移住の途中とも考えられる。それとも別の渡来人が狛江に住み着いたのか。それらが合わさって狛江の古墳群につながっているのかもしれない。

これは素人がいくら考えても仕方がない。いろいろな流れがあり、二波、三波と稲作に適した地を求めて各地からやってきたのだろう。

2010年1月16日 (土)

調布の入間川③

「アバターうつ」のつづき

自然とどのように調和して生きて行けばいいのだろう。昔の神道は神社もなかった。ひたすらに自然を畏怖し敬った。奈良の大神神社(おおみわ)のご神体は三輪山だし、埼玉の金讃神社のそれも山だ。多くの神社の最初は自然がご神体だった。後年、仏教が伝来して壮麗な寺を造るようになって原始神道も建物を必要とするようになった。日本人、いや稲作を続けてきた東アジアの民は自然を征服するのではなしに、共存する道を選んだ。共存すなわちあがめて脅威から身を守ってもらう。

これについては平凡社新書「原始の神社を求めて 日本・琉球・済州島」(岡谷公二)が示唆にとんでいる。済州島の堂(タン)、沖縄の御嶽(うたき)、そして大和の神社。それらに共通する聖なる森。朝鮮半島では儒教によって堂が残っているところは少ないらしいが、儒教以前を想像するならば、清らかな森があちこちにあったのだろう。
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日本には八百万の神がいる。山も川も、森も谷も池も沼も、そして雷も豪雨も、川の氾濫も、その他自然現象が皆、神だった。静謐な神社を訪ねると、清々しい気持ちになるのは、そこに神を感じているからだ。自然の力といっても同じことだ。散歩していて神社や寺を見つけるのは簡単だ。近くにいったら周囲を見回して、森を探せばいい。古い神社のぐるりは木で覆われている。樹齢何百年という木が茂っているから、それを目当てにすれば、まず間違いはない。

今は、ナヴィの人たちのように自然のままでは生きられない。必要最小限の弓矢で、その日に必要なだけの動物を苦しませないように射るだけでは暮らせない。電気もガスもガソリンも欠かせない。しかし、日本人は、古来、自然と調和するすべを知っていた。田園が心のふるさとであり、その懐かしさは誰でもが抱いている。ナヴィがすむパンドラに憧れるのではなく、豊葦原瑞穂の国を目指したいにしえの心をよみがえらせてみるしかない。だから日本人は目指す方向が決まっているし明確だ。「アバターうつ」で悩むより、どこでもいい清らかな森を訪れれば、日本のどこにもパンドラの国があることを発見できるだろう。「アバターうつ」の人たちに教えてやりたいものだ。

さて、ようやく入間川に戻る。調布の入間川は、三鷹市との境目に近い調布側が源だ。南下して途中、三鷹市に入ると中仙川と呼ばれていたらしい。西側には仙川が流れている。東側は野川なので中仙川なのか。三鷹部分は今は暗渠になっていて、甲州街道をすぎて調布市に入ると再び入間川となり、流れもあらわれる。コンクリートに護岸されている今時の川だが、右岸の住宅地はなだらかな坂をなしており、左岸はちょっとした崖だ。流れを下って行くと左手に武者小路実篤公園がある。公園は無料なので気軽に入れる。崖の下を利用して庭園が造られていて、わき水がわき、池が作られている。水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いを叶えて晩年を過ごした実篤邸もそのまま残されている。さすがいいところに住んでいる。どこから水が湧いているのかと、多分ボランティアの女性に聞いたら、わざわざその源まで案内してくれた。お年を召した人だったが労をいとわない気持ちに頭が下がった。
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公園の敷地は約5000平方メートル。大小の池があり、コブシ、サクラ、フジ、武蔵野の野草が茂り、秋の紅葉も鮮やかな赤をしていた。あずまやもあって休むこともできる。記念館は大人200円。5週間ごとにテーマをかえて展示をしているのでHPで確認するといいだろう。ちなみにwww.mushakoji.org
真ん中に穴のあいたすずりが展示してあったのでボールペンでメモを取っていたら係の人が「禁止なんですよ」といって鉛筆を渡してくれた。叱るでなく、鉛筆を渡してくれた心遣いがうれしかった。でも、穴の開くほどつかったなんて信じられない。        

(つづく)

調布の入間川②

きょうは深大寺を素通りして虎狛神社から布多天神へ。甲州街道を新宿方面に少し戻って国領神社まで。約3時間。日が落ちると体が冷えるので4時前には切り上げ。きのう(14日)いった武蔵野市の関前公園の池には氷が張ってました。

ところで、遅ればせながら話題の3D映画「アバター」を見てきた。ウイークデーの1時の回だというのにほぼ満員。シルバーなのに1500円も取られた。映像は奥行き感がすばらしかった。地球人が鉱物資源を狙う星の世界の美しさ。それはそれは、楽園です。自然と人が調和して無用な争いのない世界。聖なる木のスピリッツが客席の方にまで舞うと錯覚させる奥行き感。色とりどりの植物の、さもありなんという造形の勝利。なるほど金と時間がかかっている。

お話は、資源を得るために美しい星を侵略し破壊しつくす人間と弓矢でむなしく戦う星の人たち。結局は人類の欲望と、海兵隊大佐個人の戦闘の論理が自然の前に屈服するが、欲望は衰えないし、個人の戦いの理屈はかわる物ではない。アフガニスタンやイラクでのアメリカの論理と本質的にはかわっていない。第二、第三の大佐たちが侵略しにやってくるだろう。めでたし、めでたし、とするわけにはいかない。

映画を見て、ジェームス・キャメロン、あるいはハリウッドの楽観主義では納得できない観客が出てきているのが興味深い。客が「アバターうつ」を訴えているのだ。

「見た翌日、目覚めると世界が灰色に見えた。自分の人生すべてが意味を失ってしまったようだ」「見た後ずっとうつ状態にある」「パンドラのすばらしい世界とナヴィの人たちを見て、自分もその1人になりたいと思うようになった」「もし自殺すれば、パンドラのような世界に生まれ変われるとさえ考える」。

映画を見るときに眼鏡をかけると画面が暗くなってしまう。外した方がパンドラの楽園の世界、この世の物とは思えない幻想的な美しさを実感できる。技術は格段に進歩しているが、ここいらがまだ課題だ。個人的にいえば「空飛ぶ十字拳」のあざとさの方がびっくりした。もう20年以上前の3D映画だけど、十字拳が客席に向かって飛んできて、おもわずよけてしまった。香港映画恐るべし。

話を戻すと、人間の欲望と破壊は表裏一体にある。進歩を求めると破壊は免れない。ナヴィの人のように自然と共存するには、より良い生活、すなわち文明の進歩を求めているうちは達成できない。しかし、人類は便利な生活を捨てることはできない。「アバターうつ」の人たちは、これが見えてしまったのかもしれない。もし、人類がいなければ地球の温暖化もすぐに止まるし、自然も何年か後にはよみがえる。この絶対的矛盾。いかに自然と折り合いを付けるのか。      (つづく)

2010年1月10日 (日)

調布の入間川①

散歩のホームコースは深大寺周辺です。三鷹図書館で本を借り、神代植物公園の北側にある自由広場のベンチに座りページを繰るのが贅沢な時間です。疲れたら鳥のさえずりに耳を澄まし、遊んでいる子供たちを眺めます。

 深大寺へは三鷹市役所横の三鷹通りを道なりに行き、右手に雑木林が見えるので適当に右に曲がればたどり着きます。でも、バス通りは車がうるさいので市役所の横から東八道路に出て右折、ガソリンスタンドと松屋の間を左折します。老人ホームの前に、こんな標識があります。「入間川(大川)源流地跡」。住所表示は調布市深大寺8丁目13になってます。

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 標識にはこう書いてあります。

「かつて入間川は中世の頃まで世田谷区砧2丁目付近で仙川と合流し、多摩川に注いでいた。慶長16年(1611)六郷用水が完成するや世田谷区喜多見でこれと合流した。また入間川源流地帯は、安政2年(1855)の大地震で水涸れがおこった。その対策として明治4年(1871)深大寺用水が開設されるや、その東堀はこの地で川をはさんで2つに分かれて南下し、一部は野ヶ谷団地の南で入間川に合流するようになった。昭和42年(1967)野川の流域変更により、この川は入間町2丁目付近で野川と合流するようになった」。


よくわからない箇所もあるが、安政の大地震で水が涸れ、その後は深大寺用水と並行して流れていたようだ。しかし今は流れには蓋がされ、川の跡は道路になっている。道路は川の流れのままに時折蛇行しているので、往時を偲ぶことはできる。

その川の跡を辿って歩いてみるが、三鷹通りを越えたあたりでたどれなくなってしまった。(京王線つつじヶ丘の新宿寄りから入間川は姿をあらわす。それについてはまた後日)

 源流跡近くに戻り、深大寺を目指す。諏訪神社の横で右に曲がり、あとは雑木林が見えてくるので、それを目がければいい。途中大きな農家があり、「禅寺丸柿(市天然記念物)」の標識が。畑の間を通って天然記念物を見せてもらう。

なるほど立派な柿の大木だ。ご主人が畑仕事をしていたのでお礼方々話を聞く。「300年はたっている。柿生(神奈川県)から来たんじゃないか。粒が小さくてゴマが入っている。富有よりも甘いよ」昨年(09年)は実がならなかったそうだ。今年の秋には、訪ねてみよう。庭先販売所があるので、柿も売っているかもしれない。(柿生と深大寺の関係についても後日触れることになるでしょう)。

Cimg0014

(禅寺丸柿の古木。武蔵境の駅前にも、小金井にも古い禅寺丸柿がありました。富有なんかが出る前はこちらが主流だったようです)


 なぜ調布に入間川があるのか。問題提起のままページが少なくなってしまった。どうせ答えはないのだが、次回で気がついたことどもを書きます。


 


 

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